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賢者やめて勇者になりたい~『かいしんのいちげき』でいつか最強勇者に~

作者: 舞波テオル

「かいしんのいちげき」。


 それは極々稀に発動する、人が持つ可能性の切れ端のようなもの。


 攻撃者が周りの風景など目に入らない程に集中し、感情が高ぶった時のみに起こる偶発的な現象。


 歴史に尚を残す武人達は皆その極致を求め、鍛錬し、その時を待っていたという。


 そうしてその一瞬がやってきた時にこそ、己の潜在能力を、輝かしい未来を実感し、他の者とは一線を画すほどの『格』のようなものを身に着けるという。


 そして今、それは起こった。


 魔王軍幹部、エスター相手に戦いを繰り広げている勇者一行の一人、賢者アシュレによって。


 エスターは塵も残さす弾け飛んだ。圧倒的な衝撃によって体を砕かれた。


「……」

 アシュレは杖を握りしめたまま惚けていた。


 数々の偉人と同じ極致を踏んだから、というのもある。


 圧倒的強者であるエスターをただの一撃で葬り去ることが出来たその衝撃を受けて、ともいえる。


 ただし、そのどちらよりも多くを占める、ひどく単純な理由がそこにはあった。


 賢者アシュレは魔法の達人。特に回復魔法に秀でた、勇者パーティーのヒーラー役。


 その彼女が巻き起こした、生涯で最も激しいその一撃は、魔法によるものではなかった。



 杖でエスターをぶん殴って、ぶち殺した。



 そのあまりの馬鹿馬鹿しさに、目の前の現実が信じられなくなっていた。


 ここに至るまで、数日の経緯がある。




「いやぁ悪いね賢者さん、俺らまでご馳走になっちゃって!今晩の主役はあんたらだってのにさ!」

「あはは……いえ、宴は皆で作るものですから。それに、奢ってくれたのは私達ではなく、この酒場のマスターなので。彼に感謝して、ありがたくいただきましょう」

「はっはっ、違いねぇ!ありがとよマスター!最高の夜にしようぜ!」


 男の声に、周囲の客も同調し、野太い歓声を響かせる。


 都会というには小さすぎ、田舎というには騒がしすぎる街、カスア。


 その中でもとりわけ騒がしい、街の人々の憩いの場である酒場には、いつにもまして大勢の人々が席を取り合う様にひしめき合っていた。


 酒場にいる誰もが目を輝かせ、酒樽を空にするがごとく、破竹の勢いでグラスを呷る。


 酒場に来ている特別な客を、皆で迎えようとしていた。


『魔王を倒す時代の英雄、勇者ご一行』を、この場にいる全員が歓迎していた。


 アシュレは騒がしい男達の姿に苦笑しつつ、果実のジュースが入ったグラスを傾けた。


「お前どこの酒場でもあればそれ飲むよな、そんなに旨いのか?」


 すると、ひしめく客の間を強引にかき分けながらこちらに向かい、勢いよく隣の座席に大柄な女が腰を下ろした。


「はい、とても。ビリベルのジュースは甘く、コクがあります。それに魔力を多少回復させる効果もありますし。飲みます?」

「遠慮しとく、あたし魔法使わねーし。つか酒以外飲めねえよ、こんな場所じゃ」


 言って豪快に笑った後、女は大きなグラスの中にたっぷりと入った酒を、ぐびぐびと一息に飲み干した。


 そうして口を拭い、息を吐く。


「……毎度思うんだが、こんなに歓迎されるとむず痒いよな。あたしらは旅してるだけだってのに」

「ふふ、そうですね。アリータはどこの街でも照れくさそうにしているの、しってますよ」

「ばれてんのかよ恥ずかしいな!」


 言葉とは裏腹に、アリータは気にした様子もなく、大きく口を開け笑っていた。


「いや、なんだ。あたしなんて、ただのド田舎喧嘩好き女だったわけでさ。地元じゃビビられてばっかだったよ。それがこんな、どいつもこいつもキラキラした目で見やがって……そりゃ照れるだろ」


 彼女は目を細め、辺り一帯をゆっくりと見渡す。


 アリータとアシュレは現在、魔王城を目指す旅の最中だ。


 魔王は100年周期で転生し、人間社会を脅かす。それに対して人類は、魔王の瘴気に耐えられ、かつ国の中でも特に戦闘の才に秀でた者を選び、魔王討伐へと向かわせる。人類が文字を覚えるよりも前から続く、輪廻の輪。


 アリータは戦士として、アシュレは賢者として、この旅へと加わっていたのだった。


「ま、とは言っても、あたしらはおまけみたいなもんだけどさ。あいつに付いてきただけだよな」

「……そうですね」


 彼女の言葉にうなずきつつ、その視線の先をアシュレは追う。


 そこに座っている男の周囲は、この賑やかな酒場の中でもとりわけ騒々しい。


 周囲にいる何人かの中では、感動のあまり祈るようなポーズをとっている者もいる。


「皆、ありがとう。君たちがこうやって歓迎してくれるからこそ、俺達は孤独に震えず、胸を張って旅を続けることが出来ているよ」


 風のように爽やかな雰囲気を纏うその男は、穏やかな笑みを浮かべ、そんなことを口にしていた。


「……ゼス。勇者ゼス。どこに行ってもあの人は、主人公のような扱いですね」

「そりゃ勇者だからな。誰が見たって主人公だろ。あいつがいるからあたしらだってこうやって好き勝手飲み食いできるわけだし」


 強調するでもなく自然にそんなことを言いながら、アリータはパンを頬張る。


「んーっ、うめぇ……。ほんと地元出て、『戦士』とかいうわけのわからねぇ仕事貰えてよかったよ、あたし。こうやってうめぇもんは喰えて、魔物を思う存分ぶっ殺せて、しかも旅の連れはどっちも性格最高ときた。こんなに愉快な旅はねぇよ。お前もそう思うだろ?」

「はい。私も、今が凄く楽しいです。旅に出てよかったと、心から思いますよ」


 アシュレは深く頷いた。


 愉快な仲間。思う存分鍛えた力を発揮できる環境。未知の探索。誰からも歓迎される、『ご一行』としての身分。


 どれもこれも、アシュレがこの旅に参加しているからこそ得られたものだ。他の何にも代えがたいほど尊いものだった。


「……けれど、そうですね。一つだけ、違うかもしれません」

「あん?」


 目を丸くするアリータに、アシュレは不自然なほど穏やかな笑みを浮かべた。


「私、最近思うんです。『勇者』になろうって。『賢者』、やめようかなって」

「……はぁ?」

「地味で目立たず埋もれがちな『賢者』をやめて、真正面から主人公な『勇者』になりたいって思うんです。なぜならかっこいいから。キラキラしていて格好いいから。とにかくかっこいいから。ゼスがかっこいいから」

「……お前、そんなキャラだっけ……?」


 困惑するアリータをよそに、アシュレは小さく拳を握る。


「……もう、我慢が出来ないから。仕方ないんです」


 拳を握る。


 その手のひらに込められた意志を離さないように、強く。


 宴が終わり、浮かれていた客も皆、それぞれの日常へと帰り始めた頃。


 アシュレ達一行は宿屋にて、それぞれの部屋を確認していた。


「おっし、他の部屋に人はいねぇ。ちゃーんと貸し切りになってるよ」

「確認ありがとう、アリータ。……しかし、毎度のことながら慣れないな。俺たちのためだけに、人払いをしてもらうのは……」

「警護の観点から見ると当たり前のことだと思いますよ。私たちの命を狙う悪党がいない、とも限りません。私たちが脅かされることはつまり、国民皆の命が脅かされることに繋がります。自覚をされては?」

「あ、相変わらず手厳しいな、アシュレは……」


 困ったように笑うゼスを前に、アシュレは鼻を鳴らす。


「私が厳しいのではなく、ゼスが緩すぎるだけです。……皆の憧れの『勇者』なのですから、それらしく振舞ってください。でないと、私が──」


 ゼスを見上げながら、アシュレは突如、言葉を止める。


「……?私が、どうしたんだ?」

「……なんでもありません」


 アシュレは首を振る。


 今彼女が口にしようとしていた言葉はただの八つ当たりであると、吐き出す前に気が付いてしまったから。


 憧れている男の人間らしい一面を見る度に、胸の中に渦巻く温かなものと、黒い苛立ちのような何かを感じてしまい、不愉快になってしまうのだと、そう伝えてしまいそうになったから。


