枯葉
山崎は横になっていた。体がだるかった。
彼は働いていなかった。無職になってから六ヶ月。何もする事はなかった。ただ無為の日々を送っていた。
彼は近頃、体の不調を感じていた。体全体がだるく、睡眠時間は十時間を越えた。それでも眠くて仕方なかった。
彼はできる事をやろうと試みた。薬局で、倦怠感に効く漢方薬や薬を買って飲んでみたが一向に効き目はなかった。体のだるさは全く取れなかった。
彼は試しに外で軽く走ってみたが、ほんの少し走っただけで動悸がした。全身を鈍い倦怠感が支配して、すぐにアパートに戻ってきた。平常の状態でない事は明らかだった。
(俺もとうとう死ぬ時が来たかな)
彼は考えた。死。それはまだ遠い物語だったはずだった。彼は、自分の体のだるさと死という想念を結びつけるというのをその時、はじめて試みた。
(そうか、俺も死ぬかな)
彼は、考えてみて驚いた。自分が死ぬ。三十代半ばの彼にはまだそれは遠い出来事だったはずだ。しかしふと思いついたそのアイデアは、一旦思いつくと、真実に近いような気がした。全身の倦怠感は死に直結しているとしか思われなかった。
(そりゃそうだ、俺だって死ぬわな、他人と同様)
毎日毎日、他人の死がニュースで報道される。彼はそうした報道をゴマンとみてきたはずだ。時には、興味を持って猟奇的な殺人事件について調べてみる。彼はそんな事もこれまでたくさんしてきた。しかしそれら全てはあくまでも他人の死であり、彼のものではなかった。
少なくとも、三十代で死ぬとは思わなかった。長生きするとは思わなかったが、とはいえ、まさか三十代で死が近づいてくるとは予測しなかった。
(そうか、俺はこれまで死について全然考えてこなかったな…)
彼は布団に横になって考えてみた。考えれば考えるほど、体のだるさは死の兆候であるように感じた。というか、それ以外の答えはないような気がした。
山崎は三日悩んだ。彼は考えても無駄な事について考えてみた。
体の不調は果たして決定的なものかどうか。倦怠感は死の兆候なのか。インターネットで調べると、ある種のガンは、その前兆として全身の倦怠感を誘発するらしい。
山崎は調べるほどにわからなくなった。倦怠感は、死病の前兆であるような気もするし、単に一時的なものである気もする。彼は絶望と希望を交互に繰り返した。助かるような気もするし、助からないような気もする。どちらの証拠をもネットの情報は提出してくれていた。
山崎は自分の人生についても考えてみた。
(俺は死ぬんだな…ところで、俺の人生はなんだったろう?)
彼は自分が積み重ねてきた時間を振り返ってみた。小学校、中学校、高校、大学。それからフリーター。ニート。
何もなかった。からっぽだった。
どれだけ過去を振り返ってみても、そこに何ら実質のあるものは認められなかった。
軽い恋愛、遊び。風俗にはじめて行った事。友人に裏切られた事。クラスの除け者をみんなと一緒にいじめていて、教師に怒られた事。あるいは彼がいじめられた事。
大学のサークルのぬるい雰囲気。就職活動の見せかけの情熱。そこからの離脱。無職になって、毎日川べりを散歩した事。
全ては無だった。彼は自分の過去に何一つ、意味のあるものを見いだせなかった。
ただ何もわからないまま人生が過ぎていって、そうして彼は死のうとしているのだった。だが、死にたくはなかった。人生は無であり、灰色であったにも関わらず、彼は生にしがみついていたいのだった。
彼はその時、はじめて自分の中の(生きたい)という願望に気がついた。
(そうか、俺は生きたいのか)
彼は自分の手のひらを眺めた。そこには何も書かれていないのに。彼は自分の人生が虚無である事を認めた。そこには何もなかった。からっぽだった。
にも関わらず彼は生きたかった。彼は、からっぽの人生を続けたいのだった。彼はそんな自分を嘲笑ってみた。
(俺は世界で一番バカだ)
嘲笑は長く続かなかった。布団で横になっていても、何も解決されない。
彼はとうとう病院に行く事に決めた。医者なら適当な死刑宣告を与えてくれるだろう、とそう考えたのだった。
