2-②
「あれから長い、長い時間が経ったんだ」
どうしてこんな、怪しい人に付き従って歩いているのだろう、と考えたけれど、やっぱりそれは自分自身の生まれ持った性格のためだろう、と月子は思う。
見渡す限りの荒野を行く、白い髪の女の足取りは迷いない。その背についていっていいものか悪いものか、月子は迷い迷い歩いていく。
「もう突然……、どっかーん!だよ。どっかーん! そんな風にして、地球どころか、太陽系どころか、世界まるごとバラバラに砕け散ってしまったのです」
思い出すのは小学校低学年の頃の記憶だった。学校から帰る途中で、一台のワゴン車が自分の隣をゆっくりと並走するようにしてやってきた。そしてその窓がうぃいいん、と開いて、中年女性が顔を出して言ったのだった。あら月子ちゃん、いま帰り? ちょうど家まで行くところだから乗っていきなさいな。知らない人についていってはいけない。ましてや車になど絶対に乗ってはいけない。そう習っていた月子は首を横に振った。そんな、遠慮しないで。中年女性が何度も言うのに何度も首を横に振り、最終的には根負けした向こうが不快気な表情を浮かべて去っていった。ほっとして家に帰ると、その中年女性が母と談笑していて、親戚だということがわかった。ただいま。おかえり。あの子ねえ、ちょっと変な子よねえ。だってさっき、乗せて行ってあげるって言ったのに、全然答えてくれなかったし。すみません、姉と違って無愛想で……。
今でも思い出すと、お腹がきゅう、と苦しくなる。
「私ひとりしかいないものだから、本当に大変だったんだよ。ここまで滅びちゃった世界を、ちゃんと直していくのは。『光』のカードを引けないうちは何がどこにあるのかすらもわからなかったし。都合のいいカードも全然出てこないものだから、本当に最初の頃はそれこそ虫けらにでもなったような不自由さで――あの、」
「はいっ?」
「聞いてる?」
ええ、とか、ああ、とか、形だけでも何かしら言葉にすればいいものを、月子はこういうとき、すっかり黙り込んでしまう。嘘を吐いてでもとりあえず場を保たせた方がいいとはっきり頭の中でわかっているのに、それができないのだ。
じ、と振り返った女は月子を見ていた。月子は前髪を垂らすようにして俯いていたから、その視線をただ予感していただけだったけれど。女はしっかりと、橙色の瞳で、月子を見ていた。
ふ、とその頬が緩んだのを、月子は見ない。
「――まあ、いいとしよう。この世界に来たばかりの君は、すごく混乱してるだろうから。ちょっとくらい私の話を聞いていなかったとしても、いいとしよう。私は全然気にしないよ。怒ったりなんか、まるでしていないとも」
「……すみません」
「いやいや、謝る必要なんて全然ないよ。私は全然怒ってないからね。……でも、そうだな。私の苦労話はどうもずいぶん退屈みたいだから、代わりにもっと、君の関心を惹けそうな話をするとしよう」
女は片足を軸に、くるり、と回るようにして、
「端的に言ってしまうと、君は一度死んだのだと思う」
「――え、」
「端的に言わないとすると、君以外の、人類も、それどころか世界丸ごと死んでしまったんだ」
と、言われても。
はいそうですか、と頷けるほど柔軟な頭はしていない。何かの比喩だろうか、と考えそうになって、いやでもこれは夢だったんじゃ、と思い直して、ううんそれならどうしてこんなにはっきりと意識を持ってるんだろうこれって夢じゃないんじゃないのと疑い始めて、
「何が原因だったのかは私にもわからないけどね。どうも綺麗に、綺麗さっぱり君の生きてきた世界は吹き飛んでしまった」
「……はあ」
「反応が薄いなあ」
はあ、ともう一度月子は言った。だって、どうしろと言うのだ。こんな話を聞かされてすぐに飲みこんですぐに驚ける人間が存在するとしたら、ぜひ会わせてもらいたい。どうせ会っても、何も話せはしないだろうが。
拍子抜け、という表情の女は、そのまま重ねて言う。
「言っておくけど、そんじょそこらの世界滅亡じゃあないよ。本当に、綺麗さっぱりだ。空も海もなくなれば、朝も昼も夜も、それどころか時間も空間もなくなって、存在が残ったのは私だけ。それでだって、ちゃんとこんな風に意識を取り戻すまでにはすごく苦労したんだから。君にこの困難が想像できるかな? 私にはできないな。だって、もうつらすぎてすっかり忘れちゃったから――着いた」
女が早口気味で喋り続けていて、ほとんど月子の頭の中で言葉が渋滞を起こしかけた頃、急に立ち止まった。どん、と月子は後ろから女にぶつかってしまい、鼻がふぐ、と潰れる。それを擦りながら、一体どこに着いたのか、とあたりを見回すと、またも地、地、地。真新しいものは見当たらな、
あった。
膝のあたりまでの高さしかなかったから、パッと目には入らなかった。
赤茶色の、小さな、古臭い箱が置いてあった。赤錆びた鉄でできているようにも、よく手入れされた木でできているようにも見える。
これは、と月子は自分でも意識しないうちに、声に出して聞いていた。
「世界の始まりだよ」
女は言って、その箱の前に屈み込んだ。
「まだ何もなかったころ、本当にこの世に神しか存在していなかったころ、けれどすでに、この道具はあったんだ。メダルを入れて、レバーを回して、」
月子は、それを立ち尽くしながら見ていた。女がメダル、ついさっき自分が拾ったのと同じ形をした銀のそれを三枚、箱の表面のくぼみに嵌めるのを。それから、ぐい、とレバーを引くことで、そのメダルが、くぼみの仕掛けがぐるりと回るのに合わせて、箱の中に飲みこまれていくのを。
「がちゃがちゃ、ごとん」
箱が震えて、物の落ちてくる音がするのを。
女は箱の下、少しだけ出っ張っていた場所を摘まむと、それを上側に引き上げる。小窓になっていたらしい。中には空洞があって、一枚、おみくじのような小さな紙が入っている。
「なになに、」
女はそれを引き出して、目の前に広げて、
「――ちょうどよかった」
ぎゅっ、とそれを自分の手の中に丸め込んで、それからパッと勢いよく指を開く。
花が。
その手に乗っていた。見事な手品を見せられたみたいに、花のなかった場所から花が現れた。
女は立ち上がり、月子に近付いてきた。月子はまた、後退ろうとして、後退るのを躊躇って、身動きも取れないまま、至近距離にまで詰め寄ってきた女の圧力に耐えきれず、とりあえず俯く。
す、と女の手が髪に触れて、びくり、と月子は目を瞑り首を竦めた。
「ヘリクリサム、という花らしい」
そして、その手が離れる。月子が恐る恐る目を開くと、目の前の女は微笑んで、小さな手鏡をこちらに向けている。
髪に、橙色の花を挿した自分が映っていた。
「これは最初のプレゼント。君がこの滅んでしまった世界に来てくれたお礼。それから、これからよろしくね、の挨拶の品でもある。君にはこれから、」
――私と一緒に、世界を創り直してもらう。
女は、そう言った。