05 : 異世界の少女5
自分を地面へと叩きつけた上に気絶させた男を目の前にして、千雪は身構えた。理由が分からず害されたのだから、警戒してしまうのも仕方がない。
けれどシルヴィアリアスは気にした様子もなく、ベッドに座り込んだ彼女と視線が合うようにしゃがみ込んだ。その動きには無駄というものがなく、優雅であり、滅多に周りではお目にかかれない動作に余計に何者なのか分からず彼女のの眉は自然と釣り上がった。
「何か用?」
刺々しい声が千雪から発せられる。
「らなんしゃうぇい」
「……言っている意味が分からない」
「ふぉるうぇう」
「だから何を言いたいのか分からないってば」
そもそも目の前の青年が話しているのは何語か。日本語や英語ではないことは分かるが、それならばフランス語か、イタリア語か、ドイツ語か。はたまたルーマニア語かアルバニア語かアルメニア語か。だが言語が分からない以上、考えても仕方がない。
けれど話が通じないからといって、千雪には会話をしないという選択肢は存在しない。ここがどこだかを知らなければいけない、家へと帰る方法を探さなければいけない、そのためには目の前の彼等から聞くのが一番手っ取り早いだろう。
そこまで考えた千雪は、言葉が使えないのなら身振り手振りで意思疎通を図るまでと決め、顔を上げた。
そして、目の前の青年が右手に携えている物を視界の隅に捉えると、目を大きく見開き思わず悲鳴を上げた。
「な、なにそれ!?」
目の前の青年、シルヴィアリアスが手にしているのは、一振りの剣だった。剣先が鋭い光を放ってはいるのだが一見、粗野に見えるその剣は、よく見れば細やかな意匠の施された物であった。
だが剣の細工がどうだろうが千雪にしてみれば気にする余裕はなく、抜き身の剣が目の前に存在することがただひたすらに恐ろしかった。
引き攣った顔の千雪が凝視する先、シルヴィアリアスは緩やかに動き出した。
*
「先に謝罪しておきます」
全くといっていいほど謝っているという様子には見えない態度で、至極真面目にシルヴィアリアスは千雪に告げた。
彼の右手にある剣を見つけた瞬間から彼には理解出来ない言語で捲くし立てている少女に、彼は理解されないだろうことを知りつつも彼女へと告げる。
「"彼女"が愛し残した貴方のことを好んで傷つけたいわけではありません」
目の前の少女が覚えていなくとも、シルヴィアリアスは覚えている。
黒髪の女性と金髪の男性が、顔を寄せ合って女性の腕の中に抱かれた布のかたまりを覗き込んでいた時のことを。そこから小さな手がのぞくと、2人はそろって破顔していた。
目の前の少女の名前を決めたのは"彼女"だった。
長く生きて幸せになって、と願っていた。その切に願う声を、表情を、彼は忘れてはいなかった。
「けれどそれ以上に、私たちは、決してあの方を失くしたくはありません」
忘れたくないのだと。忘れられないのだと。忘れることなどできそうもないと。それ故に全てを捨てかねない、今もたった1人を想い続ける人のことを思う。
始まりは普通ではなかったかもしれない。
空から降ってきた救世主と、そんな"彼女"を受け止めた大国の皇太子。異世界から戻る術が分からなく泣き喚いていた少女と、大国の第一皇位継承者という重圧に押しつぶされてしまいそうだった少年。互いに自分のことで手一杯で相手の心境を思い量ることも出来ず、出会ってからしばらくの間は険悪な関係だったと聞く。
何度も挫け、しかしそれ以上に何度も這い上がってきた、激動を経た1年間。子供ではないけれど、然りとて完全な大人ともいえなかった2人の間に芽生えた恋は、"彼女"の言うとおり吊り橋効果から落ちたものだったのかもしれない。
けれど始まりがそうだとしても、彼等が互いへと向けた気持ちは友情ではなかったと、一過性の熱で終わるものではなかったと、彼の周囲にいた者は知っている。
そうでなかったら、千雪がここにいることも、ましてや呼ばれることもなかった。"彼女"を失うこともなかった。彼がここまで苦しむこともなかった。
彼がこの7年間、一度も忘れることがなかった"彼女"を想う気持ちの強さに、深さに、嘘はなくとも。
「勝手なことをと、貴方はおっしゃるのかもしれません。それでもどうか、あの方を助けてください。……あの方は、もう、貴方以外では心動かされません」
他の誰でも駄目だった。
シルヴィアリアスでも、ヴィンセントでも、彼に近しい他の誰でもなく。この目の前の、彼が唯一心に留めている千雪以外では引き止められなかった。
立ち上がりながら、シルヴィアリアスは右の手の内を翻し、剣の先を千雪へ突きつけた。