11.病気
その後の授業は、まるで身が入らなかった。アルファベットを使った数学など、話にならない。まして英語なる暗号など、もってのほか。
そうした正当な理由があったので、授業中、ほとんどボーっとしていた。
先生が、生徒を指してなにやら発言させていたが、俺は指されなかった。秋菜のことがあったせいか、俺を指名する教師はいなかった。
味のよく解らない弁当をかきこみ、水之江達を再び足蹴にし、またまたボーっとしている内に、今日の授業は終わった。
常識的に考え得る人間の体力的良識内的全速力で、だが、女子高生にしては異様なまでの速さで走り、家へ帰った。
予想どおり、家は無人であった。
沢口家留守居役の母は、秋菜の待つ病院へ向かったのであろう。
沢口母から聞いていた隠し場所(植木鉢の下)から鍵を取り出し中へはいる。ダイニングテーブルの上に、沢口母のメモが置いてあった。
どれどれ、えーと、「清流財団病院 305号室」えーと……。
見覚えのある単語が並んでいた。そうそう「清流」、……って身内かい! あの理事長、病院も経営していたのか! 伊達に財閥を名乗ってなかったわけだ。
……養女募集してないかな?
いやいや、そんなこと考えている場合じゃない。
急いで制服を脱ぎ散らかしながら、階上の自室へ向かう。ベストとブラウスは、ダイニングの椅子に放り投げた。スカートは、階段手前で足から抜き取った。
三歩で階段を駆け上がり、自室に飛び込む。
大急ぎでジーンズに足を突っ込み、素肌に直接ジャケットをはおり、ヘルメットを持って外へ飛びだした。
楽器メーカーも兼ねる、某社製オフロードバイクにまたがって、……あ、キー忘れた。
……バイクにキー付けっぱだったし……。
盗まれてる!
俺は急いで庭へ回って……バイクがあった。
どういうことだ? これはっ! あまりにもボロいので盗まれなかったのか?
この後、今夜のニュースで、バイク泥棒が町内に出没していることを知り、自己嫌悪におちいることとなる。
バイクを走らせながら、ふと思いつく。普通、病院へは手ぶらで行かないのでは?
えーと、ナントカ舞だ、つまりX舞、Xの所にナニかを入れて完成する方程式である。
そう獅子だ、獅子舞ってやつ。正月にやってくる……。
いやいや何かが違う。アレだ、そうそう、お見舞いだ。
秋菜の喜ぶ物をなにか持って行かなくてはならない、ということに思い至りコンビニへ入った。
何がいいかな? 確か、秋菜は文学少女だったな。
文学と言えばアレだ。本だ! ……まあ、そのまんまだが……。
ここ五年以内、これほど悩んだことはないだろう、というほど最高の真剣さで、悩みに悩みまくり、とある本を選んだ。我ながら、これは面白そうな本だ!
週間刊行のマンガ雑誌を一冊と、ペットボトル入り美味しい水を手にしてレジに並ぶ。
サイフは……サイフ忘れた。
ちょうどその時、コンビニの外を清流学園の制服を着た学生達が歩いていた。
これ幸いと漫画本をレジに置き、外へ飛びだす。ジャンプ一閃、跳び蹴りで倒す。倒れた生徒のポケットから、サイフを抜き取って店内に戻る。この間、ジャスト五秒。
支払いを済ませて店外に出ると、頭から血を流した先程の生徒が……、
「何やってくれてんだコラァ! ……春菜さん?」
そこにいたのは、額から血をダラダラと流した水之江たち、三バカトリオだった。
「丁度よいところへノコノコ出てくれて助かった。じゃ、サイフ預かっていくから」
ジャケットのジッパーを下げきり、ベルトを引っ張って腰部をくつろげ、雑誌をジーンズとパンツの間に挟み込む。
「ちょっと待って下さい。いくら春菜さんだからって、それではカツアゲ――」
水之江が何か言っているが、俺は先を急ぐ身だ。
ペットボトルは胸の内ポケットにしまい込んだ。アンダーシャツを着てなかったので、ブラのカップに引っかかる。数回入れ直さなくてはならなかったので、手間取った。
そういえば水之江がなんか言ってたなー。
「ところで、『カツアゲ』ってなんだ?」
「いえ、何でもないです。サイフは全て差し上げます。それだけの対価はいただきました」
妙に微熱を帯びた三バカは、手を振って丁寧に見送ってくれた。何だ、いいやつらじゃないか。
と思ったが、よく考えると、秋菜が入院した原因を作ったのは水之江だった。引き返して二・三発蹴りをいれてから、あらためて鉄馬の鼻先を病院に向けた。
財団法人清流会が経営する病院は、巨大な建造物集合体だった。敷地周辺を緩衝帯の針葉樹林で囲み、建物の後ろは閑静な広葉樹の森が広がっている。入院患者の癒しの場所というふれこみになっている。
しかし広い。ドーム球場が三つ四つ入るぞ、この敷地。
観光バス数台が立体駐車できそうなエントランスを抜け、病棟に向かう。
体力に自信がない患者には、つらそうな距離だ。
三階の……305号室と……あった。
あれ? 個室じゃないか。贅沢だな。
ドアをノックして入る。
「おーい、秋菜ーっ。お姉ちゃんだぞー。具合は……」
秋菜は、腕から複数のチューブを生やし、天井近くの液体が入った袋と繋がっていた。秋菜は俺と違って、自力でチューブを生やすような器用なことはしない。
……俺もチューブなんか生やしたことはないが、モノのたとえだ!
秋菜が弱っているとは思いたくなかった。だからこその思いこみだ。
沢口ママの、精気なくやつれた顔が、ただごとではないと告げていた。
「なにやってんだよ秋菜! 今晩にも帰れるんだろう? これ買ってきたんだから読め!」
懐から週間雑誌を取り出す。
秋菜は、一つずつ答えていった。
「点滴を打ってもらってるの。今晩は帰れそうにないみたい。わたし、マンガはあまり読まないの。でもお姉ちゃん、わたしを気遣ってくれてありがと」
やっぱり、少年誌はマズかったか。
「いや、そうじゃなくて……でも、ありがとう。後で読むわ」
気弱に微笑む秋菜。やはり様子がおかしい。
沢口ママが俺にアイコンタクトを送ってきた。それとなく二人で廊下へ出た。
「春菜は、何も心配しなくていいのよ。……秋菜は、もっと前から、……去年の十二月初めに一度倒れているの。その時は、……白血病の疑いでっ!」
沢口ママが、手で顔を覆った。両手の指の間から、嗚咽を漏らす。
ハッケツビョウ、……ああ、白血病の事か、ハッハッハッ……。
ってなんだよ、それ!




