婚約者に『君より湖畔の幽霊の方がマシだ』と言われて婚約破棄されたので、霧の湖で出会った記憶喪失の青年を助けたら、実は失踪した大企業の御曹司だった件 ~元婚約者が土下座してきても復縁はしません~
「君といると息が詰まる。正直、湖畔に出るっていう幽霊の方がまだマシだよ」
——え?
今、なんて言った?
高城蓮司の唇が動いているのは見える。けれど、その言葉が脳に届くまでに、やけに長い時間がかかった。
金曜日の夜。いつものように蓮司の帰りを待って、いつものように彼の好きな献立を作って、いつものように笑顔で「おかえり」を言おうとした、その瞬間だった。
「婚約は破棄する。もう限界なんだ」
蓮司は、私がこの五年間で一度も見たことのない表情をしていた。
——清々しい顔。
まるで重い荷物をようやく下ろせた、とでも言いたげな。
その荷物が、私だと言うのなら。
「ま、待って。なにか、私が悪かったなら直すから——」
「そういうところだよ」
蓮司は眉間に皺を寄せた。見慣れた顔。私が何か言うたびに、彼はいつもこの顔をする。
「すぐ『直す』『私が悪い』。自分がないんだよ、君は。一緒にいて、つまらない」
つまらない。
その一言が、胸の奥に杭のように打ち込まれる。
違う、そうじゃない。私はただ、蓮司に嫌われたくなくて——蓮司の望む私でいたくて——。
「あなたの好みに合わせていただけ」
声が、自分でも驚くほど小さい。
「は? 何、被害者ぶってるの?」
——被害者?
この五年間、料理も、洗濯も、掃除も。蓮司の両親への気遣いも、仕事の愚痴を聞くことも。全部、全部やってきた。自分の絵を描く時間なんて、とっくに諦めて。
それなのに。
「ねえ、蓮司くん。そろそろ行こう?」
——声がした。
玄関の方から聞こえたその声を、私は知っている。聞き間違えるはずがない。だって、何年も一緒に笑ってきた声だから。
振り返った先に立っていたのは、桐谷美咲。
私の、親友。
「……美咲?」
なんで、ここに。
なんで、蓮司の家の合鍵を持っているの。
なんで、そんなに親しげに「蓮司くん」なんて呼ぶの。
美咲は私を見て、ほんの一瞬だけ気まずそうな顔をした。けれどそれは本当に一瞬で、すぐにいつもの甘ったるい笑顔に戻る。
「みおっち、ごめんね。こういうの、ちゃんと言うべきだったんだけど」
——こういうの?
「私と蓮司くん、付き合うことになったの」
世界が、ぐらりと傾いた気がした。
「……いつから」
声がかすれる。喉の奥が、砂漠みたいに乾いている。
「三ヶ月くらい前かな」
三ヶ月。
三ヶ月前といえば、美咲が「最近いい人できないかな〜」って相談してきた頃だ。蓮司の好きなタイプとか、どうやって付き合ったのかとか、やたら詳しく聞いてきて——。
「まさか」
「そのまさかだよ」
蓮司が、面倒くさそうに肩をすくめる。
「美咲から相談されてさ。君の話を聞いてるうちに、俺がどれだけつまらない女と婚約してたか気づいたんだよね」
——つまらない女。
「美咲は違う。俺の話を楽しそうに聞いてくれるし、一緒にいて楽なんだ」
楽。
私は、重荷だった?
五年間、必死で尽くしてきた私より。私の恋愛相談を利用して近づいた美咲の方が、いいって?
「みおっちは優しいから、きっとわかってくれるよね?」
美咲が、首を傾げる。長い巻き髪が、さらりと肩から流れ落ちる。蓮司の視線が、その髪を追うのが見えた。
「私たち、友達じゃん。応援してくれるでしょ?」
——友達?
今、なんて言った?
「……応援?」
声が、自分のものとは思えないほど平坦だった。
「婚約者を奪っておいて、応援してくれ、って?」
「奪ったとか人聞き悪いな」
蓮司が眉をひそめる。
「もともと君に愛情なんてなかったんだよ。惰性で続いてただけ。だから浮気じゃない。美咲と出会って、やっと本当の恋がわかったんだ」
本当の恋。
じゃあ、私との五年間は。私が費やした時間は。私が描くのを諦めた絵は。私が殺してきた自分自身は。
——全部、嘘だったの?
「荷物、まとめてくれる? できれば今日中に出ていってほしいんだけど」
蓮司の声は、まるで業者に不用品の回収を頼むみたいに事務的だった。
「あ、食器は置いていっていいよ。どうせ君が選んだやつ、趣味悪いし」
——趣味が、悪い。
蓮司の好みに合わせて選んだ食器を、趣味が悪いと言われている。
「みおっちが作ったカーテンも替えなきゃね。なんか暗いんだよね、あれ」
美咲が、くすくす笑う。
蓮司の部屋に合う色を、何日も悩んで選んだ布。夜遅くまでミシンを踏んで縫い上げたカーテン。それを、「暗い」と笑われている。
「……わかった」
涙は、出なかった。
出ないことが、一番怖かった。
五年も一緒にいて、婚約までしていた相手に捨てられて、親友に裏切られて。それなのに涙一つ出ないなんて、やっぱり私は——。
「おばあちゃん……」
自然と、亡き祖母の顔が浮かんだ。
二年前に亡くなった、父方の祖母。絵描きだった祖母だけが、私の絵を「美しい」と言ってくれた。「澪の絵には、見えないものを見せる力がある」と。
『この場所で、あなたの本当の人生を見つけなさい』
遺言で祖母が遺してくれた、湖畔の古民家。霧深いあの湖のほとりに、今すぐ逃げ出したい。
「ああ、その絵」
荷物をまとめようと振り返った私の背中に、蓮司の声が刺さる。
「クローゼットの奥に隠してあるスケッチブック、持っていっていいよ。正直、邪魔だったし」
——バレていた。
蓮司に「くだらない」と言われてから、隠れて描いていた風景画。誰にも見せられなかった、私だけの世界。
「下手くそな絵、よく描けるよね。才能ないのに」
蓮司は鼻で笑った。
「幽霊の方がマシって言ったけどさ、本当にそう思うよ。幽霊は少なくとも、自分の存在価値くらいはわかってるだろうからね」
——自分の存在価値。
私には、ない。この人の隣にいる価値なんて、最初からなかったんだ。
「……さようなら、蓮司」
スケッチブックだけを抱えて、私は玄関を出た。
背後で、蓮司と美咲の笑い声が聞こえる。
五年間。私が費やした五年間は、あの二人の笑い声に溶けて消えていく。
——おばあちゃん。
私、やっぱり価値のない人間だったみたい。
絵を描くことでしか息ができなかった私を、「それでいい」と言ってくれたのは、おばあちゃんだけだった。
霧の湖。おばあちゃんの古民家。
今夜のうちに、あそこへ行こう。
霧の中でなら、私みたいな人間でも——息ができるかもしれないから。
◇
深夜、車を走らせること三時間。
山道を抜けた先に、見覚えのある湖が広がっていた。
濃い霧が水面を覆い、対岸はおろか、数メートル先すら見えない。まるで世界の果てに来たみたいだ。
