【10】
「オバケでも見たような顔だな。そんなに驚いたか?」
ククッと不気味な笑いを漏らした吉野さんが、自転車を引きながら近付いてくる。今日は夜に溶け込むような黒いスウェット上下にダウンジャケットという服装だ。自転車の前カゴにはレジ袋が入っており、そこから煙草のカートンが覗いている。
「ハザード焚いて停まってる車があると思ったら。お前だったとはな」
「あ、いえ、その……はい」
「車の中でイチャついてる奴らだったら通報してやろうと思ったんだが――いや、そういうお盛んなカップルはご丁寧にハザード焚いたりしねーか」
下世話な想像話を振ってくる吉野さんに愛想笑いを返した。車内の春斗くんから『気持ち悪い発言やめてくださーい!』とブーイングが飛んでくる。
「大した用がないなら帰れ。物騒な事件が多いご時世だ、深夜に一人でふらふらするなんざ危険すぎる。特に通り魔なんてのは、お前みたいに弱そうな人間を狙う奴が多いからな」
「すみません、気を付けます」
吉野さんが自転車を漕ぎ始めると、車に乗り込んだ。助手席の春斗くんは不服そうな面持ちで、徐々に遠ざかっていく吉野さんの背中を睨んでいる。
『やっぱり感じの悪い人ですね。完全にセクハラでしたよ』
「私もああいう人は苦手だけど、悪気はないんじゃないかな」
『えー……。あんな不躾な奴を庇うなんて、ちょっと妬けるんですけど?』
春斗くんが運転席のシートに肘を乗せ、こちらに身を乗り出してくる。
ひとけのない深夜。
車内で二人きり。
先ほど吉野さんに言われたことを思い出し、何とも言えない緊張を感じた。目の前にいるのはただの幽霊――分かっていても動揺してしまう。
「あの……そういうセリフは意中の子にだけ言った方がいいよ?」
『俺に惚れちゃいそうで困る?』
「……ないない。やっぱ私、そうやって女性を惑わそうとするタイプは苦手」
『はっきり言いますねー。俺は凛花さんみたいにサバサバしたタイプの子、結構好きだけどな?』
「他の女性にも散々同じようなことを言ってきたんでしょ? 騙されないからね」
『……あーあ、ホントにつまんない子。俺、結構モテてきたんだけどなー。凛花さんは俺のビジュ以外興味なしですか』
「つまんない反応しかできなくてすみませんね。私は帰るよ」
『じゃあ俺も帰ります』
「どこに?」
『今、モデルルームを自分の部屋として使ってるんですよ。そこのベッドで寝てるんです』
「……えっ、寝るの?」
今まで知る機会がなかった――と言うより興味もなかったのだが、幽霊も睡眠を取るらしい。街で見掛ける幽霊は何かしら活動しているため気付かなかった。
『モデルルームを自宅代わりに使ってる幽霊、そこそこいますよ? 人間と違って契約があるわけじゃないので、先着順とか譲り合いって感じですね』
「うわぁ……。それ、ちょっと知りたくない情報だったな」
私が幽霊に対し抱いていたのは、二十四時間・三百六十五日起きっぱなしのイメージ。それを春斗くんに伝えると『そんなに起きてたら死んじゃいますよ』と返され、いつぞやと同じく「もう死んじゃってるじゃん」とツッコミを入れることになった。
「でも、ちょっと勉強になったよ。怪我をする幽霊もいれば、痛みを感じない幽霊もいる。でも睡眠は人間と同じように必要……とも限らなくて、寝なくても平気な幽霊がいるかもしれないってことだよね。春斗くんみたいに制限があるのも含め、幽霊にはいろんな可能性があるのかな」
『凛花さん、生まれつき見えてたんですよね? そのわりに、俺よりも幽霊の知識少なくないですか?』
「だって関わりたくないんだもん」
『どうしてです?』
「私に絡んでくる幽霊はみんな『成仏の手伝いをしてくれ』って頼んできて、それが叶わないと分かれば露骨にがっかりされるし、中には『使えねー奴だな』とか逆ギレする幽霊もいるんだよ? 美琴ちゃんみたいに運よく協力できればいいけど、お願いされるのは無理なことばかりだし。春斗くんと出会う前は、一人の幽霊とこんなふうに長く過ごしたこともない。そんな面倒なこと考えもしなかった」
『俺、邪魔ですか?』
ふっと春斗くんの声のトーンが落ち、気まずい沈黙が流れた。幽霊全般への愚痴をこぼしただけだが、彼個人への悪口として受け取られてしまったかもしれない。
「ごめん。春斗くんが邪魔だと言ったわけじゃないよ」
『なら良かったです。こんな身体でも一応、生きてるんですから。凛花さんもそう思ってるから、火傷した幽霊のことを心配して駆けつけてくれたんでしょう?』
「……そうかもしれないね。春斗くんのこともちょっと心配してる」
『俺?』
「夜にひとけのない場所を出歩くのは危ないのかなって。火傷に限らず、幽霊にとっても危険なことがあるかもしれない。気を付けてね?」
春斗くんは『ご心配ありがとうございます』と微笑した。
彼の美麗な笑顔が、気まずい空気を溶かしてくれた。