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6-②



「ん……」

 薄く月子は瞼を開く。まだ暗い。ということは、と左側に寝返りを打ってみると、やっぱりカエデはすうすうと寝息を立てて、眠っていた。

 最近は、実験的に『夜』を導入している。時間帯は簡単。カエデが眠る準備をして、『光』を消してからが夜の始まりで、カエデが起きて、動き出すために『光』を点け始めたときが、夜の終わり。

 毛布の擦れる音。月子はベッドの上で、身体を起こした。

 古い夢を見た。そして、あまり気分のよくなるものではなかった。

 はあ、と小さく溜息を吐いた後、んん、と小さく背伸び。力を抜いたら、枕元の時計を確かめる。午前三時。まだしばらく、『夜』は終わりそうにない。

 もう一度、月子はカエデの方を見た。

 寝顔。

 自然と頬が緩む。

「……って、よくないな」

 小さく呟く。変態みたいだ、と自分を戒める。

 もう一度、すぐに眠れるとはあまり思えなかった。そっと月子はベッドを下りる。スリッパを履く。新しく建てた家では、その着用が義務付けられている。

 そしてゆっくりと、部屋を出た。音を出してカエデを起こしてしまわないように、木製の扉を閉める。そのまま玄関まで行って、サンダルに履き替えて、外に出た。

 風も季節もないものだから、建物の外に出たところで、爽快感はない。ただ、広い場所に出てきたというそれだけの、開放感らしきものだけを覚える。

「……歩こ」

 少しの間、眠くなるまで。

 ぺし、ぺし、とサンダルの底で石畳を鳴らしながら、月子は歩く。

『夜』を導入したのは、単なる気まぐれだけではない。デザイン上の問題もあるのだ。

 通りには街灯が設置されている。瓦斯灯風のデザインで、カエデとふたり、ああでもないこうでもないと話し合って、飾ったものだ。

 こうして『夜』でも作らない限り、せっかく作ったものが日の目を見ないままで終わってしまうかもしれない。

 夜に出歩くことなんてこんな日でもなければほとんどないから、やっぱり無駄といえば無駄なのだけれど、それでもあえて『夜』を作ることで、デザインした街のデザイン性を最大限、引き出している。

 灯りに沿って、水路の静かに流れる音を聞きながら、当てもなく月子は歩く。迷う心配はない。円の内側に向けて戻っていけば、どこから歩き始めても、絶対に家に戻ることができる。

 だから、好きなように、歩けていたのに。

「おい、人間」

 ひっ、と声を出しそうになった。

 驚いて、腰を抜かしそうになった。

 その声は、カエデのものでもなければ、ましてや自分のものでもなかった。男とも女ともつかない、その声は、明らかに、この世界にたったふたりの、月子とカエデの、どちらの声でもなかった。

「だ、誰……?」

 ありえない質問だった。声の主が誰かなんてことを尋ねる行為が、この世界で成立するはずがないのだから。

 だって、この世界には、月子と、カエデしか、いないはずだったのだから。

「お前、騙されてるぜ」

 瓦斯灯の明りの届かない暗がりから、じゃり、と路を踏みしめて、その声は少しだけ、姿を見せた。

 黒い足だった。

 人のそれではない、と月子は思う。夜影にまだ紛れてよくは見えないけれど、獣のような、黒い毛並みが、その足を覆っている。

 月子は咄嗟にポケットの中を探る。使えるものは何かないか。だって、これはどう考えても異常なことだ。おかしなことが起きている。いつもだったらカエデと一緒にいたから、どうにだってできただろうけど、今は違う。ひとりだ。ひとりで何とかしなくちゃ、せめてカエデのところまで逃げ帰らなくちゃならない。肌身離さず持っているのは、初めにカエデに貰った花、それから時計に、

「余計なことは考えるな。オレはお前に教えにきてやった、親切なヤツなんだからさあ。黙って話を聞けよ、な? 人と一緒じゃなきゃ何にもできねえ、甘えん坊で臆病者の月子ちゃん?」

 見透かされて、動きが止まる。向こうの方が上手だ。そう察してしまった瞬間に、身体が固まる。

 その間に、声はゆっくりと歩いてきて、とうとうその姿を現わした。

「ひ――、」

「なんだなんだ。そんなに怯えるなよ。オレはお前の味方だぜ?」

 犬だった。

 黒い毛並みの犬。血のように真っ赤な目をした犬が、人の言葉で月子に語り掛けてきていた。

「み、味方……?」

「そうさ。お前、騙されてるぜ、あの女に」

 あの女、と月子は聞き返すように呟いたが、それが誰を指すのかくらいは、言われずともわかった。それがあの人だろうが、あいつだろうが、すぐにわかった。

 だって、この世界には自分とカエデの、ふたりしかいない。

 それを見透かしたように、黒犬はへっ、と笑って、

「自分でわかってることを人に聞くんじゃねえや。――あの女だよ! 畏れ多くも神からの盗品で下賤な欲望を満たす、あの薄汚い女さ!」

 黒犬は吠えたてるように叫び、月子は身が竦む。

 怖い、と。いつぶりだろうか、その感覚が蘇ってくる。今の声に反応して、カエデが起きてくれないか。助けに来てくれないか。心の中ではそう願うけれど、広い街だ。それはおそらく無理だろう、ともわかっている。

