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“光の庭”のうたた寝 =019= 

❝ ・・閑中夜話・・・・資料として ❞

 西夏(1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。 首都は興慶(現在の銀川)。 モンゴル帝国のチンギス・カンによって滅ぼされる王朝。 西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。

 この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。


  宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。 当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。

 李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、独自の文字である西夏文字を制定した。 近隣を制圧した彼は、1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。


西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。 この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約)まで続いた。 宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。 しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。 ただ、宋との和議成立後もたびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。


 1048年、父景宗(李元昊)が毅宗(キソウ、景宗/李元昊の六男)の長兄の李寧明に殺害され、李寧明も父殺しの罪で処刑されたため1歳で即位した。 そのため母親の没蔵太后とその実家の一族によって西夏王国は専横される。 即位直後に景宗の喪中を狙って遼軍が来寇。 第二次賀蘭山の戦いで西夏軍は大敗し、数多くの被害を蒙った。 1056年に母親の太后が殺害され、伯父(太后の兄)の没蔵訛廓が政務を執る。 その5年後、訛廓親子と訛廓の娘である皇后の殺害に成功した。 これにより、梁氏を皇后にしてようやく親政が始まった。 大臣や官僚の数を多くして政治体系を中央集権制に近づけ、皇帝軍の戦力を増強。 その結果、政治は刷新されて国力は増強したが、突然 毅宗は病死した。 享年21。 この時期、遼による西夏攻撃で敗北した結果、遼に臣従する立場となった。


1063年、吐蕃の禹蔵花麻グゾウ・カマが西夏に帰属した。 皇帝である李秉常リ・ケイソウの母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、国政は李秉常の元に帰属するようになった。 しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、宋や遼に対する軍事行動を起こしている。 李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、西夏の社会経済が発展していくこととなった。


1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。 1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命=領内オルドス北方の五原に仮寓を認める=、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。しかし、この要求を拒絶する。 だが、李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。 そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなる。


1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。 1123年、遼天祚帝は敗戦により西夏に亡命=領内オルドス北方の五原に仮寓を認める=、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し遼帝の引渡しを求めた。しかし、この要求を拒絶する。 だが、李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。 そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなる。

しかし、李乾順の死後は息子の李仁孝が即位したが、この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生する。 これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努める。具体的には、拡大した領内における交易を活発に行う。即ち、交易の民ソグドを活用しシルクロードの富を帝都に蓄積し、ウイグルの政治力とソグドの経済力を両輪に軍事力に頼らない交易国家を作り上げて行った。


 李仁孝の死後は息子の李純祐が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていた。その状況下の1206年、親族の李安全が帝位を簒奪し李純祐を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する政策を採用。李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動した。 この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は一層不安定なものとなっていた。 またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達した。


 1211年、西夏で宮廷クーデターが発生、李遵頊が帝位を簒奪した。 しかし中興に影響を与えるものでなく、西夏の国力は下降線の一途を辿った。 1216年、西夏はチンギス・カン(成吉思汗)の出兵要請を拒否する。 その行為はモンゴル側の怒りを招き、1217年に第4次西夏遠征が行われるに至った。 1223年、李遵頊は自らが亡国の君主になることを避けるため、太子の李徳旺に譲位した。

西夏は李安全と李遵頊の治世下で滅亡寸前の国力となっており、李徳旺の登場で復興できる状態ではなかった。 李徳旺はモンゴルに対抗するため、チンギスが西征した機会を狙ってモンゴルを攻撃しようとしたが、事前に情報がモンゴル側に漏れ、1224年にモンゴル軍により都・銀川が包囲されるとモンゴル軍に投降、人質を送ることで滅亡することはわずかに免れることができた。 1226年、李徳旺が病死し、李睍が皇帝に推挙されたが、翌年李睍はモンゴルに投降、その後李睍は毒殺され西夏は名実共に滅亡した。


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