 そんなものは私自身の問題でしかない。だから誰に、ましてや本人に伝える必要なんてない。


 アシュレはゼスの優しい一面を見る度に、そんなことを考えていた。


 少し間が空き、どことなく落ち着かない雰囲気になった場を切り裂くようにアリータが声を上げる。


「まーまー、その辺にしとけって。アシュレがゼスにめっちゃ憧れてるのも、ゼスがアシュレに嫌われてるんじゃないかーって気にしまくってんのも、あたしはわかってるよ」

「なっ、あ、アリータ、それは──!」

「それを言われると俺も恥ずかしいんだが──!」


 アリータが大きく口を開けて笑い、アシュレが顔を赤くして抗議しようとした、その時。


 宿の中に、何かが転がるような音が大きく響いた。


「あん?なんだ?」


 次いで、人がもみ合うような音。


「……下の階か。何かあったのかな」


 ゼスの顔つきが変わる。先ほどまでの、柔和な雰囲気はなりを潜め、刺すような目で、下の階を覗き込んだ。


 アシュレも背中に携えていた杖を構え、その視線を追った。


 すると、その視線の先には、二人──いや、三人程が口論を起こしている光景が見える。


 一人は宿屋の主人だ。中年の男性だが引き締まった肉体をしている。なんでも昔は国王直属の騎士団に所属していたとかで、アシュレ達の警護班のリーダーも兼ねている。


 その主人に向かって騒ぎ立てている女性は、これまた中年の女性だった。


 一般的な村人のように見える。身なりもこの辺りでよく見かける女性のものとなんら変わりはない。少なくとも野党の類には見えないだろう。


 しかし、一点だけ、彼女には特殊な点があった。


 その腕に、赤子を抱きかかえている、という点だ。


「だから、賢者様に会わせてって言ってるの、それだけでいいのになんで無理なの!?」

「一般の賢者と同じにすんじゃねえよ、お前だってそれぐらいわかるだろう……!」

「あの、私が何か……?」


 アシュレ達一行は、危険がないことを確認したうえで、彼女の前に姿を現した。


「あっ、すいません勇者さん方、こいつは街の機織りの女なんですが、どうにも賢者様に会わせろと聞きませんでして──」

「ああっ、賢者様!」


 女はアシュレを見るとすぐに目の前に走ってより、腕に抱きかかえる赤子を彼女へと見せつけた。


「た、大変なんです、この子が……!」

「……これは……」


 アシュレが目を向けた、赤子の腹。


 そこには薄く光る紫色の線で、羽のような文様が刻まれていた。


「……天使病」

「そ、そうなんです……!気が付いたらこんなものが刻まれていて、しかもこの子、息も浅く……!賢者様にならきっと治せるに違いないと考えまして!どうか、お代はいくらでも払いますので、どうか……!」


 涙を流しながら、何度もアシュレに頭を下げる、機織りの女。


 アシュレはその姿を見て、目を閉じ、唇を噛んだ。


 数瞬の後、アシュレは重く、口を開く。


「……ごめんなさい」

「……へ?」

「ここまではっきりと線が出てしまった天使病は、治りません。というより、体の方の損傷がどうにもならないんです。天使病は体の内側を破壊する病。私には、どうすることも……」

「……そ、そんな……」


 女は目を見開き、息をすることも忘れたかのように硬直する。


 そして──。


「……け、賢者のくせに、選ばれてるくせに、特別なくせに、な、治すことも出来ないんじゃ、あんたなんで生きてんの!?ねぇ、ふざけないでよ、ねぇっ!」

「──っ」

「わ、わたしの子ども、返してよ!ねぇ、ふざけんなっ!」


 唾を飛ばし、慟哭した。


「いい加減にしろ、おい!」


 宿屋の主人は今にもアシュレへと詰め寄ろうとする女を抑え、外へと追い出してゆく。


 女は戸の向こう側へと消えるまで、アシュレを睨み、口汚く罵り続けた。


 主人ごと外へと消え、戸が閉まる。


 辺りには打って変わって、静寂が響いた。壁に備え付けられた蠟燭の火が、微かに揺れている。


「……気にすんなよ、アシュレ。お前がどうにも出来ないんなら、誰にもどうにも出来ねぇさ」


 アリータは優しく、その小さな肩へと手を置いた。


 すると彼女は、アリータへと顔を向けぬまま、低い声で呟き始める。


「……先ほどの病気の名前は天使病。ですが、俗称があるんです。知っていますか、アリータ?」

「え?いや、そりゃ知ってるけど……『捨て子病』だろ」

「はい。では、その俗称の理由は?」

「理由……いや、そいつはわかんねぇな」

「期間、だったか、確か」


 アリータが首を傾げると、ゼスがその質問を引き取った。


 アシュレは頷くと、息を小さく吐く。


「天使病は、子どもしかかからない病気。最初にお腹に薄く線が出ます。病状が悪化するごとに、線が徐々に濃くなっていき、最後には死に至ります。最初から見た目に変化が出る病気ですから、発病したこと自体はかなりわかりやすい。その上で、完全に死に至るまでの期間がとても長いんです。三週間、ですから」


 さらに、とアシュレは話を続ける。


「しかも治療はとても簡単です。2週間半ばが経つ前に、初歩の回復魔法を使えば治せます。どの村にも賢者が一人はいる時代ですし、初歩の魔法であるのなら賢者でなくたって習得している人がいるぐらいです。料金もさほどかかりはしないでしょう」

「……だから、捨て子病。富もなく、治す手段もわからず、頼ることの出来る大人もいない捨て子ぐらいしか死なない病気、ということなんだな」

「……ひっでぇ名前」


 吐き捨てるように言うアリータの言葉に、アシュレも頷く。


「……彼女は機織りをしていると主人が言っていましたね。身なりも一般的で、お金に困窮しているとも言えないでしょう。どこを見ても一般的な女性です。そんな彼女が、あの状態になるまで赤子の病気に気づけなかった、ということを、私は考えてしまうんです」

「……アシュレ」


 ゼスも、アシュレの肩に手を置いた。どこまでも優しく。


「彼女にも事情があるのでしょう。ですが、どんな事情があったとしても、そんなことになるまで赤子を顧みないというのは、おかしなことだと思ってしまいます。一目見ればわかる病気なんですから。おまけにあの赤子は、汚れていました。体を洗ってもらったのはいつのことになるんだろうって、そんな状態でした」


 アシュレの声は、震えていた。いつのまにか、その手は固く握りしめられている。


「そんな、大切な赤ちゃんを放置するだけ放置して、最後には私のところへ来て、あんな風に怒鳴ってくるのは、それは、ただ私のせいにして楽になろうとしているんじゃないかって──!」


 肩を震わせ、喉を痛めつけるかのように上ずった声を吐くアシュレを、アリータは大きな両腕で包み込んだ。


「……大丈夫、大丈夫だ」

「……こんなことを思ってしまう私はなんと汚れているのかと、辛くて……」

「汚れてなんかいないさ。魔法のことを知り尽くしているアシュレだからこそ、人の裏までわかってしまうというだけだからね」


 ゼスもアシュレの頭に手を置いて、緩やかに撫で、さすった。


「彼女がどんな考えで、どんな状況下にいるのか、本当のことはわからない。痛ましいと、本当に、心の底から思うよ。だけど、その責任に自分一人では耐えられなかった。だからアシュレに頼った、という面は、間違いではないんだろう。彼女がああやって責めていたのはきっとアシュレじゃなく、アシュレを通してみている自分であったり、世の不条理であったり、そういうものなんだと思うよ」

「……そう、ですね」


 俯くアシュレに、二人の仲間は静かに、最大限の優しさを持って寄り添ってくれた。


「……」


 アシュレはこれまでのことを思い出す。


 こういったことは、今回が初めてではない。


 これまでの旅の中で何度も同じようなことが起きた。状況や相手は違えど、自身の賢者としての力を頼りにしてくる人間は何人もいた。考えてみれば、旅に出る前からそういった声は聞こえていた気もする。学院に居たあの頃から。


 そして、アシュレが願いを叶えられないと知れば、失望したように去っていく。それがどれほどの不条理であったとしても。


 彼女は理解していた。皆も本当は善良な人間で、目の前に垂れ下がった不幸のせいで様子がおかしくなっているだけだ、と。一人では耐えられない重荷を、なんとかして逃がそうとしているだけであると。