祖母の古民家は、湖畔にひっそりと佇んでいた。
二年ぶりに訪れる懐かしい場所。玄関の鍵を開けると、かすかに絵の具とコーヒーの匂いがした。おばあちゃんの匂い。
「——っ」
急に、涙が溢れた。
蓮司に捨てられた時は出なかったのに。美咲に裏切られた時は出なかったのに。
おばあちゃんの匂いを嗅いだ瞬間、堰を切ったように涙が止まらなくなった。
「おばあちゃん……私、頑張ったのに……」
誰もいない古民家で、声を上げて泣いた。
五年分の涙を、全部吐き出すみたいに。
翌朝。
泣き疲れて眠り、気づいたら朝になっていた。
顔を洗って、散歩でもしよう。そう思って湖畔に出た時——。
「——え?」
霧の中に、人影があった。
湖のほとり、桟橋の手前。
誰かが倒れている。
「ちょっと、大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、それは若い男性だった。
長身痩躯。色素の薄い髪。銀縁眼鏡が、かろうじて顔にかかっている。どこか現実離れした美貌の——。
「意識は……ある、みたい」
男性がうっすらと目を開けた。瞳の色は、朝もやのように淡い灰色。
「あの、名前は? どうしてこんなところに?」
「……名前」
男性が、眉をひそめる。
「わからない」
「わからないって——記憶喪失?」
「覚えているのは、霧だけだ」
男性は、かすれた声でそう言った。
「霧の中で、誰かを探していた。届けたいものがあった。それだけしか、覚えていない」
霧。
この人もまた、霧の中で迷子になっているのか。
——私と、同じだ。
「じゃあ、とりあえず『霧』さんって呼びますね。立てますか?」
差し出した私の手を、彼は静かに取った。
冷え切った指先。まるで、本当に霧の中から生まれてきたみたいに。
「……あなたは」
「水無瀬澪です。近くに住んでて——いえ、住むことになって——」
言葉が詰まる。
「……訳ありなので、あんまり深く聞かないでください」
「わかった」
彼は素直に頷いた。
詮索しない。追及しない。ただ、私の言葉を受け入れる。
——蓮司とは、正反対だ。
「とりあえず、うちで休んでください。倒れてるところを放っておけないし」
彼の腕を肩に回して、古民家へ歩き出す。
ふと気づくと、彼の胸ポケットから古びたスケッチブックが覗いていた。
「それ、あなたの?」
「わからない。でも、これだけは手放してはいけない気がする」
彼の灰色の瞳が、まっすぐ私を見つめる。
「この中に、探している答えがある気がするんだ」
——答え。
私には、答えなんてない。どこに行けばいいかも、何をすればいいかも、わからない。
でも。
「……とりあえず、コーヒー淹れますね」
そう言うと、彼は微かに——本当に微かに——口角を上げた。
「ありがとう」
霧の中で出会った、記憶のない青年。
この出会いが、私の人生をどう変えていくのか。
この時の私は、まだ何も知らなかった。
◇
「霧」を古民家に連れ帰って、最初にしたことはコーヒーを淹れることだった。
祖母が遺していった豆はもう古くなっていたけれど、近所の従姉——花音さんが定期的に入れ替えてくれていたらしい。棚の中から新しい豆を見つけた時、少しだけ心が軽くなった。
「どうぞ」
湯気の立つカップを差し出す。
「霧」は両手でそれを受け取り、じっと見つめていた。
「……どうしました?」
「いや」
彼は、ゆっくりとカップに口をつける。
「——温かい」
ぽつり、と。
噛みしめるように、彼はそう言った。
「久しぶりに、温かいものを飲んだ気がする」
——温かい。
たった一杯のコーヒーに、「温かい」と言ってくれる人がいる。
蓮司は、私がどんなに丁寧に淹れても「普通」としか言わなかった。こだわりの豆を取り寄せても、ドリップの技術を磨いても、何も言われなかった。それが当たり前だと思っていた。
「お口に合って良かった」
平静を装って答える。でも、声が少し震えていたかもしれない。
「霧」が落ち着いたところで、改めて状況を確認した。
名前も、年齢も、住所もわからない。記憶にあるのは、霧の中で誰かを探していたということだけ。持ち物は、着ている服と、古びたスケッチブックのみ。
「警察に届けた方がいいかもしれませんね」
そう言うと、「霧」は微かに眉をひそめた。
「……少しだけ、待ってほしい」
「どうして?」
「わからない」
彼は、自分の言葉に困惑しているようだった。
「ただ、まだ駄目だという気がする。もう少しだけ、思い出す時間がほしい」
——思い出す時間。
私にも、忘れたい時間がある。整理したい時間がある。
「……わかりました。二、三日だけ」
頷くと、彼は静かに頭を下げた。
「すまない。迷惑をかける」
「迷惑なんて——」
言いかけて、止まる。
蓮司に「迷惑だ」と言われたばかりだ。自分が他人に迷惑をかけてはいけないと思い込んでいたのに、今、私は見知らぬ人を助けようとしている。
矛盾している。でも、放っておけなかった。
この人が、かつての私と同じ目をしていたから。
——どこにも、居場所がない目。
「客間を使ってください。おばあちゃん——祖母が使っていた部屋ですけど」
立ち上がって、奥の部屋へ案内する。
襖を開けた瞬間、「霧」が息を呑んだのがわかった。
「これは……」
壁に飾られた日本画。湖畔の風景を描いたもので、祖母の代表作の一つだ。
「おばあちゃんの絵です。日本画家だったんです、若い頃」
「……美しい」
彼は絵の前で立ち止まり、食い入るように見つめていた。
「霧の描き方が、独特だ。見えないものを、見えるように描いている」
——見えないものを、見えるように。
祖母が私の絵を褒める時、同じ言葉を使っていた。
『澪の絵には、見えないものを見せる力がある』
偶然だ。偶然、同じ表現をしただけだ。
でも、心臓が跳ねた。
「あの、お疲れでしょうから、ゆっくり休んでください。何かあったら呼んでください」
逃げるように部屋を出ようとした時——。
「待って」
「霧」の声に、足が止まる。
振り返ると、彼は私の持っていたスケッチブックを見つめていた。
——しまった。
昨夜、祖母の匂いを嗅いで泣いた後、無意識にスケッチブックを抱いて眠っていたのだ。今朝もそのまま持ち出してしまっていた。
「それ、君が描いたのか」
「……見ないでください」
とっさにスケッチブックを胸に抱き寄せる。
「下手なんです。趣味程度で——誰かに見せるようなものじゃなくて——」
蓮司の声が蘇る。『下手くそな絵、よく描けるよね。才能ないのに』
「見せて」
「霧」は、静かに、けれど確かな声で言った。
「見たい」
——見たい?
