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8-③



 それからは、夢のような日々だった。

 初風月子は、思っていたような人間ではなかった。

 自信がないらしかった。人と上手く話せないらしかった。

 どうしてだろう、と首を傾げたくなることもあった。自己主張は強くないけれど、人より劣っている点が初風月子にあるようには見えなかった。自分では考えられなかったようなことだって、すぐに思いつく。

 それに何より、自分のことを傷つけたりしない。

 優しくしてくれる。

 その思ったようでなさ、というのは、彼女にとってプラスに働いた。違う世界の人間ではないと、そう思ったから。距離を急速に詰められることでボロが出てしまうのを、そこまで警戒しなくて済んだから。同じ速度で、歩み寄れたから。

 初めの頃はお互いに遠慮し合って、何も仲良くなれなかったけれど、たまたま『叶えの箱』から『人間』のカードが出てきたとき。彼女が、自分自身の恐怖感からそのカードを破り捨てたのをきっかけに、初風月子は、心を開いてくれた。

 名前をくれた。

 カエデ。

 その名前が、何よりうれしかった。月子がそれを意図していたわけではないだろうけれど、それは植物の名前でありながら、きっと、花のことを思い浮かべてつけてくれた名前ではなかっただろうから。

 楓、と聞けば、きっとその花よりも、その葉のことを思う人の方が多い。

 その名前をつけてくれたことが、名前を捨てた、新しい自分を肯定されたようで、この上なくうれしかった。

 少しずつ、自信がついていった。ハリボテだった、急ごしらえの自分が、カエデという名前を得たことで、ちゃんとした形を得ていった。

 綺麗で、大らかで、少しおっちょこちょい。頭はあんまりよくないかもしれないけれど、身体は強いから、思い切りはいい。よく笑って、よく話す。よく頼って、よく頼られる。

 ふたりきりの世界でカエデは、月子の理想のパートナーとして自分を成長させていった。

 もっとよく暮らせる方法を考えよう。もっと楽ができるやり方を考えよう。こんなのはどうだろう、と月子が言えば、カエデが試してみたりして。一緒に街を創ろうよ、とカエデが誘えば、月子も頷いてくれたりして。

 ふたりでずっと、同じものを見ながら、同じことに肩を並べて取り組んでみたりして。

 ときどきは、どさくさに紛れて、抱きしめてみたりして。

 ひとりきりでいたときよりもずっと短いはずの時間は、永遠みたいに煌めいた。

 観覧車のてっぺんで、会えてよかった、と言われた。生まれてきてよかった、と思った。

 これからもたくさんの約束を重ねたいと、そう思った。

 永遠に、この命の終わらないことに夢を見て、何度も何度も約束をしよう。あれをしよう、これをしようを積み重ねて、終わらない世界を、どこまでもふたりで歩きたい。

 きっとできると、そう思っていたのに。

「――よう。幸せそうじゃねえか、殺人鬼」

 過去はどこまでも、追いかけてくる。

 無視すればよかったのだ。月子があの悪魔の姿を見たと言った時点で、夜も闇も、この世界から取り除いてしまえばよかった。

 でも、できなかった。

 それが罪だということは、認識していたから。

「人を殺すのが好きなのか? 随分憎悪を溜め込んでたらしいじゃねえか。この世のすべてを壊して、そんな風にへらへら笑ってられんなら才能があるぜ――、おっと。勘違いすんなよ。悪魔の才能なんかじゃねえ。人でなしの才能さ」

 けれど、罰を受け入れる気もなかった。

 今ではわかる。自分が騙されていたということ。何も内容を知らされず、不可避的にあの状況に至ってしまったということ。

 罪だとはわかっている。

 でも、戦う権利くらいはあると、そう思う。

「ムカつくぜ! 開き直りやがってよ! お前は契約を結んだ。そして五つどころか、すべての願いを叶えやがった! 魂を渡せ、それが契約だろうが!」

「嫌だ、私は――」

 幸せを失うことに抵抗する権利くらい、誰にだってあるはずだと、そう思った。

 毎夜毎夜、カエデは恐怖を押し殺して、悪魔と戦った。自分を守るために、何かを殺したいという気持ちがあることを、自分で初めて知った。心配させないように、悪いとは思いながらも、月子を深く眠らせるようにもして。

 そして、決定的な間違いは、また悪魔の言葉からだった。

「――奴隷と暮らすのがそんなに幸せか?」

 最初、何を言われたのかわからなかった。

「奴隷だろ? いつだって自分が気に入らなくなったら、カードに戻して消せるんだからよ。ふたりだけの世界で、あいつは奴隷で、お前は独裁者さ。楽しいよな、自分に逆らえない人間相手に友達ごっこするのは」