 とにかく、飛びつかれたら終わりだ。黒犬は月子の腰のあたりを超えるような体高がある。取っ組み合いでは相手にならず、なすすべもなく喉笛を切り裂かれるに決まっている。

 どうにかして、この場を切り抜けなければならない。そう思って、月子は黒犬の言葉に答える。

「盗、品?」

「そうさ! もはやいつのことだったか、記憶を探るのも忌々しいほどの時間が経ったが、かつて悪魔は神の元から『叶えの箱』を盗み取った! 世界創造にも使われた、もっとも古き、万物の収められし宝物庫! 究極の神秘を悪魔が掠め取った! そしてお前がカエデと呼ぶその女――その愚かで浅ましい女が、その『叶えの箱』を今や欲しいままにしている!」

 悪魔、と月子は口の中で呟く。

 カエデが普通の人間じゃないこと、それはわかっていた。

 でも、悪魔、

 その言葉は、カエデと結びつかない。だって、カエデは、いつも笑顔で、自分に優しくしてくれて――、

「騙されてるのさ、お前は」

 黒犬は、はっきりとそう言った。

「何を、」

「お前、あの女に唆されて『叶えの箱』を何回使わされた?」

 え、と月子の言葉が止まる。それで、思い当たる。黒犬の言うことが本当だとすれば、神様から盗んだあのガチャガチャ箱を、自分も、

「悪魔が人間に、そんな神秘を使わせる理由なんてただひとつ――、『契約』さ! 悪魔と『契約』した人間がどんな目に遭うか知ってるか? 現世の快楽はなあ、死後永遠の苦痛と引き換えに取引されるんだよ! 肉体が朽ちて、魂が抜け出た瞬間、そこに悪魔が現れて、神の手からその魂を奪い取る! そうしたらそれからは脳髄を抉られ啜り出されるような永劫の苦痛だ! その魂の果てるまで――そんなときは永遠に来ないがな!」

「そんなこと――」

「お前、まさかあの女のことを信じているのか?」

 嘲るように、黒犬は言った。

 月子は一瞬気圧されかけて、けれど、言う。

「信じてる」

 言わなくちゃいけないと思ったから。本当は、この場を生きて逃れるだけなら、黒犬の言うことを受け入れていたほうが賢いのだろうと、わかっていたけれど、それでも。

「愚かだな……。オレにはわからんよ、あんな女を信じる理由が。世界を滅ぼした大罪人を、そこまで盲目に信じる理由がな」

「――え?」

「世界を滅ぼしたのは、あの女さ。嘘だと思うなら、聞いてみればいい。あの女が、お前があの女を信じているのと同じくらい、お前のことを信じているなら答えてくれるはずさ」

 そこまで言って、黒犬は不意に、忌々しげに顔を空へと向けた。

「――ち、もう目覚めたか。おい、人間。これだけは言っておく。オレは悪魔と契約した人間にかける慈悲など、一片たりとも持ち合わせちゃあいない。が、オレの目的はあの女から『叶えの箱』を取り戻すことだ。もしお前が協力するなら、」

 パッと、あたりが明るくなった。

 すると、言葉の続きも聞こえなくなる。

 黒犬の姿は、『夜』とともに、忽然と消えていた。

「な、」

 なんだったんだ。緊張から解放されて、へなへなと、足の力が抜ける。月子はその場にぺたりと座り込んで、まだ震えている自分のふくらはぎを、そっと擦る。

「おーい!」

 声がして、顔を上げた。

 今度は、よく聞き慣れた声。

 空に、カエデの姿が見えた。白い髪を靡かせて、『翼』を広げて、橙の瞳で、まっすぐこっちを見ている。そのまま『翼』を器用に操って、月子のところにまで降りてくる。

「もう! びっくりするなあ。起きたらいないんだもん。どこに行っちゃったのかと思ったよ」

「……ごめん、なさい」

 月子の絞りだすような声を、カエデはどんな風に受け取ったのか、慌てて、

「え、や、別に怒ってるわけじゃないんだよ? ただほら、起きていつも隣にいるのに、急にいなくなったら心配するじゃないか。だから別に、そんなに謝ったり落ち込んだりしなくたって……月子?」

 その、いつも通りの言葉を聞いていたら、月子は急に安心してしまって、

「……う、」

 涙が、出てきてしまって、

「えっ? え、えっ? 私、そんなに怖かったかなっ? え、ほんとにほんとに怒ってないよ? え、ねえ、ごめんって。私が悪かったからさ。本当に怒ってないんだよ。ねえ、月子ってば」

 泣かないでよ、と情けない声を出しながら肩に手を乗せてくるカエデに、少しだけ、月子は体重を預けた。



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