第4話 黒き予言と、裏切りの香り
――血の契約を交わしてから、三日。
冥界の空は相変わらず夜のままだったが、城の空気はわずかにざわついていた。
「……陛下が、力を削がれた?」
リリアの言葉に、私は思わず振り返った。
「契約の影響でしょうか?」
「はい。冥界の均衡は陛下の魔力により保たれております。血を分け与えた今、その一部が貴女様に流れているのです」
「つまり、私が陛下の力を奪っている……?」
「正確には“分かち合っている”のです。けれど、魔族の中にはそれを“呪い”と見る者も少なくありません」
リリアの声は慎重だった。
だが、廊下を吹き抜ける風の冷たさが、予感を告げていた。
(契約――それは絆と同時に、弱点でもある)
私は唇を噛み、胸の奥に灯る小さな不安を押し込めた。
***
その夜。
玉座の間には、数名の側近が集まっていた。
黒鎧の将軍アルバ、知略に長けた魔導卿ヴァーミル。
そして、琥珀の瞳を持つ女魔族、セレーネ。
彼女だけが、私に視線を向けようとしなかった。
「陛下。人間との契約など前代未聞。冥界の秩序に亀裂が入る恐れがあります」
「ヴァーミル。秩序とは変わるためにある。変化を拒むことこそ腐敗だ」
「……しかし、すでに西方の領では魂流が乱れ始めております」
魂流――冥界の“生命の川”。
その流れが乱れるということは、死者の魂が迷い始めた証だ。
ルシフェルはゆるやかに玉座の肘掛けを指で叩いた。
「我の力が一時的に弱まっているのは確かだ。だが、いずれ戻る」
「……戻らなかったら?」
ヴァーミルの声が冷たく響く。
空気が張りつめた。
私が息を呑んだ瞬間、ルシフェルが立ち上がる。
「そのときは――我を殺せ。冥界を守るためにな」
その静かな宣言に、誰も言葉を失った。
私は拳を握りしめる。
(そんな……。陛下が……)
だが、その沈黙の中で、ひとりだけ口角を上げた者がいた。
セレーネ――冥界の外交顧問であり、かつて魔王の“側近以上の関係”と噂された女。
「陛下は本当にお優しい。……ですが、それゆえに利用されるのですわ」
彼女の声は甘く、毒を含んでいた。
「“人間の娘”を守るために、冥界を危うくするおつもりですか?」
視線が私に突き刺さる。
その一瞥で、背筋が凍った。
「……エリス様。契約とは、冥王陛下の魂を縛る鎖。もし本当に陛下を想うのなら――その血を返上なさってはいかが?」
周囲の空気がざわめいた。
まるで“毒”が滴り落ちるような提案。
だが、私は静かに笑った。
「まあ。……お優しい忠告をありがとうございます、セレーネ様」
「……何ですって?」
「でも、それは“あなたが陛下を心配している”のではなく、“陛下が誰を見ているかが気に入らない”からでしょう?」
沈黙。
セレーネの瞳が、凍る。
ルシフェルの唇がわずかに動いたが、何も言わなかった。
「私が陛下に選ばれた理由は、血ではなく意志です。
――陛下が冥界を変えようとされるその覚悟に、共鳴しただけです」
「共鳴……? 笑わせますわ。人間の感情が、千年の冥界を揺るがせるとでも?」
「ええ、揺るがせます。だって、私が今、こうしてここにいることがその証拠ですもの」
場の空気が一瞬にして変わる。
ヴァーミルが眉をひそめ、アルバが笑いをこらえるように咳払いした。
「……なるほど、口では誰にも負けんようだな」
「それしか取り柄がありませんから」
冗談めかして言うと、ルシフェルの唇がかすかに動いた。
――それは、わずかな笑みだった。
「……退室せよ。全員だ」
低く響く声に、誰も逆らえなかった。
側近たちは一斉に跪き、静かに去っていく。
最後に残ったのは、ルシフェルと私だけ。
***
「……すまぬ、エリス。お前を危険な場に晒した」
「お気になさらないでください。
むしろ、彼らの反応を見て“冥界の構造”が少し分かりましたわ」
「構造、だと?」
「ええ。陛下が王として立つ以上、周囲は“恐怖”で支配されている。
けれど、その恐怖の裏で皆が求めているのは、“理解されること”なんです」
「……理解、か」
「はい。だから、恐怖を少しずつ“信頼”に変えられれば、冥界は戦わずして強くなるはずです」
言葉を重ねると、ルシフェルは沈黙したまま私を見つめた。
その瞳は、かすかに揺れている。
「……まるで、セリアのようだ」
小さく漏れたその名に、胸が痛んだ。
けれど、私は微笑んで答える。
「なら、私が“彼女の続きを生きる者”になりましょう」
「お前は……怖くはないのか?」
「怖いですよ。冥界も、陛下も、自分の運命も。
でも――“怖い”という感情があるうちは、まだ生きている証拠です」
その瞬間、ルシフェルの表情がわずかに緩んだ。
そして、指先が私の頬をなぞる。
「……お前の言葉は、不思議と心をほどく」
「そう言ってもらえるなら、外交官冥利に尽きますわ」
冗談めかして言ったそのとき――。
城の外で、鐘の音が鳴り響いた。
だが、それは“報せ”ではなく、“警鐘”の音だった。
「……陛下! 南方の魂流が、完全に断たれました!」
駆け込んできた魔族の報告に、ルシフェルが眉をひそめる。
「……断たれた? まさか、魂狩りの徒どもか……!」
ヴァーミルが追うように入ってくる。
「確認されました。人間界の“聖教会”が、冥界の門を破った形跡が――」
「聖教会……!」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
あの、私を断罪した宗派。
私を“悪女”と呼び、処刑した連中だ。
「……冥界への侵攻、ですのね」
「おそらく。“神の浄化”を名目にしてな」
ルシフェルの声が低くなる。
その瞳が紅く輝き、空気が震える。
――しかし、同時にその光は、わずかに揺らいでいた。
(やはり、契約の影響……)
私は息を呑み、彼の隣に歩み寄った。
「陛下。今こそ、“言葉の力”をお使いください」
「言葉の……力?」
「冥界と人間界を繋ぐ“通訳”として、私をお使いください。
私なら、聖教会の考え方を知っています。彼らの思考も、恐怖も、利用できる」
「だが危険すぎる。お前を再び人間の前に立たせるなど――」
「私が望んでいます。
――もう一度、あの世界に立ち向かうために」
ルシフェルは目を閉じた。
そして、ゆっくりと頷く。
「……分かった。ただし、我の許しなく一歩でも離れるな。
お前の命は、我の半身なのだから」
その言葉に、微笑が零れる。
彼の瞳の奥に、迷いと誇り、そして何より“信頼”が宿っていた。
***
だがその夜。
暗闇の中で、セレーネは別の誰かと密会していた。
「……聖教会は動いた。あとは“人間の女”を餌にすればいい」
「陛下を堕とすのは、愛ではなく――裏切りだ」
彼女の唇が、闇の中で妖しく笑った。
香のような甘い匂いが漂い、空気を濁らせる。
「――冥界の夜に、裏切りの花を咲かせましょう」
その声が、静かに消えた瞬間、
魂花の一輪が音もなく――黒く染まった。
次回予告(第5話)
「堕ちた花と、ふたりの密約」
聖教会との“外交戦”が始まる。
魔王と令嬢、そして裏切り者。
――三つの誓いが、運命を裂く。




