7-①
ぎゅっぎゅっぎゅっ、と。
勢いよく飲み干すのを、カエデはぽかん、と見ていた。
だんっ、と木製のテーブルの上に、カップが置かれて、
「もう一杯っ」
「月子、大丈夫? そんなに飲んだら夜、トイレ行きたくなっちゃわない?」
「ならないっ」
カエデは困惑した様子で、月子の飲み干したカップを手に取って、本当に大丈夫なのかな、とひとりごとを呟きつつ、キッチンの方に消えていった。
負けてなるものか。
月子はそう思っている。
黒い犬だかなんだか知らないが、今さらぽっと出てきたやつなんかにこの生活を壊されてたまるものか。あの後、目玉だけで人の寝室を覗きこんできたあと、むらむらとそういう怒りが、月子の中で燃えだしていた。
思い出すと、頭に来る。
自分が散々馬鹿にされたのもそうだけれど、カエデを散々馬鹿にしたのが何より許せない。カエデは確かに自分に隠し事をしている。それがどうした。カエデは自分を馬鹿にしてきたりしないし、大声で怒鳴り立てるようなこともしない。優しいし、一緒にいて楽しいし、何より自分と一緒にいたいと言ってくれた。それだけでもう他に、何もいらないのだ。
月子がこういう怒りを覚えるのは、ひどく珍しいことだった。たぶん、月子自身が自分の怒りの記憶を掘り起こそうとした場合、物心のつくつかないの領域に足を踏み入れる必要がある。これまでの生活で、月子は他人に大事にされたり、尊重されたりしてきたことは少ないけれど、それがかえって、感情のタガを強めに締めていた。
そして、緩め方を心得ていなかったばかりに、今はすっかり壊れてしまっている。
隠し事のひとつやふたつや百個や二百個がなんだ。仮にカエデが悪魔だったとして、それがなんだ。死後魂を貪られるとして、それがなんだ。
友達が悪魔だったときに魂を貪られるくらいの覚悟がなくて、何が友達だ。
「ねえ、月子。とりあえず淹れたけどさ。もう四杯目だし、」
「飲むっ」
キッチンから聞こえてきた声に、月子が反射で答えると、カエデは困った顔をしながら、カップを手にまたダイニングにやってきて、
「えっと、ハチミツを混ぜてみたんだけど。飽きるかなと思ってさ……」
言って、月子の前にカップを置いて、それから自分の分も両手で包むように持ちながら、向かいの席に座る。
月子はじっと、そのカップを見た。カエデはその様子に、不安そうな表情になって、
「ごめん、余計なお世話だったかな」
「カエデ」
「う、うん」
「カエデ、全然脳味噌足りなくなんかないよっ」
「えっ……? うん、ありがとう……?」
月子はそのカップを手に持って、また勢いよく飲もうとして、でもカエデが手間をかけて作ってくれたんだから、と思い直して、表情だけは気合の入ったまま、ちびちびとそのホットミルクを飲む。
月子は思う。
性悪腰抜け陰険根暗女で結構。あんな犬の言うこと、ひとつだって聞いてやるもんか。
真っ白な飲み物を、舌に溶かしていく。
「あのさ、月子」
そんな月子に、カエデが言った。
「最近、何かあった?」
「何って、」
あったけど、と。
言おうと思えば言えるのだろう。けれど、月子はそれを口にする前に、よく考える。言ったらどうなるだろう。昨日の夜、犬の目玉だけが部屋に張り付いてきて私たちの悪口を言って帰っていったんだよ。めちゃくちゃムカついた。前々から犬って苦手だったんだけど、今回で本格的に嫌いになりそうだよ。動物をこの世界に導入するときは別の生き物から始めない? カエデは何が好き? ペンギンとか?
