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落とし物のマトリックス

女子トイレの個室。蝶番が外れ、歪んだドアの隙間から男の「目」が覗いた時、私は自分の死を確信した。

 医学部の解剖実習で見た、ホルマリン漬けの臓器が脳裏をよぎる。次は私の番か。

 だが、男はそれ以上ドアを壊そうとはせず、隙間から細い指を滑り込ませて、ひらひらと何かを振ってみせた。

「……え?」

 それは、見覚えのあるタグだった。

 『SOBoL』――。

 ロシア産セーブル(黒貂)の中でも最高級とされるブランド。実家がまだ栄えていた頃、二十歳の誕生日に父が贈ってくれたSOBoLのマフラーのタグ。

 必死に探したが、見つからなかった。私の数少ない、 今では音信不通にしている父との唯一の接点。

「君さ、これをカフェのトイレに置いたままにしたよね」

 男の声は、驚くほど軽やかで、理知的だった。

「僕、見てたんだ。」

 私はドアの裏側で息を呑む。

「……あんた、ずっと私を?」

「ストーカーなんて下品な言葉は使わないでほしいな。僕はただの『観察者』だ。マフラーを拾って、君を追いかけたら、君は僕の代わりに別の落とし物を鮮やかに回収していた。その時、僕は確信したんだ。君は僕と同じ、この街の『バグ』を見つけて生きている同類だって」

 男は「開けてよ」と、今度は優しくドアを叩いた。

 私は逃げ場がないことを悟り、震える手でロックを外した。

 そこに立っていたのは、30代前半くらいの、どこにでもいる「清潔感のあるサラリーマン」だった。少し高価そうなスーツを着ているが、オーラは消している。

 だが、彼の首元には、私が失くしたはずのあのSOBoLのマフラーが、不釣り合いなほど無造作に巻き付けられていた。

「相沢ミナミくん。信洲大学医学部。カリメルで落とし物を捌いて月40万……いや、最近は50万かな。悪くないけど、リスクに対してリターンが少なすぎる。君のその『解剖学的視点』があれば、もっと稼げる。」

「……何が目的? カメラに私のデータが入ってたのも、あんたの仕業?」

「あれはただの挨拶代わり。君の『拾得スキル』と『医学的素養』をテストしたんだ。あのカメラの底面の刻印……君の実家の工場のものだろ? 君が探している答え、僕が持っているかもしれない」

 男は自らを「秋山あきやま」と名乗った。

 彼は私をトイレから連れ出し、歌舞伎町の喧騒を縫うように歩き始めた。

 私は抵抗できなかった。実家の工場、ロット番号、失くしたマフラー……彼が私の人生の「落とし物」をすべて握っている。

「いいかい、ミナミくん。落とし物が増えているのは、みんなが『自分の中の世界』に引きこもっているからだ。ノイズキャンセリング、スマホ、SNS。彼らは外側の現実に注意を払わない。でも、それは裏を返せば、物理的なセキュリティがガバガバってことだ」

 秋山は、広場の中心で立ち止まり、周囲を見渡した。

「君が今やっているのは、ただの『偶然』を拾うゴミ拾いだ。でも、僕と組めば、それは『必然』を回収するもっと大きなビジネスになる。僕がデータを解析して、ターゲットが『何を、いつ、どこで落とすか』を予測する。君はそれを回収するだけ。所有権が消滅する瞬間にね」

「……犯罪じゃない」

「遺失物横領。でも、誰も訴えない。だって、落としたことにさえ気づいていないんだから」

 秋山は、スマホの画面を見せてきた。そこには、複雑なチャートと、歌舞伎町周辺の人間流動解析データが表示されていた。

「流れを読んで、一番価値が動く瞬間にエントリーする。僕の下で働け。そうすれば、君が失った学費なんて端金、一括で払えるようにしてやる」

 拒否権はなかった。

 彼の言葉には、圧倒的な「持てる者の余裕」があった。

 そして何より、私の首を絞めるように巻き付けられたSOBoLのマフラーが、私の過去を人質に取っているように見えた。

「……わかった。何をすればいいの」

「いい返事だ。じゃあ、まずは『在庫』の整理をしようか。僕の仕事場へ行こう」

 秋山がタクシーを止める。

 行き先を告げる声を聞いて、私は耳を疑った。

 新宿からほど近い、都内屈指の高級タワーマンションが立ち並ぶエリア。

 

 タクシーがそのエントランスに滑り込んだ時、私は違和感を抱いた。

 秋山の格好は、どこからどう見ても年収600万程度の平凡な社員だ。

 だが、彼がポケットから取り出したカードキーは、そのマンションの最上階――「億」を優に超えるプレミアムフロアの住人だけが持つことを許される、特別なものだった。

「……秋山さん、あなた本当は何者?」

 エレベーターの鏡の中で、私と、私のマフラーを巻いた男の視線がぶつかる。

 彼は不敵に笑った。

「ただの『暇人』だよ。世界が退屈に見えてしまった、ただのね」

 チーン、という電子音と共に、45階の扉が開く。

 そこには、19歳の私が想像もしたことがない、静寂と贅沢に満ちた光景が広がっていた。

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