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8-①



 自分が美しくないことに、佐鳥千咲は初めから気が付いていた。

 ほんの幼いころからずっとそうだった。容姿に優れた人間は、誰からも好かれる。綺麗で、可愛い子どもから順番に人の愛を受け取って、醜い子どもは後に回される。そういうことにひどく敏感で、深くそれを理解していた。

 なにせ、両親からすら容貌を褒められたことがない。

 何度も言われた。お前は決して、容姿に優れていない。だから、他のことで身を立てなさい。勉強をしなさい。運動をしなさい。ちゃんと中身を見てくれる人間は世の中にたくさんいるのだから、わざわざ自分が劣っているフィールドで勝負するのではなく、見込みのある場所で勝負しなさい。

 そんな場所などありはしないということには、やがて気が付いた。

 人よりも小柄で、ずいぶん痩せていた。歩幅も小さければ、力もない。運動で勝てることは、ほとんどなかった。ボール遊びの時間は憂鬱で、鬼ごっこの時間は鬼になったら最後とずっと息を潜めていた。学校の体育は、マラソンが一番気楽だった。失敗しても、誰に詰られることもないから。

 ひらがなを覚えきるのに、人より時間がかかった。一度覚えた九九は、その年の終わりにはもううろ覚えになっていた。割り算の授業をしているころ、ひどい風邪を引いて、一週間学校を休んだ。それ以来、黒板に何が書かれているのか、教壇で何が話されているのか、全く理解できなくなった。

 絵を描くのも下手。歌を歌うのも下手。人と話すのも下手だった。何のとりえもないから、人から悪意を向けられたとき、何も言い返せない。友達がほしい、という思いは、普通に日々を過ごしているうちに、誰かに傷つけられたくないという怯えに負けるようになった。人が自分に向ける視線のすべてに、軽蔑や敵意が混じっていると思えるようになった。黙る時間が増えていくうち、人との話し方を忘れるようになった。

 小学五年生のとき、消しゴムを落とした。隣の席の男の子が拾ってくれた。

 ありがとう、と言った。

 男の子は笑って言った。うわ、初めて声聞いた。変な声。

 それ以来、口を開くのも怖くなった。

 中学校に上がってからは、なおさらだった。周りは知らない人ばかり。その上、同じ小学校出身の人間とだって接点がない。五月になって人間関係が固まるようになれば、ぽつんと教室のシミのように自分が取り残されていることに気が付いた。

 ある日の昼休み、ふと、気が遠くなった。

 理由はわからない。単に貧血だったのかもしれないし、教室にいる、人に囲まれていることでのストレスが限界に達したのかもしれない。しかしとにかく、体温が急にすうっと下がったような感覚があって、座っているのもつらくなった。

 保健室に行きたい、と思った。でも、自分の足でそこまで辿り着ける気はまったくしない。今にも床に身を投げ出したいくらいの震えが起こっていて、けれど人から注目されるのが怖いから、そんなこともできずに、じっとひとりで耐えていた。

「大丈夫?」

 そんなとき、声をかけられた。

「調子悪そうだけど、平気? 保健室、連れて行こうか?」

 クラス委員の人だ、と。そのときは思った。実際にはクラス委員みたいな人であって、本当は単なる保健委員なのだと後で知ったのだけれど。ろくに人の顔と名前を一致させることもできないから、そうして話しかけてもらったときには、名前すらわからなかったのだけれど。

 こっくり頷いた千咲に、保健室まで付き添ってくれた生徒。

 名前を、初風月子と言った。

 その日から、千咲は月子のことをよく見るようになる。

 初めは、自分と同じ、教室から浮いた生徒だと思っていた。でもすぐに、そうではないとわかった。

 確かに、誰とも仲は良くなさそうだった。どこかのグループに所属しているわけではないし、かといって教室の中で存在感を持っているわけではない。

 でも、何でもひとりでできた。自分と違って。

 勉強も運動も、誰にも注目されていなかったけれど、人より上手くこなしているように見えたし、ひとりでいても、それが痛々しく見えるような人間ではなかった。人と話すとき、声は小さかったけれど、受け答えはしっかりしていたし、与えられた役割はきっちりこなせていた。その上、気の回るタイプなのか、人が嫌がること、放っておいたら誰もやらないだろう細々したことを、誰も、千咲以外には誰も見ていないところでやっていた。

 自分とは違う、と思った。

 何もできない自分とは、全然違う。

 綺麗な名前だとも思った。似合っている名前だとも、そう思った。初風月子。風のように、月のように静かで、でも、整っている。ここでも自分と違う。自分は鳥のようにどこかに飛んでいく自由さもなければ、咲き誇るような華やかさもどこにもない。

