1-①
どうせ誰も助けてくれないことはわかっていたので、初めから声を上げることもしなかった。
昼休み、中学校、廊下。昼食を終えた生徒たちが気怠い空気の中で話し込んでいて、初風月子はたった今盛大にぶちまけた数学の課題プリントが、開いた窓から吹き込んでくる秋風にそよそよと揺られているのを、茫然として見ていた。
仕方のない話なのだ。月子はそう思う。だって、どう考えても自分の手には余る量だった。
自分のクラスの分だけだったらいい。それにしたって別にクラス委員をやっているわけでもない自分がわざわざ職員室まで持っていかなければならないことには納得がいかないが、百歩譲ろう。それはいい。もういつものことだから諦めた。よくはないが、それでいい。
問題は、それ以外も含まれていることだった。四時間目の授業が数学だった。担当の笹山は一時間目も二時間目も三時間目も別の教室で授業して、かつそれぞれの教室で人数分のプリントを回収してきたらしく、四時間目の始まりの時点で両手いっぱいのプリントを抱えていた。そして授業の終わり際になって、こう言った。じゃあ課題プリント回収するから、全員分集めたらこれとまとめて職員室まで持ってこい。今日の授業終わり。そして誰がそれを持っていくのかといえば、もう誰も口にすることすらなかったけれど、それは月子の役割に決まっていた。
仕方のない話なのだ。
そう、月子は思う。
二年生の春から夏にかけての間にすっかり自分がクラスの雑用係になってしまったことも、四クラス分のプリントはとても自分の腕だけでは抱えきれないということも、こうして廊下にうずくまってそれを拾い集めている間、せいぜい周りの人たちは一秒くらい視線を寄こしてくるだけで、決して手伝ってくれはしないということも。
全部、仕方のない話なのだ。
だって、物心ついたときから大体そうだったのだし。
月子のいちばん古い記憶は、おそらく三歳くらいのものである。どういう流れだったのかはまるで覚えていないが、父方の実家に帰省して、四つ年の離れた姉と、それから同じくらいの年の親戚の子どもたちだけで近所を散歩していた。ほとんど外に人影の見当たらないような田舎で、今にして思えばそんな年端のいかない幼児たちだけで外出するという時点で肝の冷える思いなのだが、そこに突然、青々とした田んぼから薄汚れた野犬が飛び出してきて、襲い掛かってきた。姉たちは叫び声を上げて逃げ出し、月子もつられて逃げ出し、途中で転び、誰も振り返らず、噛まれ、十針縫い、今でも右の足首にその傷跡が残っている。
出そうと思えば、こんな記憶はいくらでも出てくる。小学校最初の授業で筆記用具を忘れたときには誰も貸してくれず、担任からお前は何のために学校に通うつもりなんだとクラスで最初の説教を食らったし、ドッヂボールで鼻血が出たときは一人で顔を押さえて保健室まで向かった。遠足ではぐれた人をみんなで探しているとき、気付いたら自分以外の全員が合流していて、しかも月子がいなくなっていることには誰も気付かないまま、帰りのバスが発車してしまったこともあった。
そういうことにいちいち悲しんだりしてこれまでを生きてきたけれど、中学の卒業式で、トイレに行っている間にクラスの集合撮影が終わっていたときに、ようやく気が付いた。別に、誰にも悪気はないのだということに。
表立って虐められたことはない。陰口を言われている場面に居合わせたこともない。それなのにこんな場面にばかり遭遇する理由はごくシンプルなもので、つまりは影が薄いのだ。月子はそう、自分で結論付けた。
どうでもいいだけなのだ、みんな、自分のことが。
そう思ってからは、すっきりした気持ちで毎日を送れている。嫌われているわけでも、攻撃されているわけでもない。ただ、気にされていないだけなのだ。
だから、今はもう、月子も人に気にしてほしいだなんて思ったりしない。
廊下にプリントをぶちまけて、そのことを周りにアピールしたりしない。あっ、とか、やっちゃった、とか、そういう言葉で他の人たちに助けてほしいのサインを送ったりはしない。どうせ誰も気に留めたりしないのだから。それなら初めから誰にも気にされないように、迷惑をかけないように、静かに振舞っていた方がいい。これ以上傷が広がらないように、人から距離を取って過ごしていた方がいい。
拾い集めながら、隣ではこんな話し声が聞こえてくる。
「ねえ、あれ知ってる? ガチャの噂」
「何、ソシャゲ?」
「ううん、本当のガチャポンみたいなやつ。それがさ、秘密の場所にあって、それですっごいものが当たるのがあるんだって話」
「えー、何それ。何が当たんの?」
「現金とか当たるらしいよ」
「千円とか?」
「ううん、一億円とか」
「うっそ!」
「いっ、」
話し声が途切れた。途中で、月子が小さく呻いてしまったから。
プリントを拾っている途中で、しゅっ、と指を切った。思わず声を出してしまったことを後悔して、背中に視線が一瞬注がれて、縮こまって、また話が再開される。ありえないっしょそんなの。だよねー。ぷくりと血の珠が浮き上がってきて、指先を口に咥える。切った場所をハンカチで包んで、プリントを集め終えて、それから立ち上がる。
保健室に行こうと思った。
別にこのくらいのこと、何でもないのだけれど。