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9-①



 月子は、当然何も知らなかった。

 それでも、状況をよく考えてみれば、多少のことはわかる。

 自分が現れたことで、カエデは動揺して、追い詰められた。

 カエデは、どうやら佐鳥千咲だった。

 たぶん、もうこの状況をどうにかできるのは、自分しかいない。

 後のことは、走りながら考えることにした。

 口ぶりからして自分は騙されていたらしいだって悪魔との契約者だのと言われているのはカエデの方だったしあの黒犬がやっぱり悪魔だったのだやっぱり犬はダメだもう二度と近づかないし言ってることを信じたりしないということはカエデは佐鳥千咲だったころにあの悪魔と契約してあのガチャガチャ箱を手に入れたのだろうかあの箱が神様の持ち主だったっていうのは本当のことなのかいやそんなことは今はどうでもいい元は人間だったカエデがあのカードを使えているということは試したことがなかっただけで自分がカードを使うこともたぶんできるんだろうだとするなら今から自分がやれることにはそれなりに幅が出てあああああろくなカードを持ってきてないお守りみたいなやつしかないさすがに使い方を思いつかない家から出てくるときにカード帳のストックを持ってくればよかったないものねだりしてもしょうがないどうにかしてカエデが普段使いで持ってるのを悪魔から奪うしかないそもそもどうしてカエデは自分が現れたことに驚いたのだろう間が悪かったのかなそれとも悪魔の弱点が自分の見当違いだったのかないやでもそんなはずはないたぶん全身に光を当てると悪魔は消えて一部にだけ当てれば霧になる能力が消えるとかそういうことだどうしよう今はひとりでどうにかするしかないのに何も

「カエデを放して」

 何も思いつかないうちに、対峙することになった。

 悪魔の目の前。生まれてからいちばん速く走った。どくどくと、頭の血管までが脈打っている。

「失せろ」

 悪魔は言った。カエデの身体を押さえ込んだままで。

「お前も殺すぞ、奴隷女」

「できないんでしょ」

 虚を突かれたような悪魔の表情に、内心で月子も虚を突かれる。

 確証なんて、何もなかった。

「私を殺すつもりならもっと早い段階でできた。この状況に持ち込むためだったとしても、わざわざそんなことを言う理由がない」

 だから、月子は喋りながら考えている。こうであるはずだ、とああだったらいいな、をくっつけて、剥がして、整形して、そう言う風に言葉を作っている。

「ただの人間を殺せるなら、わざわざ契約なんてする必要、ない。契約した人間にしか、あなたは手を出せないんだ」

「いいや」

 これまでの嘲るような調子がすっかり抜けた声で、悪魔は、

「オレが攻撃できる対象は、契約者だけじゃない。非契約者だろうがなんだろうが、オレに危害を加えてくる相手は、問答無用で殺せる。――変な気を起こすんじゃねえぞ。起こすようなら殺す。お前にはもう、興味がねえ。命が惜しけりゃ、そこで黙って見てろ」

 実際、黙って見ている以外に月子には手段はなかった。

 だって、何ができるだろう。相手は悪魔だ。不老不死で、あのガチャガチャ箱から引いたカードを大量に持っていたカエデだって、こうして負けてしまっているのだ。一方で自分はちょっと噛みつかれただけで死んでしまうようなひ弱な人間だし、ポケットにも記念品みたいな、使いどころのないカードしか入っていない。悪魔の言うことが本当なら、ちょっと殴り掛かっただけで物言わぬ死体になってしまう。自分が死ぬということはつまり、この状況を何とかできる人間がいなくなるということだ。

 手札は自分だけで、無駄にはできない。

 でも、自分には何かをどうにかすることは、まるでできそうにもなかった。

 しばらく、悪魔は月子を睨みつけていた。やがて、本当に月子が黙って見ているだけで、その場に留まっていそうだとわかると、カエデのカード束をべらべらと捲り始めた。

 少しだけ、時間がありそうだと月子は思った。

 たぶん、悪魔にも存在条件がある。カエデの力を奪うだけならあのカード束のすべてを噛み砕けばいいだけなのに、それをしないのは、きっと自分の生存に必要なカードを同時に破壊してしまうのを怖がっているからだ。それなら、すべてのカードを悪魔が確認するまで、猶予がある。

「カエデ」

 堂々と。

 月子は悪魔の前で、話しかけた。

「カエデ、」

「ごめん、なさい」

 返ってきたのは、涙声。

「助けようとしてくれたのに――。ごめんなさい、初風さんのこと、信じきれなくて。ごめんなさい、ずっと騙してて。ごめんなさい、初風さんの大切な人を殺して。ごめんなさい――」

