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8-②



 寂しさが、手を握らせた。

 どのくらい時間が経ったのか、そんなことはわかるわけもなかった。

 千咲はどこか、知らない場所を彷徨い続けていた。そもそも場所なんてものがあるのかどうかも、わからなかった。

 暗闇。

 ですらない。

 何も知覚できない。感覚機能が何も働かない。ほんの初めの頃だけは、気の狂うような完全な無刺激に強い恐れを抱いたけれど、今となってはもうそれもない。

 色のない、音のない世界で、身体の内側に自分のすべてが閉じ込められている。それだけ。それだけのことが、永遠に続く。終わりはどこにもなく、思考も意識もすべてが自分を苦しめるためにあるようで、気付けばそれも、捨て去っていた。

 何もなかった。

 何もない世界で、存在だけを繰り返していた。

 手を握ったのは、だから、まるで千咲の意思とは関係のないことだった。

 反射だったのかもしれない。永遠にも似た虚無の中で、ふと手のひらに、何かの当たる感触がしたから。赤ん坊が手のひらに押し当てられた指をぎゅっと握るような、そういう、何の意図もない動作だったのかもしれない。

 けれど、何にせよ、千咲はそれを握った。形を確かめることもせず、自然の成り行きに任せるがままに、握ったものを、いつの間にかもうひとつの手で触れていた、箱の中へと押し込めた。

 引いた。

 引いたものを、握って、開いた。

 何度も。

 何度も何度も何度も。

 滅びた世界で、千咲はそれを繰り返した。どのくらいの時間をそれに費やしたのか、わからない。数日のことだったかもしれないし、数千年のことだったかもしれない。

『光』を引いて、ようやく千咲の視界が開けた。

 それでもそこには、何もなかった。色のない世界が、ひたすらに広がっていた。星と星がすれ違うような途方もない奇遇さで、時折、銀のメダルだけが千咲の存在と交差した。

 魚が口を開いて泳ぐように、千咲は手を開いたまま、その世界を漂った。

 漂って、引いて、握って、開いて、繰り返して。

 あるとき、気が付いた。自分がもう、漂っていないことに。

 地面があって、空があって、重力があって、自分は横たわったまま、どこにも動かずにいる。

 まだ生きていた。

 呼吸の仕方から思い出した。次は、寝返りの打ち方、地面に手を突く方法。思い出すたびに、苦しみも蘇り始める。上手く息ができなくて苦しい。身動きができなくて怖い。自分の身体を持ち上げることができなくて、痛い。それでも、千咲の身体は、動き出そうとすることをやめなかった。その理由を、千咲は知らない。ばらばらになった心をもう一度集めるところだったから。あるいは、砕け散った精神の代わりを、一から築き上げるところだったから。だから、自分が何を考えているのかなんて、何もわからなかった。

 それでも、進んだ。

 二本の足で立ち上がって、千咲は思った。

「――――――――!」

 まだ、生きていたかった。

 誰もいなくて、寂しかった。

 声に出して言う方法は、忘れていたけれど。



 苦しみから逃れるために必要だったのは、人間が生きられる環境を構築することだった。

 自分が人間とそれほど変わらないらしい、ということもそのうちわかった。手の中の『不老』のカードと『不死』のカードを使ったことによる肉体的な変化は、それほどなかった。死ななくなっただけで、傷ついたり、苦しんだりすることがなくなったわけではなかった。

 放浪を続けて、メダルを集めて、人の生きられる環境を構築することに力を注いだ。それを行っている間も理性はまるで回復していなかったから、手当たり次第にメダルを集めては『叶えの箱』に注ぐだけの、そういう習性を持っているだけの生き物として、千咲は機能した。その行動を繰り返すうちに不毛さを覚えるようになり、気が狂いそうだ、と感じたとき、僅かに千咲の人間性は再び芽生え始めた。