 羨ましいと、そう思った。

 あんな人になりたいと、そう思った。

 思っているだけだったから、日々の生活はどんどん苦しくなっていった。教室にいてどうしても我慢できないような体調になったときには、どこからか月子が現れて保健室に誘導してくれたけれど、その頻度が多くなるにつれて、教室に行くこと、それ自体が怖くなり始めた。

 秋ごろ、調子が悪いと嘘を吐いて、学校を休んだ。そこからはもう、ずるずると。

 家にいる方が楽なときは、学校を休んだ。両親から怒られたりして家に居づらくなったときは、学校に行った。学校と家の、どちらが嫌かを天秤にかけて、そのときまだマシだと思った方に顔を出した。そのうち、教室に入るたびに注目されるようになってしまったのが嫌で嫌で仕方なくて、学校に顔を出す機会はさらに減っていった。両親はいつしか、十八までは家に置いてやるが、それ以降の身の振り方は自分で考えろ、そういうことしか言わなくなった。

 ひたすら、家の中にいた。何もしなかった。できなかった。一日中カーテンも開けないで、床や、壁や、天井を見ているだけで、気付いたら何時間も経っている。そんな日々を送っていた。

「おい、人間」

 そして、悪魔は現れた。

 ぎょっとした。部屋の隅、暗がりに何か小さな、黒い生き物がうずくまっていた。でも、その場で叫んだり、逃げ出したりするような元気もそのときには残っていなかったから、じっと千咲はその生き物を見つめた。黒い、犬の形をしていた。

 それは、人の言葉で喋った。

「随分と、絶望してるみたいじゃねえか。どうだ、お前。もしも一発で人生が変わっちまうような、そんなシロモノがあるって言ったらよ、どうする――?」

 悪魔は言った。自分は『叶えの箱』と呼ばれる、神の道具を持っている。盗んできたのだ。この道具は神の持ち物に恥じないとてつもない力を持っている。この中には万物が収められている。必要とされるメダルを入れてその中身を取り出せば、自在に自分のものにできる。この世界の創造にすら使われたとてつもない物なのだ――。

「なんだ、反応が薄いな」

 だって、と。

 ほとんど掠れきった声で、千咲は言った。この時点では、白昼夢みたいなものだと思っていた。自分の頭の中の妄想なのだと思ったから、怯えもせずに話すことができた。

 だって、欲しいものが手に入るとは限らない。きっとそのメダルを使って中から出てくるものはランダムなのだろう。だったら、自分には決して使いこなせない道具だ。自分には運がない。生まれたときにランダムで神様から配られたものを見れば、それでわかる。

 自分が欲しいものを得られることは、決してない。

「笑えるくらいに悲観的だな、お前。でもまあ、そんなにみじめな人生送ってたら、それも仕方ねえか。――お前な、オレは悪魔だぜ。それも神の懐から盗みを働けるような大悪魔だ。神の道具にちょっと手を加えるくらい、なんてこたないのさ。言ってみろよ。お前、何がいちばん欲しい?」

 千咲はそのとき、もうろくに考えることもできずにいた。誰と話すこともなく、何を見ることもなく、ひたすら時の流れるままに眠り続けていた頭は、薄ぼんやりとしたまま、どんな風に働かせることもできなかった。

 だから、最もわかりやすいものが、いちばんに出てきた。

「顔」

 そうして口にすることが、どんな意味を持つのかも、わからないまま。

「綺麗な顔が欲しい。そうすればたくさんの人に、優しくしてもらえるから」

 そしてその願いは、叶えられた。

 髪の色が変わった。目は大きく、眉も鼻も涼しく伸びて、唇は少し薄く。輪郭が描くラインも美しく引き直された。

 鏡を見た。

 千の花が咲くよりも美しい顔が、そこにあった。

「『美貌』のカードだ。いきなりこいつで外に出て行ったんじゃいくらなんでも問題が起こるだろうから、違和感を消すためのカードも使わなくちゃならねえがな」

 もう悪魔の声は、千咲には聞こえていなかった。千咲はそれこそ夢を見ているとの同じ目で、鏡を見つめながら、ぺたりぺたりと自分の顔を、手で触れて確かめる。その手すらも、白く、細く、これまでとはまるで違った形をしていた。

「さあ、これでお前とオレの契約は成立だ。いくらなんでも際限なく『叶えの箱』を使わせるわけにはいかねえ。五つだ。お前の願いを五つ、『叶えの箱』を使って叶えてやる」

 だが、と悪魔は付け加える。

「何の代償も払わず、なんて美味しい話がこの世にあるわきゃねえよなあ? 何かを得るためには、何かを失わなきゃならねえ。お前が死んだときにはその魂を貰う」

「え、」

「聞いてなかったってか? 聞かずにオレと契約を結んだお前が悪い。受け取っちまったものを今さら返す、なんざ人間の理屈だぜ。お前はオレが与えたものを受け取った。喜んでな。それで契約成立だ」

