02 : 異世界の少女2
携帯の着信音が聞こえ、千雪の意識は緩やかに浮上していく。
以前なんとなくで決めた着信音は、高らかな音を奏でて千雪の耳にまで届く。
唸りながらも器用に携帯を手に取った彼女は、通話ボタンを押して耳に当てた。
「もしもし……って、え、嘘!?」
枕へと顔を押し付けながら会話していたが、電話の相手の言葉によって千雪は跳ね起きた。
慌ててベットの辺りを見回し時計を見つけ手に取った。時間を見て、電話の相手との待ち合わせ時間が過ぎていることを確認すると、彼女は携帯を片手にベッドからフローリングの床へと足を下ろした。そのまま洗面台へと駆けていく。
「ちょ、ちょっと待って!すぐ出るから……うん、1時間あれば着く。本当にごめんなさい!」
洗面台にある鏡に映った自身を見て、髪はセットしてあることを確認しながら千雪は内心首を傾げる。
衣服は既に着替えてある。白のワンピース。昨日寝る前に用意していたものだ。
準備が整ってから自分は寝てしまったのだろうか。その辺りの記憶がないのでそう判断するしかない。
しかし優先すべきは待ち合わせ場所に早く着くことだろう。思い出すのは後からでもいい。
家を出ようとリビングに置いてあった鞄を手に取ると、すぐ側に置いてあった写真立てが千雪の視界に入った。
足が止まる。
千雪の手が動き、その写真立てを手に取った。
そこには、千雪に似た雰囲気の女性と女性の腕の中に抱かれた幼子がいた。
写真の中の女性は、腕の中の子供を愛しくて仕方ないといった慈愛に満ちた顔で見ていた。対する子供といえば、口を開けて写真へと手を伸ばしていた。
幼児の名は千雪、女性の名は椎名佑夏。千雪の母親である。とはいえ、千雪が物心付く前に亡くなってしまったので彼女がどんな人だったのか、それを知るのは彼女の母親、千雪から見れば祖母に当たる女性から伝え聞く話の中でしかない。
「おかあさん」
戸惑った声で呟く。
未婚のまま千雪を生み、そして20歳という若い身空で亡くなった女性。
千雪の父親が誰だったのか、彼女は誰にも伝えることはなかったので千雪自身も知らない。口さがない者は不倫の末に出来た子供だったのではないかと噂するが、真偽のほどは定かではない。
けれど、彼女は生前よく笑っていたと祖母は言っていた。ならば彼女の生涯は幸せだったのだろう。そして千雪を産んだことも後悔していないのではないか、そう千雪は信じている。自分は望まれて生まれたのだと、そう信じていたかった。
「ふむ。それが妾の、そしてあやつ等の咎かえ」
不意に甘やかな声が背後から聞こえ、千雪は慌てて振り返った。
この部屋に千雪以外にいるはずがない。けれど、そこに少女はいた。
千雪の視界で、ベランダに通じるドア付近に佇んでいた少女は、膝にまで届く銀色の髪を緩く波打たせながら振り返った。髪に付けられた細やかな細工の施された髪飾りが、涼やかな音を奏でた。
年の頃は10歳前後。淡い桃色のドレスを纏った少女は、静かに佇んでいればまるでよく出来た人形のようだ、と千雪に言わせてしまう程にどこか人から掛け離れた容姿を持っていた。真珠のような滑らかな白い肌に、不可思議なアメジストの瞳を縁取る長い睫の上には、計算されたかのように優美な線を描く眉。そして紅く艶やかな、唇。
静謐にして絢爛。一目見れば忘れたりなどしないだろう外見の少女だった。
少女は濃紫の双眸を眇めながら、口を開いた。
「娘、汝の名を何という。妾の名はメーアヒェン」
「メーア、ヒェン?」
「左様。夢幻の魔女と呼ぶ者の方が多いがな」
「メーア、ヒェン。私の名前は、椎名千雪」
「チューキ……チーキ、ユーキ……すまぬが妾には汝の名が少し呼び辛い。ユーキでもよかろうか」
呼べないことが腹立たしいのか、僅かに顔を顰めた少女に千雪は小さく笑う。
不思議な少女だった。見た目は幼いのに老成した口をきく。突然表れたくせに、千雪に警戒心など抱かせず内に入り込んでくる。
後から考えてみれば危ないことなのだろうが、その時の千雪は考え付きもせずそのまま会話を続けた。
「ユーキでいいよ、メー、アー……ヒェン?」
「妾のことはメアと呼ぶがよい、昔はそう呼ばれていた」
懐かしそうに笑う少女に対し、戸惑った表情を千雪は浮かべた。
昔呼ばれていた、と少女は言った。ならば今は呼ばれていないのだろうか。昔、と言いつつも目の前の少女の年齢は10歳前後にしか見えない。その少女が言う昔とは、どれほど前のものなのだろうか。
不思議に思った千雪が口を開きはじめた瞬間、世界が歪んだ。千雪の錯覚などではなく、文字通りに。
慌てはじめた千雪とは裏腹に、メーアヒェンは至極落ち着いた調子のままだった。
「そろそろ起きるのか」
「起きるって?」
「気付いておらなかったのかユーキ。ここは夢。汝が構成した世界だ」
「……え」
驚きで目を見開いた千雪は、次の言葉を発することなくその姿は掻き消えた。
千雪が消えれば辺りは闇に覆われ、そこには銀色の髪を持つ少女1人だけになる。
メーアヒェンは瞳を伏せた。
思い出すのは、懐かしい日々。
自分に笑いかける彼女がいて、それを見て彼女の仲間も笑っていた、今となっては在り得ることのない過去。平穏などほとんどなかった、動乱の起きた数年間。けれど、幸せを覚えた瞬間があるのも本当のことだった。
「……そなたの娘は、そなたによく似た瞳を持っている」
――ユーカ。