 声を、遠吠えの形で思い出した。

 自分以外に、体温のある動物がいない。

 そのことを悲しんで、息を吐き出すときに、喉を震わせて音を出すこと。それを足掛かりに、千咲は声の出し方を思い出した。

 やがて言葉が戻ってくれば、そこからはあっという間だった。

 自分が『叶えの箱』で何を引いて、何を出現させているのかわかるようになった。頭の中で言葉が、思考の文法として掘り起こされるようになって、多少なりとも考えるという行為を再開できるようになった。感情に少しずつ名前を付けていくことで、情緒も整理できるようになり始めた。

 そしてふと、自分が世界を滅ぼしたことを理解した。

 理解が実感に結び付くわけではない。何もなくなった世界では、自分が自分以外のすべてを消失させたというより、自分だけが別の世界に追放された、という感覚の方が強かった。

 それでも、理屈の上では自分が罪悪感を覚えなくてはならないということは、自分自身をほとんど取り戻したあたりで、ちゃんとわかった。

 世界を元通りにしなくてはならない。そう思った。でも、どうやってそれをしようと、そう悩みもした。

 世界を元通りにするには、世界の元の形を知っていなければならない。けれど、千咲はそれを知らなかった。完全に再現することは、どうやってもできない。

 だったら、もう一度始めるしかない。

 世界はどうやって創られるのだろう。

 生き物の活動によって、創られるのだ。

 それらが存在を続けられるだけの環境は、どうにか整えることができた。生きていても、肉体的な苦しさを感じなくなっていた。

 もうそのときには、千咲の手には無数の生き物のカードがあった。

 けれど、千咲はすぐにはそれを、呼び出せなかった。

 だって、怖い。

 自分がここまで来たことの経緯を考えれば――、人の輪に馴染めなかったために始まった奇妙な旅路のことを思えば、人間のことを、それに生き物のことを信じるのは、どうやっても難しい。

 きっと、よくないことが起こる。

 ひとりじゃなくなったら。誰かと、何かと一緒にいるようになったら。その先には絶対に破綻が待っている。自分が一緒にいて、悲しいことが、つらいことが起こらない相手なんて――

 ひとりだけ。

 思い浮かんだ人がいた。そのとき、『叶えの箱』から出てきたカードを見て、思いついた人がいた。

 勘違いだろうと、そう思った。

 ただ接点が少なかったから、共有した時間が僅かしかなかったから、たまたま問題が表面化しなかっただけだと、そう思った。こんな何もない世界で長い時間を共にすれば、すぐにボロが出るに決まっている。期待するだけ無駄だ。期待が裏切られたとき傷つくだけだ。傷つくのは嫌だ。

 でも、寂しいのも嫌だった。

 念入りにリハーサルをした。呼び出した彼女に、話しかけるやり方を。声の緩急、トーン、言葉遣い。もしも彼女がこんな風に話しかけてきたら、どんな風に答えよう。いちばん不快に思われない言葉はどれだろう。それだけじゃダメだ。親しみを覚えてもらえるような、あるいは途方もない図々しさを承知で言うなら、友達になってもらえそうな口調とはどんなものだろう。『叶えの箱』を彼女に見立てて、何度も何度も、何時間も何日も何十年も。時間だけはあったから、せめて最低限、その望みの実現が自分の中で欠片でも信じられるようになるまで、千咲は練習を続けた。

 その過程で、佐鳥千咲を捨てた。

 かつての自分のままで誰かに向き合う自信はなかったから、全くの別人になり切る覚悟も、このときにした。

 準備を終えて、それからカードを使うまでに、七日は祈った。

 たぶん、出てきてくれるとは思った。都合のいい、そういうカードだったから。それでも万が一ということもある。自分の祈りに効果がないことくらいはわかっていたけれど、祈らずにはいられなかった。

 どうか、と

 祈りながら、握って、開いた。

 怖くなって、一瞬、ものすごい速度で逃げた。

 あれだけ練習したのに、まだ人間と向き合う覚悟ができていなくて、情けなさを抱えながら、遠くから、現れたその人を見つめた。

 そこにいた。

 涙が、少しだけ流れた。

 ずっとそうしてはいられない。何のガイドもなければ、いくら彼女でもすぐに息絶えてしまうだろう。だから、とうとう逃げ場を失って、名前をなくした少女は、その人の前に降り立った。

 初風月子に、手を差し伸べた。



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