※
冬だった。路は寒かった。
病院は近くだった。歩いていく事にした。
いつもの青いダウンジャケットを着て外に出た。外に出るのは三日ぶりだった。日差しが眩しかった。
アパートの三階から、空を眺めた。雲が動き、雲の端から太陽が出てきた。
(自然は動いている。だから、昔の人間は自然を生きているものと考えたんだな。風や雲はとめどなく変化して動いて、生きている。決まりきったパターンはない。…ランダムに生成されながら、しかも一定に動いている。要するに、『生きている』って事だ)
彼は階段を降り始めた。階段の途中で転げ落ちそうになり、苦笑した。
(これから死刑宣告を受けに行くっていうのに、その前に死んだら笑えないよ)
半笑いで態勢を立て直した。どうした事か、山崎は医者が彼に死刑宣告を下すものと信じ切っていた。どうせそういう運命ならば、さっさとそれを告げてほしい、さっさと全てを決定してほしい、そんな投げやりな気持ちだった。
病院の前まで来た。彼は病院に入るのに躊躇した。自動ドアが開いて中から人が出てくる。彼はその人物をじっと見ていた。
ふと視線を移すと、枯れかけている街路樹があった。足元に視線を落とすと、スニーカーが一枚の枯葉を踏んでいた。
そっとスニーカーを持ち上げると、枯葉は全く損傷なく、綺麗な状態で、そこにあった。
山崎は何気なく空を見上げた。夕暮れの太陽があった。
山崎はもう一度、足元を見た。枯葉を取り上げた。(見事な枯葉だ)と考えた。(美しい) 彼はこれまでそんな風に考えた事はなかった。
(俺はもうすぐ死ぬ。この枯葉は…つまり俺だ。散る存在。これが俺なんだ。こいつが俺だ。俺はその事に一度も気づかなかった。今までは足で踏みつけていただけだ。何も考えずに。…こいつが俺だったのに。こいつこそが俺そのものだったのに)
枯葉に刻みつけられた葉脈がくっきりと浮き出て見えた。そうしたものは確かに、古代人が考えたような神の創作物に感じられた。
彼は枯葉をそっとポケットに入れた。彼は歩き出し、病院の自動ドアをくぐった。
医者は若かった。眼鏡をかけていて、眠たそうな眼差しだった。これまでにもう何百万人という人間を診てきて、もう病人に飽き飽きしているといった風だった。
「今日はどうしました?」
山崎は胸のプレートを見た。「村上」とひらがなで記されていた。
「いや、ちょっと体がだるくて」
「どのへんですか?」
「全身です」
村上はその後も二、三質問した。山崎は、村上がなにか深刻な言葉を言い出すのを待っていた。
「そうですね…特に悪いところもないみたいですが…じゃあ、血液検査しましょうか。血液検査、やっていいですか?」
「お願いします」
山崎はうなずいた。この血液検査で、おそらくは決定的な死病が発見されるだろう。なにせこれほど体がだるいのだ。もうまともに仕事ができそうにないほど、全身が重いのだ。
看護師がやってきて手慣れた手付きで山崎の血を抜いた。山崎は左手を看護師に差し出し、針が刺さる瞬間をみないようにした。
「はい、もう終わりましたよ」
女の看護師が子供に言うように言った。針の痛みは一瞬だった。
「検査結果は一週間後ですね」
医者はカルテを書きながら言った。
「その時にまた来てください」
山崎は、あまりにも全てがあっさりな事になにか物足りない感じを味わった。何か一言聞きたかったが、医者の方は(とっとと帰ってくれ、次の患者が控えているんだから)といった空気を醸し出していた。
「わかりました、また」
山崎は立ち上がった。それで病院の診療は終わった。
山崎はアパートに戻ると、ポケットから枯葉をそっと取り出した。
彼は枯葉を覗き込むと、それを机の端っこに置いた。下にハンカチを敷いて。
(この枯葉を忘れないようにしよう)
彼は考えた。彼は立ち上がり、キッチンにコーヒーを作りに行った。
※
一週間が経った。山崎は病院に向かった。
暖かい日だった。以前と同じような夕暮れ時だった。たった一週間だったが、少しばかり季節が進展したような気がした。
