夢追い人
小さい頃、よく逃げ水を追いかけたものだ。
遠くにぼんやりと水溜まりが浮かび上がり、追いかけても追いかけてもそれには手が届かない。
いつの間にか知らない所まで来ていたりもしたものだ。
少年は、逃げ水が好きだった。
クラスでもダントツで足の速かったその少年にとって、動かない水溜まりに追いつけないというのは、なかなかどうしておかしな気分になった。
少年は逃げ水を見つける度それを追い続けたが、とうとう追いつくことはなかった。
少年は青年になり、やがて逃げ水の仕組みを知った。実につまらない、光の錯覚に落胆した。
それでも、青年にとってそれはただの光の錯覚には思えなかった。
少年は、青年になっても事ある毎に逃げ水を追いかけた。
逃げ水を追いかけている間、彼は生き生きととした姿を見せ、小さな悩み事なんて何処かへ吹き飛んでしまうのだ。
やがて青年は大人になった。
もう、逃げ水を追うこともない。そんなことをしていればただの変人に思われるからだ。
毎日毎日、変化のない日々はあっという間に男を老けさせた。
趣味も減り、楽しくもないことばかりを進んでしなければならなくなり、実に不幸せそうに電車に揺られ、目は常に泳がせている。
そんな男を、少年の頃の彼が見たらきっと「ああはなりたくない」と蔑むに違いない。
そう自嘲さえしていた。
ある蒸し暑い夏の朝、男は駅まで自転車を漕いでいた。
朝っぱらから虫がうるさく、ぼんやりとした空気はきっと熱のせいで歪んでいるのだろう。
都心部からは離れた、少し田舎くさい道の両端には草が無造作に生えていた。
ふと遠くを見やると、遠く地べたに煌めくものを見つけた。
最初は見間違いかと思ったが、それは確かに在りし日の幸福の幻影である。
男は自転車を投げ捨て、その水溜まりを追った。
無我夢中なってその水溜まりだけを見つめ、狂人のように走り続けた。
随分と長いこと走っていなかった彼は、すぐに息切れをする自分を疎ましく思った。
だが、逃げ水を見ていると何だかそんな事も忘れてしまった。
あるのはただ逃げ水と男と少年の笑顔だけであった。
もうどのくらい走ったであろうか。
息を切らし、膝に手を置いて男は立ち止まった。
体力が限界に達した訳では無い。
その男の足元には水溜まりが浮かんでいた。
暫時、男は幸福に包まれたが、何だか心底つまらなくなった。
どうでもよくなった。
こんなものを追いかけてなんになる?
そもそも、私の追いかけていたものはなんだったのだろうか。
地面が震え、水溜まりに移った男の顔が歪んだ。
歪んだ顔の男は大層縁起の悪そうな微笑みを浮かべ、ぬっと水溜まりから這い出てきた。
ちょうど男と同じ背丈で、男と同じスーツを着、男と同じカバンを手にしていた。
きっと中の書類なんかも、男と同じものだろう。
這い出た男は泥の様な濁った目をしていた。つまらなさそうに笑みを消し、男に背を向け歩いていった。
男の前後を遮断桿が取り囲み、低い地鳴りと踏切警報音が耳元に聞こえる。
あの男はきっと、もう幸せにはなれまい。
水溜まりの消えた踏切の上、男はそう思った。