7-④
さらさらと水の流れる音を聞きながら、月子は家の扉を閉めて、通りに歩き出した。
カエデがどこに行くのか、そのヒントも何もない。この広い街を一夜の間に隅々まで探すのは、いくら何でも、車を使ったとしても不可能だ。
だから、月子は考えた。まずは手がかりがいるのだ。そうして、一番近くの水路まで、まずはまっすぐ向かった。
水路は夜の間も流れ続けている。そしてその流れをぐるぐると、ボートは巡り続けている。
じっと、月子はそれを見続けて、不意に、
「これっ」
ひょいっ、と飛び乗った。
そのボートの、間隔が違っていたのだ。ずっと等間隔でボートが目の前を横切っていった中で、そのボートだけが前のボートと少し離れていて、後ろのボートと少し近付いていた。カエデは自分がボートを使うとき、『水流』のカードを使って、その場に停止させる癖がある。そして月子の見ているところでは、ちゃんとその操作によって生じた遅延分、ボートの位置を直すのだけれど、見ていないところでは直さないらしく、ときどき、ずっと感覚のおかしくなったボートが流れていることがある。
これだ、と月子は思った。カエデが移動のために使ったのは、このボートだ。『翼』で異動していなくて助かった。
ボートの行先は、それぞれ違う。だから、このボートに乗っていれば、それだけでカエデの元に辿り着ける。どこに行くボートだろう。考えずに飛び乗ってしまったものだから、そんなことすら確認していない。それぞれのボートには夜でも目立つように、とランプが点いているから、懐中電灯を消して、それからどこ行きの便なのか、船首の色を確認してみる。
赤褐色の縞が二本に、丸ひとつ。
ガチャガチャ箱行きだ。
ガチャガチャ箱は、海辺に設置してある。メダルの回収場所から遠いところに置くと、そこから移動させるのが手間だからだ。
街の中心部である自分たちの家から、いちばん到達までに時間がかかる場所でもある。
月子は緊張しながら、水路の流れに身を任せる。水の音と、時折ボートがぎい、と鳴る音だけが響く。昼の間はきらきらと輝いている水面は、今となっては底が見えないほどに昏い。
さらさら、ぎいぎい。ボートは進む。ランプの灯りが揺れる。それは頼りなく、いつ暗がりから黒犬が姿を現わしても、何もおかしくないように思える。月子は懐中電灯を手にしたまま、息を潜め、身体を折り曲げて、ボートに身を隠すようにして進んでいった。
どん、とそのボートが揺れた。水面にも波紋が広がる。
近付いたのだ、と月子は思い、さらに縮こまる。
どん、どん。がん、がん、と。
何度も何度も、空気を揺らすような、大きな音が響く。たぶん、何かすごく重たいものが、地面に落ちている。そういう音だった。その音が、鼓膜をびりびりと揺らすようになったあたりで、月子はボートを蹴って、水路から抜け出した。ボートに乗って身動きが取れないままに、カエデと、おそらく黒犬がいるだろう場所に踏み入っていくのが怖かった。
揺れる地面に足を取られてふらつきながら、月子は進む。
やがて、こんな声が聞こえた。
「わからねえヤツだな! てめえに勝ち目なんざねえんだよ、クソ女! さっきから馬鹿の一つ覚えにどっすんどっすんやりやがって、おちょくってんのか? それともマジでわかんねえのか? マジで頭が足りてねえのか? そうだよなあ、この街だって奴隷に一から十まで作ってもらったんだもんなあ!」
「うるさい! 黙れ!」
「図星刺されて半泣きか? 笑わせんなよクソガキが! 思い出してみろよ、お前の人生で一度でも上手くいったことがあったか? なかったよなあ? 今度もそうだよ。お前が報われることなんざ永遠にあるわきゃねえだろ、意地の汚え豚女! なあ、奴隷と過ごした時間は楽しかったかよ。楽しかったろうなあ、気に入らなきゃいつでも消せるんだからよ。本当に都合のいい道具だよ、『叶えの箱』は! お前みたいなゴミクズだって、世界の支配者になれるんだから!」
「それは、お前が!」
「お前が? お前がって言ったのか、今? どの口だよ。どの口で言えんだ、んなこと!」
姿が見えた。
もう、ここまで来ると音だけじゃない。振動が伝わって、目まで痛くなる。
ガチャガチャ箱のあるところは、ひどく開けている。一面の砂浜。夜の海辺。あまりにも寂しいからと設置した小さな東屋があるくらいで、他には何もない。そこまで姿を見せる勇気も、それからタイミングも月子は見つけられなくて、まだ砂浜より遠く離れた、建物の陰に隠れている。
