くまとわたし
桜の花びらが舞っている。わたしは幼稚園に入園した。
「あいだかなちゃん」
『はい』
「あらいみさきちゃん」
『はい』
3番目はわたしだ。
「いとうあやこちゃん」
『…』
「あやこちゃん」
『…』
「あれ、お休みかな」
『…』
わたしはしゃべらない子だった。
幼稚園では誰ともしゃべらなかった。
でも家では普通にしゃべっていた。いや普通ではなかった。
わたしはママや幼稚園の先生やはるみちゃんやゆりえちゃんみたいにしゃべれないんだ。
心の中ではきちんとしゃべってるのに、声に出そうとすると最初の音がなかなか出ない。顔を左右に振ってみたり、下を向いてから勢いをつけて、あごをしゃくりあげたり、足でトントンとリズムをとったり、とにかく大変なのだ。
やっと最初の音が出ても次の音が出るとは限らない。
するとこうなる。
「あああああああのね」
「あのね あのね あのね あのね あのね あのね あのね あのね」
ふざけてはいない。
これがわたし。
ねえ、普通じゃないでしょ。
気付いた時からこうだった。
「おおおおはよ」
朝のあいさつもこんな感じだ。
ママは落ち着いてゆっくり話しなさいって言うけれど、治らないんだ。
わたしは自分の思っている事や考えが、みんなに伝えられなくてイライラしていた。年下の子をこっそりいじめたりしていた。腕をつねったり、髪の毛を引っ張ったり、そうすると、少しイライラが収まった。
わたしは小学生になった。ずっとしゃべらないわたしから友だちは離れていった。低学年まですごく仲良しだったはるみちゃんも最後までわたしをいじめっ子たちから守ってくれてたゆりえちゃんもわたしと遊ばなくなった。
わたしはいつの間にか心の中を厚い氷で固めてしまっていた。
笑わないし泣かない子どもになっていた。
お人形と呼ばれるようになった。
ある日学校の帰り道、ダンボールに入って捨てられ鳴いていた子犬を見つけた。
子犬は白いのと黒いのとブチの3匹。
ママは1匹だけなら飼っても良いと言った。
わたしは黒いのを飼う事にした。
真っ黒なその子犬は胸からお腹にかけてだけ白い毛が生えていた。月のわぐまみたいなので、子犬の名前はくまに決めた。
くまはわたしの友だちになった。くまはいつもわたしの話をじっと静かに聞いてくれた。
田んぼの畦道を1人と1匹で歩く。
わたしは学校であった事をくまに話した。ランドセルで頭を叩かれる事やトイレの個室に入ると上から水が降ってくる事、廊下を歩いてると足を引っかけられて転ぶ事とか。
夕焼けを見ながら散歩する。
いつものコース。ゆっくり歩いていたくまが走り出した。つられて走るが追いつかない。
リードが手から離れた。くまはちらっと振り返り、得意気な顔をした。そして田んぼの中を全速力で走る走る、ぐるぐるぐるぐる回る回る。わたしもくまの後ろだか前だかわからないが、走り出した。1人と1匹で、ぐるぐるぐるぐる走る。走るって楽しい。暗くなるまで走り続けていた。
小学校の卒業式。校庭の桜は満開に咲いていた。
式が終わり、教室に戻って担任の先生の最後の話を聞いていた。そしたら…涙がこぼれそうになった。先生の事は別に好きではなかったし、別れるのも寂しくなんかない。
クラスメートとも半分はまた同じ中学に行くし、別れて悲しい友だちもいない。
それなのに、なぜだか分からないが涙があふれるよ。
わたしは泣いていた。初めて教室で、みんなの前で泣いたんだ。
心の中の厚い氷が少しずつ溶け出した。
ふと窓の外を見る。
満開の桜が笑っていた。
終わり