第5話 堕ちた花と、ふたりの密約
冥界の夜は、ますます深くなっていた。
魂花の光が、風に流されるように揺れている。
その中に、ひときわ黒く染まった一輪があった。
それが何を意味するか、まだ誰も知らなかった。
***
「――聖教会の使者が来た。」
報告を受けた瞬間、玉座の間の空気が張り詰めた。
ルシフェルは立ち上がり、紅の瞳で私を見た。
「彼らは“対話”を求めている。だが実際は、冥界の門を封じるための“査問”だ」
「……つまり、外交という名の戦争、ですね」
「そうだ。お前を同行させることに、反対の声は多い。だが、我は譲らぬ」
私の胸が熱くなった。
あの冷たい王が、迷いなくそう言ってくれることが、ただ嬉しかった。
「では、準備を整えましょう。――陛下。聖教会の者たちは、“清らか”という言葉を武器にします。
その信仰に“理”を与えてやれば、心は揺らぎます」
「“理”で信仰を壊すか。皮肉なものだな」
「ええ。私はもう、人間を信じない。けれど、彼らの理屈は知っています。だから利用できる」
ルシフェルの目が、わずかに揺れた。
その光は、哀しみと誇りが混ざり合った色をしていた。
「……お前の覚悟、確かに見た。」
***
会談は、冥王城の外縁――“無明の庭”で行われた。
黒い霧が渦巻き、空気そのものが重い。
だが、その中央に立つ聖教会の使者たちは、白銀の鎧をまとい、まるで光の像のようだった。
「我ら聖教の使徒は、“神の名”のもとに、冥界の魂の流れを正すために来た」
「神の名のもとに、か」
ルシフェルの声は低く、雷のように響いた。
私が一歩前に出る。
背筋を伸ばし、微笑む。
「聖教会の皆さま。私は元・王国侯爵家の令嬢、エリス=フォルティア。
そして今は、冥王陛下の外交顧問として、貴方たちを歓迎いたします」
「……処刑された女が、まだ口を利くか」
使者のひとりが、あざ笑うように言った。
私は静かにその目を見る。
「そうですね。けれど、私の死を命じたのは“神”ではなく、“人”です。
貴方たちもまた、神の名を語りながら、“人の罪”を隠しているだけでは?」
「なっ……!」
使者たちの顔が一斉に紅潮した。
その中で、ルシフェルがゆるやかに笑う。
「エリス。やはりお前は戦の才がある」
「外交とは言葉の剣術ですもの。切れ味は、少し鋭い方がよろしいかと」
「ふ……気に入った」
ルシフェルが一歩前へ出る。
紅の瞳が、光の鎧を映した。
「聖教の者よ。我は冥界を侵すつもりはない。だが、これ以上魂を奪うならば――貴様らを“地上から消す”」
「陛下……!」
思わず声が漏れる。
彼の魔力が空気を震わせ、光の者たちが怯んだ。
その瞬間、使者のひとりが剣を抜いた。
「異端を赦すな! 神の御名の下に、冥王を――」
叫びは最後まで続かなかった。
黒い風が走り、彼の剣を飲み込む。
風がやみ、残ったのは――光が消えた刃だけ。
「これが冥界の“呼吸”だ。次は命を奪うぞ」
ルシフェルの声に、誰も動けなかった。
「退け。今は帰るがいい。――次に門を越えれば、光の神とて我を止められぬ」
使者たちは震えながら後退した。
白の列が闇に溶けていく。
***
会談が終わったあと。
私は、城の塔で風にあたっていた。
背後から、静かな足音。
「よくやったな、エリス」
「ありがとうございます。……でも、陛下。
あの言葉、“神とて止められぬ”――あれは、少し危うすぎます」
「危うさは、恐怖の形でもある。だが、我は恐れられてきた王。
恐怖で保つ均衡もある」
「ええ。けれど、恐怖は一度でも崩れたら、もう戻りません。
“信頼”は、恐怖よりも強い武器です」
ルシフェルが、驚いたように目を細めた。
そして、わずかに笑う。
「……お前は、我に“人間の心”を教えるつもりか?」
「はい。陛下が私に“冥界の生き方”を教えてくださったように」
「ふ。大胆な女だ」
風が吹く。
黒い外套が彼の肩で揺れ、月光の代わりに魂花の光が二人を照らした。
「陛下。私たちの契約は、運命ではなく選択です。
選んだのは、“共に生きる”という未来。――どうか、戦でその未来を壊さないで」
「……分かった。約束しよう、エリス」
その言葉に、胸が満たされる。
ルシフェルの手が、私の頬を包み――その額に唇が触れた。
「この誓いが破られぬよう、我が力で護る」
心臓が跳ねた。
それは恋という名の鼓動だった。
だが、同時に、冥界全土に響く“異変”の鼓動でもあった。
***
「……やはり、彼女は陛下を変えてしまうのね」
遠くの塔からその光景を見下ろす影がひとつ。
セレーネは細い指で黒い花弁を撫でた。
「だが、王は“愛”で滅ぶ。
私がその証明をしてあげるわ」
指先から闇が滴り落ちる。
その闇は地面に落ち、音もなく花の根を黒く染めた。
「――この冥界の花が、すべて黒く染まるころ。
愛も信頼も、等しく消えるのよ」
その声は風に溶け、どこまでも静かに広がっていった。
***
その夜。
ルシフェルの寝所にて、私は再び呼ばれた。
窓の外の魂花が、ひときわ鮮やかに揺れている。
「エリス」
「はい、陛下」
「これから戦が始まる。……だが、お前を前線には出さぬ」
「それでは意味がありませんわ。私は――」
「違う。お前には別の役目がある」
ルシフェルが指を鳴らすと、床の魔法陣が淡く光った。
そこには、冥界と人間界を結ぶ“門”の地図が浮かび上がる。
「この“聖断の門”を守れ。お前の知恵があれば、彼らの罠を解ける」
「……わかりました」
「そしてもうひとつ――」
ルシフェルは私の手を取り、ゆっくりと唇を重ねた。
紅い瞳が、すぐ近くで揺れる。
「これが、我らの“密約”だ。どんな裏切りがあろうと、必ずお前を信じる」
「陛下……」
「我らの契約は、血ではなく信頼だ。――それだけは、忘れるな」
その言葉を胸に刻みながら、私は静かに頷いた。
(この夜が、永遠に続けばいい――)
そう思った瞬間。
窓の外で、黒い花弁が一枚、音もなく散った。
それが“裏切り”の始まりだった。
次回予告(第6話)
「聖断の門と、最初の裏切り」
人間界との門が開かれ、戦火が冥界に及ぶ。
――そして、エリスのすぐ傍に潜んでいた“裏切り者”の刃が、静かに動き出す。