その話の流れはともかくとして、これを伝えるのはいけないだろうと、そう思う。夜の間に起きていたことがバレてしまったら、カエデが夜の間に出歩いていることに気付いていることもバレてしまう。
だから月子は、
「何にもないよ」
言った瞬間、
「あっ、」
「わわっ」
ごとん、とカエデがカップをテーブルの上に転がした。中身が入ったまま。
「あ、わ、」
「あ、今、抑えてるから、今、今退いちゃって」
中身がこぼれ落ちるのを、咄嗟に月子は身を乗り出す。テーブルの端から、カエデの足に零れ落ちそうだったのを、咄嗟にその縁に手を置いて堰き止める。
「ど、どうしよう」
がたがた、と椅子を鳴らしながら、カエデが立ち上がる。そう聞かれても、少なくとも月子にできることは何もない。
「あっ、こぼれるこぼれるっ。拭くもの、拭くものない?」
咄嗟にそう聞くと、そっか、と言ってカエデはポケットに手を入れて、ばらばらと勢いよく紙束を捲り始める。その中のひとつを握って開いて、
「あっ、間違えたっ、これただの紙、」
「いいからいいから、置いちゃって」
てんやわんや。普通のコピー用紙をカエデは月子の手のひらの近くにわさわさと大量に置き始める。月子はそれで、自分の手が液体とどんな位置関係になっているのか、紙の陰に隠れてわからなくなってしまったから、かえって思いきり手とテーブルの接着面積を広げて、
「……大丈夫?」
「たぶん。手、離してみるね」
なんだかんだした後に、机の上にはティッシュペーパーやらキッチンペーパーやら、ハンカチやらテーブルクロスやらが散乱している。そっと、慎重に月子は手を離すと、すっかり牛乳まみれになっている。滴の落ちる前に、テーブルの上のゴミで拭いた。
「月子、大丈夫? 熱くなかった?」
「え? ああ……」
言われてから、そういえば熱かったかもしれないと気付く。淹れたばかりだったのだし。でも、実は猫舌のカエデだって同じものに口をつけていたということは、自分がすぐさま悶えたりしなかったということは、たぶん、それほどの熱さではなかった。一応、自分の手を顔の前に掲げてみる。特段赤くなったり、火傷しているような様子は見当たらなかったけれど、
「水で冷やさなきゃ。跡になっちゃうよ」
カエデにその手を取られて、キッチンに連れ込まれる。それから、蛇口から勢いよく流れ出した水に、その手を浸けられた。
別に痛くはないんだけど、と思っている間に、カエデは『洗面器』と『氷』を出して、それを月子の手の下に設置する。至れり尽くせり、と月子はその中に、自然に自分の手を沈めた。
かえって、冷たさに手が痛みそうだったけれど。
「あのさ、月子」
「うん?」
「ごめんね」
声が沈んでいて、その上あまりにも深刻な表情でカエデが言ったので、月子はちょっと驚く。大したことないのに、それどころかこんな風に心配されてうれしかったくらいなのに、と思って、それが伝わるように笑って、
「大丈夫だよ。そんなに熱いってほどじゃなかったし。カエデって、こういうときちょっとおっちょこちょいだよね」
「―――――っ」
笑ったのに。
カエデは、泣きそうな顔になった。
前々から月子は、自分の笑顔というのがどうも人よりも力不足なんじゃないか、というか絶対そうだ、とは思っていたが、カエデにまでその反応をされると、さすがにちょっと傷ついた。けれど、通用しないものはどうしようもないので、表情で伝えるという甘えはやめて、言葉を重ねることにする。
「そんなに落ち込まなくても……。本当に何ともないよ?」
「……うん、そうだよね。そう、言うしかないよね」
「え?」
「ごめんね……。でも私、月子のこと、ちゃんと……」
何かがおかしいと、月子は思った。
自分の言っていることが、間違って伝わっている気がする。そうじゃなければ、こんな風にどんどんカエデの表情が曇っていったりはしない。
「……カエデ?」
問いかけて、肩にでも触れてみればよかったのに。
水浸しになった手を、月子はすぐに差し出すことができず、カエデは月子の言葉にハッ、と我に返ったように顔を上げてしまう。
取り繕ったような笑顔で。
「ごめんねっ。最近、ちょっと考え事が多くてさ。疲れてるのかも。月子、手は大丈夫そう? 氷枕作って、寝てる間にも冷やせるようにしようか?」
いやそこまでは、と月子が言うよりも先に、ゴム枕ってどこにあるんだっけ、とカエデは背を向けて、とことことどこかへ消えてしまう。
キッチンで、手を氷に寄せながら。
月子はひとり、立っている。