蓮司は一度だって、私の絵を「見たい」と言わなかった。見せても「ふーん」で終わりだった。
「……恥ずかしいものしか描いてないですよ」
そう言いながら、なぜか手が動いていた。
スケッチブックを開いて、彼に見せていた。
最初のページは、この湖の風景。幼い頃に描いたもので、稚拙な線だけれど、霧に包まれた湖面を一生懸命描こうとした跡がある。
「——」
「霧」が、息を呑んだ。
顔色が変わった。灰色の瞳が大きく見開かれ、何かを思い出そうとするように額に手を当てる。
「どうしました?」
「いや……」
彼は首を振ったが、その手は微かに震えていた。
「この絵を、どこかで見た気がする」
「この絵を?」
「昔……ずっと昔。この湖畔で……」
彼は言葉を探すように口を開閉したが、結局何も言えなかった。
「すまない。思い出せない」
「……無理しないでください」
スケッチブックを閉じて、そっと引き下がる。
「霧」は、自分の胸ポケットからスケッチブックを取り出した。彼が持っていた、唯一の所持品。
「これを見た時も、同じ感覚があった」
「中身、見ましたか?」
「見た。でも、わからなかった」
彼はページをめくり、私に見せた。
描かれていたのは、風景画。湖と、霧と、古い木造の桟橋。
——この湖だ。
しかも、構図が。
色使いが。
霧の描き方が。
「……似てる」
思わず呟いた。
「私の絵と、似てる……?」
「そうだ」
「霧」は、まっすぐ私を見つめた。
「だから、君の絵を見た時、動揺した。これは偶然なのか。それとも——」
「——私たち、以前にどこかで会ってます?」
「わからない」
彼は静かに首を振る。
「でも、会いたかった気がする」
——会いたかった。
誰かに「会いたかった」と言われたのは、いつ以来だろう。
「……とにかく、今日は休んでください」
動揺を悟られないように、私は足早に部屋を出た。
◇
——五年前のことを、思い出す。
「澪は俺がいないと何もできないな」
蓮司は、笑いながらそう言った。
初めてのデートで、私が道を間違えた時のこと。軽い冗談のつもりだったのだと思う。でも、その言葉は、私の中に静かに根を下ろした。
——私は、一人では何もできない。
「料理、もう少し薄味にして」
「この服、俺は好きじゃない」
「その趣味、くだらなくない?」
一つ一つは小さなことだった。
でも、その小さな言葉が積み重なって、私の輪郭を少しずつ削っていった。蓮司に合わせて、料理の味付けを変えた。蓮司の好みに合わせて、服を選んだ。蓮司に否定されて、絵を描くことを辞めた。
「君のためを思って言ってるんだ」
蓮司は、いつもそう言った。
私のため。私のため。
でも、本当に私のためだったのだろうか。
「みおっち、最近元気ないね」
美咲が、心配そうに覗き込んできたのは、三年目の頃だった。
「蓮司さんと、うまくいってる?」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「そう? なんでも相談してね。私たち、親友なんだから」
——親友。
美咲は、大学時代からの友人だった。いつも明るくて、誰とでも仲良くなれる彼女が、地味な私に声をかけてくれたのが嬉しかった。
「蓮司さんって、どんな人が好みなの?」
「どうやって付き合うことになったの?」
「普段、何話してるの?」
美咲は、よく蓮司のことを聞いてきた。
「恋愛の参考にしたいの」と言っていたから、私は何も疑わなかった。蓮司の好きな食べ物、嫌いなこと、怒らせないためのコツ。全部、話した。
——まさか、それが利用されるなんて、思いもしなかった。
「澪の料理、もう飽きたな」
五年目。蓮司が、ぽつりと言った。
「え?」
「いつも同じじゃん。変わり映えしない」
「……蓮司の好きなものを作ってるんだけど」
「だから飽きたんだよ。俺の好みに合わせるんじゃなくて、もっと新しいものに挑戦しろよ」
——新しいもの。
私が新しい料理を作った時、「これじゃない」と言ったのは、蓮司だった。
私が着たことのない色の服を着た時、「似合わない」と言ったのも、蓮司だった。
私が絵を描こうとした時、「くだらない」と言ったのも、蓮司だった。
全部、蓮司に合わせてきた。蓮司の好みに、蓮司の機嫌に、蓮司の価値観に。
それなのに——。
「変わり映えしない」と言われる。
「飽きた」と言われる。
「君といると息が詰まる」と言われる。
——じゃあ、どうすれば良かったの?
◇
目が覚めた。
古民家の天井が見える。夢だった。いや、夢というより、過去の記憶が蘇ったのだ。
「……最悪」
起き上がって、顔を洗う。
鏡に映った自分は、酷い顔をしていた。目の下に隈ができている。眠れていないせいだ。
「おはよう」
居間に出ると、「霧」がいた。
窓際に座って、外の景色を眺めている。朝もやの中に浮かぶ湖を、静かな目で見つめていた。
「……おはようございます」
「よく眠れなかったか」
「どうして——」
「目の下」
彼は、短く指摘した。
「無理しなくていい」
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃなさそうに見える」
——見透かされている。
蓮司には、見えなかったものが、この人には見えるのだろうか。
「……少し、嫌な夢を見て」
「そうか」
彼は、それ以上聞かなかった。
代わりに、立ち上がって、台所に向かう。
「何を——」
「コーヒー」
「え?」
「淹れ方を見て覚えた。君は座っていろ」
——私の代わりに、コーヒーを淹れてくれる?
五年間、蓮司は一度も台所に立たなかった。コーヒーを淹れるのも、食事を作るのも、全部私の仕事だった。
「あの、私がやりますから——」
「いい。今日は俺がやる」
「霧」の背中は、有無を言わせない雰囲気があった。
仕方なく、座って待つ。
しばらくして、彼がカップを持ってきた。
「……上手」
一口飲んで、驚いた。昨日一回見ただけなのに、ちゃんとしたコーヒーが淹れられている。
「体が覚えていたのかもしれない」
「コーヒー、好きだったんですか?」
「わからない。でも、淹れるのは好きだった気がする」
——淹れるのが、好き。
蓮司は、「飲むのが好き」とは言っても、「淹れるのが好き」とは言わなかった。淹れるのは私の仕事で、飲むのが蓮司の仕事。そういう役割分担だと思っていた。
「君は、コーヒーを淹れるのが好きか」
「え?」
「丁寧に淹れているように見えた。好きなのかと思って」
「……好き、かもしれません」
自分でも、考えたことがなかった。
蓮司のために淹れている——それだけで、好きかどうかなんて考える余裕がなかった。
「好きなことを、好きだと言えるのは、いいことだ」
「霧」は、静かに言った。
「——絵も、好きか」
「え」
「昨日見せてもらった。好きで描いているのか」
「……昔は、好きでした」
「今は?」
「今は……」
わからない。
好きだったはずだ。祖母と一緒に絵を描いている時間が、一番幸せだった。でも、蓮司に否定されてから、絵を描くことが怖くなった。
——下手だと言われるのが、怖い。
——才能がないと言われるのが、怖い。
——否定されるのが、怖い。
「わからない」
正直に、答えた。
「昔は好きだったのに、今は怖いんです。描くことが。見せることが」
「誰かに否定されたから?」
「……はい」
「愚かな人だ」
「霧」は、はっきりと言った。
「君の絵は、綺麗だ」
「——」
「見えないものを、見えるようにする絵だ。そういう絵を描ける人を否定するなんて、愚かだ」
——綺麗。
私の絵を、「綺麗」と言ってくれる人がいる。
「……記憶がないから、そう言ってくれるんだと思います」
「関係ない」
「え?」
「記憶があってもなくても、綺麗なものは綺麗だ。俺は、嘘はつかない」
——嘘は、つかない。
蓮司は、よく嘘をついた。「大丈夫」「気にしてない」「愛してる」。どれが本当で、どれが嘘だったのか、もうわからない。
でも、この人は——。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えていた。
「絵、また見せてほしい」
「え」
「見たい。君の絵を」
——見たい。
また、そう言ってくれた。
「……怖いんです。否定されるのが」
「俺は否定しない」
「でも——」
「俺は否定しない」
二度、言われた。
強い言葉ではない。静かな、けれど確かな声だった。
「……少しだけ、待ってください」
「待つ」
「霧」は、頷いた。
