“光の庭”のうたた寝 =012=
❝ =第一章第1節_12= 遼王朝崩落 ❞
叔父である耶律余睹が都元帥府・右都監として統括する西京(大同)を耶律楚詞が父である耶律敖盧斡の善政を施し、民生のために建立した華厳寺に立ち寄ること無く北に向かったのは六日前の事である。 しかしながら、四年前の1121年 天祚帝の后・蕭皇后の姉蕭奉先が「南軍都統耶律余睹が蕭文妃と謀って晋王敖盧斡を帝位につけようと図っている」と誣告した事件があった。 誣告した余睹は金に亡命し、阿骨打に降伏した。 天祚帝の後宮を彩った敖盧斡の母・蕭文妃は処刑された。 そして、その翌年の一月、「耶律撒八らが再び晋王敖盧斡の擁立を計画した」として告発されたのであった。
当時、天祚帝の長男で太子候補の晋王・耶律敖盧斡と遼の宗室である上京路都統・金吾衛大将軍の耶律余睹と対立していた。 しかしながら、余睹の妻は敖盧斡の母・蕭文妃の妹であり、叔父・甥の関係にあった。 すなわち、耶律余睹は楚詞の大叔父である。 楚詞の祖父である天祚帝は、英明な後嗣・敖盧斡が謀逆罪で二度も告訴されたことに不審を抱き、処刑を命じた。 しかし、処刑するには忍びず、人を派遣して絞め殺させた。 その折、ある人が敖盧斡に亡命を勧めたが、「小さな体を守って、臣子の大節を失うことはできない」と言って晋王は従容と死についた。 その前夜に、晋王はわが子を政治の場から遠ざけたのである。 耶律楚詞が父が祖父に派遣された処刑執行人に絞め殺されたと慧樹大師から聞いていたのは、先日の事であり、彼は大叔父・余睹が金の皇帝・阿骨打の武将であることは知らないでいた。
風が出てきた。 ゴビ砂漠の地表に砂塵が舞い、陰山山脈の黒き山肌が その陰影を薄くした。遅い朝餉を済ました耶律楚詞は、緊張から一時の開放を覚えた。 砂塵が河原を低く舞い、舞う砂の音が聞こえそうな静寂の中に身を委ねていた。 ふと 馬の嘶きかと、東方を擬視した。 舞う砂塵が遠方を霞める。河原の境を示すような潅木がまばらに並び、その根元の草が靡いている。幻聴か、作務服の楚詞は東方に神経を集中している。
再び 馬の嘶きを耳が捉えた。 楚詞は、一瞬耳を疑い 立ち上がると河原を東に走った。 一条の樹林帯に達すると、目指した巨木に難なく攀じ登った。 砂塵が地表で乱舞しているが、15尺も登れば視界を遮るものはない。 楚詞は 疎らな樹林帯に沿って東方を窺がい、木々の北側を注意深く目を移していった。 樹林帯の北側は砂漠が広がっている。
白馬であろう姿が小さく見えた。 騎馬武者に違いないと楚詞は緊張した。 こちらに向かって来る。 白馬に跨る騎馬武者の姿が樹木からこぼれる陽光の下に はっきりと視える。 その後方に騎馬武者数名、そして 牛二頭が曳く牛車の幌が確認できた。
≪耶律さまだ 耶律様だ≫と声を発すると同時に 巨木の枝から地表に飛んだ。 急いで河原の小屋掛けに戻り、持ち物は何もないのだが、取り広げていた雑器を整理した。 そして 作務衣を脱ぎ捨て、肌を切る黄河の水にて水浴を済ませた。 高ぶりは静まり、慧樹大師から頂いた衣に手を通した。 大きく一呼吸を終え、下草を踏み、楚詞は東に歩んで行く。 まばらとは言え一条の樹林帯である。 広く空けた下草の荒れ地を北側に抜け出し、砂漠との境を東に進んで行く。 砂嵐は止んでいた。 樹林が阻止しているのであろうが、北側の砂漠の縁では時折砂塵が立っている。 やや、急ぎ足で進む、周囲に全神経を注ぎながら。 そして一時、二人の騎馬武者が林を突いて、迫り来た。 楚詞を認知し、緊張しているようである。 楚詞目指して砂塵をあげ、飛ぶように近づいて来た。 楚詞は直ちに片膝を地に付けて低頭していた。