【8】
見張り役の春斗くんを外に残し、美琴ちゃんが車内へ入ってくる。彼女は助手席に座り、会釈してくれた。互いに名前だけの挨拶を行ってから本題へ。天海ルイの習作を提示すると、美琴ちゃんの顔に困惑の色が浮かんだ。
『この絵、ルイ様のサインが入ってますけど……本物ですか?』
「意外かもしれないけど本物だよ。天海ルイの知り合いの画家さんからもらったんだ。公に発表されたものじゃなく、練習で描いた直筆の絵なんだって」
『未発表の直筆!』
声のトーンが上がると同時、美琴ちゃんの顔が華やいだ。絵を眺め、幸せそうな息を漏らしている。気が済むまで見せてあげよう。
「この絵の仮タイトルは《悪夢の夜》――ルネサンス時代の画家に影響されて描いたんだって。背景はあとで山火事に書き換える予定だったとか。私はすごく上手いと思うけど、本人の基準では失敗作だったみたい」
『嬉しいです。そんな裏話まで聞かせてもらえて』
「美琴ちゃんが幽霊じゃなかったら、実際に渡してあげられるんだけどね。気持ち的にはプレゼントしてるから、この絵はもう美琴ちゃんのものだよ」
『ありがとうございます。ポストカードとか画集とか集めてたけど、直筆のものは高すぎて買えなかったんですよね。この紙に、ルイ様が直接絵を描いてたんだ……』
元々色素の薄い美琴ちゃんの身体が、さらに透き通った状態へと変化していく。彼女の瞳は潤んでいた。
『他のファンは知らないルイ様の作品を知ることができた。すっごく幸せです』
「そう言ってもらえて良かったよ。公表されてる作品の雰囲気とあまりにも違うから、がっかりしちゃうんじゃないかなと不安だったんだけど」
『そんなことないです。逆に嬉しかった。ルイ様の描く幻想的な風景画は大好きだけど、こういう迫力ある絵も描くんだって知ることができたから』
美琴ちゃんは胸の前で拳を握り締めると、一転して悲しそうに視線を落とした。
『私、ルイ様のことをロクに知ろうともしない女性ファンが増えるのが嫌だったんです。ルイ様の顔しか見てない人がいっぱいいたから……。でも私はルイ様も、ルイ様の絵も、ずっと大好きです。本当にありがとうございました』
その言葉を最期に、美琴ちゃんの身体が霧散した。
彼女を現世に留めていた想いが昇華し、無事に成仏できたようだ。
運転席の窓をコツコツと叩き、見張り中の春斗くんに合図を送る。ドアをすり抜けた彼が助手席に座ると、車のエンジンを掛け、現場をあとにした。
『凛花さんのおかげで女の子が救われましたね』
「それは良かったけど……今後、私の許可なく成仏系の依頼を受けるのは禁止だよ? 安請け合いして期待させて、結果がっかりさせることはしたくないから」
強い口調で言い切ると、春斗くんはちょこんと肩を竦めた。
絶対に反省していない。
……でも。
消える直前に美琴ちゃんが見せた笑顔を思い返すと、協力して良かったという気持ちの方が強い。それに、吉野さんにも感謝しなければ。美琴ちゃんの心を満たしてあげられたのは、彼が天海ルイの習作をくれたおかげだから。
+ + +
薄暗い地下駐車場は閑散としている。
少し離れた場所には黒い車。
そこから煙草を咥えた男性が降りてきた。
――程なくして、視界がオレンジ色に染まった。
男性の手から落ちた煙草を中心に、駐車場全体を覆い尽くす火の海が生まれる。
燃え盛る炎の中にいるのに、私は恐怖も熱も感じない。
だが煙草を落とした男性は、火の渦の中で助けを求めている。
痛い。
熱い。
苦しい。
許さない。
お前を絶対に許さない。
火だるまになった男性と目が合う。
憎悪に満ちた瞳。
彼はやがて、奇声を発しながらくずおれた。
+ + +
……また悪夢か。
起きると同時に溜め息が漏れてしまうくらい憂鬱な目覚めだ。せっかくの日曜だというのに気分が沈む。それでも普段どおりジョギングを行い、休憩と軽食を摂ってからバイトへ向かった。
日曜の夜から閉店までの時間帯は比較的暇であり、お客さんに提供する品を用意するより、翌日の仕込み作業の方が大変だ。同じくキッチン担当のバイト・真司くんと調理台の前に並び、ひたすらパンをカットしたり、サンドウィッチ用の野菜や卵の下ごしらえをしたり……。