行かなくちゃならない、とは思うのだけれど。
黒犬は、前に見たときよりも一回り大きく見えた。その頭上から、ありとあらゆるものが降り注いでいる。『自動車』くらいならまだ小さい方だ。『航空機』『大型客船』『電信柱』、とにかく巨大なサイズのものが、空から地面に落とされている。
もちろん、それはカエデがやっている。カエデはずっと、自分の手を握っては開いてを繰り返している。それは、カードを使うときの仕草だった。
効いていないんだ、と月子にもすぐにわかった。黒犬は何度も、何度も何度も何度も潰れている。ぐしゃ、という音ですら生温い。地面と物が衝突する激しい音の、そのついでに潰されているような、凄惨な有様だった。
でも、通用していない。潰れた黒犬は、すぐに霧のように夜の暗闇に溶けて、そうして元の姿に戻ってしまう。あれじゃダメなんだ、と月子にはわかる。たぶんもっと、違うやり方をしなければならないのだ。
自分だったら何を使うだろう。考える。あの霧状になるのは、実際にそうなっているのだろうか。気体状になったところにダメージを与えればいいのだろうか。だったらたとえば、『金庫』のカードを使って黒犬を閉じ込めて、その中に向けて『火』のカードを使うのはどうだろう。それとも、霧状になったところを狙って『風』のカードを使えば、ばらばらになって二度と意識を取り戻せなくなるかもしれない。
なんにせよ、カエデのやり方だと、確かにきっと、意味がないのだ。
もしかしてこれだったのかもしれない、と月子は思う。つまり、カエデは自分にこう期待していたのだ。こっそり後から駆けつけて、あの黒犬を倒してほしいと、そんな風に。
と、言っても。
月子はポケットの中を探してみる。ろくなものはない。カエデから貰ったヘリクリサムの花。腕時計、懐中電灯。それからいくつかの使えないカード。そのくらい。どれも大切なものではあるが、どうやっても、自分がどうこうして黒犬を倒すことはできなそうに思える。
だったら、状況にヒントがあるのかもしれない。
月子は物陰から、もう少し顔を出してみる。夜。海。暗闇の中で、黒犬への対策だろう、カエデとガチャガチャ箱だけが、スポットライトを当てられたように、真っ白に照らされている。
あんなにどっかんどっかん物が降り注いでいるところに、自分が割り込めるわけもないのだし。
でも、たぶん。きっと。
大丈夫だと、月子は思う。ここに自分が呼び出されたということは、事前に何の打ち合わせもなかったということは、自分にやれる、いちばんシンプルなことをやればいいのだ。
懐中電灯を、ぎゅっと握る。それから、黒犬の動きを見続ける。何度も何度も何度も、執念深い、と言えるくらいにじっくりと見つめる。
そして、気付く。霧状になった後、必ず右の斜め前側に移動してから、黒犬は復活する。
たぶん、そこなのだろうと月子は思う。いちばん黒犬が油断するところは、落下してきたものを切り抜けて、元通りに復活したときだろうと、そう思う。
右手が震えそうになるのを、左手で抑え込む。
たぶんこれで、正しいのだと思う。いちばん油断したところで、黒犬の動きを止める。不意打ちで。カエデが、自分がここに来るのを期待していて、それも自分とは別に、隠れて来ることを期待していたのなら、きっと、望んでいたことはそれしかない。
大丈夫、と思う。いざとなれば懐中電灯を振り回してやればいい。カエデが『夜』を終わらせてくれればいい。リスクなんて、ほとんどない。ゆっくりと、月子は懐中電灯のスイッチに手をかけて。
ちかっ、と。
「―――――クソが!」
黒犬の動きが、ちょうど止まった。
そのとき、月子は見た。霧になって、再生する途中だった黒犬の姿が、不自然に凝固したところを。
そうか、と気付いた。光だ。あの黒犬は光に弱い。それは単に、光のあるところでは存在できないとか、それだけのことじゃなかったのだ。
きっと、身体の一部。そこに強い光を当てられると、再生が途中で止まるのだ。これが弱点だったのかもしれない。カエデはそれを見抜いていたのかもしれない。何も言わずとも自分なら手助けに入ることができると、信じてくれていたのかもしれない。
今だよ、と月子はカエデを見た。
カエデは、信じられないような顔をして、月子の方を見ていた。
「え――、」
「助かるよなあ、相手が馬鹿だと!」
一瞬の出来事だった。
なぜか、カエデとガチャガチャ箱に当てられていたスポットライトが消えた。代わりに月子に向かって、サーチライトのように光が飛んできた。