 理解はしていた。


 ただ、どうしてもある考えだけが頭を離れなかった。


 なら、今自分が皆から受けた傷は、誰に渡せばいいのだろうと。


 自らの心に巣食った黒いものは、誰が責任を取ってくれるのだろうと。


 こうして仲間が傍にいても癒えない、目に見えない傷を、全身に付けられているような気がしていた。


 だからこそ強く思うのだ、賢者なんてろくなものではない、と。


 勇者になろうと。


「……ありがとうございます、大丈夫です、私は」


 力なく微笑むアシュレを、二人は心配そうな顔で見守ってくれた。


 握りしめた拳を、彼女はまだ開かない。


 聞こえぬように口の中で、勇者になろう、という言葉を噛み砕く。


 目の前にいる男のような存在に、皆から憧れられて、恨みをぶつけられることすらない、輝いた存在へなるのだ、と、再び決意する。


 彼の輝く精神性とは程遠い、浅ましい欲求からなる自身の動機は勇者には不適格であろうことを自覚しながら、もう、止められはしなかった。


 まだ薄暗く、肌にほんの少し、寒気が差し込む時間帯。


 昨夜の騒動もあり、目が早々に覚めてしまったアシュレは、人々の往来がまだ少ない街を歩いていた。


 元々眠りが深い方ではないが、まして眠れなかった今、頭にかかっているもやのような痛みを少しでも軽くしようと、朝の散歩へと思い至っていた。


 靴が地面を擦れ、微かに生じた音が、冷たい空気へと溶けていく。


 朝の仕込みをする料理屋の店主や、洗濯などに取り掛かる使用人の姿がちらほらと見える程度で、街自体が眠っているかのような、そんな錯覚をアシュレは感じた。


 だが。


「……?」


 アシュレは首を傾げた。どこからか、人々の騒々しい声が聞こえている気がする。


 声の方へと足を進めてみる。元より目的地などない。気の向くままに歩いているだけだ。


 ゆっくりと足を進め、辿り着いた先は、広場のような場所だった。


 石畳の開けた空間が広がっており、その丁度真ん中あたりに、何代目かの勇者をかたどった銅像が鎮座している。


 声の正体は、その銅像周辺にあった。


「……ゼス……」


 勇者ゼスが、銅像へともたれかかるように座っている。


 そしてその周囲には、年齢の区別なく、様々な人が、彼を囲むようにして、同じように座っていた。

 大人が、子どもが、老人が。まるで身分や年齢の差などないように。


 誰も彼もが笑顔だった。勿論、当の勇者本人も。


「ゼス様!」

「ゼス殿」

「ゼス兄ちゃん!」


 皆が勇者の名前を呼んで、楽しそうに笑っていた。


「……」

「……ん?アシュレ?」


 その様子をしばらく惚けたように眺めていると、ゼスが彼女に気づき、大きく手を振った。


 すると丁度そのタイミングで、沈んでいた朝日がようやく眠りから目覚め始め、微かに陽が指した。


 陽光はゼスらの後ろから、彼らを柔らかく包み込む。


 照らされた勇者と街の住民。誰も彼もが笑っている、温かい一瞬。


 どんな魔法使いでも描くことが出来ない程、どんな芸術家でも表すことが出来ない程、そう感じさせる程に、美しい光景だ。


 アシュレはそう思った。


 それはアシュレに何か、忘れていたものを思い起こさせる。


 同じようなものを見たことがある。旅の初めよりもっと前、学院で無目的に学んでいた頃。


 故郷の街を訪れたゼスが、同じように輝いている姿を、確かにアシュレは覚えていた。


 その姿が旅のきっかけのひとつである、と。心の奥底に眠っていた想いが、アシュレを包む。


「確か、元々は……」


 元々、旅をする前から、自分は彼になりたいと思っていた気がする。だけど、今よりもっと幼く、単純な動機で。


 それがなんなのか、本当はわかっている気がする。だけど、今の自分にはふさわしくないものだから、考えることが出来ないような、そんな気がする。


 何もかもが不確定な考えが頭をめぐる中、ゼスが再びアシュレに声をかける。


「あっ、ごめんなさい……」


 ぼんやりとする頭を振って、アシュレはゼスへと歩を進めた。


 ゆっくりと進めながら、微かに感じた違和感を、誰にも聞こえぬ呟きとして漏らす。


「……どこでも、あの頃でも、ゼスの名前を、皆から聞いてるな。けど、私は……」


 陽が高く上り、何もかもを区別なく照らしている。


 アシュレ達一行は数日間の滞在の後、補給を終え、街を発っていた。街中の人間が集まっているのではないかと思えるほどの、盛大な見送りを受けながら。


 それから数時間が経つ。打って変わって今、アシュレ達は人の気配がしない山道をゆっくりと上っている。


 なだらかな斜面を、彼女らの乗る馬が軽快に踏破していく様は、どこか小気味よいものがあった。


「ん-、天気もいいし、魔物も全然でてこねぇし、眠くなるな……」

「はは、流石はアリータだな。俺は未だに馬の背の感触が気になって、中々気が抜けないよ」

「実家の馬達は皆アリータに懐いている、と聞いたことがあります。牧場の娘としては理想的ですね」

「だろ?ま、残念ながら今となっては実家飛び出して斧振り回してる女戦士になってるわけだが。馬乗り回してる時間は家いたときより増えてる気もするけどな」


 益体もない話を、誰にはばかることもなく繰り広げる。アシュレはこの時間が嫌いではなかった。


 街にいると、どうにも落ち着けていない気がする。寝心地のいいベッド、温かく迎えてくれる人々、美味しい食事。どれも当然得難く、素晴らしいものだ。


 だけれど、どこか気が引ける。


 街にいる時の自分たちは、国を救う英雄として扱われることになる。誰も彼もが、役割を求めてくる。


 そんなことは初めからわかっている。これも当然の話だ。わかっていて旅を始めた。


 だが、それはつまり、会話の一つ一つを監視されている、ということでもあり、中々気を抜いて会話をすることが出来ないというのは、どことなく息苦しさを感じてしまう。


 とりわけアシュレが苦手なことは、自分たちがゼスの添え物であると嫌でも実感させられることだった。


 ゼスが大きく歓迎される姿を見る度に、心にしこりが残ってしまう。


 何よりそんなことを考える自分がいつもいつも、嫌になっていた。


 だから、自分たち以外が誰も居ないこの空間で話をすることは、アシュレにとっては貴重な、ありのままの自分をさらけ出すことが出来る時間になっていたのだった。


「魔王ブッ倒した後にゃ、また実家戻って馬どもの世話するのもいいかもしれねぇなぁ……っと」


 先導していたアリータが、突如歩みを止め、前を見る。


「……これか、街の人が教えてくれたのは」


 ゼスとアシュレも足を止め、同じようにそれを見た。


 彼女たちの眼前には、小さな関門があった。放棄されており、人のいる気配はない。


「話には聞いていましたが、なぜ誰もここを管理していないのでしょうか……?」

「この辺りは夜間になると魔物が出る。昔は安全な場所だったんだろうけど、近頃は魔物の生存圏が広がっているから、維持することが出来なくなったんじゃないか」

「よくある話ではあるよな。でも今問題なのはそっちじゃなくて、このがれきの方だろ」


 アリータが顎で指した先には、崩れはてた門の残骸が転がっていた。がれきが山のように積みあがっており、関門の入り口を塞いでいる。とても人が、ましてや馬が通ることのできる隙間など、どこにも見当たらなかった。


「こりゃ普通には通れそうにねぇなぁ……」

「他に道はないんですよね?」

「ああ。一応あるにはあるんだが、山を大きく迂回するルートになってしまうらしい。かなり時間はかかってしまうな」

「ってなると、手っ取り早くいくにゃあ……」


 どこか弾んだ声で、アリータは彼女と同程度、巨大な斧を軽く構える。


「この岩山をぶっ壊せばいいわけだな?いいじゃん、こういうのも嫌いじゃないぜ」

「流石アリータ、躊躇いがないな。うちの戦士は本当に頼もしくて助かるよ。じゃあ、ケガだけはないように──」

「待ってください!」


 アリータによる関門大破壊が始まる寸前、アシュレは彼女たちの前に進み出る。


 そして自ら、杖を構えた。


「……?なんだよアシュレ、別にあたしらケガはまだしてねぇぞ」

「ええ、そうですね。私も、治療のために立ったわけではありません」

「ん?ってーと、つまり……」

「アシュレ、君がやってくれるのか?」


 驚愕するゼスの言葉に、アシュレは静かに頷いた。


「ここは私に任せてください。一撃できれいさっぱりにしてみせますよ」

「珍しいなオイ!っつーか、できるのか?」


 アリータの目には、驚きと好奇心が渦巻いていた。


 無理もない。アシュレはこの旅を始めてから一度も、攻撃魔法を使っていないのだから。


 一般的に、魔法は攻撃と治癒の二種にわけられる。


 その中でも攻撃魔法に秀でた者を魔導士、治癒魔法に秀でた者を賢者、と呼ぶ。


 魔法の道はプロフェッショナル、基本的には領域を横断しない。攻撃魔法や治癒魔法の中でも厳密に区分される。ましてや治癒魔法の専門家が攻撃魔法を使うことなど、前例はそう多くはなかった。


