2-①
目が覚めて誰もいないとなれば、流石に動揺する。
そんじょそこらの誰もいない、ではないのだ。目覚めた場所が自分の部屋ですらない。あたり一面、見渡す限りに赤褐色の荒れ地が広がっている。社会科の資料集でしか見たことのないような光景で、自分の部屋もなければ、寝転がっていたはずのベッドすらも忽然と姿を消している。
月子は自分の身体を見下ろす。
制服だった。
パジャマで寝たはずなのに。
もうほとんどパニックだった。
ここはどこだろう。着替えているということは自分が知らない間に、寝ている間に誰かに脱がされたということだろうか。身の危険を感じるどころの話じゃなくて、さあっと血の気が引きかけて、でも周囲を見渡す限りどうも自分の発想力の程度では追い付けないようなことが起こっているようにも見えて、いまいち心の置き所がわからなくて、
とりあえず、
「――ここ、どこ?」
しばらく、茫然としていた。
そのうち、じっとしていても埒が開かないということに気が付いた月子は、うろうろと、あたりを探り始めた。何か現在位置の手がかりになるものはないだろうか、と思って。そしてその期待はあっさりと裏切られて、見渡す限りに、地、地、地。草花ひとつの姿もない。そもそもここは日本なのだろうか。そんなことにすら自信が持てなくなっている。
月子は口の横に手を当てて、やめた。
誰かいませんか、と叫びそうになったのだ。
でもやめた。どうせ誰も助けにきてはくれないだろうと思ったから。
「どうしよう……」
右も左もわからないというのはこのことだ。こういうときはどうすればいいんだっけ。昔英語の授業で読んだ冒険家の話が頭を過る。これが夜だったらもっと怖かったろうけど、でも北極星を見つけて方角を知ることくらいはできるのに――。
そう思って、空を見上げて、
「――え?」
太陽が、なかった。
見逃しているのかと思った。右も左も、前も後ろも真上だって、くまなく探してみた。でも、太陽らしき光の存在がどこにも見当たらない。じゃあどうして明るいんだろう、と自分の手のひらをじっと見つめてみる。やたらに薄い生命線だってはっきり見えるというのに、その光がどこから来ているのだかさっぱりわからない。まさか星の裏側の昼がここまでやってきているわけでもないだろうし。そしてよくよく見てみれば、自分の足下からひとつも影が伸びていない。
「あ」
そこで、思いついた。
「夢か、これ」
聞いたことだけはある。夢の中で、はっきりと意識を保てる状態のことを。明晰夢、とか言うんだっけ。自分がそれを体験するとは、まるで予想もしていなかったけれど。
でも、とりあえず、安心した。
急に気が大きくなって、月子は当てもなく歩き始めた。夢の中なら、どうせ危ないこともない。動きすぎたせいで餓死したり衰弱死したりすることもない。散歩自体は、嫌いじゃなかった。黙々と、ひとりでできることだから。
どこまで行っても、景色に変わり映えはなかった。もう自分が最初に目覚めた場所がどこだったのかすらわからないところまで来ても、まだ一歩も進んでいないような気がする。気温は冷たくもなければ温かくもなく、風は全然吹いていない。湿気もない。ほとんど音もない。ただ靴底が地面に擦れる音だけ。
居心地がよかった。誰もいなくて。誰にも気を遣う必要がなくて。
自分の人生が一生こんな風ならいい、とすら思う。
「――ん?」
けれど、ふと、靴底にさっきまでと違う感触を覚えた。足をどかして、屈み込んでみる。
銀色。
「メダル……?」
それは丸っこくて、親指と人差し指でつまめるほど小さい。硬貨のようにも見えたが、裏表どちらの意匠にも見覚えがない。奇妙な模様だけがそこに刻まれていたけれど、少なくとも数字には見えないし、これが寺や神社に見える人間はおそらくこの星の生まれではない。
しばらく月子はそれを手の指でぐにぐにと弄った。硬い。でも、何か重要なもののような気がする。夢の中に重要だとか、重要じゃないとか、そういう考えを持ち込むこと自体が馬鹿げているのかもしれないけれど。
もう少しよく見てみよう、とそれを掲げるようにして顔の前に持ち上げたところで、
「あ」
「――うわっ!」
びっくりして、そのまま後ろに倒れ込んで、尻餅をついた。
いたた、なんてのんきにぶつけた場所を擦る暇もない。そのままじりじりと、足だけ使って、月子は後退る。
人が、いた。
月子の顔を、上からじっと、覗き込んでいた。影がかかってこないから、まるで気が付かなかった。
「だ、だれ」
美しい女だった。
目鼻立ちはこれ以上ないくらいに、それこそ夢の中でしか見られないだろうと思うくらいに完璧に整っている。背も自分より頭ひとつ分は高いだろうし、体型の浮き出ないような、和服と洋服の中間のような不思議な服を着ているというのに、それでもわかるくらいにすらりと痩せた、完璧なシルエットをしている。
そして、異様に目を惹くのが、その髪だった。肩甲骨の下あたりまでの長さのたっぷりとした髪は、雪の糸ででも紡がれたかのように、白い。
女はじっと、月子を見ていた。
その瞳は、橙色をしていた。
「な、なんです、か」
元々、月子は人の表情から気持ちや意図を読み取るのが得意ではない。その上、普段から人の顔をあまり見ないで過ごしているから、余計に苦手になっている。
だから、その目が一体何を表しているのか、さっぱりわからない。怯えながら、ただ後退るだけ。でもひょっとしたらこういう反応は失礼に当たるのかもしれない、なんて思って遠慮したりもしているから、ゆっくりとした速度で。
そうして稼いだ距離なんて、女が一、二歩も詰め寄って来ればたちまちになくなってしまう程度のものに過ぎない。あっという間に、少し手を伸ばせば触れられる距離にまで、女は近寄ってきた。そして白い手指を、すう、と差し出して、覆い被さるようにして身を屈めてくる。
ひ、と声を出すくらいのことはできたとしても、月子は身動きまで取れるような人間ではない。
そのまま、手を握られた。
「――――え、」
「ようこそ人間さん。――滅びた世界へ」
囁くように、女は言った。