【17】
ドアの横にインターフォンが付いていたため、それを押して反応を待った。『お前一人か?』と返ってくる。吉野さんの声で間違いない。
「今日は私だけです。ギャラリー、お休みですか?」
『ちょっと待ってろ』
しばらくしてロックを解除する音が聞こえた。ドアが開き、スウェット姿の吉野さんが顔を出す。
「おう、またモデルの件を注意しに来たのか? オレの意志は変わらねーぜ?」
「違います。これを返しに来ました」
肩に掛けたサコッシュから、天海ルイの習作を取り出す。それを広げて渡すと、吉野さんは眉間に皺を寄せた。
「取りあえず入りな」
「いえ、こちらで結構です」
「人に聞かれるとまずい内容があるんじゃねーのか?」
「人通りもほとんどない住宅街ですし、小声で話せば大丈夫です」
毅然とした態度を貫くつもりで断言したとき、吉野さんの視線がふっと後方に抜けた。釣られるようにして振り返る。門の向こう側に、六十代くらいと思しき女性が立っていた。
「――チッ。しつこいババァだな」
「吉野さんのお知り合いですか?」
「ひとまず入ってくれ。普通の人間に体質のことを詮索されたくなければな」
訳が分からないまま玄関の中へ。
吉野さんは外を睨みつけると、乱暴にドアを閉めた。
「悪かったな、無理やり引き込んで」
「さっきの女性、展示を見に来たお客さんですか?」
「いや。オレのことを根掘り葉掘り訊いてきやがるから、できるだけ関わりたくねーんだよ。そんなことよりお前の話だ、上で聞いてやる」
玄関から離れた場所で彼と二人きりになるのは避けたい。再び「こちらで結構です」と告げると、吉野さんは少し間を空けたのち、嘲笑うように鼻を鳴らした。
「何を警戒してるのか知らねーが。ムショにぶち込まれるような真似をすりゃ、オレの理想世界を完成させられなくなる。他人のために人生を棒に振るなんざごめんだね」
「……分かりました。お邪魔します」
覚悟を決め、吉野さんのあとについて二階へ。彼が向かったのはアトリエでなかった。アトリエ正面、進行方向から見て右側のドアを開ける。中に見えたのはシンプルなデザインのベッドや本棚。煙草と灰皿、スケッチブックと筆記具の置かれたローテーブル。小型テレビに冷蔵庫。生活スペースのようだ。
部屋の隅にカップ麺やコンビニ弁当のゴミばかり詰め込まれたゴミ袋が置かれているものの、室内はすっきりと片付いている。吉野さんには何となくズボラそうなイメージがあったため、几帳面さの垣間見える部屋に意外性を感じた。
吉野さんはローテーブルの前に胡坐をかき、テーブルの上から煙草を取って吸い始めた。そんな彼の正面に腰を下ろす。
「んじゃ、話を聞こうか」
「はい。昨日『私の夢と絵が一致している』と言いましたよね。あのあとモデルの件が分かって……吉野さんからの質問に答えていませんでした」
「そういやそうだったな。律義に話の続きをしてくれるってわけか」
吉野さんは天海ルイの習作を脚に乗せ、人差し指でパシッと弾いた。
「で? 凛花が見た夢はこいつに関係してるのか?」
「失礼な話になりますが、怖い夢の元凶じゃないかと思ったんです。最初に印象的な悪夢を見たのはその絵をもらった日でした」
自分が見た悪夢に吉野さんの絵のタイトルを当てはめつつ、覚えている限りの内容を説明する。口に出すと夢のリアルさが鮮明によみがえり、ますます気持ちが塞いできた。
「――というわけで、その絵はお返しした方がいいかなと思ったんです」
吉野さんは灰皿の上でくしゅくしゅと吸い殻をもてあそんでいる。やがて潰れた吸い殻を解放した彼は「分かった」と頷いた。
「こいつには死者の怨念みたいなもんが染みついてるのかもな」
「怨念かどうかは分かりませんが、少し気掛かりな点もあるんです。背景に描かれている木の幹に、人の顔が見えませんか? 絵の右端あたり」
「……あぁ。確かに見えるな」
「吉野さんは気付かなかったんですか?」
「まじまじと眺めたいもんじゃねーからな。この絵は捨てる、それで解決だろ?」
「いいんですか? その絵と悪夢がリンクしていると確定したわけじゃ――」
最後まで話を聞くことなく、吉野さんは習作を真っ二つに破った。ぐしゃぐしゃに丸められ、ゴミ箱へと放り込まれる。
「ほら、これでいいだろ? また悪夢を見たとしてもオレのせいにするなよ」
「別に吉野さんのせいだなんて――」
「怒ってるわけじゃねーよ。オレは凛花のことを仲間だと思ってるって言ったろ?」
「吉野さんには芸術家仲間みたいな人も多いんじゃないですか? いろいろな繋がりがあるって、前に言ってましたよね」
「冗談じゃねーよ。オレはそういう奴らを仲間だと思ったことなんかない。どいつもこいつも上辺だけで、腹ん中じゃ相手を蹴落とすことしか考えてないクズばかりだ」
「……もしかして天海ルイも? 実は性格の悪い人だったんですか?」
「あいつは事務所のゴリ押しで爆発的人気を得た。わざわざ誰かを蹴落とす必要なんかねーと思うが?」
「……そうかもしれませんね。天海ルイの他に、芸術家で友達と呼べる人はいないんですか?」
「友達なんかいねーよ。アートの世界に限らず、信じられる人間なんか一人もいやしない。オレは基本、人間という存在そのものが嫌いなんだ」
人間が嫌い……か。
だから幽霊たちが苦しんでいても、平気な顔で笑っていられるのだろうか。吉野さんは私が想像していた以上に、大きな闇を抱えているのかもしれない。