1-②
保健室に、先生はいなかった。
一瞬躊躇ったけれど、鍵はかかっていなかったし、絆創膏を貰うだけだし、それに、そういえば自分は保健委員なのだから、と思い切ってそのまま中に入った。
薬の匂いがして落ち着く。夏の熱気はすっかり消え失せて、今では涼しい風が窓から吹き込んで、白くて冴えた光が部屋の中を照らしている。
ベッドの周りのカーテンが、ひとつ分、閉じられていた。
調子の悪い人が寝ているのかもしれない。ちょっとした切り傷くらいで起こしては申し訳ないと思って、抜き足差し足で部屋の中、絆創膏を探す。すると、机の上にノートが置いてあるのに気が付いた。利用者名簿、と書いてある。日付と、学年と、クラスと、名前と、それから何の理由でここに来たのかを記入する欄がある。字体は様々だったから、生徒がそれぞれ書くのだろう。丁寧に頭痛、と書いてあるようなものもあれば、遅刻と大胆に書き殴ってあるものもある。
書いておいた方がいいんだろう。月子は備え付けのボールペンを取って、それを埋めていく。九月三十日、二年一組、初風月子、切り傷。その間に、今、ベッドを使っているのが誰なのかがわかってしまった。九月三十日の利用者は、自分を除いてもう一人しかいなかったから。
佐鳥千咲。
まだ学校、ちゃんと来れてるんだ。
懐かしい名前だった。去年、一年四組にいたころ、そのころも月子は保健委員で、よく一緒に保健室に付き添った。
初めは、身体の弱い子なのだと思っていた。去年の時点ではもう月子は人との距離の取り方を覚えていたから、言葉を交わしたのは数回くらいしかなかったけれど、それだけで、どうやら身体が弱いというより教室が苦手な子らしいということはわかるようになった。去年のちょうどこのくらいの時期、秋ごろから段々教室に来る回数が減って、冬になれば教室にいる日の方が珍しくなっていた。
どうしているだろうと、思ってはいたけれど。
利用者名簿に目を通せば、ほとんど毎日佐鳥千咲の名前がある。保健室登校に切り替えたのかな、と思って、それからこんな詮索をしている自分を恥じた。誰だって、自分の事情に興味本位で踏み込まれたくはないだろう。傷、の最後の曲線を書き終えたらペンを置いて、さてどこに絆創膏があるのだろう、と左右に視線をぐるりとやったところで、
がらり、と。
「お」
白衣の女が入ってきた。名前は川崎。保健医で、顔見知りで、月子は驚きながらもぺこりと会釈を返した。
「どしたの」
「あの、指、切っちゃって」
ああ、と頷いた川崎は薄くなったスリッパをぺたぺた鳴らしながら、月子とすれ違って、部屋奥の戸棚から小箱を、そこから絆創膏を取り出す。その封印をぺりぺり剥がしながら月子に近付いてきて、
「どの指」
「これです」
ぴん、と右手の人差し指を立てると、ん、と川崎は頷いて、皺なく絆創膏を貼り付けてくれた。すみません、と頭を下げる月子に、ひらひらと手を振って、すたすたと奥の、自分の椅子の方へと向かっていった。
こういうところがある、と月子は思う。川崎は、普通に想像して得られるような保健室の先生、というイメージからは程遠い。おっとりもしていないし、優しい口調もしていないし、それどころか実際に保健室に来た生徒に対して優しくしているところだって見たことがない。保健委員会の場で、あの人子ども嫌いそう、なんてこっそり陰口を叩かれているところも聞いたことがある。
でも、居心地のいい人だ、と月子は思う。
だって、必要以上に干渉してこない。近づいてこない。だから、無駄に苦しむ余地がない。委員会の活動の中で(いつものようにたったひとりで)手伝いをしているうちに、月子はそう思うようになった。ドライな人の方が、かえって助かる。友達ができないのには人間性に問題があるだとか、もっと積極的に周りに溶け込もうとしなくちゃダメだとか、そういうどうにもならないことは、一度も川崎は口にしなかった。それも、思いやりとか、そういうものからではなく、純粋な面倒くささの結果として。毎回の会話のやりとりが、向こうの言う、ありがとう、と自分の言う、いいえ、の短さで済んでいたから、たぶん間違いはないと思う。
もう一度、見えていないだろうと思いながらも頭を下げて、月子はその場を後にする。
しようとした。
「あ」
「え?」
何かを思い出したかのように、川崎が振り向いた。
保健委員の用事でも頼まれるのだろうか。背筋を伸ばした月子に向かって、川崎は視線を注いでくる。注ぎすぎ、というくらいに、まじまじと月子の顔を見た。
「なんですか」
居心地が悪くなった月子が思わず言うと、川崎はたった今目の前にいるのが数年前に一度すれ違ったことのある知り合いだった、という調子の声で、
「――初風さ、興味ある? ガチャガチャ」
「へ」
ガチャガチャ。がちゃがちゃ。ガチャガチャ。
どう変換しても、上手く話題が読み取れない。ガチャガチャ。何のことだろう。ソーシャルゲーム? それとも、実際にお金を入れて回す、あのガチャポン? 悩んだ末に月子は、
「いえ、あの、やったことがないので」
「あ。そう」
どちらでも真実になる答えを出した。ソーシャルゲームはやったことがないし、お金を入れて実際に回す方のも、幼いころからカウントしても一度もやったことがなかった。
それで川崎は興味をなくした風で、また月子に背を向けて、もう行っていいよ、と言いたげにまた手を振った。困惑している間に五時間目の授業の予鈴が鳴り始めたので、月子は慌てて保健室を出る。二年生の教室までの三階をえっちらおっちら上りながら、ついさっきの質問の意味についてよくよく考えて、五時間目の数学と六時間目の美術を終えるころには、もうすっかり今日あったことのほとんどを忘れ去って、もう一度思い出したのは、その日の夜、風呂に入る前に指の絆創膏を剥がした瞬間だった。
傷跡はもう薄れていて、やっぱり川崎が自分に聞いてきたことの意味はわからない。
きっと自分には関係のないことなのだろう。
いつもどおり、きっと。
そう結論付けて、風呂を出て、歯を磨いて、いつもどおり、月子はベッドの中に入って、眠りに落ちた。
そうして眠っている間に、世界は滅びた。