 だが、不可能ではない。人間がいくら自らにジャンルをつけようと、魔法はただそこにあるものだ。


 使えない、という道理はない。密かに進めた研究成果から、アシュレはそれを確信していた。


「確実に打てるようになるまで時間がかかりましたが、今なら必ず成功します。実戦経験は初めてですが……これぐらいの障害物なら、すぐにでも破壊できます」

「へえー、やっぱお前すげぇんだな!んなこと出来る賢者なんざそうはいねぇよ、研究熱心で感心だぜ。うちの魔法姫は流石だよなぁ、勇者さん?」

「ああ、流石だ」


 ゼスは深く頷き、目を細めて頬を緩めた。


「一流だからこそ、技術の鍛錬を惜しまない。基本ではあるけれど、皆忘れていることだよな。アシュレは凄いよ、立派な賢者だ」

「……どうも」


 曖昧な笑みで、アシュレは応える。


 褒められたことそのものは、素直に喜ばしいことだ。


 しかし同時にうっすらとした居心地の悪さも感じている。


 彼女がわざわざ専門外の攻撃魔法に手を出したのは、彼に近づくためだから。


 彼のように、目の前の困難を吹き飛ばしてみたいから。


 立派な賢者なんてものではなく、極めて個人的な、私怨とも呼べるその動機を、今更言い出すことは出来なかった。


 ゼスの顔を見ないようにしながら、アシュレは岩山に向き直る。


 そして全身を杖と一体化するような感覚──自らは杖の付属物であるという自意識──を呼び起こし、唇から微かな声を絞り出す。


『増やせ、燃やせ』


 その二言を唱えた瞬間、目の前の瓦礫の山がぴきり、と、擦れるような音を立てた。


 そして、一瞬の沈黙の後、中から蒸気が漏れ出し、全体が振動し始める。


 岩山の脈動が始まるか始まらないかの内、彼女はまた一言、囁くように呟いた。


『はじけ飛べ』


 その瞬間、目の前の障害物たちは、抑え込んでいたものを内側から解き放つように──小気味よい破裂音を立て、一斉に砕け散った。


「おおー!すげぇ!」

「はは、ここまで見事に……!」

「……ふう」


 魔力を奔走させたことによる血流の高まりを、全身の脈打つ感覚でしっかりと味わいながら、アシュレは息を吐いた。


 成功した。理屈の上でもこれまでの鍛錬からも、失敗すると考えてはいなかったが、やはり緊張していたのだろう。筋肉が弛緩していく様を、アシュレは感じていた。


 悪くない結果だ。目の前の障害物は木っ端みじんに砕け散り、最早通れない道理はない。安心して歩を進めることが出来る。


「……よかった」


 誰にも聞こえないように呟く。ようやくアシュレにも達成感のようなものが湧き出始めていた。


 このレベルまで攻撃と回復を両立できる賢者はそういないだろう。魔導士を含めてもそうだ。


 専門化し、細分化された現代の魔法界に置いて、このように領域を横断しようと試みるものがそもそも少ない。自らは特別なことを成し遂げ始めている。


 このまま鍛錬を続けていけば、歴代の偉大な賢者たちの最後尾に名を連ねることだってできるかもしれない。私も一員になれるかもしれない。


 何よりここまで攻撃が出来るのなら、きっと、勇者にだって──。


 アシュレが拳を握りしめた、その時。


 目の前の関門が、音を立てて崩れ落ちた。


「あっ──」

「やばい、アシュレ!」


 アリータは叫ぶと、即座に走り出した。


 崩れ、大きな塊になった瓦礫が雪崩のように迫り来る。


 咄嗟のことに、アシュレの身は思わず固まってしまった。仮に動けていたとしても、退避は恐らく間に合わないだろうが。


 アリータの距離も遠い。防ぐことは叶わない。


 成功の喜びが、一気に恐怖と後悔の念に塗り替えられてしまった、その瞬間。


 誰よりも早く駆け出していた勇者だけが、まっすぐに、恐れを知らず、迫り来る雪崩を見据え、賢者の前へと参上した。


 そして身をかがめ、息を止め、深く、剣を構える。


 視線はまっすぐ、それでいて右向きに大きく体を捻る。


 強く握りこまれた白銀の剣から、微かに煙が立ち上る。


 眼前へと迫った瓦礫に向けて、ゼスは思い切り剣を横なぎへと振りぬいた。


「ふっ──!」


 渾身の一振りは、目の前の空間を切り裂く。


 ゼスの振った軌跡から、斬撃のようなものが発射された。


 膨大な魔力が実態を伴い、鋭く形を変えて飛んでいく。


 そしてそれは、瞬く間に雪崩を消し飛ばした。


 触れた関門の欠片は跡形もなく消え去り、周囲の土が鈍く砕ける音を響かせながらえぐり取られていく。


 そして斬撃が地面へと触れた瞬間、一瞬の閃光が走り、耳をつんざく破裂音が辺りへと鳴り響いた。


「ぐっ──!」


 砂煙が辺りを覆う。目を開けていられなくなり、アシュレは思わず腕で目を護った。


 暫く風が躍るように吹き、徐々にそれが落ち着いてきた頃。


 腕を外し、アシュレはゆっくりと目を開けた。


「……」

「……大丈夫か、アシュレ。ケガはない?」


 アシュレの方を振り返り、不安げな顔をするゼス。


 彼の前には、先ほどまでとは全く異なる光景が広がっていた。


 全てが消し飛んでいる。


 関門も、雪崩も、周囲の草木も。


 辺り一帯、山の中腹部まで及ぶ膨大な範囲が、巨大な円を描くようにえぐれていた。


 ゼスが、単独で周囲を破壊したのだ。


 未だかつて見たことがないゼスの力の一端に、アシュレは思わず惚けていた。


「……?あ、アシュレ、もしかしてどこかケガを──」


 ゼスが不安げな顔を一層曇らせ、アシュレに歩み寄ろうとしたその時。


「馬鹿野郎が!」

「あだっ!?」


 アリータがゼスの頭をばしり、と叩いた。


「あ、アリータ!?なんで、」

「やりすぎだ馬鹿野郎!ここら辺隕石降ってきたみたいになってんじゃねぇか!環境破壊もいいとこだぞおい!」

「あ……」


 初めて惨状に気が付いたかのように、ゼスはハッとし、気まずそうに周りを見渡した。


「ご、ごめん、咄嗟だったもんでつい……」

「にしたって加減があるだろうが、下手すりゃアシュレごと巻き込まれてるぞこれ!」

「そ、それは絶対にないようにした!二人を巻き込まないようには十二分に気をつけたんだ、そこは信用してほしい!」

「ったく、どうだか……大丈夫か、アシュレ?」


 頭を搔きながら、アリータはアシュレの方を振り向いた。


「……アシュレ?」

「……ああ、いや、はい。大丈夫ですよ、ケガはありません。……ありがとう、ございます」


 いつもと変わらぬ柔らかい笑顔を、アシュレは張り付けた。


 ケガはなく、万全な状態だった。先ほどまでの恐怖も消え去り、今は安心して、そこに立っていられた。


 命の恩人に、その笑顔を向ける。


 息一つ切らしていないゼス。先ほどの魔法の影響か、まだ疲れが残る自身の体。


 木っ端みじんになった周囲。ゼスの攻撃で最早形の残らない、自らが砕いた関門の破片。


 そのどちらも目に入らぬよう、アシュレは更に目を細め、笑った。




 微かな光が頭上を埋め尽くし、地上を淡い白で染め上げていた。


 街中では見ることの叶わない星々が、山の中では姿を現す。人工的な光のない山中でも、うっすらと足元が見える程度には星の光は頼もしいものだった。


 小さく音を立て、燃え続ける小さな木の塊に、アシュレは薪をくべた。


「……」


 ぼんやりと炎を眺めている。周囲には結界を張っているため、魔物に襲われる心配もない。加えて、火を絶やさないようにする魔法を、アシュレは既に習得している。本来起きている必要はなかったが、それでも、彼女は炎の番をすることをやめようとしなかった。


「まーだ起きてんのか、夜更かしだな」

「あ……」


 背後からアリータの声がする。振り返ると、彼女は息を吐きながら、アシュレの隣へと腰を下ろした。


「ごめんなさい、起こしてしまいました?」

「いんや、勝手に目が覚めただけだよ。意外と眠りが浅いタイプでな。寝ては起きてを繰り返してんのさ」

「へえ、それは……初めて知りました」


 もう数年単位で共に旅を続けているのに、まだこういった初歩的な情報が入ってくることに、思わず困ったような笑みが浮かぶ。どこまでいっても、完全にお互いを知りあうことなど出来ないのだろう。


「ま、普段はわざわざ起きてこねぇからな、知らなくて普通だよ。お前だって普段から夜更かししてるわけじゃないだろ?」

「まあ、そうですね……今日は偶々眼が冴えてしまったので」

「昼間のことでか?」

「……」

「いや、違うか。もっと前から、悩んでたんだろ、お前」

「……本当に、アリータはよく気が付きますよね、そういうところ」


 豪快なようで目ざとく、細やかな気配りが効く。アリータの相反した性質は、アシュレにとって心地のいいものがあった。


 それから、少しの間、二人で静かに炎を眺めた後。アシュレはぽつり、ぽつりと声を漏らした。


「……今日のゼス、カッコよかったですよね。私を救ってくれて」

「そうか?明らかにやりすぎだったろ」

「あはは……まあ、それでも。救ってくれたことに変わりはありません。動けなかった私の前にさっと立って、雪崩を吹き飛ばしてくれた。カッコよかったんです。私なんてとても及ばない程に」

「……」

「私ね、沢山研究したんです。攻撃魔法。研究して、練習して……昼間見せたものは、今の私が撃てる最大火力です。あれ以上は出来ません」

「ああ、凄かったよあれ。お前はさ、回復が基本専門なわけなのに、あんなすげえ攻撃を使えてさ。あのレベルは他の賢者じゃ無理だよ、少なくともあたしはほかにあんなことが出来る賢者を知らない」