「違う、月子はそんな――」

「お前がどう思ってようが関係あるかよ! あの女はお前に怯えてるだけさ。お前にもう一度殺されるのが怖くて、おべっか使ってご機嫌取ってるだけなんだよ!」

「違う!」

 どれだけ言葉を重ねても、一度根付いた不安は消えなくなった。もしも悪魔の言うことが本当だとしたら。そんなわけがないと思う。一緒に過ごした時間が、月子の嘘でできていたなんて、そんなこと――、

「――何言ってんだよ。お前だって、あの女に嘘を吐いてるじゃねえか」

 それがありえるということを、カエデは誰よりも知っていた。

「拾い物の仮面を被ってお遊戯会をするのは楽しかったかよ。仮面を被ってるのが自分だけだなんておめでたい考えだな。本当のことを言わないままで正しい関係なんか築けると思ったのか? 信頼なんて言葉、真顔で使ってんのか? 冗談言うなよ。お前らはスタート地点から一歩も動いてねえ。お前は拒絶されるのが怖いから自分を偽る。あいつは命惜しさにお前に媚びへつらう。それだけだ。わかんねえみたいだから言ってやろうか? 

 ――幸せになれるやつは、生まれつき決まってんだよ。お前みたいに生まれてきたやつは、何があろうと正しく幸せになることは、絶対にできない。能力が低いやつは、そんな自分に自信が持てねえやつは、他人を信じることができねえやつは、一生、何があっても、幸せになれない。……可哀想に、お前は神の被害者さ」

「――――」

 違う、という言葉すら、もう出てこなかった。

 攻撃の手は、気付けば止んでいる。指先にカードを引っかけたまま、カエデの手のひらからは、力が抜けていた。

「お前の人生は失敗ばかりだ。唯一編み出した正解といえば、あの自殺願望くらいのもんだな。あれは正しいよ。お前の人生なんて、進めば進むほどつらいことが増えるだけさ。長生きすりゃ長生きするほど損をする。魂が傷つく。さっさと死ぬのが次善策だ。最善策はそもそも生まれてこないことだったが――、まあ、そりゃ仕方ない。終わったことだ」

 悪魔は、のそりと前脚を踏み出して、

「一度は手酷い失敗をしちまったが、今からでも遅くない。死ね。そして魂をオレに渡せ」

「誰が、お前なんかに、」

「どうにかしてオレを殺すか? やってみるといい。そうしたら、お前の魂は神の御許に行けるだろうよ。お前を醜く、歪に創って、それでいて何もしてくれない優しい優しい創造主様の元にな。――知らぬ神より近くの悪魔さ。オレがお前に向けるのはただの食欲だよ。得体の知れない、顔も見えない神の膝の上で、何をさせられるのかもわからないでびくびく怯え続けるよりかは、まだ安心だと思うぜ」

 もしも。

 もしも悪魔の言葉がここで終わっていたとしたら。余計な一言がこの後、付け加えられなかったとしたら、ここでカエデの命は終わりを迎えていたはずだった。カエデは悪魔の言葉に耳を貸し過ぎていたし、その内容は自分の中に実感を伴って蓄積されていたものだったし、そのほとんどを、はっきりカエデは、自分が見ないふりをしてきた『正解の言葉』として受け入れつつあったから。

 けれど、

「――死ね。オレにはお前が必要なんだ」

 黙れ、と叫んだ。

 その言葉で、カエデの頭の中に、強烈なイメージが浮かんだ。月子のこと。月子の姿。月子の笑み。月子の声。月子の体温。

 違う、と今度は叫べた。

「月子は、月子は違う。たとえ嘘まみれの関係だって――、私は月子を信じてるし、」

 震える声で、

「月子も、私を信じてくれてる」

「――そうかよ」

 霧と化した悪魔は、それでも言った。

「なら、試してみればいい。――あの女、お前に眠り薬を飲まされているのは知ってる。だけど、それを拒否したらどんな仕打ちを受けるのかわからないから、怖くて飲み続けてる。この間、オレがお前の魂を奪いに来たと言ったらな、あいつはこう言ったよ。夜、眠ることさえなければ、オレに協力するのに。お前のことをぶっ殺して、本当の自由が手に入るのに、ってな」

「月子がそんなこと、言うわけない」

「だから、試してみろよ。眠り薬を抜いてみろ。それで、オレの言葉が本当かどうか、試してみればいい。――自信があるんだろ?」

 うん、とも。いいえ、とも。

 カエデは言わなかった。

 けれど、すっかり頭に血が上っていたから、それに、悪意を持った他者と話すことに、まったく慣れていなかったから。

 この程度の会話でも、すっかり騙されてしまっていた。

 自分を助けるために現れた月子を、自分を殺しに来た嘘吐きだと、勘違いした。

 愚かかもしれない。

 でも、本気だった。



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