7-②
どのくらいの間、辛抱すればいいのだろう。
それから一週間も経たない間に、カエデの様子はみるみる変わっていった。
具体的に言うと、明らかに消耗していた。
容貌に衰えがあるとか、そういうことではない。ただ、生活している中で、あらゆるタイミングで、どこかここではない場所を見ている。それは街並みの向こうの空であったり、部屋の隅であったり、自分の靴先であったりしたけれど、とにかく、心ここにあらず、という様子であるのははっきりと見て取れた。
その様子を見た月子が、調子が悪いの、と聞くと、それで自分がこの場にひとりではないということに今気付いた、というようにカエデは意識を取り戻して、笑顔を作って言う。ううん、なんでもないよ。
なんでもないわけがなかった。
でも、それが何なのかは、月子にはわからない。
あれから、黒犬の目と会話した夜から、もう月子が夜に目覚めることはなかった。毎晩、カエデの用意したホットミルクを飲んで、朝まで身動きもせずに眠っている。だから、月子が夜の間、自分の見ていない場所で何をしているのか、把握のしようがない。
見ないようにしているのだから。
なんでもないわけがないとわかっていても、なんでもなくないよね、とは月子は聞けない。聞けないでいる。だって、カエデはそれを悟らせたくないと思っているだろうから。
できることは、限られていた。
だから、月子は限られたできることをしようとした。
きっと、カエデには何か考えて、悩んでいることがあるのだろう。それを解決する手助けはできないけれど、体調が悪そうなのは、ひょっとしたら夜の間も起きて、出歩いているからなのかもしれない。
そう思って、昼の間、月子はこれまで以上に一生懸命働くようになった。これまで以上に必要な勉強をたくさんするようになったし、できるだけカエデの負担が増えないよう、街の作成前に細かい図面を引いて、手法もよく練り込んでおいて、簡単に実作できるように調整したりした。カエデがぼんやりしているときは、わざと気付かないふりをしたままてきぱき作業を進めたりして、できるだけ手間をかけさせないようにと力を尽くした。
その日も、同じようにしていた。
「……うん、これならかなり見栄えするかも」
どう思う、とはもう聞かない。最近のカエデは何を見ても、うん、いいんじゃない、としか言わないから。仕方のないことだと月子は思う。街を創るよりも重たい悩み事を抱えているのだ。とりあえず今のうちには自分の感覚で進めて、色々と解決した後になってから、ふたりでまたわいわい調整をかければいい。
何ヶ月もデザインをしていれば、それなりのものは身につく。月子はスケッチブックに描いた、階段の図案を見ながら、ひとりで頷く。それから、気付いた。
ここから先の部分を進めようとしたら、階段を作ってしまってからでなければ、作業が進められない。
首を左右に向けて、カエデの姿を探す。仮置きのベンチに座り込んで、ぼんやりと地面を見つめているのを、月子は見つけた。
疲れてるみたいだけど、と一瞬躊躇した。
けれど、ここを作ってもらわないことには、自分もやることがなくなってしまう。カエデが作業の進み具合に気付くまでぼんやりと待っているというのも、それはそれで嫌味に映る行動に思える。
だから、ちょっとだけ我慢してもらおうと、そう思って月子は歩み寄って、手を伸ばして、
「カエデ、」
「――――っ!」
その手を、振り払われた。
ぱん、と。
静かな、創りかけの世界に、乾いた音が響いた。
一瞬、月子には何が起こったのかさっぱりわからなかった。勢いよく跳ねた自分の右手がどうしてそうなったのかも、前腕に残る衝撃がどこから来たのかも、さっぱりわからなかった。
でも、カエデの顔は見逃さなかった。
自分が何をしたのか理解しただろう瞬間に、傷ついた顔をしたのだけは、はっきりと捉えた。
「ご、ごめんっ! ぼーっとしてて、」
立ち上がりながら、慌ててカエデが言って、自分の手を取ってくれば、もう月子が癒えることはたったひとつしかない。
「ううん、平気だよ」
笑顔までつけたのに。
さっきよりも、ずっと傷ついた顔を、カエデはした。
「……ねえ、月子。私のこと、本当はどう思ってる?」
「どう、って」
好きだよ、とでも言えばいいのか。
何でもないときに聞かれたなら、月子は気恥ずかしさを覚えながら、素直にそう言えただろうけど、今は状況が違う。たぶん、重要なのは自分がカエデのことをどう思っているのかではない。
「急に、どうしたの」
カエデが、自分にどう思っているのかを聞いてきたことが問題なのだ。
だって、そんなのわかりきったことだろうに。
「別に、手を叩かれたくらいじゃ何とも思わないよ。でも、やっぱりカエデ、ちょっと疲れてるよね。しばらく街の方はお休みにしても、」
「答えて、月子」
きっぱりと、カエデは言った。
まっすぐに、橙色の瞳で、月子を見つめながら。
「約束する。たとえ月子が私のことをどう思っていても、私、怒ったりしないから。だから、本当のことを言って。嘘を吐いたり、誤魔化したりしないで、本当の気持ちを私に教えて」
何かがおかしい、と。
月子の頭の中で、警報が鳴っている。
違うのだ。いつものカエデと。疲れてるだとか、そういうことだけじゃない。自分に対する態度が、目つきが違っている。今までみたいな、仲の良い友達の目線じゃない。
何かが、決定的に変わりつつある。
黒犬の言葉が、頭を過る。
カエデは嘘を吐いている。
自分のことを騙している。
悪魔と契約した人間は、魂を貪られる。
でも、と。
「大丈夫だよ」
やっぱり月子は、そう言える。
「どんなカエデも、私は好きだよ」
その言葉に、カエデは月子の手を離して、
「そっか。……月子、」
笑って言う。
「ありがとう」
たぶん、それが致命傷だった。