(源氏物語は、四季の中で人が動いているようにできていると誰かが言っていたような…俺はあの本を読んだ時、汚らわしい不倫趣味しか感じ取れなかったが…)
今度は躊躇せずに病院に入った。待合室では老人達がテレビを見ていた。
「山崎さん、どうぞ」
言われて診察室に入った。以前と同じ医者だった。
医者は手元の紙を見ていた。山崎は椅子に座りながら、自分に言い聞かせていた。
(さあ、来たぞ。こいつは今から俺に言う。「そうですね…ちょっと言いづらいんですが、精密な検査が必要ですね。重大な病気の可能性がありますんで」 今からこいつはそう言って、本当はもう助からない死病にかかっているのがわかっているのに、検査やら何やらで俺の時間をすり減らすんだ…それが必要な手続きだというそのひとつの理由だけで…。さあ、今からこいつは言うぞ。俺に向かって。「精密な検査が必要」と。…これはただごとではない。俺にはわかるんだ。こいつは今からぼかして俺に言う。ごまかして。「もしかしたら、ちょっとばかり大変な状態かもしれませんね…」 こういう言葉の背後には…俺の死という事実が透けているはずだ。そしてその死とやらは、この俺にだけ関係していて他の人には一切関係がない。そうして俺はその宣告を食らって、きっと本当に死にたくなるほどに落ち込むんだ…)
山崎はぶつぶつとこぼしながら着席した。医者は顔を上げた。
「山崎さん、どうです? あれから、体調は?」
「…いや、同じですね。よくありません」
「そうですか…いや、ここに血液検査の結果があるんですけどね…」
医者は軽い声で言った。山崎は(さあくるぞ)と心のなかで一声かけた。
「どこも悪いところはないようですね。全ての数値が問題ないようですね。健康です」
山崎は医者の顔を見つめた。「そんなわけない!」と頭の中では叫んでいた。
「…いや、でも体の調子が…」
「そうですね。この数値見ますと、多少、内臓脂肪が多いようですね。それがもしかしたら肝臓に負担をかけているかもしれません。考えられるとしたらそれが原因ですね」
医者はこともなげに言った。山崎は目を見開いていた。
「どうしますか? 何か薬出しますか? …必要なのは、内臓脂肪を減らす事だから、すこし食事制限とか、運動をしてもらうと良いと思いますが…」
山崎は自分の食生活を振り返ってみた。確かに、仕事をやめてから体を動かす事は減って、食べる量は増えた。
もう山崎には医者の言葉は聞こえなかった。(なんだこんな事だったのか、「死」ではなかったのか) 山崎はそのひとつ言葉を頭の中で繰り返していた。
その後、医者が何を言ったのか、山崎はほとんど覚えていなかった。(「死」ではなかった、「死」ではなかった…) それだけが彼の頭の中に残った。
診察室を出ると、車椅子のしわくちゃの婆さんとぶつかりそうになった。山崎は頭を下げて、道を譲った。車椅子を押していた中年の女性は、ゆっくりと頭を下げた。
山崎は皺くちゃの婆さんのほとんどあいていない目を見て、(こんな婆さんでも生きたいのか…)と考えた。
彼の口元には微かに笑みが浮かんでいた。
山崎は待合室に戻ってきた。待合室の光景が、診察室に入る前と全く違ったものに見えた。光が溢れているように感じた。
山崎は椅子に座った。目の前の大型テレビで、どこかのタレントがなにかをしているのをぼんやりと眺めていた時、彼はふと思い出した。彼はさっき、皺くちゃの婆さんを見て、微笑んでいた。
(あの時、俺は笑っていたのか)
彼は自分の微笑を思い出した。それは間違いなく、勝利の笑みであり、自分はあのような棺桶に半分足を突っ込んでいる人間とは違うという満足の笑みだった。
彼はその事を意識し、自分もまた多くの人と同じような、ごく自然な人間としての残忍な感情を持っている事を理解した。
しかし彼は反省しようとはしなかった。(そういうものだ)とごく簡単に考えた。彼はある時期から、倫理的に潔癖であろうとする努力を放棄した。確かに、(そういうもの)だった。山崎は、それ以上考えたくなかった。自分も凡庸な人間の一人だという事実を発見したところで、天才になれるわけでもない。…ただ、彼は、あの時、あの瞬間自身がそういう残忍な笑みを漏らしたというその事実、それだけは忘れないようにしようと、それだけ頭の片隅で思考した。