急かさない。追い詰めない。ただ、私のペースで待ってくれる。
——この人は、本当に誰なのだろう。
記憶を失っているのに、こんなにも穏やかで、こんなにも優しい。
記憶が戻ったら、この人は変わってしまうのだろうか。
そう思うと、少しだけ——ほんの少しだけ——このままでいてほしいと思ってしまう自分がいた。
◇
「霧」が古民家に来てから、一週間が経った。
不思議な日々だった。
朝起きると、「霧」がコーヒーを淹れてくれる。一緒に朝食を食べて、私が絵を描く間、彼は窓際で本を読んでいる。祖母が遺した画集を、静かにめくっている姿が、絵になるほど美しかった。
昼になれば、一緒に湖畔を散歩する。霧の中を歩きながら、ぽつぽつと言葉を交わす。
「この湖は、いつも霧に包まれているのか」
「はい。特に朝と夕方は濃くて」
「……不思議な場所だ」
「霧が嫌いですか?」
「いや」
「霧」は、首を振った。
「むしろ落ち着く。隠されている方が、安心する」
——隠されている方が、安心する。
私も、そうだ。誰の目にも触れない場所で、ひっそりと生きていたい。そう思っていた。
「君も、そうじゃないか」
「え?」
「霧の中の方が、楽そうに見える」
「……そうかも、しれません」
「似ているな、俺たち」
「霧」は、微かに笑った。
笑顔を見たのは、初めてだった。
「みーちゃん!? 本当にみーちゃん!?」
ある日の午後、玄関が勢いよく開いた。
振り返ると、エプロン姿の女性が立っていた。ショートカットに、元気のいい笑顔。私の従姉——藤堂花音。
「花音さん」
「やっぱり来てたんだ! 車が停まってるから、もしかしてと思って。急にどうしたの? 連絡くらいしてよ」
花音さんは、この土地で小さなカフェを営んでいる。祖母の古民家の管理も、彼女がしてくれていた。
「ごめんなさい、急だったから」
「何かあったの? 顔色悪いよ」
「……婚約、破棄されたの」
正直に言った。隠しても仕方ないし、花音さんには嘘がつけない。
「は? あの高城ってやつ? みーちゃんを?」
花音さんの目が、すっと細くなった。
「やっぱりね。あいつ、前から気に入らなかったんだよ。みーちゃんのこと下に見てる感じがしてさ」
「……わかってたの?」
「わかるよ。みーちゃんがあいつの話をする時、いつも自分を小さくしてたから」
花音さんは、ずかずかと居間に入ってきて、どかっと座った。
「で? 何があった? 全部聞くよ」
「……長くなるけど」
「時間ならある。カフェは今日休みだし」
観念して、全てを話した。
蓮司の言葉。美咲の裏切り。五年間の全てを否定されたこと。
「——は? 幽霊以下? あいつ、本気で言ったの?」
「本気、だったと思う」
「信じらんない。みーちゃんがどれだけあいつに尽くしてたか知ってるのに。料理だって、掃除だって、全部完璧にやってたじゃん」
「でも、それが重荷だったみたいで」
「重荷? 自分で何もしないくせに?」
花音さんは、本気で怒っていた。私のことで、こんなに怒ってくれる人がいるなんて。
「みーちゃんは悪くない。絶対に悪くない」
「……でも」
「でもも何もない。あいつが最低なだけ。美咲って女も最低。みーちゃんの優しさにつけ込んで、利用しただけじゃん」
「……うん」
涙が、滲んできた。
「泣いていいよ。泣きたい時は泣いていい。でもね、みーちゃん」
花音さんが、私の手を握る。
「ここにいる間は、自分のために生きな。誰かに合わせなくていい。誰かに認めてもらわなくていい。みーちゃんが、みーちゃんのままでいられる時間を過ごしな」
——自分のために、生きる。
そんなこと、考えたこともなかった。
「あと、絵。描きなよ」
「え?」
「おばあちゃんがいつも言ってたでしょ。みーちゃんの絵には才能があるって。なんで描くの辞めちゃったの?」
「……くだらない趣味だって、言われて」
「誰に?」
「……蓮司に」
「は——?」
花音さんの目が、さらに険しくなった。
「あいつ、みーちゃんの絵、見たことあるの?」
「ある、と思う。最初の頃は見せてたから」
「で、くだらないって言ったの?」
「うん」
「見る目ないね。みーちゃんの絵、おばあちゃんにそっくりで天才的だったのに」
——天才的。
そんな大袈裟な。私の絵なんて、ただの落書きだ。
「謙遜しなくていいよ。私、子供の頃からみーちゃんの絵、ずっと見てきたから。あの頃から上手かったし、何より——」
花音さんは、窓の外の霧を見つめた。
「みーちゃんの絵、見てると安心するんだよね。霧の中にいても、大丈夫って思える。そういう絵、描ける人って少ないよ」
——安心する。
私の絵を見て、そう思ってくれる人がいる。
「ところで、客間に誰かいる?」
「え」
「さっき覗いたら、男の人が寝てたんだけど」
「あ、それは——」
しどろもどろになりながら、「霧」のことを説明する。
「記憶喪失? それ、大丈夫なの?」
「わからない。でも、放っておけなくて」
「みーちゃんらしいね」
花音さんは、呆れたように笑った。
「傷ついてる時に、人助けしてる場合じゃないでしょ」
「でも、あの人——」
言いかけて、止まる。
「あの人が、なに?」
「……私の絵を見て、『見たい』って言ってくれたの」
「は」
花音さんの目が、丸くなった。
「見たいって、あの絵を?」
「うん。温かいコーヒーをありがとうって言ってくれて、私の絵を見たいって言ってくれて」
「……ふーん」
花音さんは、意味深な笑みを浮かべた。
「いい人じゃん」
「記憶喪失だから、優しいだけだと思う」
「そうかな」
「そうだよ。記憶が戻れば、きっと——」
「きっと、なに?」
「……きっと、私のことなんて見向きもしなくなる」
「なんでそう思うの?」
「だって——」
私は、言葉に詰まった。
だって、私には価値がないから。蓮司にそう言われたから。五年間、何も認めてもらえなかったから。
「みーちゃん」
花音さんが、私の頬を両手で挟んだ。
「一回言われただけで、自分を全否定しないの。あいつの評価が全てじゃないでしょ?」
「でも——」
「でもじゃない。私は、みーちゃんのこと好きだよ。おばあちゃんも、みーちゃんのこと大好きだった。それじゃ駄目?」
「……花音さん」
「泣くな泣くな。泣きたい時は泣いていいけど、今は怒るところだよ」
花音さんは、私の涙を指で拭った。
「とにかく、しばらくここにいなよ。絵も描きな。誰にも邪魔されないで、みーちゃんが好きなことをしな」
「……うん」
「あと、あの記憶喪失の人、様子見てあげな。もし変な奴だったら、遠慮なく言って。湖に沈めてあげるから」
「花音さん、それは物騒すぎる」
「冗談だってば。……半分くらい」
笑い合う。こんな風に笑ったのは、いつ以来だろう。
◇
その夜。
「霧」を夕食に誘った。
祖母の残していった野菜と、花音さんが持ってきてくれた食材で、簡単な料理を作る。肉じゃがと、味噌汁と、白米。
「……美味しい」
「霧」は、一口食べて、そう言った。
「温かい。優しい味がする」
——また、「温かい」と言ってくれた。
蓮司は、私の料理を「普通」としか言わなかった。「可もなく不可もなく」「特に文句はない」。それが褒め言葉だと思っていた。
「お口に合って良かったです」
「……いつも、こういう料理を作っていたのか」
「え?」
「誰かのために、こうして温かい料理を作っていたのかと思って」
「……はい。婚約者がいたので」
「いた?」
「……昨日、別れました」
「そうか」
「霧」は、それ以上何も聞かなかった。
詮索しない。追及しない。ただ、静かに頷いて、食事を続ける。
「美味しいものを、美味しいと言える人と一緒に食べられるのは、幸せなことだ」
彼は、ぽつりと言った。
「……そう、ですね」
「君の料理を、美味しいと言わなかった人がいたのか」
「……はい」
「愚かな人だ」
断言された。
「え?」
「これだけ美味しいものを作れる人の側にいて、それを当たり前だと思うなんて、愚かだ」
——愚か。
蓮司のことを、この人は「愚か」と言った。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えた。
泣くな、と自分に言い聞かせる。こんなことで泣くな。ただ、料理を褒められただけだ。たったそれだけで泣くな。
でも、涙が止まらなかった。
「……すみません。なんでもないです」
「泣きたい時は、泣いていいと思う」
花音さんと、同じことを言われた。
「無理に、笑わなくていい」
——無理に、笑わなくていい。
