【3】
今日も順調に走っていき、東公園の近くで春斗くんを発見した。街路樹の傍、古ぼけた立札の前に佇んでいる。
周囲に人の姿は少ない。
それでも春斗くんと会話するのは避けたいと思い、くるりと向きを変えたが――タイミング悪く、彼の顔がこちらへ向いた。
『偶然ですね、凛花さん』
……無視して走り去りたいところだが、追い掛けて来られても厄介だ。付近に人がいないことを確認し、彼の元へ駆け寄った。
「外では会話しないよ?」
『どうしてです?』
「誰かに見られたら確実に不審者でしょ。幽霊がしつこく絡んできても、車に誘導したり部屋に入ってもらったりしてから話すようにしてる」
『だから俺のときも「部屋に来て」と言ったんですね』
「また今度ね」
『大丈夫ですよ。ちゃんと配慮するので、楽しいトークタイムといきません?』
もう一度周囲を見渡す。
付近に人がいないとはいえ、極力小さな声を心掛けよう。
「こんなところで何してたの?」
『取材も兼ねて東公園内の散策です。それと、気になったのがコレ』
春斗くんは真横にある立札を指さした。木製の立札には、おどろおどろしい文字で《魔界》と書かれている。表面は黒ずんでおり、ちょっと突いたらバラバラになってしまいそうな不安感。しかし、立札を支える柄の部分はしっかりしている。
『面白いでしょう?』
「そうかな? 一週間くらい前から立ってるのは知ってたけど、ちゃんと見たことなかった」
『お化け屋敷みたいな場所かなぁって想像を膨らませてたところです。好きなんですよね』
「お化け屋敷が好きって。春斗くんが言うと違和感あるね」
『失礼な人ですね。俺はお化けじゃないです。死んでいるという事実を除けば、いたって普通の人間ですよ』
「そもそも死んでることが普通じゃないんだってば。って言うかこの看板、お化け屋敷じゃないと思うよ」
《魔界》の斜め下には小さく《horror gallery》と書いてある。ホラー系の品物やイラスト等の展示スペースではないだろうか。
「――そこの彼女」
突如、背後から聞こえた男性の声。
驚きで悲鳴が飛び出すと同時、前方へ転びそうになった。
「悪い。ビビらせちまったな」
声を掛けてきたのは長身の男性だった。黒いシャツに紫色のダウンジャケットを羽織っている。肩にはブランドのマークが刺繍されたスポーツバッグを掛けていた。赤茶色の短髪に黒縁眼鏡が印象的な、三十代半ばくらいの男性だ。
「オレが立てた看板をじーっと見てるから。ちょっくら声を掛けてみようかと」
「あ、その、すみません。これを立てたの、あなただったんですね」
しどろもどろになりながらも答える。春斗くんとの会話――傍から見れば私の独り言は聞こえていなかったようで安堵した。春斗くんも空気を読んでくれたのだろう、私の後方へと下がっていく。
「オレは吉野、アーティストやってる。メインは絵、立体アート」
「この立札、吉野さんの作品を展示している場所なんですか?」
「あぁ。興味あるか?」
「えっと……そうですね、それなりに」
「気ぃ遣う必要はねーよ。現代アートに興味ないならそれでいい」
「あ、でも。画家の天海ルイなら多少知ってます」
先日の会話がこんなところで役に立つとは思わなかった。
吉野さんがすっと目を細める。
「お前、ルイの作品が好きなのか?」
私が知っているのはインターネットで検索した絵画の写真だけだ。好きというほどではないが、綺麗だと思ったのは事実。「はい」と返すと、吉野さんは肩に掛けているスポーツバッグを開けた。中からプラスチック製の書類ケースが取り出される。スケルトンのケースには、ノートの切れ端が大量に入っていた。
「これ、やるよ」
吉野さんがケースの中から抜き取ったのは、一枚のルーズリーフだった。差し出されたものを両手で受け取る。
「天海ルイがルネサンス時代の画家に影響されて描いた習作だ」
「習作?」
「本番前に練習で描く絵のことさ」
鉛筆で描かれたと思しき絵は、粗いスケッチ画だった。馬に乗った騎士ふうの男性が、ドラゴンを倒そうと剣を振り上げているシーン。その後ろには木々の群れが描き込まれている。用紙の右下には《Louis》とサインがあった。
「もちろんコピーじゃなく直筆だぜ? この習作には《悪夢の夜》という仮タイトルが付けられていた」
「凶暴なドラゴンが現れた悪夢、ですか?」
「いや。背景の森、あとで山火事に描き替えるつもりだったって話だ。一夜にして灰と化す無残な山」