【13】
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冷えた身体を温めようとお風呂に浸かった。
全身を包む心地良さに、ついうとうとしてしまいそうになる。
しばらく目を閉じていると、妙な臭いが鼻を突いた。
鉄が錆びたような臭い。
下を見ると、湯船が真っ赤に染まっていた。
この臭いと色――間違いない、血だ。
何故こんなことに。
訳が分からないまま絶叫し、浴槽から飛び出した。
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久々の悪夢だった。
《魔界》へ行く約束をした日に見るとは……やはり私の悪夢は不吉なものを予知しているのだろうか。
午後一時、春斗くんとともに家を出た。ジョギングがてら東公園方面へ。《魔界》の立札前に到着すると、ウインドブレーカーのポケットからスマホを取り出した。これを耳に当てて喋っていればカモフラージュできる。
『小さく住所が書いてありますね。その下、カッコ書きで《山田書店横》ってありますけど』
「聞いたことないなぁ。スマホで調べてみるよ」
インターネット検索を掛けると、それらしき本屋さんを見付けることができた。現在地から歩いて十五分程度の場所だ。
スマホの地図を頼りにジョギング再開。大通りを横切って脇道へ。初めて通る場所、閑静な住宅街といった印象だ。何度か角を曲がって歩くうちに、山田書店を発見することができた。
その隣に、古めかしい二階建て民家がある。
ヒビだらけのブロック塀、先端が針のように尖っている鉄門、《horror gallery 魔界》と書かれた看板。真っ黒な玄関のドアには《入館無料 ご自由にお入りください》というプレートが掛かっている。どの窓にもカーテンがなく、怪しげな紋様が描かれていた。良く言えば個性的……率直に言えば悪趣味だ。
鉄門を開けて塀の中へ踏み込む。玄関のドアを引きながら「お邪魔します」と声を掛けてみたものの、返事はなかった。
玄関先には《靴を履いたままどうぞ》と表示があり、土足で廊下へ。不安感を煽り立てるような、たどたどしい調子のピアノ音楽が流れている。内部はギャラリー用に改装されているようだ。玄関から見える位置には二部屋あるが、どちらにもドアがない。廊下は右側へと曲がっており、その先の様子を窺うことはできなかった。
家に上がってすぐ、斜め右側には二階へ続く階段がある。《立ち入り禁止》と書かれたボードが設置されており、黒いサンダルが一足揃えられていた。一階が展示場で、二階は自宅兼事務所、もしくはアトリエにでもなっているのだろう。
『誰もいないんですかね?』
「無人なら《ご自由にお入りください》なんて書かないんじゃない?」
小声で会話しつつ、まずは玄関から一番近い部屋へと踏み込んだ。私の住むワンルームよりずっと広い。壁は全て黒く塗られ、等間隔で額縁が掛けられている。
一枚目の絵の前に立った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
山火事をバックに、大木の枝にぶら下がる男性を描いた《吊るし刑》。
心臓を握られたような緊迫感が襲い掛かってくる。
それと同時に「まさか」と嫌な予感が膨れ上がった。
展示された絵を次々と見ていく。
地面に叩きつけられる少女を上空から捉えた《落下の痕》。
火だるまとなった男性が表情に苦痛を宿す《獄炎》。
黒雲の下、全身傷だらけの人々が逃げ惑う《刃の雨》。
胴体部分が砕けた状態で不気味に嗤う《破裂する人形》。
ゾンビのような人間が、毒々しい赤色の湯船に浸かっている《剥離》。
見覚えのある光景が何枚も存在していた。
「ここに飾られてる絵、私の夢と同じだ……」
『何で凛花さんの夢が絵になってるんです?』
「分からないよ。でもこんなの、絶対にただの偶然じゃない」
『吉野さんには〝人に悪夢を見せる力〟があるとか?』
「そんな馬鹿な。仮に悪夢を見せる力なんてものが存在したとしても、私をターゲットにする理由はないはず」
暑いわけでもないのに手のひらが汗ばんできた。
悪夢の元凶はこのギャラリーで間違いない。
残酷で不気味な悪夢は全て、吉野さんの頭の中で創られた世界だったのだ。
『凛花さんの部屋にあるもので吉野さんに関係するのって、ルイの習作だけですよね? やっぱり原因はあの絵じゃないですか?』
顎に手を当てて考えを巡らせようとしたとき、不恰好なピアノ音楽に混じって足音が聞こえてきた。ギィ、ギィ、と上の方から下りてくる。春斗くんと二人で部屋の入口に注目していると、黒いジャージ姿の男性が現れた。赤茶色の短髪に黒縁眼鏡――吉野さんだ。彼は私を見るなり、ニッと歯を覗かせた。
「よう、本当に来たんだな」
「あ、あの……ちょっとお聞きしたいことがあるのですが。ここにある絵、どんな理由で描いたものなんですか?」
「どれも感性の赴くままに描いただけだが。何故そんなことを訊く?」
「実は……ここに展示されている絵の何枚かが、私の夢に出てきたんです。だからびっくりして、どういうことだろうと思いまして……」