解剖学とノイズキャンセリング
「誤解しないでほしいんだけど、私は泥棒じゃないの。強いて言うなら、都市の清掃員。あるいは、血管外科医みたいなものかな」
歌舞伎町の路地裏、室外機の生温かい風に吹かれながら、私は今日初めて会った数歳年下にみえるが年齢はわからない子に言う。
目の前のガードレールに腰掛けた少女――トー横で有名らしい地雷系メイクの子が、あからさまに「こいつヤバい」という顔で私を見た。
無理もない。私は今、彼女たちが捨てたストロングゼロの空き缶の山を足場にしながら、ディオールのバッグを抱えているのだから。
「血栓って知ってる? 血管に詰まるゴミよ。あれを取り除かないと人間は死ぬでしょ。東京も同じ。誰かの落とし物が路上に溢れたら、都市の血流が止まっちゃう。だから私が回収して、カリメルというマーケットに還流させてるの。感謝されてもいいくらいだと思わない?」
彼女は何も言わずに去っていった。
私は肩をすくめ、スマホを取り出す。
時刻は20時。狩りの時間だ。
私の名前は、相沢ミナミ。19歳。
半年前までは、信洲大学医学科の2年生だった。
実家は長野県で代々続く精密部品の工場だ。それなりの裕福さはあったと思う。
私は将来、地域医療に貢献するつもりだったし、両親もそれを疑わず現役で医学科に進学した私を誇らしく扱ってくれた。
すべてが崩れたのは、原油高と円安のダブルパンチ、そしてメインバンクの貸し剥がしがあっけなく決まった去年の冬だ。
父が首を吊らなかっただけマシだったが、私の学費と生活費は消滅した。
奨学金? そんな悠長な手続きが間に合うスピード感じゃなかった。実家は差し押さえられ、学費が払えなくなり退学し、私は東京へ逃げてきた。
医学を諦めたくなかった。
でも、生きるには金がかかる。
歌舞伎町には、私と同じくらいの年齢の女の子が溢れている。彼女たちは安易に体を売る。パパ活、立ちんぼ、裏オプ。
ふざけるな、と思った。
私は偏差値70を超えていた人間だ。解剖学の単位だって成績は7番だった。
自分の肉体を、知性の欠片もない男たちに切り売りして消費されるなんて、プライドが許さない。
私は頭を使って稼ぐ。
この腐った東京で、最も効率よく、最もリスクが低く、そして元手がかからないビジネスで。
私は新宿駅東口の雑踏に紛れ込んだ。
今日のターゲットは明確だ。
金曜の夜、アルコールが入って注意力が散漫になっているサラリーマン。それも、ただのサラリーマンではない。
前方5メートル。ターゲット補足。
30代後半、細身のスーツ。手首にはppleA atchW Ultra。そして耳には、先月発売されたばかりのコニーの最高級ワイヤレスイヤホン。市場価格4万円オーバー。
彼は完全に「遮断」されている。
歩きスマホでLINEの返信に夢中だ。
彼が着ているジャケットのポケットは浅い。そして、今まさに、ハンカチを取り出した拍子に、黒い塊がポケットの縁に引っかかった。
落ちる。
私は歩速を早める。彼の真後ろではなく、斜め後方の死角へ。
物理法則に従い、黒い塊はアスファルトへと落下した。
ガツッ。
結構な音がした。
だが、彼は止まらない。ノイズキャンセリングの逆位相の波形が、その衝突音を見事に消し去ったのだ。
周囲の人間も無関心だ。誰も彼に「落ちましたよ」とは声をかけない。それが東京の不文律。
私は自然な動作でしゃがみ込む。
「あ、靴紐ほどけちゃった」
誰も聞いていない言い訳を口の中で呟き、その黒い塊を掌に収める。
指先に伝わる、ひんやりとした金属の質感。重厚感。
――ビンゴ。
それはただの財布やスマホではなかった。
『Leica SOFORT 2』。
ライカのインスタントカメラだ。
定価でも6万円近くするが、今は品薄でプレミアがついている。中古市場でも定価以上で取引される、今一番ホットなガジェット。
しかも限定色のレッド。
カリメルに流せば、即決で8万はいける。
心拍数が上がる。
8万あれば、ネカフェ難民を卒業して、シェアハウスの初期費用が払えるかもしれない。
私はカメラをパーカーのポケットに滑り込ませ、何食わぬ顔で駅のトイレへと向かった。
これが私の「手術」だ。迅速かつ、痕跡を残さない。
個室に入り、鍵をかける。
震える手でカメラを取り出す。
傷はない。電源を入れると、液晶モニターが点灯した。
SDカードが入っているか確認し、それを抜いて初期化して売るのが定石だ。
私はメニュー画面を開こうと、背面のボタンを操作した。
その時だった。
液晶画面に、奇妙な画像が表示された。
『 視神経乳頭の鬱血を確認 』
「は?」
思わず声が出た。
視神経乳頭の鬱血? 脳圧亢進の所見? なんでカメラに眼底検査の用語が?
次の画面に切り替える。
そこに映っていたのは、数日前の私が無くしたと思っていたマフラーが写っていた。
背筋が凍りつく。
画像の下に、テキストが流れる。
『 推定:相沢ミナミ(19)。信州大学医学部中退。現在、住所不定。カリメルID:Drs_M。 』
ガタン!
トイレのドアが激しく叩かれた。
ノックではない。蹴破るような暴力的な音。
「おい、いるんだろ? ネズミちゃん」
低い男の声。
足音が複数。一人じゃない。
今の今まで、誰もいなかったはずの女子トイレが、急に静まり返っている。
どうして?
あの男は、落としたんじゃないの?
警察のおとり捜査?
違う。警察なら意味不明なメッセージは出さない。
「開けろよ。せっかく医学部にいたんだ、話が早いだろ? 高く買ってやるよ、お前そのものを。その綺麗な腎臓と――」
ドアノブがガチャガチャと回される。
鍵が壊れるのは時間の問題だ。
私はカメラを握りしめた。手のひらに脂汗が滲む。
医学知識があるからこそ、分かることがある。
彼らが本当に臓器狙いなら、ここで騒ぎを起こして私を傷つけるのはリスクが高いはずだ。商品に傷がつく。
つまり、まだ交渉の余地はあるか、あるいは――逃げ道があるか。
私は個室の壁を見上げた。
天井付近に、換気用の小さな窓。
あそこなら、小柄な私なら抜けられるかもしれない。
だが、その時、私は握りしめたカメラの底面に、小さな刻印があることに気づいた。
父の工場で作っていた部品に刻まれていたものと同じ、特殊なロット番号。
『 NAGANO PRECISION - EXP.Model 』
父さんの工場のロゴ?
倒産したはずの、実家の工場の名前が、なぜドイツ製カメラの底面に?
ドアの蝶番が悲鳴を上げ、外れかけた。
隙間から、男の爬虫類のような目が覗く。
「見つけたぞ、ミナミちゃん」
私は唇を噛んだ。
ただの小銭稼ぎのつもりだった。
現代社会の隙間で、賢く生きているつもりだった。




