“光の庭”のうたた寝 =015=
❝ =第一章第2節_02= 陰山・五原 ❞
耶律楚詞が戻った1124年の晩春 久しぶりに 耶律大石は皇太子・秦王殿下に伺候した。太陽が頭上に在り、温かい日和であった。大石が部屋に上がると 皇太子は暗い部屋の中で鎮座していた。窓からの陽光が 皇太子を浮かび上がらせ、蒼白の顔を物憂げに 皇太子は日が差さぬ薄暗い空間に視線を漂わせている。
陰山・五原は1124年の春を迎えていた。 遼の帝都であった南京(燕京)では梅花が咲き、散り出す頃である。 ここ陰山山麓の王庭には、無論 梅林は無い。 風は未だに身を刺し、時折起こる突風が山麓の沙漠の流沙を巻き上げた。 強風で地表の砂を舞い上げ、微小の流沙が天空を曇らせる。 上空に舞い上がった微小の黄砂が燕京(南京、北京)の空を黄色く変え始める頃でもある。 南方近くで東西に横たわり、未だに凍りついた黄河は川原と水域の境がはっきりとしない。 東西に流れる黄河の左岸が五原南域であり、右岸がオルドス北部域なのだが、幅広い川原を蛇行しながら東方の包頭に流れ行く川床流域は凍りつき、生命の息吹はない。 この時期までは騎馬で黄河を渡ることが出来る。 しかし、五原の湿原地帯は枯れてはいるが生い茂った葦が地表を保温しているのであろうか水面が現れている。
黄河から離れ、陰山山脈を目指して葦原を半日ほど北上すれば乾燥した荒れ地の平原にでる。 その先にはゴビ砂漠が横たわり、陰山山脈の山麓が真近かに見て取ることが出来る。 しかし、砂漠の縦断には二日は掛かるであろう。 葦原と砂漠との境をなすやや高台に天祚帝の仮寓が設けられていた。 仮寓とはいえ王庭である。 急ごしらえの砦である。 前方に広がる葦原と背後の砂漠が金や宋からの侵略を困難にしていた。 砦の中は穏やかであった。 ただ、緑少なく急造の王宮を見れば、正しく砦の観であり、王庭を思わせるのは後宮の存在のみであろうか。
この地に到着した大石一行は、出向を受けることなく開門された表門を潜り、広くはないが最深部の王宮建屋にむかった。 中門にて、騎馬武者は門外で待機させられ、牛車を牽く軽卒以外は大石と耶律時の二名が牛車を警護するような形で渡りを許された。 遼の皇帝・天祚帝は金軍に追われるようにこの地にて逃亡生活を送っている。 大石一行の入来は承知しているであろう。 しかし、未だに応接する者が現れない。 中門は何時とはなしに、一行の背後で閉じられていた。 牛車の幌の中には天祚帝の五男である秦王太子(耶律定)と耶律淳(ヤリツ・ジュン、北遼初代皇帝)の妃・蕭徳妃が沈黙を守り、対座していた。 大石は先導するように奥に歩みを進め、牛車は軋むことなく大石に続き奥の建物を目指して進んで行く。 道らしき徴はなく荒れ地に記された馬蹄の跡を追って・・・・。 一時の後、前方の建屋に一人の官吏が現れ、階を降りて近づいてきた。
「これは状元の遼興軍節度使耶律大石殿、お久しぶりですな」
「そこもとは、耶律隆先殿。つつがなきご様子・・・・、案内もなく参上いたした。 牛車には天祚帝の秦王太子殿と蕭徳妃殿がおられる」
「承知しております。 皇帝がお待ちですが、遼興軍節度使殿には追って連絡いたすとの事、この場にてお引き取り願いましょう。・・・・・」
「さて、異なことを言われる。 皇帝閣下のご采配なれば、これにて・・・・・。 されど、場内に警護してまいった三十数名の騎馬武者の宿舎を賜りたいが・・・・・」
「その件は、直ちに私しめが差配いたしましょう。 して、遼興軍節度使殿 北遼の統帥たる耶律大石殿が阿骨打に南京を明け渡して、梁の庇で雨を凌ぐおつもりか・・・・」
東屋のような仮寓の庭に立ち、東方の葦原を眺めながら耶律大石はこの地に入来以降の出来事を思い出している。 ここ陰山・五原に到達した日から三ヶ月が過ぎていた。 入来時、天祚帝の佞臣である耶律夷列の指図で秦王殿下と別れた直後から、殿下は摂政の蕭徳妃と離れさせられていると言う。 耶律定皇子は天祚帝の実子であるにも関わらず北遼皇帝に推戴されたが故の処置なのであろうか、 天祚帝は秦王殿下を疎み、隔離状態においているという。 また 摂政であった天錫帝の未亡人の蕭徳妃を猜疑の眼で見ていると言う。 また、自分達が即位させた天錫皇帝の寵愛皇后・蕭徳妃を天祚皇帝が、己の幾人目かの妃に望んでいることをも、後日 まもなくして知った。 また 秦王殿下の摂政皇太后としての立場から 天祚帝の後宮に入る事を蕭徳妃皇后が拒絶している事実をも知った。
以来 摂政皇后の意を汲みとった大石は、事あるごとに天祚帝の言動に探りを入れた。 そして、幽閉状態を強いているとは言え、 未だに、天祚帝が幼年の五男を秦王としての官位は剥奪しせず、皇太子・秦王として諸官に遇させている事実を知った。 しかし、この事実に奇異の思いを抱いてきた。 皇帝が秦王皇太子を疎み始めた理由は全く見当たらなかったからだ。 がしかし、大石は天祚帝が秦王皇太子を疎み始めた理由は皇后の美貌に起因しているのでは・・・・・彼女は=北遼皇帝・耶律定=の摂生であり、北遼もまた亡命政権として存続している。 遼の天祚帝が存在するように・・・・また “皇太子の存在が摂政皇后の拒否に結びついている” のでは・・・・と