「山崎さん」
名前が呼ばれた。彼は幽霊のように立上った。
外は寒かった。一週間前に枯葉を落とした木が病院の前に、一週間前と全く同じ姿で立っていたが、山崎は見向きもせずに通り過ぎた。
アパートに帰って、彼が一番にやった事は机の上の枯葉を握り潰してゴミ箱に入れる事だった。
(こんなもの) 彼は無表情で彼は握ると手の中で粉々にしてしまった。乾燥した物質は彼の手のひらの中でただの粉になった。彼は粉をゴミ箱に放り込んだ。
(これは俺じゃない。…他人だ。いや、ただの死物だ。死体だ)
山崎はキッチンに行き、手を洗った。そうして今日からは食べる量を半分に減らそうと固く誓った。
※
二週間が経った。
山崎は決意した通り、また医者に言われた通りに食事量を減らした。日中は散歩もした。
炭水化物を減らすと、体調は良くなった。全身の重たさが取れて、楽に動けるようになった。
(なんだ、単純な事じゃないか)
具合が良くなるにつれて、死についての想念は遠のいていった。机の上に置いた枯葉も、医者も、健康が戻るにつれどうでも良くなった。医者には、検査の後も病院に来るように言われていたのだが、行かなかった。健康になってしまえば、医者に何の用があるだろうか。
彼はそうして普段の日常に戻っていった。ところで、ひとつの問題が持ち上がった。
それはごく単純な事で、貯金が底をつき始めていた事だ。当然起こりうる事だが、彼はその事実を見ないようにしていた。
(働き始めないとな)
彼は考えた。彼は、安堵していた。体調が良くなったので、アルバイトも今なら可能になっていた。
(もしこれが体調悪いままだったら…俺は本当に孤独死していただろうな)
彼は考えた。そうして、インターネットで求人を探した。できるかぎり楽そうな仕事を探して、応募するつもりだった。
もう冬は終わろうとしていた。それでも足元には冬の名残りである枯葉が残っていた。
山崎はアルバイト先を決めていた。近所の個人経営の弁当屋だった。夕方から夜にかけての仕事だった。
仕事は翌週からだった。山崎は必要な書類を集めて、記入を終えた。あとは新しい生活を始めるばかりだった。
そんなある日に、彼は散歩に出てみた。近所の川沿いの道を歩く。
その川はゆるやかな流れで、鯉がよく群がっていた。鴨もよく水面を泳いでいたし、白鷺がやってくる事もあった。白鷺はその色で、よく目立った。
山崎はゆったりとした気持ちで川べりを歩いてみた。まだ冬だったが、穏やかな日差しは春の到来を予感させていた。
(そういや、俺は死にかけていたな…)
彼はついほんの二週間前を思い出した。彼はその時、死の事しか考えていなかった。今や、彼にとって死は関係ない。死は他人となっていた。
(馬鹿馬鹿しい、死ぬ事はない…)
彼はそんな風に考えて歩いた。と、彼は足を止めた。
足元には、あの時、病院の前で拾ったような枯葉が一枚落ちていた。あたかも、彼の通る道を塞ぐように、一枚だけが彼の前に鎮座していた。
山崎は苦笑した。そうして、あの時と同じスニーカーのまま、枯葉を踏みつけようとした。踏みつけたら、間違いなく粉々になるだろう。
しかし彼はその寸前で、足を前に出した。踏みつけずに、そのまま足を前に運んだ。
山崎はそのまま反対の足も前に出した。意図的であるかのように置かれた枯葉を無視して、先へ進んだ。そのままずんずんと歩いていった。
山崎は空を見上げた。あの時と同じような夕暮れだった。陽の光に、目を細めた。
ふと、彼は振り返った。急な動作だった。誰かに呼ばれたかのようだった。
山崎は小走りに走り、さっきの枯葉の前までやってきた。
「馬鹿馬鹿しい」
山崎はそうつぶやくと、綺麗なままの枯葉をそっとつまみあげ、ポケットに入れた。彼は振り返り、元の道を歩き始めた。
その顔には不思議な満足感が漂っていた。そうして彼はそのまま川べりの道を歩き続けた。枯葉は帰ったら、前と同じ位置に、前と全く同じように置いておこう、と心の中で考えた。