「……それでも、ゼスには及びません。とても」


 アシュレは足元に目を向けた。炎が視界から消え、薄暗く照らされる地面が見える。


「今、及ばないんじゃないんです。きっと一生及ばない。届かない。私にはゼスのような攻撃は出来ません。目の前の敵を、あんな風には砕けない」

「いや、それはさ──」

「わかってるんです、めちゃくちゃを言っているって。だって、私は賢者ですから。賢者がこんなことを言うのはおかしいんです」


 拳を握りしめる。痛いほどに。爪が、手のひらに食い込んでいる。


「だけど、ダメなんです。価値がない。私の目指す理想の姿に、私の魔法は使えない。私はゼスになれない。そんなこと、わかっているはずなのに……私は……」


 いつの間にか声は震え、息が荒くなっていた。内に秘められた想いが、胸を破って飛び出そうとしているような感覚が抜けない。


 それから、ほんの少し時が過ぎた頃。アリータは、アシュレの背に手を置き、優しく撫でさすった。


 そして、落ち着いた、柔らかい声で、ゆっくりと口を開く。


「……昼間にさ。なんでゼスがあんなにやりすぎちまったか、アシュレにはわかるか?」

「え……?」

「焦ったんだよ、あいつは。そりゃもうめっちゃくちゃ。加減なんてきかねぇぐらい。だからあんな風に周りをぶっ壊しちまったんだ」


 アリータは喉を鳴らし、おかしそうに頬を緩めた。


「あの無敵の勇者様が、ただの岩っころに大焦りだ。全然カッコよくなかったぜ、あの時。お前にはあいつの顔とか見えてなかっただろうけど」

「そう、なんですか……?」

「ああ。ま、そういうところはあいつの美点だけどな。あたしはあいつのそういうところは好きだよ」


 言いながら、アリータは空を見上げた。


「ゼスの過去、っていうか、どんな人生送ってきたかって、お前知ってるか?」

「過去……?部分的には……あの人はあまり、自分のことを話さないので」

「だな。隠してるんじゃなく、面白くないからって理由らしいぜ。あたしはあいつとそこそこなじみが深いから、ある程度知ってるんだが……」


 そう言って、アリータは焚火を弄りながら、ぽつりとゼスの過去を語り始める。


 偉大な勇者の一人息子として生まれ、膨大な魔力を備えていたため、幼少期から常に次代の勇者として特別視されていたこと。


 彼自身もそれに応えるため、必死に鍛錬を繰り返していたこと。


 誰からも特別視をされていたため、親しい友人や恋人が一人もいなかったこと。


 勇者としての人生を呪ったこともあるということ。


 それでも、勇者という役割を投げ出さず、成果を上げ、皆に認められている、ということ。


「……あの人にそんな過去が」


 アシュレにとって、その話は意外なものだった。


 勿論ゼスの苦労を想像してこなかったわけではない。並大抵の人生を送ってこなかったであろうことは想像に難くなかった。


 だが、ゼスに友人がいないとは思えなかった。


 あれ程までに皆から愛され、期待されているゼス。その気さくさで、旅先で次々と顔なじみを作るゼス。


 そんな彼であっても、孤独を味わった経験があるという事実は、考えてみれば当然の者であっても、にわかには信じがたい。


 そして何より、アシュレが驚いたことは、彼が自分を呪ったことがあるということだ。


 あのゼスが。


「びっくりするよな、色々。誰から見ても完璧超人のあいつが、寂しい思いしててさ、嫌になったりもしてたんだってよ」

「……でも」

「ああ」


 アリータは深く頷いた。


「それでもあいつはやめてない。求められた役割を、求められるままやってる。特別なやつだけど、ある意味皆がやってることかもな」

「……」


 アシュレは何も答えないまま、考え込むように目を閉じた。


 自らの人生を思い返す。


 才能に見合わない期待を背負って学院に入学したこと。


 必死になって回復魔法の修練に努め、学内で主席を取ったこと。


 しかし主席をとった途端、自分が何のために必死になっていたのかわからなくなったこと。


 確かにアリータの言う通り、皆が少なからず同じようなことをしているのかもしれない。アシュレも、親が求めるままに成績を上げた。だからこそ、頂点に辿り着いた時、どこに行けばいいのかわからなくなってしまった。


 けれどゼスは、その道に意義を見出すことが出来ていたのだろう。だからあれ程までに立派な勇者になっているのだろう。


「……まあ、ようするに。あんな超人に見えるやつでもそれなりに人間らしく苦しんでるし、意外とうまくいってない。それでもあいつが輝いて見えるのは、自分の使命やらなんやらをきっちりこなしてるから、ってことだ。生まれたときから勇者だから、とかじゃなくな」


 続くアリータの言葉は、アシュレにとって腑に落ちるものだった。


 使命を果たすこと。役割をこなすこと。そして役割に意義を見出し、従事すること。


 重要なことだ。きっと世の中はその繰り返しなのだろう。誰かが誰かを満たすこと、その輪でこの社会は構成されているのだろう。


「お前がさ、自分のやってることを価値なしだって思ってるのはわかる。だけどさ、そんなわけないんだよ。ゼスだって求められる役割をこなしてる。お前だってそうだ。立派に賢者を務めあげてるよ。誰にでもできることじゃない。お前の役割は、めちゃくちゃ重要なことだと、少なくともあたしは思うぜ」


 アリータが微笑む。アシュレもそれに、力なく笑い返した。


 アリータは正しい。私のやっていることは、きっと間違えていない。


 今歩んでいる道を、全力で進むべきだ。


 だが。


 アシュレの心の奥で、微かな引っ掛かりがあった。


 学院にいる時は、確かに役割をこなすために奮闘していた。


 役割の尊さを理解していた。


 だが、一度折れた自分が再び賢者の道を進もうと考えたのは、もっと別の理由だった気がしている。


 もっと初歩的で、原始的で、単純な理由があった気がしている。


 そう、確か、あの時。


 私は偶々学院に訪れたゼスの、その背中が、やけに目に焼き付いていたはずだ。


 それは、なぜ──?





「そろそろか?」

「ああ。あとしばらくいけば、奴が──エスターが潜んでいる城が見えてくるはずだ。幻影で隠されているから、その境界線まで行かないとね」


 アシュレとアリータ、二人が語らった夜の翌日。一行は、慎重に歩を進めていた。


 辺りは草木が適度に生えそろっており、空は快晴。行く先を考えなければ、眠ってしまいそうなほど平和な光景だった。


「二人とも、準備はいいか?」

「あったりまえだ、こちとら今すぐにでも斧ぶん回したいぐらいうずうずしてるぜ」

「ははっ、頼もしいな。もう少し我慢してくれ、後で最高の戦いが待ってるはずだ。アシュレはどうだ?」

「……」

「……アシュレ?」

「……あっ、す、すみません。私は、大丈夫です。魔力も十分ですし、いつでも戦えます」


 アシュレが答えると、ゼスは少し不安げな表情を浮かべた。


「本当に大丈夫か?どこか調子が悪いなら遠慮なく言ってくれ、数日なら引き延ばしたって影響は少ないだろうし……」

「だ、大丈夫です、問題ありません。考え事をしていただけですから」


 アシュレは慌てたように手を振った。


 事実、身体的なコンディションに関して、アシュレは完璧な状態だった。昨夜、いつもより寝る時間が遅くなったとはいえ、その分起きる時間を調整していたので全く問題はない。そも、アシュレは睡眠が薄い方であった。魔力に関しても、言葉の通り、充実したものとなっている。


 気がかりがあるとすればそれは心の方だ。


 昨夜、自らに問いかけた問題の答えが未だに見つかっていない。


 アリータの正論に、何が引っかかっているのか。


 何故今自分はこうして旅をして、賢者として働きを見せているのか。


 その二つが頭の中をぐるぐるとうごめき、アシュレの脳内を一杯にしていた。


 だが、そんなものは全て自分の問題だった。仲間に迷惑をかけるべき事象ではない。


 戦闘に入る前には切り替えられるだろうと、半ば思い込むことで自らのメンタルの回復に努めていた。


「ううん、だが──」


 納得していない様子のゼスの背を、アリータがぱん、と叩く。


「うおっ!」

「なーに心配してんだ、アシュレが大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ。ちょっと緊張してるだけだ。な?」


 言いながら、彼女はアシュレに向けて軽く片目を閉じて合図する。それに応えるように、アシュレも深く頷いた。


「はい、幹部との戦いですから、どうしても固くなってしまいます。ですが、いつも通り、きっちりと賢者としての使命を全うしますから」


 その言葉に、ゼスも背中をさすりながら耳を傾ける。


「う、うーん……まあ、アシュレがそう言うなら、わかった。信じるよ。だけど、何か異常があったらすぐに言ってくれ。誰が欠けても、俺たちは戦えないんだから」


 その言葉に、微笑みでアシュレは応えた。


 アリータを見ると、彼女も満足そうに頷いている。


 彼女はアシュレの心の揺れ動きに気づいている。そのうえで、考える時間を与えようとしてくれているのだろう。ゼスを心配させてしまうことそのものも、アシュレの意に沿うことではない。本当に気がよく利く人だ、と、アシュレは改めてアリータに感謝した。