 そんな、と口にするだけの些細な気丈さすら、もう千咲には残っていなかった。自分のやってしまったことがどのくらいの重さを持っていたのか推し量ることすらもできなくて、悪魔から何かを言われるのが怖くて、ただ目を伏せた。それを了解の印と受け取ったのか、悪魔は、

「へっ、まあ精々残り三つの願いを必死に考えるこった。せっかく夢が叶うんだからよ」

 そう言って、影の中へと消えてしまった。

 しばらく、それでもしばらくはまだ、千咲は動けなかった。何も行動を起こせなかった。部屋からは出られなかったし、家族に顔を見せることもできなかったし、学校に行くこともできなかった。

 けれど、部屋の中にいて見つめるものは、壁や天井から、鏡に映った自分の姿に変わっていた。

 綺麗だ、と何度も思った。

 何度も思ううちに、勇気が出てきた。外に出る勇気。今なら、そうだ今なら。難しいことを考えるのはやめよう。だってこんなに美しい形に生まれ変わったのだ。

 今なら、人に受け入れてもらえるかもしれない。

 そんなことはなかった。

 話し方は、すっかり忘れていた。誰に声をかけられても満足な受け答えができず、そのうち誰からも話しかけられなくなった。中身は何も変わっていないから、相変わらず勉強もできなければ運動もできなかったし、鈍くさいからひとりでできることは何もなく、そのくせひとりじゃなくなることもできなかった。

 そのうち、陰口を言われるようになった。

 顔だけ。他には何もできない。自分たちのことを嫌っている。何しに学校に来てるんだろうね。つまらないなら、前みたいに家でひきこもってればいいのに。

 それでも、千咲はがんばった。だって、せっかく美しくなったのだから。きっと、今は少し上手くいっていないだけなんだ。時間がすべてを解決してくれるはずだ。あとちょっと、あとちょっとだけ我慢すれば、自分の人生は素晴らしいものになるはずなんだ。

 その、あとちょっと、が限界から少しだけ溢れ出して、千咲は教室で気を失った。

 誰とも話さずにいる間に季節はすっかり移り変わり、教室に、もう月子はいなくなっていた。

 起きたときには自分の家のベッドの上にいて、夜が来ていた。

 目の前には、あれ以来姿を見せなかった悪魔が、佇んでいた。

「さあ、次は何が欲しい?」

 千咲は考えた。何を得れば、人から受け入れてもらえるだろう。頭が良ければいいのだろうか。それとも身体が強ければいいのだろうか。何事もそつなくこなすだけの器用さ? たったひとつだけでも誰にも負けない取り柄? それとも、


 ちゃんと人に好かれるような、まともな魂?


「――死にたい」


 悪魔は、信じられないような大声で笑った。

「――ああ、そうだよなあ! そうなるよな、お前みたいなヤツだったらさあ!」

 楽しそうに、げらげらと笑って、悪魔は言う。

「まあしかし、契約は契約だ。ここで死なれちゃ、オレはお前の魂の半分も得られない。引けよ、残り三回分。ほら、何が欲しいんだ? 安楽死の手段なら最後にしな。五つの願いを叶える前に死なれたんじゃ困る」

 千咲の目の前に、『叶えの箱』が現れる。悪魔はメダルを三枚、投げて寄越した。それをのろのろと、千咲は拾う。

「……何でもいい。何だって、いい……」

 悪魔は笑って、

「ならオレは何もしねえよ。好きに引きな。――しっかし、見物だぜ。お前みたいな何にも恵まれてないやつが『叶えの箱』を使ったら、一体どんなしょうもねえものが出てくるんだろうな。ひょっとするとお前にとっていちばん要らねえようなものが――」

 千咲が『叶えの箱』から出てきた紙を開く。

『不老』

「――は、」

 さらに引く。

「おい、待て。待てよ、おい」

 開く。

『不死』

 さらに、

「待てつってんだろ、お前!」

 悪気はなかった。

 千咲はその時点では『叶えの箱』から出てきたカードをどう使うのかわかっていなかったし、最後に引いたカードに至っては、それが何のカードなのか確認する暇すらなかった。

 ただ、驚いただけなのだ。

 ただ、悪魔が飛び掛かってきたのが怖くて、驚いて、咄嗟に身体が反応して、手を握って、開いただけなのだ。

 悪気はなかった。

 悪気はなかったけれど、世界は滅びた。


 最後に千咲が引いたカードを、『破滅』という。



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