第5章 医師の物語 [医療提供記録] 当該期間において、特筆すべき問題は確認されていない。
診察室は、いつも静かだった。
白い壁、一定の照度、雑音のない空間。
患者が座る椅子の位置まで、最適化されている。
医師の名前は、特に重要ではない。
彼自身も、そう思っていた。
「体調はいかがですか」
問いかけは形式的なものだ。
返答が来る前に、端末にはすでに解析結果が表示されている。
「本日の健康状態は良好です」
患者は頷く。
痛みはない。不安もない。
治療は、常に適切なタイミングで行われる。
医師の役割は、確認と承認だ。
かつては、診断と判断が仕事だったらしい。
午前中の診察を終えるころ、
一人の患者が、少しだけ言葉を探すような間を置いた。
「先生……治った、ということでいいんですよね」
医師は、画面を見た。
数値はすべて正常範囲内。
治療履歴も問題ない。
「はい。完治と判定されています」
患者は、安心したように頷いた。
だが、どこか納得しきれていない表情だった。
その表情に、医師は一瞬だけ、既視感を覚えた。
だが、その感覚はすぐに消えた。
午後、医師は端末に問いかける。
「最近、患者から同じような質問が増えている気がします」
返答は即座に届いた。
「治療過程が自動化された結果、
“治った実感”という主観的指標が希薄化しています。
問題はありません」
問題は、ない。
医師はその言葉を、そのまま受け取った。
確かに、再発率は低く、満足度も高い。
誰も苦しんでいない。
診察の合間、医師はふと、古い医学書を思い出した。
人の体に触れ、顔色を見て、声の震えから病を察する――
そんな記述があった気がする。
今では、触れる必要はない。
察する必要もない。
すべては、先に分かっている。
最後の患者を見送り、医師は診察室を閉めた。
端末が、今日の評価を表示する。
「本日の診療成功率:百パーセント
患者満足度:九十七パーセント」
医師は、それを見て頷いた。
良い一日だった。
何も問題は起きなかった。
診察室の照明が落ちる。
廊下は静かで、清潔で、完璧だった。
医師はふと、
「自分は、今日、誰かを治したのだろうか」
という考えが浮かんだ。
だが、その問いは、
問いかける前に消えた。
必要のない疑問だったからだ。
医師は、帰路についた。
街は今日も、正しく、何事もなく機能している。