「さ、妙な心配事する前に、作戦でも考えとこうぜ。城に入るタイミングとか、入ってからの優先順位とかな」

「ああ、そうだな。まあ、作戦通りに行動してうまく行った覚えが一度もないような気もするんだけど……」

「じゃあ考えるだけ無駄かこれ!」

「……そうかも……」


 冗談めかした会話で、場がどこか和やかになり始めようとした、その時。


 突如、前方の空間が揺らめいた。


「──っ!」


 最初に異変に気付いたのはアリータだった。彼女は馬から飛び出し、その空間を切りつけようとする。


 だが、それに辿り着くほんの一瞬の前に、空間から何かが飛び出した。


 そしてそれは、ゼスに向かって目にも止まらぬ速度で発射され──彼を、後方へと大きく吹き飛ばした。


「ぐっ!?」

「ゼス!」


 アシュレが叫び、後方を振り返る。


 跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられたゼスは地面に剣を突き立て、なんとか踏みとどまった。


 しかし、彼の体の鎧、その一部が大きく破損している。


 破損した個所からは、血が激しい勢いで漏れ出していた。


「そ、そんな……!」


 アシュレは狼狽え、彼の元へ駆け寄ろうとする。


 だが、ゼスの前に仁王立ちする影の存在に気が付くと、足を止めざるを得なくなってしまった。


 何故なら、その相手は。


「……エスター……!」

「おや、酷く慌てているようだな。どうした?何か辛いことでもあったのか?」


 アシュレを見下ろすその魔物は、彼女より遥かに大きな体をぴんと伸ばしながら、白々しく笑った。


 文献でのみ情報が伝わっているエスター。その姿を初めて目にし、彼女は畏怖を隠すことが出来なかった。


 ともすれば美しさも兼ね備えた、紫の肌。人間を遥かに超える長身。目に入れるだけで伝わってくる、尋常ではない魔力量。


 何より、そのとてつもない威圧感。幹部クラスの魔物はどれもこれも恐ろしい強さを誇っていたが、エスターもその例には漏れない。今の一瞬で、頭ではなく体で、それだけの情報が理解できた。


 更に、この場では一つの異常事態が起きている。


「どうしてこんなところに……!?」


 アシュレは杖を構えながら、声の震えをなんとか抑えようと、叫ぶように問いかける。


 この場における一番の異常は、エスターが目の前に立っていることそのものだった。


 通常、魔王軍の幹部が自らの拠点である城から外に出ることはない。幹部たちはそれぞれ魔王が各地に建造した城と魔力的に繋がっているためだ。城から離れることは、著しい弱体化を意味する。


 加えて、幹部クラスになると、存在しているだけで周囲の魔物が活性化する。活性化した魔物を放置しておくことは地元住民にとって大きな脅威となりえるため、人間側も駆除に回らざるを得ない。その為、城に籠っていたとしても、人間側から城に突入していくことも確定している。城から出るメリットは薄いため、城に籠って勇者を待ち構えているのが幹部の基本的な姿であるはずだ。


 しかし目の前の現実は、そういった常識が意味を持たないことを如実に告げていた。


 エスターは唇の端を吊り上げ、目を細めた。


「お前たちはどうにもやっかいだ。非力な癖に、相対するとどうにも我ら魔物は自然と敗北してしまう。しかし、だ。それは全てお前たちが十全であるという前提のもと、行われた戦いにすぎない。こうしてお前たちの隙をつき、勇者さえ負傷させてしまえば、魔王様の加護が切れていようとなぶり殺しにできる、というわけだな」


 エスターは顎に手を添え、たっぷりと時間をかけながら得意げに語った。


 その振舞からは、奇襲を成功させた愉悦がとめどなく伝わってくる。最早勝敗は決したかのように、どこを取っても隙だらけのように見えた。


 その油断だらけの背に、巨大な刃が迫る。


「ふっ──!」


 息を短く吐く音と共に、アリータが渾身の力を籠め、魔物の背へと斧を振り下ろす。アリータの背丈の二倍はあろうかという巨躯からは想像のできない速度で、致死の破壊力を伴い打ち当てられたその刃は、


「おっと」


 あっけなく避けられてしまった。アリータの方を見向きもせず、エスターは最低限の動きでその身を翻し、容易に躱す。


「危ない危ない、お前がいたことを忘れていたよ。馬鹿力だけがウリの野蛮人めが」


 彼女に向き直り、エスターはまた白々しい様子で、アリータを嘲き、嗤った。


「そうかよ、じゃあ一生忘れねぇようにでけぇ傷跡作ってやらなきゃなァ!」


 アリータも負けじと罵声を浴びせながら、再び足の先に力を貯め、一気に開放し、魔物へと飛び掛かってゆく。


 二人の刃と腕が交差し、火花が辺りに散った。そして目にも止まらぬ速度で、何度も何度もお互いに攻撃を撃ち合ってゆく。


 エスターの激しく、重い一撃を右へと弾きながら、アリータが後方へと向かって叫ぶ。


「アシュレ!ゼスを回復しに行け!あたしは大丈夫だからよ!」


 その声が戦場へと響いた直後、伏せているゼスが苦悶の表情を浮かべつつ、顔を上げ、声を張り上げた。


「いや、アリータの補助へ回ってくれ!俺はもう直に回復する、だから彼女を……!」


 見ると、ゼスの破損していた鎧が修復されつつある。彼が持つ加護の一部で、装備を含めた自らの体を、ゆっくりとではあるが自己修復することが出来るのだ。


「──」


 アシュレは両の声を聴き、一瞬の間硬直する。目の前の現実に圧倒されていた思考が、急速に回転し始める。


 アリータの言うように、ゼスを回復し、エスターを即座に殺してもらうことが、勝利という目的には一番近い。


 自力で回復できるとは言っても、今しばらく時間はかかってしまう。だが、アシュレであれば数秒も待たずにゼスを戦線へ復帰させることが出来る。アリータも、その一瞬であれば確実にエスターを足止めすることが出来るだろう。つまり、確実にエスターを殺すことが出来る。


 しかしこの場合、アリータの命が保証されない。


 ゼスがエスターへとたどり着く前にアリータが殺される可能性がある。魔王軍幹部の強さは伊達ではない。アリータも奮闘してはいるが、一人でエスターと相対し、勝ち切ることの出来る存在などゼスしかこの世には存在しない。戦力には明確に差があった。


 ゼスの言う様に、アリータをサポートすれば、少なくともアリータがすぐに殺されるようなことにはならないだろう。


 しかし、ゼスが回復するまでにアシュレ達が持ちこたえられるかどうかはわからない。確実な勝利への作戦、とは言えなかった。


 どちらの作戦を取るのか。アリータか、ゼスか。


 現実時間にしてほんの一瞬、一秒にも満たない間の思考の後。


 アシュレは、アリータの元へと駆けだした。


「おいてめぇ、ゼスの方いけっつったろ!?」

「いや、それでいい……!ナイスだアシュレ!」

 二人の正反対な感情から漏れ出す叫びを聞きながら、アシュレは杖に力を籠めつつ、アリータの前へと駆けこんだ。


 そして大きく杖を振るえば、半透明の膜のようなものが、アシュレ達とエスターの間へと現れた。


「もう攻撃なんてさせません……!」


 アシュレはエスターを睨みつける。先ほどまでの狼狽は姿を消し、戦場における一人の武人としての表情が、刻み付けられていた。


 アシュレが使ったのは簡易的な防御魔法。賢者としての成長過程で誰もが教わる、基礎中の基礎魔法と言えるものだ。


 しかしアシュレが繰り出したそれは、一般的な魔法使いが発動するそれよりも圧倒的な強度を誇っていた。


 圧倒的な知識と熟達した魔力操作によって生成された防御魔法は、幹部と言えど数度の攻撃では壊れない耐久性。一流の賢者としての腕前が惜しみなく発揮された、美しい魔法であった。


 アシュレは思考を回し続ける。これでいい。これがベスト。


 アシュレをこちらの作戦に引き込んだ最大の要因は、アリータとの夜の語らいで得た決意だった。


 役割を果たすことの重要性。


 自らの存在の価値。


 それらを最大限発揮させるため、アシュレは自身の賢者としての腕前を信じ、アリータの前へと現れた。


 最高峰の賢者としての自負、その誇り。賢者として、仲間を助けること。


 自らの賢者としての腕なら、アリータを助けながらゼスの回復を待つことが出来る。


 二人とも助けられるはずだ。


 そういった、一流の賢者としての思考が、アシュレの背を押した。


 今、アシュレの中にあるのは自信、誇り。


 自らが賢者であり、一流であるからこそ、今この場でこの作戦を取ることが出来るのだという、明瞭な意志だった。


 誇りを持って相対しながら、アシュレはエスターの目を見る。


 そこになにがしかのヒント、感情を読み取ろうとして。


 畏れや焦りを少しでも感じさせたいと、そう考えた。


 しかし。


 エスターは見下すような視線を返し、たった一言だけ言い放つ。



「賢者風情が。お前など居ても居なくても同じだ」



 と、心底あきれ果てた口調で、唾を吐いた。


 ただ、それだけだった。


 魔物の瞳には、何の焦りもなく。


 最初からアシュレのことなど眼中に入っていないかのように、ただ一瞥するだけ。


 ただただ、機械的に、アシュレの防御魔法を砕こうとしている。


 アシュレの誇りや自負の一切合切を、魔物は無視するどころか、考慮にすら入れていなかったのだ。


「──」


 アシュレの思考が、真っ白に染め上げられた。


「ちっ、ほんと胸糞悪いやつだなおい、アシュレ……!」


 アリータが毒づき、アシュレの反応を伺った。


「…………は?」


 対するアシュレは。


 その言葉を聞いた瞬間から、彼女の中の何かが壊れた。


 そこに至るまでの思考、経緯、感情、その全てが吹き飛んだ。


 エスターの言葉が頭の中で何度も繰り返される。


 何度も、何度も。


 何度も侮蔑の言葉が、脳内を飛び交った。


 そして──。


「──っ!」


 アシュレは、杖を大きく振り。


 壁として作られたはずの防御魔法を、振りかぶった。


 防御魔法が大きく上空に滑っていく。守るための壁が、微動だにしないはずの壁が、鳥のように浮かんでいく。


 そして、その膜を、勢いのままエスターに思い切り叩きつけた。


「ごっ!?」


 エスターの頭が地面に激しく激突し、跳ねた。


「……え?」


 アリータは、口を開け、呆然としていた。


 聞いたことも見たこともない防御魔法の使い方に呆気に取られていた。


 防御魔法は守りの魔法。攻撃という使用用途はあり得ない。


 それほどの耐久性を持つ防御壁を作ることは至難の業であり、そもそも一度作成した壁を移動させることは達人の技でなければ不可能なものであった。実行できる人間が極々限られている。