この五年間、ずっと笑顔を作ってきた。蓮司の機嫌を損ねないように、常に笑顔でいようとしてきた。
でも、この人の前では——。
「……少しだけ、泣かせてください」
「ああ」
「霧」は、静かに頷いた。
その夜、私は二度目の涙を流した。
誰かの前で泣くのは、久しぶりだった。
◇
「霧」と過ごす日々が、私にとって当たり前になり始めていた。
朝はコーヒーを二人分淹れて、一緒に飲む。昼は湖畔を散歩して、夕方からは絵を描く。「霧」は、私が絵を描く間、静かに隣にいてくれた。
何をするでもなく、ただそばにいる。
それだけで、心が安らいだ。
「今日の絵も、綺麗だ」
「霧」が、完成した絵を見て言った。
「まだ途中なんですけど」
「途中でも綺麗だ」
「……ありがとうございます」
照れくさくて、顔を背ける。
この人の言葉には、嘘がない。だから、素直に受け取れる。素直に、嬉しいと思える。
「——澪」
「え?」
「呼んでいいか。その名前で」
「あ、はい。どうぞ」
「澪」
もう一度、呼ばれた。
——水無瀬、澪。
自分の名前が、こんなに綺麗に聞こえたのは初めてだった。
「いい名前だ」
「……そうですか?」
「ああ。澪、という字。水の流れる道、という意味だろう」
「よくご存知ですね」
「なぜか知っていた」
「霧」は、不思議そうに首を傾げた。
「俺の記憶には、言葉の意味だけが残っているのかもしれない。名前の記憶はないのに」
「変わってますね」
「そうかもしれない」
彼は、微かに笑った。
また、笑顔だ。最近、よく笑うようになった。
——私も、よく笑うようになった気がする。
「澪」
「はい」
「君の絵が——」
ぴりりり、と。
言葉を遮るように、スマートフォンが鳴った。
「あ、すみません——」
画面を見て、凍りついた。
表示されていたのは、蓮司の名前。
「……」
「出なくていいのか」
「霧」の声が、遠くに聞こえる。
「……出ます」
震える手で、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『澪? 俺だけど』
聞きたくない声だった。聞くだけで、あの夜のことが蘇る。
『ちょっと考えたんだけどさ、やっぱり戻ってこないか?』
「……は?」
『いや、美咲とはもう終わったんだよ。あいつ、思ったより面倒くさくてさ。料理もできないし、家事もしないし。やっぱ澪じゃないとダメだわ』
——やっぱり、澪じゃないとダメ。
その言葉に、何も感じなかった。
怒りもない。悲しみもない。ただ、呆れるほどの空虚さだけがあった。
「お断りします」
『は?』
「戻る気はありません」
『なんで? 俺、反省したんだよ。あの時は言いすぎた。でも、やっぱり澪が一番だって——』
「蓮司さん」
私は、静かに言った。
「私は幽霊以下なんでしょう? 幽霊以下の女と、一緒にいたいんですか?」
『それは……あの時は、頭に血が上ってて——』
「五年間、私はずっと一緒にいました。でも、あなたは私のことを見てなかった。私の絵も、私の努力も、私の気持ちも——何も」
『澪——』
「さようなら」
通話を切った。
手が、震えていた。
でも、心は落ち着いていた。
言えた。ちゃんと、言えた。
「……大丈夫か」
「霧」の声がした。
「はい。大丈夫です」
振り返ると、彼が心配そうな目でこちらを見ていた。
「嫌な相手からの電話だったのか」
「……元婚約者です」
「復縁を迫られたのか」
「はい」
「断ったのか」
「はい」
「——よかった」
「え?」
「霧」は、少し慌てたように言い直した。
「いや、君が嫌な思いをしていなければいいと思っただけで——」
「……ありがとうございます」
彼の反応が、少し嬉しかった。
◇
その夜。
「霧」と並んで、湖畔のベンチに座っていた。
霧に包まれた湖は、静かに佇んでいる。月明かりが霧を通して、淡く水面を照らしていた。
「澪」
「はい」
「さっきの電話の相手——君を、幽霊以下と言った男か」
「……聞こえてましたか」
「聞こえた」
「霧」の声は、静かだった。けれど、その中に怒りのようなものが混じっている気がした。
「愚かな男だ」
「また、言いますね。それ」
「事実だ」
「霧」は、まっすぐ前を見つめた。
「君のような人を、幽霊以下と呼ぶ人間は——愚かだ。それ以外の言葉が見つからない」
「……私のような人?」
「優しくて、繊細で、美しいものを見る目を持っている人」
「——」
「君の絵を見ればわかる。君がどれだけ、世界を優しい目で見ているか」
——優しい目で、世界を見ている。
そんな風に言われたのは、初めてだった。
「過大評価ですよ」
「事実を言っているだけだ」
「霧」は、私を見た。
灰色の瞳が、月明かりを受けて、微かに光っている。
「君が、自分を低く評価するのは——あの男のせいか」
「……半分は」
「もう半分は」
「母親、です。昔から、否定されてばかりで」
言葉が、自然と出てきた。
「絵を描いても、『そんなものでは食べていけない』。料理を作っても、『そんな程度では嫁に行けない』。何をしても、否定されて」
「——」
「でも、おばあちゃんだけは違った。私の絵を、『美しい』と言ってくれた。『あなたの絵には、人の心を動かす力がある』って」
「君の祖母は、正しかった」
「霧」の声は、確信に満ちていた。
「君の絵には、人の心を動かす力がある。俺が、証人だ」
「……証人?」
「ああ。俺の心は、君の絵に動かされた」
——心を、動かされた。
「記憶がなくても、それだけは確かだ」
「霧」は、夜空を見上げた。
「君の絵を見た瞬間、何かが動いたんだ。説明できないけど、確かに」
「……」
「だから、描き続けてほしい。君の絵は、誰かの心を動かす。俺のように」
——描き続けてほしい。
蓮司は、「やめろ」と言った。母は、「無駄だ」と言った。
でも、この人は——。
「……ありがとう、ございます」
涙が、滲んだ。
何度目だろう。この人の前で泣くのは。
「すみません、また泣いて——」
「泣いていい」
「霧」が、そっと肩に手を置いた。
「今まで、泣けなかった分を、泣けばいい」
その夜、私は三度目の涙を流した。
でも、これまでとは違う涙だった。
——嬉しくて、流れる涙だった。
◇
翌朝。
花音さんのカフェで、テレビがついていた。
『氷室グループ御曹司、失踪から一年——』
「あ、またこのニュースか」
花音さんが、チャンネルを変えようとする。
「待って——」
「え? みーちゃん、興味あるの?」
「その人の顔、見せてください」
何か、引っかかった。
テレビの画面には、若い男性の写真が映っている。
長身痩躯。色素の薄い髪。銀縁眼鏡。
——「霧」に、似ている。
「……えっ」
『氷室晴臣氏(27)は、一年前に突然姿を消し——』
——氷室、晴臣。
「霧」の正体が、わかってしまった。
「みーちゃん? どうしたの、顔色悪いよ」
「……なんでもない」
嘘だった。
心臓が、激しく脈打っている。
あの人は——「霧」は——巨大企業グループの御曹司だった。
一年前に失踪した、ニュースにもなるほどの重要人物。
そんな人が、なぜこの湖畔に倒れていたのか。
なぜ、私の絵に反応するのか。
——答えが、怖い。
知ってしまったら、この穏やかな日々が終わる気がした。
でも、いつまでも隠し通せるわけがない。
彼の記憶が戻れば、全てが明らかになる。
そして——私は、彼を失う。
——失いたくない。
初めて、そう思った。
この人を、失いたくない。
◇
「霧」の正体を知ってしまった翌日。
私は、何も言えずにいた。
言えば、彼の記憶が戻るきっかけになるかもしれない。そうなれば、彼は元の世界に帰ってしまう。
——それが、怖かった。
「澪」
「……はい」
「顔色が悪い。何かあったのか」
「なんでもないです」
嘘だ。嘘をついている。
この人の前では嘘をつかないって、決めていたのに。
「——俺に、言えないことか」
「霧」の声は、静かだった。
「無理に聞かない。でも、辛いなら——」
「辛くないです。ただ——」
言葉が、詰まる。
——あなたの正体を、知ってしまったんです。
言えない。言えば、終わってしまう。
「澪」
「霧」が、私の手を取った。
冷たい手。最初に出会った時と同じ、冷たい手。
「俺が、何者であっても——」
「え?」
「俺が何者であっても、君のそばにいたい」
——何者であっても。
「まだ、記憶は戻っていない。でも、一つだけ確かなことがある」
「霧」は、私をまっすぐ見つめた。
「俺は、君を——」
その時だった。
「澪!」
外から、聞き覚えのある声がした。
——蓮司?