目を眩ませた月子は、思わず懐中電灯の向け先を逸らしてしまう。そこから先は月子の目では見えなかったが、こんなことが起こった。
黒犬がもう一度形を取った。
茫然としているカエデの元に、とんでもない速度で迫った。
カエデは黒犬の方を見もしないまま、飛び掛かられて、倒れ伏して、左の前脚で首元を、右の前脚で肩を押さえ込まれ、カードを握っていた右の手首に噛みつかれた。
ぶちぶち、と音を立てて食いちぎられた。
絶叫が響いて、恐ろしいことが起こった、と月子は気付いた。視界のほとんどを奪われている。目も開けられない。とにかくこの光から逃れないと何もわからない、と目元を覆うが、ここから出てしまえば黒犬のテリトリーだ、と冷静な自分がその足を掴んで離さずにいる。
黒犬の笑い声が響く。
「ぎゃは、ぎゃはははは! とうとう捕まえたぞ、クソ人間!」
人間。
その言葉に、月子はようやく気付いた。違う。これは、自分の考えていたこととは、違う。自分は考え違いをしていて、今ここでは、何か、想定していなかったことが起こっている。
それもたぶん、最悪のことが。
「あの奴隷女には冷や冷やさせられたが――、結局、どれだけ取り繕ったところで生まれ持ったものは変えられねえ! 始まりから悲惨なお前みたいなヤツは、悲惨に終わるって決まってんのさ!」
「や、やだ、やめ――」
「――オレは、悪魔と契約した人間には容赦しねえ。ましてや、魂を踏み倒そうとした人間になんざ、」
もう一度、絶叫が響いた。
ぺっ、と黒犬が砂浜に物を吐き棄てる。ぼとっ、と乾いた音でそれは転がる。
右手首だった。
「――死ぬ前から容赦しねえ。魂の苦しみだけじゃない。肉体にも、無限の苦痛を与えてやる」
ようやく、月子の目が元に戻った。
暗闇の中だから、はっきりとは見えない。ただ、黒犬に、カエデが組み伏せられている。そういう構図だけが見える。
自分が間違ったのはわかる。
だから、取り戻さなくちゃいけない。
「――おっと、」
それも、不発に終わった。
懐中電灯を、不意打ちで黒犬に向けたのだ。それでカエデから離すことができれば、と思ったのに、その動きを読んでいたのか、黒犬はカエデを引っ張り上げて盾にすることで、その光から身を躱した。
血まみれのカエデが、照らし上げられた。
「ひ――、」
「動くんじゃねえよ。大人しくしてりゃ、お前の方には何もしねえ。契約を交わしたわけでもなければ、オレに危害を加えたわけでもねえからな。さっきのタイミングはちょっとヒヤッとしたが――、このイカレ女を捕まえる手助けをしてくれたんだ。悪いようにはしねえさ。――おい、クソ女」
ぐい、とカエデの身体が後ろに引っ張られる。うあ、と呻く声がして、月子はやめろと叫んだけれど、聞き入れられるわけもない。
「このまま永遠に苦しめてやってもいいが、そうしてほしくないってんだったら、そのカードを解除しな。『不死』のカードだ」
「――誰、が」
「肉の痛みが弱くなってんのか? 手首飛ばしてやったのに威勢がいいじゃ――、もう回復してんのかよ。オレよりお前の方がよっぽどバケモノだぜ。仕方ねえ、オレが――」
「やめろ!」
カエデは暴れるような素振りを見せたけれど、よほどがっちり黒犬に押さえつけられているのか、ほとんど身動きもできていない。黒犬は鼻面をカエデのポケットの中に差し込んでカードの束を引き抜いた。
「随分使い込んでんじゃねえの。優秀な奴隷に引っ張ってもらったおかげか? お前みたいな意志薄弱な人間がなあ、感動ものだよ。――お? いや、はは。んなわきゃねえか。素のお前じゃ、こんなに頑張れたわけがないよなあ」
黒犬は、一枚のカードを千切り取って、それが見えるように、カエデの前に掲げた。
カエデの顔色が変わる。
「やめろ――、やめてくれ!」
へっ、と黒犬は笑う。
「やめねえよ。――ちゃんと受け入れろ。本当の、ゴミみてえな自分をさあ!」
そう言って、黒犬はカードを飲みこんだ。
月子は、まだ懐中電灯を向けたままだった。
だから、はっきりとその姿が見えた。
その後どうなったのかも、はっきりと見えた。
カエデの姿が、瞬きの間に変わった。
白かった髪は真っ黒に変わった。
橙色だった瞳も、黒く変わった。
目の形も、鼻の形も、口の形も、輪郭も、身長も、何もかもが切り替わった。
そこには、どこにでもいる、普通の女の――女の子の、姿だけが残った。
その顔を、月子は知っている。
「佐鳥、千咲――?」
黒犬の飲みこんだカードには、こう書かれていた。
『美貌』