【9】
時刻は午後十時過ぎ。
お客さんはまばらで追加オーダーも入らず、私と真司くんは雑談で時間を潰し始めた――そのとき。
困ったものが視界に映り込んだ。
春斗くんだ。
レジカウンターを通過してキッチンへと向かってくる。
彼には私のバイト先について、店名しか伝えていない。わざわざ捜したのだろう。何のつもりで来店したのか分からないが、春斗くんの声に反応してしまわないよう、真司くんとの会話に集中しなければ。
『凛花さん聞いてください! 返事しなくてもいいので!』
聖徳太子じゃあるまいし、二人の話を同時に聞けるはずがない。春斗くんの慌てぶりも気になったため、お手洗いを口実にフロアへ出た。エプロンと三角巾を外して女子トイレへ。春斗くんもお構いなしについてきた。誰もいないが、必要最低限の声量と言葉で会話しなければ。
「何?」
『東公園の傍で人が倒れてるんです』
人が倒れている?
体調不良か怪我なのか分からないが、急を要するのは確かだ。今は底冷えするような冬の夜……誰も通らない可能性もある。
「詳しい場所は? 救急車を呼ぶよ」
『違いますよ、幽霊。三十代くらいの男性なんですけど、身体が爛れてるみたいな感じで。羽織ってるジャケットは黒焦げで、火傷っぽくて』
「……火傷?」
今朝の夢。
炎の中で絶叫する男性を思い出した。
まさか、あれは予知夢だったのだろうか。
吉野さんが骨折した少女を描いていたことといい、不吉なものを予知する夢を見ていた……?
いや、悪夢についてはひとまず置いておこう。
気になるのは〝幽霊が火傷している〟という事態だ。
「幽霊が火傷するっておかしくない? 現世のものに触れることができないんだから、火に当たっても火傷なんかしないはず」
それに、死因が火傷だったというのも考えにくい。現世に留まっている幽霊に共通していると思しきことは、どんな死亡原因だとしても、身体は元気だった頃のままということだ。たとえば交通事故で亡くなった人の幽霊でも、骨が折れて動けないなんてことはない。幽霊に火傷のような爛れが存在しているならば、彼の死亡原因と関係ない、もっと昔から存在している火傷の跡だろう。
『でも火傷の跡なんてものじゃなかったですよ。傷が生々しくて苦しそうで』
「痛みも感じてるってこと?」
『当り前でしょう。あんなに爛れてたら――』
「それも引っ掛かるって言うか……幽霊は怪我なんてしないと思ってた。春斗くんも私の部屋から飛び降りてるけど、足が痛くなったり骨折したりしないでしょ?」
『……言われてみればそうですね』
春斗くんの見たものが本当に火傷なのか分からない。ただ、負傷して倒れている事実を聞いてしまった以上、無視するのも心苦しかった。
「バイトが終わったら行くから。春斗くんはその幽霊の傍にいてあげて」
『分かりました。場所は、吉野さんのギャラリーの看板が立っていたところより奥で――って、上手く伝えられないですね。分かりやすいよう大通り沿いにある駐車場に移動して、凛花さんが来るのを待ってます』
「東公園の南側ね。怪我してる人、無理やり動かそうとしちゃ駄目だよ?」
春斗くんは頷き、トイレから出ていった。
私もキッチンへ戻る。
そこからは倒れている幽霊のことが気になり、真司くんや他のバイトメンバーとの会話が上の空になってしまった。早く終われと思いながら黙々と片付けを進め、ようやく終了を迎える。
午後十一時四十分。
車に乗り込むと、すぐに東公園へ向かった。この時間は駐車場に入ることができないため、邪魔にならないスペースを捜して車を停める。近くに春斗くんの姿を発見することができたものの、彼は一人だった。周囲に人がいないことを確認し、車を降りる。
「火傷した幽霊はどこに?」
『どこにもいないんですよ。戻ってからずっと探してたんですけど』
「一人でどこかに行ったのかな? それとも、他の幽霊が通り掛かって助けてあげたとか」
『あの人が見付からなければ、俺たちにできることもないですよね』
そこでふと、チェーンの回転音が耳に入った。後方から自転車が近付いてきている。声量を落とし「車に乗って」と告げると、春斗くんは助手席のドアをすり抜けていった。私も運転席のドアを開ける。それとほぼ同時に、自転車の主がブレーキを掛けた。
「――よう!」
思いがけず声を掛けられ、静止してしまった。
心臓が激しく脈打っている。
声の主が吉野さんだと気付くまでに時間が掛かった。