【4】
斜め後ろから絵を覗き込んできた春斗くんが『ホントにルイの作品かなぁ』と呟いた。
確かに、私が見たどの絵とも印象が異なる。癒しを与えるような煌めきは感じられず、《悪夢の夜》というタイトル、山火事というワードも天海ルイのイメージにそぐわない。そもそも何故、吉野さんが天海ルイの練習作品を所持しているのだろう。
言葉に困り沈黙してしまったためか、吉野さんは苦笑した。
「本当にルイの絵なのか、とでも言いたい顔だな」
「いえ……。天海ルイはファンタジーテイストな風景画のイメージだったので、ちょっと意外で」
「そりゃ誤解だな。あいつは〝風景画ばかり描いていた〟わけじゃなく〝風景画しか描けない〟奴だったのさ」
それはまるで、天海ルイをよく知っているかのような物言いだった。
「もしかして、天海ルイのお友達なんですか?」
「芸術の世界にはいろんな繋がりがあるんだよ」
後方から『すごーい』と呑気そうな声が聞こえた。つい反応してしまいそうになるのを堪え、受け取った習作に視線を集中させる。
『この人、ルイの知り合いなんだ。世間って案外狭いですねー』
お願いだから喋らないで――と春斗くんに注意することはできないが、このまま黙っていたら不自然だ。実際、吉野さんは怪訝そうな面持ちで私を見ている。何か言葉を繋がなければ。
「あ、でも……こんな貴重な絵をいただいていいんですか?」
「ちょっとした落書きみたいなモンだ。大した価値はねーよ」
「そうじゃなくて。天海ルイは亡くなってるので……」
「だからこそ、お前みたいな奴が持ってた方がいいだろ。死してなお自分の作品が必要とされ、語り継がれる――芸術家にとって幸せなことさ。と言っても、その習作はあいつにとってゴミみたいなモンだった」
「失敗作ってことですか?」
「あぁ。ゴミは他にもたくさんあったが、捨てるくらいならとオレが受け継いでやった。いずれもっと良い形で表現してやるってな」
「……そうですか。芸術家として、天海ルイと深い繋がりがあったんですね」
「言っとくが、あいつよりオレの方が優れたアーティストだぜ? 今はただ、世界がオレの才能に気付いてねーだけさ」
歪んだ笑みを浮かべた吉野さんは、スポーツバッグの肩紐の位置を整え直し、ひらりと右手を挙げた。
「じゃあな。オレが有名になったら『吉野と喋ったことがある』って自慢してくれていいぜ」
「そうさせてもらいます。また機会があれば展示を見に行きますね」
「社交辞令はいらねーよ。ルイの絵を称賛する奴に、本物の才能は理解できねーさ」
踵を履き潰したスニーカーをパタパタと鳴らしながら、吉野さんが去っていく。彼の背中が遠ざかったところで、春斗くんが私の前に回り込んできた。
『感じの悪い人でしたねー』
「さっきは『すごーい』とか褒めてたくせに」
『そうでしたっけ? 記憶にないなー』
「あ、そう。それにしても随分ナルシストな人だったね。『世界が俺の才能に気付いてない』なんて」
『あの物言いだと、売れっ子だったルイに嫉妬してた可能性もありそうですね。実はライバル関係だったとか』
吉野さんにもらった習作に目を落とす。
春斗くんも覗き込んできた。
『んー……。ホントにルイの直筆なのかなー。ルイっぽさは全く感じられないですけど』
「嘘を言ってるようには見えなかったけどな。先に天海ルイの名前を出したのは私だし、都合よく《Louis》なんてサインの入った絵を持ってるとは思えないよ」
というわけで、この絵は本物だという結論に落ち着いた。習作を四つ折りにし、ウインドブレーカーのポケットにおさめる。すっかり冷えてしまった身体を軽いジャンプでほぐした。
「私も行くよ。日が沈む前には帰りたいから」
『そっか、ジョギング中だったんですよね。俺は適当に散歩と取材を続けるので、また近いうちに会いましょう』
春斗くんが鼻歌交じりで歩き出す。
良いフレーズが浮かびますようにと祈りつつ、私もジョギングを再開した。
+ + +
星ひとつない暗い夜。
遠くに見える山が燃えている。
私は小高い丘の上から、その様子を眺めていた。
ただ、呆然と。
「助けて」
ふとそんな声が聞こえ、振り返る。
私の後ろに枯れた大木が立っていた。
太い枝には、若い男性がロープで逆さ吊りにされている。
彼の顔は苦痛に歪み、瞳からは鮮血の涙が流れていた。
嫌だ。
助けて。
苦しい。
死にたくない――。
悲痛な叫び声が私の脳内に響き渡り、眩暈がした。
+ + +
ハッとして上半身を起こす。
視界に部屋の壁が映り、夢を見ていたのだと気付いた。夢見が悪かったせいか、心臓がバクバクと蠢いている。カーテンの隙間からは太陽の光が差し込んでいた。
枕元にあるスマホを取り、時間を確認する。
午前十一時を回っていた。
今日は日曜。バイトは午後四時からでアラームをセットしなかったとはいえ、随分ゆっくり眠っていたようだ。
『凛花さーん』
突然の呼び声にビクッと震える。
玄関の方から聞こえた声は春斗くんで間違いない。
『お邪魔しても良いですかー?』
「ま、待って、まだ駄目! 上がりたいなら三十分後くらいにして!」
『はーい』という返事を最後に部屋が静まり返る。溜め息をつきつつ布団をはぎ、ベッドから降りた。