 加えてそんなことをすれば、魔力を込めて作った魔法壁が霧散することは明らかだった。端的に言って、魔力の無駄である。


 意味のない行為だった。


 であるのならば、何故アシュレはそんなバカげた真似をしでかしてしまったのか。


 アリータは答えを得ようと、恐る恐るアシュレに問いかける。


「あ、アシュレ……?」


 その表情は、答えを雄弁に語っていた。


 極めて単純な答え。


「い……」


 アシュレはわなわなと震え、息を荒く吐きながら、言葉を吐き出した。



「いい加減にしろよ、くそっ……!舐めやがって……っ!」



 アシュレは涙を流しながら、顔を真っ赤にし、叫んだ。


 ──猛烈な怒りが、アシュレの全身を包み込んでいた。


「どいつもこいつも舐めやがって、舐めやがって、舐めやがって!」


 アシュレは地団太を踏み、幼い子どものように叫んだ。


「──っ、人のことを、賢者、賢者、賢者と……!名前で呼べよ!私はアシュレだ、賢者なんて名前じゃない!」

「ぐっ……ふ、ふざけた真似を……!」


 頭を抑えながら、エスターはふらふらと、覚束ない足取りで立ち上がった。


 それを見るや否や、アシュレは目を見開き、再び防御魔法を展開する。


 その壁は、先ほどまでよりも更に分厚く、硬いものであった。


 それをまた振りかぶると、勢いよく、またエスターに直接叩きつけた。


「ぬうっ!?」


 エスターは腕で防ぐ体勢を取る。先ほどは不意を突かれてしまったためあのような無様な格好を晒していたが、分かっていれば防ぐことは容易であった。


 しかし、今やエスターがどのような状態であろうと、アシュレの知るところではなかった。そんなことは最早どうでもよいのだ。


 アシュレは一度壁を叩きつけると、瞬時に次の壁を生成する。


 そしてまた叩きつける。


 何度も何度も。


 エスターが身動きを取れない程に激しく、何度も、無数の壁の雨が降り注いでいた。


「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ!」

「ぬおおおおっ……!」


 アシュレは叫びながら、エスターの侮蔑を思い出す。


 連想して、今まで自身が受けた罵倒、その全てが脳内を飛び交っていた。


 あの母親を思い出す。


 息子を連れてきた、あの母親を。


「みんな私を賢者扱いしかしない!ヒールを繰り返す機械だとしか思ってない!勝手に、当たり前のように、この世の全てを私が癒せると思い込んでる!どうにもならないことをどうにもならないと言ったら、あんな目でこっちを見る!ふざけんな、何が賢者だ、クソしょうもない……!大切な役割だって言うなら、それ相応の扱いをしてみせろよ!私だって、私だって、生きてるのに……っ!」


 最早アシュレのそれは、嗚咽に近かった。声は割れ、裏返り、顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。


