“光の庭”のうたた寝 =010=
❝ =第一章第1節_10= 遼王朝崩落 ❞
遼帝国は第8代皇帝道宗の治世の前半は「直言を求め、治道を訪ねる」という宗旨のもと、農業の振興や学校の建設はもとより、救災などに努めたが、やがて遊猟と仏教に浸り、堂塔の建立や僧尼への布施に巨額の国費を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。 さらに、政治を顧みなくなり、皇族の耶律乙辛の専権を許した。 乙辛は聡明な皇太子を無実の罪に陥れ、道宗に説いてこれを幽閉の末暗殺した。 期待した唯一の正嗣である皇太子・耶律濬が20歳の若さで冤罪にて他界した事実を知り、政治をからますます遠のいた。 皇帝の暗愚と奸臣の専権によって忠臣が迫害されたり、貴顕間の軋轢が続いたりして、朝政は乱れに乱れた。 また、土地の兼併が進むにつれて民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた東北の女真は反抗に立ち上がった。
女真の反乱は、道宗の没後25年目に遼を滅ぼす烈火となるのであった。 従って 次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の47年に及ぶ治世は、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではない。 乾統元年(1101年2月12日)、第8代皇帝・道宗の崩御により 梁王・阿果=聡明で武勇に秀でていた耶律濬の王子=が遼の第9代(最後)の皇帝・天祚帝として即位したのだが、天祚帝は暗愚な性格であった。 政務を顧みず、諫言した臣下に対しては処罰を以って臨むなど、民心の離反を招いた。 外交面でも天慶5年(1115年)に遼に従属していた女真が金を建国して独立すると、親征の討伐軍を派遣。 だが、逆に大敗を帰し、遼の弱体化を露見させる結果を招いたのである。 失政の上塗りである政権放棄のような逃亡を実行したのである。
コビ砂漠の南辺域に接する長城北側の荒れ地を 騎馬の隊列が進む。 三十数名の騎馬武者、先頭を進む耶律大石の顔には疲労の影が浮かんでいた。 騎馬武者は牛車を囲み、蕭徳妃皇后と秦王殿下・天錫帝の五男・耶律定が幌の中で身を竦めるように 無言である。 耶律時がその牛車に寄り添い 駒を進めている。 時は大石の右腕を自認し、弟の耶律遥と共に大石に心酔している。 今 弟の耶律遥はこの隊列には居ないが、尚は大石の親衛隊だと自認し 吹聴している。 押しかけ家臣である。 金の阿骨打に捉われの身となった耶律大石を兄弟の知略で居庸関から脱出させたのは二月ほど前のことである。
眼光鋭く、四辺を見渡しながら牛車の歩みに合わせて駒を進める耶律時に「水場を求めよ」と大石の指示が飛ぶ。 直ちに 二騎が先駆けをした。 指物旗はない。 陰山を遠望するゴビ砂漠の南周辺地帯。初秋とは言え、日中は暑く 日を遮るものとて無い荒野の逃避行は蝸牛の歩み。 帝都を離れ 早、20日は過ぎていた。
「時よ 一息入れよう」
「おお、緑に囲まれた水場、極楽 極楽、秦王殿下 はようこれに 皇后様も…」
「耶律尚殿はどのあたりに居られましょうか 」
「千余の軍勢を率い、遼王領歴代の宝物に皇后様と殿下の身の回り品の運搬 容易には動けまい、燕雲十六州を通り来るゆえ、時が掛かろうであろう。 また、かの地には耶律尚将軍の身内も多い。 遼国再生の策などで時間もかかろう・・・・ 」
「して、今宵は・・・・」
「この緑を追って 駒を進めれば蒙古族に出会えるかも知れぬ、 緑があれば水もあろう 」
「秦王殿下 道のりは半ばをすぎました。 今宵も夜空が美しゅうございましょう。 さぁ 出立で御座りますれば、御車に 」
「余も 馬でいきたい 」
「なりません、いまだ 日が きっう 御座います」
「時、 殿下を抱き上げ 抱いて行くがいい、 蒙古が言う『青い郷(フフホト市)』の近くであろう。 危険はあるまい」