「なんで——」
玄関の方から、足音が近づいてくる。
「澪、いるんだろ!? 出てこい!」
勝手に、玄関が開けられた。
「蓮司、なんで——」
「調べたんだよ、お前のばあさんの家。ここにいるって思ったんだ」
蓮司は、荒い息をついていた。顔が紅潮している。怒っているのか、焦っているのか——。
「電話切られてから、頭にきてさ。お前、俺を馬鹿にしてんのか?」
「馬鹿に、なんて——」
「俺が頭下げてんのに、断るとか何様だよ!」
蓮司の目が、私の後ろにいる「霧」を捉えた。
「——は? 誰だよ、こいつ」
「関係ありません」
「関係ないわけないだろ。男を匿ってんじゃねえか。だからすぐ断ったのか? 新しい男ができたから——」
「違います」
「嘘つけ! お前みたいな地味女が、俺を振るなんて——」
「彼女は嘘をついていない」
「霧」の声が、冷たく響いた。
「……お前、なんだよ」
蓮司が「霧」をにらむ。
その瞬間——。
蓮司の顔が、青ざめた。
「……え?」
「どうした」
「お前——氷室の……」
——気づいた。
「霧」は、まだ何も言っていない。でも、蓮司は気づいてしまった。
「氷室晴臣……? 嘘だろ、お前、一年前に失踪した……」
「——氷室」
「霧」が、自分の名前を呟いた。
その瞬間、彼の目が見開かれた。
「——っ」
額を押さえて、よろめく。
「『霧』さん!?」
「澪、離れろ! そいつ、氷室グループの御曹司だぞ!? お前、何考えてんだ!」
蓮司の声が、遠くに聞こえる。
「霧」は——いや、氷室晴臣は——。
「思い出した」
静かな声だった。
「俺は——」
彼が、顔を上げた。
灰色の瞳が、私を捉える。
「俺は、君を探していた」
「——え?」
「一年前。コンクールの審査員として、君の絵を見た」
「コンクール……?」
心当たりがあった。
一年半ほど前、祖母の勧めで応募した小さなコンクール。結果は落選だったけれど、「印象的だった」という講評をもらったことを覚えている。
「君の絵を見た瞬間、確信したんだ」
晴臣は、私をまっすぐ見つめた。
「十五年前——俺が子供の頃、この湖畔で見た絵。家出して、泣いていた俺を、救ってくれた絵。あれを描いたのは、この人だと」
「十五年前……」
記憶を探る。十五年前、私は十歳だった。
確かに、この湖畔で絵を描いていた。祖母の家に遊びに来るたびに、ここで絵を描いていた。
「あの時、泣いている男の子がいたのを、覚えているか」
「——覚えて、ます」
微かに、記憶が蘇った。
桟橋の近くで、一人で泣いている男の子。
声をかけようとしたけれど、怖くて近づけなかった。だから、遠くから絵を描いていた。男の子と、湖と、霧の絵を。
「俺は、あの絵を見て救われた。泣くのをやめて、家に帰る勇気をもらった」
「そんな……大袈裟な……」
「大袈裟じゃない。事実だ」
晴臣の声は、揺るぎなかった。
「それから、俺は絵を好きになった。美術を学び、審査員を務めるまでになった。全ては、あの日の絵のおかげだ」
「——」
「だから、コンクールで君の絵を見た時、探そうと決めた。あの絵を描いた人を、見つけて、感謝を伝えたかった」
「でも、それで——」
「ああ。君を探している途中で、事故に遭った。記憶を失って、気がついたらこの湖畔にいた」
——全てが、繋がった。
彼が私の絵に反応した理由。彼のスケッチブックに私の絵と似た絵があった理由。
全ては、十五年前から始まっていた。
「おい、ちょっと待て」
蓮司が、割って入った。
「お前が氷室の御曹司なら——澪、お前、こいつとできてんのか?」
「違います。そんな——」
「できてんだろ。だから俺を振ったんだろ。御曹司に取り入りやがって、この——」
「黙れ」
晴臣の声が、鋭く響いた。
「彼女を侮辱するな」
「は? お前に関係ないだろ。こいつは俺の——」
「『元』婚約者、だろう」
晴臣が、一歩前に出た。
「彼女は、もうお前の婚約者じゃない。お前が捨てたんだ」
「……っ」
「幽霊以下、と言ったんだってな」
「それは——」
「彼女の絵を、くだらないと言ったんだってな」
「ただの趣味だろ、あんなもん——」
「彼女の絵は、俺の人生を変えた」
晴臣の声は、静かだった。けれど、その中に燃えるような感情があった。
「お前にはわからないだろう。彼女の絵がどれだけ美しいか。彼女がどれだけ優しい人か。お前は何も見ていなかった」
「——なんだよ、それ」
蓮司の顔が、醜く歪む。
「御曹司だからって偉そうに——」
「偉そうにしているのは、お前だ」
「——っ」
「彼女の価値がわからない人間に、彼女を語る資格はない」
晴臣は、蓮司を見下ろした。
「帰れ。もう二度と、彼女に近づくな」
「……覚えてろよ」
蓮司は、顔を真っ赤にして出て行った。
静寂が、戻ってきた。
「……大丈夫か」
「はい。でも、あなたこそ——」
晴臣は、まだ額を押さえていた。
「記憶が、戻ったんですか」
「ああ。全てではないが、大事なことは思い出した」
「大事なこと……」
「君を探していたこと。君の絵に救われたこと」
晴臣は、私を見た。
「——そして、君のそばにいたいと思っていること」
「え」
「記憶がなくても、そう思っていた。記憶が戻っても、変わらない」
——変わらない。
「俺は、君を——」
言いかけて、晴臣は首を振った。
「いや、今は言うべきじゃない。まだ、色々と——」
「……はい」
「でも、一つだけ言わせてくれ」
晴臣が、私の手を取った。
「君は、幽霊以下なんかじゃない。君は、俺の人生を変えた人だ」
涙が、溢れた。
何度目だろう。この人の前で泣くのは。
でも、今回の涙は——今までで一番、温かかった。
◇
晴臣の記憶が戻ってから、数日が経った。
彼は氷室家に連絡を取り、状況を説明していた。私は、彼が去ってしまうのではないかと不安だったけれど——。
「もう少しここにいる」
晴臣は、そう言った。
「いいんですか? 会社の人とか、家族とか——」
「大丈夫だ。母には話した。しばらく療養すると」
「療養……」
「嘘ではない。一年も記憶を失っていたんだ。すぐに日常に戻るのは難しい」
晴臣は、窓の外を見つめた。
「それに——君のそばにいたい」
「——」
「迷惑か」
「いいえ。全然」
即答していた。
嬉しくて、声が震えていたかもしれない。
「澪、見せたいものがある」
晴臣が、自分のスケッチブックを持ってきた。
彼が記憶を失っていた時から持っていた、あのスケッチブック。
「これ、全部見てくれるか」
「はい」
ページをめくる。
最初は、湖畔の風景。桟橋。霧。
私の絵と似た構図のものが、何枚も続く。
「これは……」
「君の絵を模写したものだ」
「模写……?」
「十五年前、俺が見た絵。あの絵が忘れられなくて、何度も何度も描いた。でも、どうしても再現できなくて」
晴臣は、少し照れくさそうに笑った。
「俺には、絵の才能がないんだ。だから、審査する側になった。才能のある人を、見つけて、世に送り出すために」
「——」
「コンクールで君の絵を見た時、やっと見つけたと思った。あの日の絵を描いた人を」
ページをめくり続ける。
途中から、構図が変わった。
湖畔の風景ではなく、人物が描かれている。