 でも、そこにいたのは別人だった。

 何度も何度も謝り続ける佐鳥千咲を、月子は茫然として見た。悪魔はそのやりとりにまるで興味を示さず、虚ろな夜に、ひたすら悲しい言葉だけが溢れ返る。

 そこにいたのは、カエデではなかった。

 そこにいたのは、佐鳥千咲だった。

 強くもなければ、大らかでもない。笑ったりしないし、頼ったり、頼られたりすることもありそうにない。どう間違っても、それは神様や、天使や、ましてや悪魔になんて見えない。

 普通の、情けない女の子が、そこにいた。

「か、」

 もう、名前を呼ぶこともできなかった。

 何と呼んでいいのか、月子にはわからなかった。

 嘘ではなかったはずだ、と思う。確かに、カエデは自分が佐鳥千咲であることを隠していた。でも、その嘘はそれだけのことだ。一緒に過ごした時間が消えるわけじゃない。たとえ他人を演じられていたとしても、その役を通じて、演者とは長い時間を過ごしたはずなのだ。すべてが嘘であったわけがない。だって、自分だって最近はちょっとくらい嘘を吐いていた。心配させないようにと思って、夜中に起きてしまったことを伏せて過ごしていたし、眠り薬が入っていることを知っていて知らないふりを続けていた。けれどそれだって、お互いの関係に波風を立たせないための手段のひとつだったのだ。仕方のないことはある。上手くやっていくために、嘘を吐かなくてはならない場面は、どうしたって出てきてしまう。カエデだって、


 怯えた目で、月子を見ていた。


 ああ、と月子は息を吐いた。

 こんな終わり方もあるんだ、と思った。

 思えば全部が間違いだったのかもしれない。相手の顔色を見る癖がついて、相手にとって自分が大した存在ではないだとか、何か変なことを言えば嫌われてしまうかもしれないだとか、そういうことを想像し続けて、関係を深めることに怯えたりして、結局、そういうことのすべてがダメだったのだ。変わったつもりでいて、いちばん傷の深くなっているところには、怖くて触れていなかった。そのツケをここで払わされているのだ。

 期待を、しすぎていた。

 そんなのは間違いだと、知っていたのに。結局また同じ間違いをした。

 あのとき、姉は、陽は、自分を助けてくれなかった。どれだけ慕っても、尊敬しても、弱点のない人間なんて存在しない。情けなさのない人間なんて存在しない。いつでも、どこでも頼りになる人間なんて存在しない。相手に期待なんてしても意味がない。この世に本当に強い生き物なんていない。自分のすべてを委ねられる相手はいない。

 神様なんか、この世にいない。

 本当は、失望されることよりも、失望することの方が、怖かった。

「……ごめんね」

 月子も、そう言った。

 そういう風にして、ふたりの、初風月子と、カエデの関係は、終わった。

 どうしよう、と月子は思う。

 これから、自分はどうしよう。自分にできることはない。佐鳥千咲が何かをすることも、ないだろうと思う。見ているのか、目の前で。悪魔が佐鳥千咲を殺して、魂を奪っていくところを。その後はどうなるのだろう。あのガチャガチャ箱を悪魔はどうするつもりなのだろう。元は悪魔が持っていたものだと言うのなら、どこかへ持ち去ってしまうのだろうか。だとしたら、自分はこれからどうやって生きていけばいいのだろうか。ひとりで。いつまで生きていればいいんだろう。

 月子は、悪魔を見た。

 悪魔は、カードを見ていた。


 そこには『好きな人』と、書いてある。


 次の瞬間に起こったことを説明できる人間も、悪魔もいない。

 佐鳥千咲にはもはや思考の余裕は残されていなかったし、悪魔もまさか、この場面に至って事態が急変するとは思っていなかった。

 そして当の本人――、月子も。

 自分がそんなことをするとは思っていなかった。

 というより、脳が頭蓋骨の中で気体になるような、そういう感情の突沸を起こしてしまったから、自分の行動や気持ちについて、自分で分析する時間も、猶予も、何もなかった。

 自分が懐中電灯を悪魔に向けた理由も、それどころか向けたことすらも、わからなかった。

 自分がポケットに手を入れた理由も、それどころか入れたことすらも、わからなかった。

 自分がカードを握った理由も、それどころか握ったことすらも、わからなかった。

 何かを叫びながらその手を開いたことも、無意識のことだったけれど。

 でも、そのカードが何だったかくらいは、うっすら覚えていたと思う。


『月』のカードだった。



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