6-④
数週間が経っても、夜中に目が覚めると、まだ不安になった。
ちら、と瞼を薄く開ける。明るい。だから、あの黒犬は入ってこない。そう、頭でわかっていても、怯える気持ちは抑えられない。もう一度眠りに落ちてしまいたい、と月子は毛布をかき抱いたけれど、暗くないから、それもなかなか難しい。瞼を透かして、橙色の柔らかい灯りが瞳まで届いてしまう。
最近はしばらく、夜中に目を覚ましたりはしなかったのに。どうしてだろう、と考えて、ふと思い出す。眠りづらいだろうから、とカエデが眠る前に作ってくれるホットミルク。そういえば、今夜は飲んだ記憶がない。お風呂に入って、出て、そのまま疲れに任せて寝室にまで来てしまった。
キッチンに出しっぱなしになっているのかもしれない。
眠れないし、それに、せっかく作ってくれたカエデだって、起きて手つかずのそれを見たら、少なからずショックだろうし。
起きよう。
思い切って。
大丈夫、明るいのだから。
月子は目を開く。毛布を右側に避けて、左側、カエデの眠るベッドとは逆側に置いたスリッパに足を入れて、起き上がる。
起こさないように、静かに動こう。
そう思って、気が付いた。
音が、しない。
「――」
月子は自分の喉を押さえる。
え、と。そう、言おうとしたつもりだった。
「――――」
声が出ない。一瞬パニックになりかけて、けれど、スリッパで床を叩いて、それでも無音だったから、これは自分ひとりの問題じゃない、ということに気が付いた。
カエデの眠っているはずの方を見る。
誰の姿も、なかった。
月子は考えた。カエデが、あの黒犬に襲われたのだろうかと怖がって、それからすぐにそれを否定する。カエデはあのガチャガチャ箱から出てきたすべてのカードを持っているのだ。ちゃんと準備していればどんな相手にだって対応できるはずだし、それにこの部屋は壁にかけたランプのおかげで明るいのだから、
窓の外を見た。
『夜』が来ている。
それで、月子はわかった。
たぶん、カエデは自分の意思でこの寝室を抜け出したのだと。
音が消えているのも、おそらくカエデがやったことだ。自分は見たことがなかったけれど、『光』のカードがあって『音』のカードが存在しない理由はない。カエデは自分を起こさないように『音』のカードを使ってこの世界から音を消して、それからこの部屋を出て行ったのだ。
理由はきっと、『夜』が来ているのを見ればわかる。
カエデは、あの黒犬を探しに行ったのだ。その目的までは、わからないけれど。
どうしよう、と月子は悩む。何も見なかったふりをして、もう一度眠ろうか。キッチンに降りて行く間に、暗闇がないとも限らない。
カエデは自分に知らせようとしていないのだから、知らないふりを続けるのが正しいことなんじゃないだろうか。
そうしよう。
月子はスリッパを脱いで、ベッドの上にまた身体を横たえようとして、
〈――よう、人間。久しぶりだな〉
「――――!」
音のない世界で、声が聞こえてきた。
正確に言うなら、声ではない。べたり、と瞳に手紙を張り付けられたような、そんな感触で、言葉が送り込まれてくる。
どこから、と探すのは窓の外。
暗闇の中、黒犬の赤い眼球だけがひとつだけ、浮かび上がって爛々と輝いている。
声を上げたくても、上げられなかった。
〈今日はあの女の眠り薬を飲まなかったのか? そいつは好都合。お前には手伝ってもらいたいことがあるからな〉
眠り薬、という言葉に驚きはなかった。いくら『音』を消したところで、自分がこんな風にたまたま目を覚ましてしまったら、それだけでカエデが何かしているということは知れてしまうのだ。だったら、何か保険をかけておいた方がいい。自分が夜中に、決して目を覚まさなくなるようなものを。
それは当然のことだと、月子は思う。知らせたくないのなら、自分が決して知ることができないように、薬を使うことくらいは、当たり前のことだと、そう思う。
誰が手伝ったりするものか。黒犬の言葉に月子は反発するけれど、思うだけ。声に出すことはできない。
黒犬は、そのまま続きを語る。
〈あの女が今何をしてると思う? オレの身体を叩き潰してんのさ。ひでえもんだぜ? 脳味噌足んねえんじゃねえかな、あの女。科学兵器でも何でも使やいいのに、片っ端から重たいものをオレの頭の上に出して潰そうとしてんだ。やり過ごす方は楽なもんだが、味方してるヤツからしたら、そんな馬鹿、たまったもんじゃねえよなあ。――で、だ。お前、いつまであのクソ女の側についてるつもりだ? オレが折角真実を教えてやったってのによ?〉
びりびりと、瞳の痛くなるような圧力を、黒犬は発している。この言葉は何なのだろう。月子は頭痛まで覚え始める。テレパシーとか、そういうものなのだろうか。
〈なあ、オレは言ったよな? 悪魔と契約した人間は、死後永劫の苦しみを味わうってさ。それなのにお前と来たらずっとあの女にへばりついてる。何考えてんだ? お前も脳味噌が足りてねえのか? おい、何か言ってみろよ〉
何も言えることはない。月子は少しでもこの頭痛が楽にならないものかと、黒犬に背を向けて毛布で頭を隠した。無防備極まりない体勢ではあったけれど、気にすることはない。あの窓に黒犬がへばりついているのは、寝室に満ちた灯りに邪魔されて、そこから先に入ってくることができないからだ。
〈けっ、自分に都合が悪くなりゃ不貞寝かよ。さすが、あの女にくっついてるだけあって、お前もクズだな。信じられねえぜ。いいか? オレは悪魔と契約した人間には容赦しねえ。だがな、オレひとりの力じゃ、『叶えの箱』の力を自由に使えるあの女に勝てねえのも事実さ。なあ、もしもお前がオレに協力するってなら……おい! 聞きやがれ!〉
月子はもう、黒犬の言葉に耳を貸さないように、ひたすら違うことを考えている。明日は何をしよう。朝ご飯は何を食べよう。最近植物園のための勉強ばかりでふたりとも少し疲れているから、デザイン案を考える日にしてみてもいいかもしれない、それから――、
〈お前が何をあの女に期待してるか知らねえがな! あの女がお前と正直に向き合ってるなんて思ったら大間違いだぜ! 嘘塗れの女さ、あいつは! お前のことを騙してんのさ! 騙され続ければそれでいいと思ってんのか? ちったあ現実に目を向けろ! いいか、お前にあの女の嘘を暴けだなんて無理は言わねえよ、腰抜け陰険根暗女! 一度だけでいい、あの女のポケットから、『叶えの箱』から引き出した紙札を抜き取れ! そうすりゃこのオレが――〉
そこで、言葉が途切れる。
しばらく月子は間を空けて、それから恐る恐る、毛布を退けて、窓の方を見た。
『夜』が消えている。
カエデがあの黒犬を倒したのか、それとも今夜は諦めることにしたのか。どちらだかはわからないけれど、でも、ホットミルクを、眠り薬を何日も飲まされているということは、それに黒犬の言ったやり過ごすのは楽という言葉を踏まえれば、きっと諦めたのだろうと、何となくは予想がつく。
「――」
月子は、喉を確かめる。声を出すために震えた様子はあるけれど、でも、音としては出てこない。まだ『音』は戻ってきていない。それを確認してから、月子は言う。
「――――――――――」
もしも音が聞こえたなら、その声は月子の耳にこう届いただろう。
見ないふりして、何が悪いの。