「……これ」
「君だ」
驚いて、顔を上げる。
「コンクールの応募作品に、写真が添付されていた。小さな写真だったけど、俺はそれを見て、君を描き始めた」
描かれた絵は、どれも稚拙だった。でも、その線の一本一本に、想いが込められているのがわかった。
「下手だろう」
「……下手です」
正直に言った。
「でも——」
「でも?」
「温かいです。この絵」
晴臣が、目を見開いた。
「上手い下手じゃなくて、想いが伝わる絵。そういうのが、一番大事だって——おばあちゃんが言ってました」
「……君の祖母は、正しい」
「あなたの絵は、私に届いてますよ。『見つけたい』って想いが」
涙が、滲んだ。
「ずっと、探してくれてたんですね」
「ああ」
「私なんか——何の価値もない私を」
「何の価値もない?」
晴臣の声が、厳しくなった。
「誰にそう言われた」
「……蓮司に。母に」
「彼らは、間違っている」
「でも——」
「君は、俺の人生を変えた。十歳の時の君が、十五年間、俺を導いてきた」
晴臣が、私の手を取った。
「君に価値がないなら、俺の人生に価値がないことになる」
「——」
「だから、二度とそんなことを言うな」
その言葉は、命令ではなかった。
懇願だった。
「……わかりました」
涙を拭って、頷く。
「もう、言いません」
「約束だ」
「約束します」
翌日。
晴臣が、一枚の絵を持ってきた。
額に入った、古い絵。
「これは——」
「俺が十五年前に見た絵だ」
「……え?」
「あの時、君が描いていた絵。君が立ち去った後、俺は桟橋の近くでこれを見つけた」
絵を見て、息を呑んだ。
十歳の私が描いた、湖畔の風景。
稚拙だけれど、必死に霧を描こうとした跡がある。
「……これ、私の絵」
「ああ。俺は、これを持ち帰った。十五年間、ずっと大切にしていた」
「——」
「君は覚えていないだろうが、この絵が俺を救った。泣くのをやめて、家に帰る勇気をくれた」
晴臣は、絵を私に差し出した。
「これは、君のものだ。返す」
「でも——」
「俺にはもう、必要ない」
「え?」
「だって、本人がそばにいるから」
晴臣が、微笑んだ。
穏やかで、温かい笑顔だった。
「君がいれば、絵は必要ない。——いや、違うな」
彼は、言い直した。
「君の新しい絵を、これからも見せてほしい」
「——はい」
絵を受け取る手が、震えていた。
十五年間。この絵は、この人のそばにいた。
私が忘れていた絵が、この人の人生を変えていた。
「おばあちゃん」
心の中で、呼びかける。
「私の絵、ちゃんと届いてたよ」
天国の祖母に、報告したかった。
『あなたの絵には、人の心を動かす力がある』
祖母の言葉は、本当だった。
十五年越しに、証明された。
◇
それから一週間後。
蓮司が、再び湖畔に現れた。
今度は、一人ではなかった。
「みおっち、久しぶり〜」
——美咲。
「なんで——」
「蓮司くんと一緒に来たの。みおっちに謝りたくて」
謝りたい?
美咲の顔を見る。いつものように甘えた笑顔を浮かべているけれど、目の下に隈がある。肌も荒れている。
蓮司を見る。スーツは皺だらけで、髪もボサボサだ。以前の「完璧な好青年」の面影がない。
「何があったんですか」
美咲ではなく、蓮司に聞いた。
「……氷室グループとの取引が、飛んだ」
「取引?」
「お前が匿ってた男——氷室晴臣。あいつの会社との取引を進めてたんだよ。でも、あいつが失踪してる間に、話が流れて——」
「私のせいじゃないでしょう」
「お前がこんなところで匿ってなければ、もっと早く見つかってたかもしれないだろ!」
「彼は記憶を失っていたんです。誰かに見つけられる状態じゃなかった」
「そんなの関係ない! お前のせいで——」
「俺のせいではないが」
声がした。
晴臣が、私の後ろに立っていた。
「……氷室……」
「取引を止めたのは、俺の意志だ」
「は?」
「失踪前に、お前の会社の調査を依頼していた。その結果を見て、取引は白紙にすると決めていた」
「……どういう——」
「知りたいか?」
晴臣の声は、冷たかった。
「不正な経理。パワハラの隠蔽。取引先への接待強要。——お前の会社は、腐っている」
「——っ」
蓮司の顔が、青ざめた。
「俺が失踪している間に、全ての調査が終わった。来週には、監査が入る」
「嘘だろ——」
「嘘ではない。お前の会社は、終わりだ」
蓮司が、がくりと膝をついた。
「待ってくれ——俺は——」
「お前に言うことはない」
晴臣は、蓮司を見下ろした。
「澪に土下座して、謝れ」
「——は?」
「お前が彼女にしたこと。『幽霊以下』と言ったこと。五年間、彼女の価値を認めなかったこと。——全てを謝れ」
「なんで俺が——」
「できないなら、帰れ」
晴臣の声は、有無を言わせなかった。
長い沈黙の後——。
「……すまなかった」
蓮司が、頭を下げた。
額が、地面につく。土下座だった。
「五年間、お前のことを——見下していた。すまなかった。頼む、氷室に——取引を——」
「——結局、それですか」
私は、冷静な声で言った。
「私に謝っているんじゃない。取引のために、頭を下げているだけでしょう」
「違う——」
「違わないです」
私は、蓮司を見下ろした。
「あなたは、五年間、私のことを見ていなかった。私の料理も、私の絵も、私の気持ちも。何も見ていなかった」
「澪——」
「でも、もういいです」
「え?」
「あなたに認められなくても、私の価値は変わらない」
言葉が、自然と出てきた。
「私の絵は、人の心を動かす力がある。おばあちゃんがそう言ってくれた。晴臣さんが、証明してくれた」
「——」
「あなたに否定されても、私は私です。私の価値は、私が決めます」
蓮司が、何か言おうとした。
でも、言葉が出なかったらしい。口をぱくぱくさせるだけで、何も言えなかった。
「帰ってください。もう二度と、私の前に現れないで」
「……っ」
蓮司は、よろめきながら立ち上がった。
「美咲、行くぞ」
「……え、ちょっと待って」
美咲が、蓮司を追いかけようとする。
「蓮司くん、私は? 私のことは——」
「うるさい。お前のせいで、こんなことになったんだ」
「え? 私のせい? みおっちから情報聞き出したのは、蓮司くんの指示でしょ——」
「お前が勝手にやったんだろ! 俺は知らない!」
「——っ」
美咲の顔が、凍りついた。
「嘘……蓮司くん、私を捨てるの?」
「最初からお前なんか——」
蓮司は言いかけて、止まった。
私と晴臣が見ていることに気づいたらしい。
「……とにかく、帰るぞ」
蓮司は、逃げるように去っていった。
残された美咲は、呆然と立ち尽くしていた。
「……みおっち」
「なんですか」
「私——私、謝らなきゃいけないことがあって——」
「いりません」
「え」
「あなたの謝罪は、いりません。蓮司と同じです。自分のために謝っているだけでしょう」
「違う——私、本当に——」
「美咲」
私は、かつての親友を見つめた。
「あなたが幸せそうで悔しい——本当は、そう思ってるんでしょう」
「——」
美咲の目が、一瞬揺れた。
そして——。
「……そうよ」
本性が、剥き出しになった。