 魔力も限界だった。無差別に生成され、打ち壊された防御壁が、根こそぎ魔力を持っていく。


 次第に壁の圧は弱く、エスターも徐々に歩を進めていた。


「小娘が、馬鹿なことをするからだ!もう直にお前に辿り着く……!」

「──っ!」


 弱々しい防御壁をぶつけながら、アシュレは目の前の敵を睨みつける。


 こんなことでエスターを倒すことが出来ないことは、わかっていた。


 馬鹿なことをやっているのだと十分に理解していた。


 自分はゼスのようなことは出来ない。


 わかっていた。


 ──だが。


「だからなんなの……っ!」


 アシュレは地面を踏みしめ、杖を構える。


 そして詠唱無しに、エスターに向けて、何度も繰り返し練習した、あの攻撃魔法を解き放つ。


 エスターの腕が、ぱん、と音を立て、破裂した。


「なっ!?」

「出来ないからなんなの!向いてないからなんなの、役割が違うからって、そんなことがなんになるの……!」


 攻撃魔法を短く、高速で発動しつづける。


 エスターの体が、次々と弾ける。再生し、一瞬で元に戻ろうと、また何度も、アシュレはエスターを破壊し続けた。


「お、のれ……!」

「ゼスはかっこいい!皆に褒められてる!認められてる!皆が彼を、名前で呼ぶ……!物語の主人公みたいに!」


 アシュレは魔力を一際強く込め、全身に力を込めた。


「──私だって、そうなりたい!遠回しに諦めろだなんて言われたって、向いていなくたって、出来なくたって!」


 エスターに向け、強烈な攻撃魔法が発射された。最早それは光線に近い。


 発射の最中、アシュレは自らの原点を思い出していた。


 学院で燻っているとき。目標を見失っていた時。


 自分は、学院を訪れたゼスに、光を見ていたのだと。


 あの背中が、目に焼き付いてしまったのだ、と。


 誰もが憧れる彼に、同じようにアシュレも憧れた。ああなりたいと願った。


 人の役に立つことも、世界の平和を守ることも、その一瞬の中ではどうでもよくて。


 ただ、ゼスのようになりたい、その一心で、再び賢者を目指し始めた。


 自分の得意なこの道の先を歩み続ければ、きっと彼のような高みへ至ることが出来るのだ、と期待したから。


 ──だが、もう、それでは足りなかった。


 同じ場所に立ちたい、なんて控えめな憧れでは、もう満足が出来ない。


 だって、英雄のような人になりたいのではなく、英雄そのものに、アシュレはなりたいのだから。


「ぐおっ!」


 エスターの足元がふらつく。アシュレはその一瞬を見逃さなかった。


 足に大きく力を籠め、アシュレは跳んだ。


 魔力は最早残っていない。攻撃も防御も、魔法によるものを、今のアシュレは放てない。


 だが、そんなものがなくとも、彼ならきっと戦えるはずだった。


 それならば、アシュレが出来ない道理はない。


 大きく横に杖を構えながら跳ぶ。


 その構えは奇しくも、ゼスの構えに瓜二つであった。


 アシュレは叫ぶ。


「誰に迷惑をかけても、無理でも、無駄でも!私は、あの背中を、絶対に超えてやる──っ!」


 そしてそのまま、跳んだ勢いのまま。飛び上がったアシュレは、空中で全身が軋むほどに力を籠め、体を捻り。


 今のアシュレに秘められているすべての力を込めて、エスターの頭部に、杖を振り、砕ける程に強く、叩きつけた。


 鈍い衝撃音が辺りに響く。


 空間が、その一瞬歪み、時が止まったように感じた。


 ──そして、次の瞬間。


「が、あああああああっ!」


 エスターは断末魔の叫びをあげると、腕が、足が、胴が、次々にはじけ飛び。


 そして最後にその頭部が光り輝き、辺りを照らし。


 岩が砕けるような音と共に、血をまき散らしながら、破裂した。



 ──『かいしんのいちげき』。



 極致に到達した、その一撃を持って。エスターは、この世から完全に消滅した。


「ぐっ!」


 跳んでいたアシュレは、勢いよく地面に着地し、足がもつれ、激しく転がりつつもなんとか踏みとどまった。


 息も絶え絶えになりながら、ふらふらと立ち上がり、前を見る。


 そこに、魔物はもう、いなかった。


「……」


 アシュレは呆然としていた。目の前の現実も、自分が起こした行動の結果も、全て理解していながら。理解していたからこそ、立ち尽くした。


「あ、アシュレ……?」

「お。、おい、大丈夫、か……?」


 ゼスとアリータが、ゆっくりとアシュレへと向かってきている。


 困惑と、驚嘆をその顔に張り付けて。


 アシュレは振り向き、二人の顔を見た。


 そしてまた前に向き直り。


 数秒だけまた、呆然とした後。


 次第に喜色へと表情を変えながら、思いっきり、その場で飛び跳ね、叫んだ。


「やった!やった!あはっ、あはははっ……!出来た、私にも出来た、ゼスみたいに出来た!私だって、私だって……!」


 飛び跳ねながら、拳を振り回しながら。踊るようにアシュレは、喜びを全身で表しながら、叫び続けた。


「ざまあみろ、ざまあみろ、みんなみんなざまあみろ!あっはは、私だって凄いんだから、やれるんだから!あっははははははははっ!」


 困惑する二人をよそに、アシュレはいつまでも跳ね回り続けた。


 天に位置する大きな光が、アシュレ達を強く、強く照らしている。


 草木を風が撫で、ざわざわと、軽やかな音を奏でている。


 爽やかな空気が、ゆっくりと、アシュレを包み、そしてまた、遠くへと流れてゆくのだった。





「うっ、うっ……」

「よし、まあこんなもんだろ」


 数時間後。


 陽が徐々に沈み始め、辺りが柔らかな赤色に染められ始めていた頃。


 アシュレ達一行は簡易的な野営設備を開き、一日を終えようとしていた。


 エスターをアシュレが倒した後、辺りの魔物が活性化し、それを掃討していたため、街に戻る時間がなくなってしまったのだ。


 加えてパーティー全員が疲労している。アシュレは魔力が枯渇し、戦える状態にない。魔物の掃討もゼスとアリータが中心に行っていた。


 そして何より、一行にとって外すことのできない課題があった。


 アシュレへの説教だ。


「あ、足が……」

「一晩中そうしろって言わねぇだけ優しいと思えってんだ、全く……」


 よろよろと立ち上がるアシュレ。数時間正座させられていた足は、全体に緩いしびれが巡り、非常に頼りなかった。


 ふらつくアシュレを睨みつけながら、アリータは大きく息を吐いた。


「あのなぁ、どんだけやばいことしたかわかってるか?あたしらのことじゃねぇぞ、お前自身のことだ。お前、今生きてるのが不思議なんだからな?」

「わ、わかっています、自分のやったことは……」


 弱々しくつぶやきながら、アシュレは頭を下げる。


 ──かのように思えたが、途中でぴたりと止まり、顔を上げると、


「……でも、謝りません。私、後悔していませんから」


 と言って、いたずらっ子のように、幼い笑みを浮かべた。


「こんのガキんちょが、いよいよお仕置きが必要かァ!?」

「ま、まあまあ!」


 拳をぶんぶんと振り回すアリータを、ゼスが慌てて宥め始めた。


「結果なんとかなったんだし、ほら、皆無事じゃないか。な?」

「だからってなぁ……」

「無我夢中ではあったんだろうけど、アシュレだってきっと考えがあってやったことだったんだよ。本当に勝算なしであんなことはしないさ。無茶に見えたけど、しっかり考えて行動して、結果が伴った。なら何も悪い所はないじゃないか。そうだろう?」

「……」


 ゼスの言葉を聞き、アリータは鼻を鳴らしながらアシュレを見る。アシュレは大きく何度も頷いた。


 実際の所、考えも何もなかったのだが。あの一撃で打倒出来るだなんて夢にも思っていなかった。


 だが、勝算はあった。きっと自分には出来る、何が起こるかわからなくともきっと勝てる、と、その考えだけで、アシュレはエスターに飛び込んでいたのだった。


 しばらくアシュレを見つめていた後、アリータはまたため息をつくと、


「……わかったよ、もう。今回だけはそういうことにしといてやる」


 と、呆れたように肩をすくめた。


「流石アリータ、わかってくれて嬉しいよ」

「ただし」


 アリータは指をぴっとアシュレに向けた。


「次はねぇぞ、もう無茶はすんなよ。あたしらは三人で一つだ、一人だって欠けちゃいけねぇんだから」

「……はい」


 アシュレも深く、神妙に頷いた。


 アリータの怒りは正当なものだった。アシュレの行動、その一つ一つが、彼女の命を捨て身にさらすようなものであったことは間違いない。糾弾されてしかるべきだ。アシュレにもそれはわかっていた。

 だが、やはり後悔はない。どう考えても、後悔はないのだ。


 安心したように力を抜いたゼスが振り返り、アシュレの顔を見る。


「……なあ、アシュレ」

「はい?」

「……ずいぶん、すっきりした顔になったな。よかったよ」

「……ふふ、はい。ありがとうございます」


 アシュレが微笑むと、ゼスも笑った。その笑顔はいつもの通り、輝くような魅力を放っていて。


 相変わらずカッコいいな、なんてことを、アシュレはいつものように思った。


 アシュレが叫んだことを、ゼスも聞いていただろう。内に秘めた彼への想いを、憧れを、憎悪を。


 けれど彼は、そういったことを追求しない。どれだけ人が良ければこうなることが出来るのだろうか。


 彼の背中には、未だ距離があることを実感する。


 だが、そんなことは問題ではないのだ。


 二人を交互に眺めていたアリータは腕を組み、アシュレに問いかける。


「……で、アシュレ」

「ん、どうしました?」

「なんつーか、その……これからお前、どうするんだ?なんか色々言ってたけど、要はあれだろ、やっぱ賢者、嫌なんだろ?」

「ああ、そのことですか。ふふ、大丈夫です」


 アシュレは杖を構え、眺める。


「この旅が終わるまでは、私は賢者です。鍛え上げた技術がどこまで成長するのか、楽しみですし。何より、貴方達二人を支えられることは、私の誇りですから」


 ただし、と。アシュレは杖の構え方を変え、まるでこん棒のように握りしめると、少し得意げな顔をした。


「魔王を倒し、世が平和になれば話は別です。目指したいものが出来ましたから」

「目指したいもの、っつーと……勇者か?」

「ええ、まあ、そうなんですけど。今更剣術の練習、というのも、なんだか違う気がするので。私はこれで、勇者を目指します」


 そう言うと、アシュレはぶん、と杖を振った。


 杖は地面に辺り、軽く跳ねる。そこにエスターを葬った一撃のような力強さはなかった。


 アシュレは肩を竦めると、咳ばらいをし、笑顔を浮かべる。


「杖で殴るタイプの勇者を目指します。魔法を使わず。言うなれば、そうですね……勇者、またの名を『杖殴り士』を目指します」

「はーあ……?」


 口をあんぐりと開け、何を言っているのかわからない、という様子のアリータを置いて、アシュレは語り続けた。


「エスターを倒したあの一撃。あれの破壊力は、ちょうどゼスが岩を破壊したものと同程度だったように思います。つまり、毎回あの一撃が繰り出せるのなら、理論上ほぼゼスと変わらない動きが出来るはずです」

「い、いやいや、そりゃあお前……」


 困惑しながら、アリータは言葉を濁す。アシュレのあまりの堂々とした物言いに、口を挟んでもいいものかと躊躇っていた。


 だがアシュレは自ら言葉の続きを引き取る。


「わかっていますよ、アリータ。ほぼ無理でしょう、そんなことは」


 アシュレは己の拳を見る。小さく、非力で、擦り傷だらけの手のひらを。


「あの一撃は奇跡のようなものです。狙って出せるものはほぼいない、伝説の武人だけです。それを私が今から目指す、なんてことは、無謀どころか無益、意味のないことと考えるのが自然な程に不可能に近いです」

「わ、わかってんならなんでお前……」


 アリータの言葉を聞きながら、アシュレは拳に力を籠める。


 小さいけれど、非力だけれど。傷だらけだけれど。それでもしっかりと握りしめることが出来る、この拳を。


「別にいいじゃないですか、無理だって。無理でも目指したいんです、私。ほんの少しでも可能性があるなら、追ってみたいんです。だって」


 言葉を切り、顔を上げる。


 視線の先には、彼がいた。


「……だって、憧れているんですから。そうなりたいって、思ってしまったんですから。この憧れを、絶対に諦めたくないと、そう思ってしまったんですから」

「……そうか」

「ん、いいと思うよ、アシュレ。……流石、アシュレだ」

「ふふ、そうでしょう?」


 困惑しながらも、しかし深く頷き、優しい目をしているアリータ。


 疑いも不安もなく、まっすぐに、純粋な期待の目を向けるゼス。


 その二人を前に、アシュレは胸を張り、こう答えた。


「私は私です、賢者じゃない。アシュレという、一人の人間なんですから」






 後年。


 ゼスら一行の名は長い歴史という書物の中、その一ページに刻まれることになる。


 伝説の勇者一行として。


 歴代の勇者一行と共に、成し遂げた偉業の数々が刻まれ、人々へと伝わっていく。


 概ねその比重は『勇者』という役割を主としている。勇者以外の登場人物は、一ページの中でも片隅に追いやられ、人々の脳裏にほんの少しの場所を取ることになる。


 だが。


 それぞれの協力者の簡単な紹介文の中で、アシュレのそれはほんの少し、他とは外れているものであった。


『伝説の賢者。回復より杖で殴る方が得意』、と。そう記された。


 その一文が、妙に人々の頭に残り、そして笑顔にした。


 そのせいか、ゼスの名前と同じ程度にアシュレの名前を憶えている者は多い。一部の界隈ではゼス以上の人気を誇っているようだった。


 果たして当の本人がそれを知った時、どんな反応をするだろうか。


 笑うだろうか、怒るだろうか。


 知る者はいない。ただそこに残っているのは、ゼスとアシュレの名前が同じように人々の頭の中に残っているという、その事実だけなのであった。


 了


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