【12】
人形破裂の夢を見てから約三週間。
一度も悪夢にうなされることなく二月末を迎えた。
春が近いとは思えないほど冷え込む日が多い。それでもジョギングだけは毎日欠かさず行おうと決めていた。
東公園に入って池の外周を走っていると、木々の傍にしゃがみ込む男性を発見した。背を向けているため顔は分からないが、冬の屋外で半袖シャツ一枚という寒々しい格好に透明感のある身体――春斗くんだ。
彼は最近、三日に一度くらいのペースで私の部屋に来ている。相変わらず歌詞制作は難航しているようで、参考に私の好きな曲を聴いてもらう日々。
このあたりを散策しているということは、今日も部屋に来るつもりだろうか……なんて考えたところで、非常事態が起きていることに気付いた。
春斗くんの両手が真っ赤に染まっている。
彼の前には、木の幹にもたれるようにして女性幽霊が座っていた。その女性が着ている服も真っ赤だ。思わず春斗くんの名を呼んでいた。私の声に反応して振り返った彼の顔からは恐怖が感じられる。
『凛花さん! 血が止まらないんです!』
出血しているのは女性だけだった。
彼女は首を垂れている。
意識が朦朧としているのかもしれない。
視線を走らせ出血の元を探ると、左腕の皮膚が一部、何かで削ぎ落とされたかのように欠損しているのが分かった。
春斗くんは出血を抑えるため、ハンカチで傷口を塞ごうとしていたようだ。可愛らしいウサギ柄のハンカチ――女性幽霊の所持品だろう。私には触れられないため、現状を見ていることしかできない。
「一体、何でこんな……」
『分かんないですよ。倒れてたのを見付けて、何とかしないとって……』
女性の頭がぴくりと動き、垂れていた首が徐々に起き上がった。彼女の口から微かな声が発せられる。
『……ま、かい……』
春斗くんと目を合わせる。
次の瞬間、女性の身体が四散した。
それと同時に、春斗くんが持っていたハンカチも消失。彼の手にこびりついていた血液も消えてしまった。まるで夢を見ていたかのように、惨状の形跡はどこにもない。
「今のって……成仏したわけじゃないよね?」
『あんな大怪我して、成仏できたわけないですよ。きっと死んじゃったんです』
「でも幽霊が死ぬっておかしくない? 死んだ結果、幽霊になるのであって……なんか矛盾してるって言うか」
『矛盾してるかもしれないけど、やっぱり死んじゃったんだと思います』
春斗くんは女性がいた場所に向かって両手を合わせた。
強引さのあるワガママ王子だが、根は優しい人なのだろう。
彼の想いを汲んで、私も両手を合わせた。
『気になるのは女の人の最期の言葉ですよね。〝まかい〟って、ホラーギャラリー《魔界》のことでしょうか』
「もしかして、さっきの女性に怪我をさせたのは吉野さん?」
突飛な考えだとは思う。
仮に吉野さんの仕業だとしたら、彼には幽霊が見えているということだ。
「……ううん、それだけじゃないよね。ただ見えるだけの私と違って、吉野さんは幽霊と接触することが可能って話にもなってくる」
『まったくもう……。何がどうなってるんだ?』
春斗くんは悔しそうな様子で、くしゃくしゃと頭を掻いた。
すっかり忘れていたことを思い出し、周囲を見渡す。惨状を目の当たりにしたことで混乱し、当然のように声を出してしまっていたが、端から見れば私は独りなのだ。このまま話を続けるのはまずい。春斗くんにそう伝え、二人でジョギングしながら帰宅した。ローテーブルを挟んで向かい合う。
『俺たちに判別できなかっただけで、実は吉野さんも幽霊だった……ってのは考えられません? 幽霊同士なら相手に触れますよね』
「吉野さんが人間なのは間違いないでしょ? ファミレスにお客さんとして来てたって言ってたじゃん」
『……あ、そのことを失念してました』
「女性の言葉を聞いてホラーギャラリー《魔界》を連想したけど、〝まかい〟という単語だけで結び付けるのは早合点かな……」
『俺、《魔界》へ行ってみますよ。もし吉野さんが関係してるなら、俺の姿だって見えていたはずでしょう? こっちから話し掛けて、どういうことなのか問いただします』
「やめた方がいいよ。春斗くんの身に危険が及ぶ可能性がある」
『それは分かってますけど。苦しんで亡くなった女性のことを思うと放っておけません』
春斗くんは女性の無念を晴らそうとしている。
彼が危険な目に遭うかもしれないと思うと……無視はできない。
「私も一緒に行くよ。今日はこれからバイトだから明日になっちゃうけど、それでもいい?」
『……分かりました。明日一緒に行きましょう』