「みおっちばっかり、いつもいつも。地味で目立たないくせに、なんで幸せになれるの? 御曹司に好かれて、絵を褒められて——悔しいに決まってるじゃない!」
「——」
「私の方が可愛いのに! 私の方が頑張ってるのに! なんでみおっちだけ——」
「美咲」
私は、静かに言った。
「あなたは、何も頑張っていなかった。人のものを奪っていただけ」
「——っ」
「私の情報を奪って、私の婚約者を奪って。自分で何かを作り出したことがないでしょう」
「そんなこと——」
「蓮司がいなくなったら、あなたには何も残らない。SNSの虚栄の生活も、維持できなくなる」
美咲の顔が、歪んだ。
「……覚えてなさいよ」
捨て台詞を残して、美咲も去っていった。
「——よく、言えたな」
晴臣の声がした。
「え?」
「立派だった」
「そうですか? もっと早く言うべきだったと思いますけど」
「いや。今のタイミングでよかった」
晴臣が、私の隣に立った。
「五年前の君なら、言えなかっただろう」
「……そうかもしれません」
「今の君は、自分の価値を知っている。だから、言えた」
——自分の価値。
五年間、否定され続けてきた。でも、この人が、私の価値を教えてくれた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
「いいえ。あなたのおかげです」
晴臣を見上げる。
「あなたが私の絵を『好きだ』と言ってくれたから、私は自分を取り戻せました」
「——」
「だから、ありがとうございます。晴臣さん」
晴臣は、少し照れくさそうに目を逸らした。
「……澪」
「はい」
「一つ、聞いてもいいか」
「なんですか」
「俺のこと、どう思っている」
——どう、思っている。
「……好き、です」
正直に、答えた。
「いつからか、わかりません。でも、気づいたら——あなたのことを、好きになっていました」
「——」
「迷惑ですか?」
「迷惑じゃない」
晴臣が、私を抱きしめた。
「俺も、君が好きだ」
耳元で、囁かれた。
「記憶を失っていた時から、ずっと。君のそばにいたいと思っていた」
「——」
「これからも、そばにいてくれるか」
「はい」
涙が、溢れた。
でも、悲しい涙じゃない。
嬉しくて、嬉しくて、止まらない涙だった。
◇
——一年後。
「みーちゃん、準備できた?」
花音さんの声がする。
「はい、もう少しで」
鏡の前で、最後の身だしなみを整える。
今日は、私の個展の初日だ。
会場は——祖母の古民家。
晴臣と花音さんが協力して、古民家をギャラリーに改装してくれた。壁には、私がこの一年で描いた絵が並んでいる。
タイトルは、「霧の中で見つけた光」。
「澪」
声がして、振り返る。
晴臣が、ドアの前に立っていた。
「準備はいいか」
「はい」
「緊張しているか」
「……少しだけ」
晴臣が、私の手を取った。
「大丈夫だ。君の絵は、必ず人の心を動かす」
「……ありがとうございます」
「俺が保証する。——最初のファンとして」
晴臣は、微笑んだ。
一年前とは違う笑顔だ。穏やかで、温かくて、愛情に満ちた笑顔。
「行こう」
「はい」
個展は、大成功だった。
花音さんのカフェの常連客、近所の人たち、晴臣の関係者——たくさんの人が来てくれた。
「素敵な絵ですね」
「霧の描き方が独特で、見入ってしまいました」
「この絵を見ていると、不思議と落ち着きます」
一人一人の言葉が、胸に沁みた。
——私の絵を、見てくれる人がいる。
——私の絵で、心が動く人がいる。
「おばあちゃん」
心の中で、呼びかける。
「私、やっと——」
「澪」
晴臣の声がした。
「母が来た」
振り返ると、凛とした女性が立っていた。
銀髪のショートヘアに、鋭い眼光。隙のないスーツ姿。
——氷室冴子。晴臣の母だ。
「初めまして。水無瀬澪です」
頭を下げる。
「顔を上げなさい」
冴子さんの声は、鋭かった。
「あなたが、息子の人生を変えた人ね」
「……いいえ。私は——」
「謙遜しなくていいわ」
冴子さんが、壁にかかった絵を見つめた。
「私も昔、画家を志したことがあるの。才能がないと悟って、諦めたけれど」
「——」
「あなたの絵を見れば、わかるわ。私にはなかったものが、ある」
冴子さんが、振り返った。
「息子が選んだ人なら、私が口を出すことではないわね」
「あの——」
「ただし」
冴子さんの目が、厳しくなった。
「絵は続けなさい。逃げたら許さないわよ」
「……はい」
「よろしい」
冴子さんは、満足げに頷いた。
「晴臣、いい人を見つけたわね」
「ああ」
「大切にしなさい」
「言われなくても」
冴子さんが去った後、晴臣が苦笑した。
「母は、ああいう人だ。気にしないでくれ」
「いいえ。嬉しかったです」
「嬉しい?」
「認めてもらえた気がして」
——認めてもらえた。
母にも、蓮司にも、認めてもらえなかったことが——ここでは、認めてもらえる。
「澪」
「はい」
「今日、伝えたいことがある」
晴臣が、私の手を取った。
「みんなの前では言えないから、後で——」
「……なんですか?」
「後で」
晴臣は、微笑んだだけだった。
◇
個展が終わった後、私たちは湖畔のベンチに座っていた。
霧が、湖を包んでいる。一年前と同じ景色。
でも、隣にいる人が違う。心の在り方が違う。
「澪」
「はい」
「一年前、俺はここで目を覚ました」
「はい」
「記憶を失って、何もわからなくて。でも、一つだけ確かなことがあった」
「——なんですか?」
「君を探していた、ということ」
晴臣が、私を見つめた。
「記憶がなくても、体が覚えていた。君を見つけなければいけないと」
「——」
「そして、見つけた。君のおかげで」
「私は、何も——」
「君が俺を助けてくれた。コーヒーを淹れてくれた。絵を見せてくれた。全部、君がしてくれたことだ」
晴臣が、私の手を握った。
「澪、俺と——」
「——」
「結婚してくれないか」
心臓が、跳ねた。
「……え」
「急すぎるか?」
「いえ、でも——」
「嫌か?」
「嫌じゃないです」
「じゃあ——」
「——はい」
声が、震えた。
「はい、喜んで」
晴臣が、私を抱きしめた。
霧の中で、二人きり。
一年前と同じ場所で、全く違う気持ちで。
「……晴臣さん」
「なんだ」
「霧が、綺麗ですね」
「ああ」
「おばあちゃんが言ってたんです。霧は、大切なものを隠してくれるって」
「——」
「でも、私は思うんです」
晴臣を見上げる。
「霧は、隠すんじゃない。本物だけを、そっと包み込んで守るんです」
晴臣が、微笑んだ。
「君の絵と、同じだな」
「え?」
「君の絵も、見えないものを見せてくれる。大切なものを、守ってくれる」
「——」
「俺は、君の絵に救われた。君に救われた」
「私も」
涙が、溢れた。
「私も、あなたに救われました」
霧の中で、二人で泣いた。
嬉しくて、幸せで、止まらない涙だった。
◇
——霧は関係を隠さない。本物だけを、そっと包み込んで守るのだ。
この湖畔で、私は出会った。
記憶を失った青年と。自分の価値を見失った自分と。
そして、見つけた。
本当の自分を。本当の愛を。
霧よ、この恋を包んでくれてありがとう。
これからも、ずっと——。
【完】




