5-④
もう、日付を数えることはやめていた。
だから、ここまで来るのに何日が、何月がかかったか、もう月子にはわからない。ひょっとすると、もう一年以上もかかっているのかもしれない。
「綺麗……」
と月子は言った。
「頑張ったもんね」
とカエデは返した。
月子は窓に張り付くようにして、街並みを見下ろしている。今は、カエデに抱えられて空にいるのではなかった。
『観覧車』のカード。何度も三枚ガチャガチャをしているうちに引いたそれは、引いた瞬間に、街に組み込まれることが満場一致で決定した。
大きな観覧車だった。風のない世界では、どこまでも安全な。街の景色を一望できるくらい、背が高かった。
ふたりは同じゴンドラに入って、向かい合わせに座って、ゆっくりと、高度の上がるに任せている。カエデは月子のように窓に顔を近づけたりはせず、ただ首を横に向けて、同じ方向を見ていた。
それから、こう言った。
「もしかして、早まったかな」
「え?」
月子が振り向くと、カエデは苦笑しながら、
「だって、全体的に落ち着いた街並みなのに、この観覧車だけちょっと浮いてないかな? その場の勢いで採用しちゃったけどさ、やっぱり雰囲気に合ってない気がするな」
「そう?」
「月子は観覧車の中からしか見てないからそう思うんだよ。観覧車も含めて街並みを見下ろすと、異物感がすごい」
「そうなの?」
月子は首を傾げて、そう言うなら確かめてみようと思って、ん、とカエデに向かって両腕を差し出した。
けれど、カエデは首を横に振って、
「せっかく観覧車に乗ってるんだから、今、飛んでいく必要はないだろう。下に着いたらね。ここからの景色とのギャップにびっくりするかもよ」
「そうかな。いいと思ったんだけど……」
「パーツとしては悪くないと思うんだけど、月子先生デザインのハイセンスでアンティーク感のある街並みと並べると、どうしてもテーマぶれがね」
その言葉に、む、と月子は膨れて、
「私だけがやったわけじゃないよ」
「え、いやそれはもちろんそうだよ。元はと言えば『観覧車』を引いた私が、」
「カエデも一緒に考えたよね、街のデザイン」
たった今焦って弁解を始めたはずのカエデは、けれど月子の言葉に意表を突かれたように、ぴたりと止まる。それから、表情は苦笑に変わって、
「……うん、そうだね。そうだった」
「うん」
それで、月子は再び窓の方に向き直って、街並みを見下ろし始める。もうすっかり、荒野の面影はなくなっていた。
レンガと石畳が特徴の街並みだった。あまり背の高い建物はない。街の全体に水路が通っていて、それを渡るためのボートと、それからたくさんのアーチ型の橋が目立つ。レンガそのままの色や、あるいは白、クリーム色に柔らかく染められたはずの景色は、今はカエデが『光』のカードを使って、淡く橙に照らしている。西側に光源を置くようにしてみれば、太陽のない世界でもすっかり夕焼けの時間だった。
長い時間をかけた。図書館だってあるし、コンサートホールだってあるし、商店街だってある。病院も作ったし、学校も置いたし、小さな郵便局も建てた。楽しかった。きっと誰だって、この街から一歩も出ないままでも幸せな一生を送れるに違いないと、そう思えるくらい、ふたりで色々なものを建てて、整えて、街として創っていった。
楽しかった。たくさんのデザインを考えて、たくさんの工夫をした。何なら月子は、カエデの見ていないところで、ちょっと恥ずかしい落書きだって残したりした。たとえば、自分のベッドのヘッドボードなんかに。
でも、この世界にはふたりしかいないのだ。
誰もいない街を見下ろしながら、ふと、静けさの中で、月子はそのことを思い出した。
「……ん? どうかした?」
視線を動かすと、カエデはすぐに気付く。窓の外を見ていて月子のことは目に入っていなかったはずなのに、月子がカエデを見た瞬間に、すぐにカエデは月子を見つめ返した。
だけど、と。
月子は思う。
誰もいない世界だけれど。
本当は、あれから『人間』のカードをいくつか引いているけれど。
その気になればいつだって、自分以外の人間が、この世界でもう一度生き始めることができるのだけれど。
でも、と。
そう思うのだ。
「カエデ」
「うん」
「私、あなたに会えてよかった」
幸せなのだから。
カエデは言った。世界を創り直してほしいと。カエデはきっと、神様だとか天使だとか、そういうものなのだと、月子は思っている。だからきっと、一度滅びた世界を、もう一度創り直そうとしている。そしてそれはきっと、街を創り直すだとか、その程度のものではないのだと、そうわかっている。
いつか、動物がこの世界に放たれるだろう。コントロールできないからやめておこう、と何度も言って、ふたりでそのカードを保留にし続けているけれど、いつかは、それがこの世界に生まれるだろう。進み続けるという選択肢しか取らないのであれば、必ずそれは、いつか訪れる未来だ。
そして同じように、人間もこの世界に放たれるだろう。
その人間が、どういう役割をするのかはわからない。以前の月子だったら、きっとそれが成されるとき、カエデは自分からその人間に乗り換えるはずだ、と確信していただろうけれど、今はそれが間違いのないことだ、とは思わない。その人間は、ただこの世界で生きるひとつの種族として呼び出されるのかもしれないし、あるいは、自分以外のもうひとりの協力者として、この世界に現れるのかもしれない。
それでもきっと、そうすれば、変わってしまうものもあるのだろう。
カエデ以外のたったひとりとしてここにいた自分は、もう、たったひとりではなくなる。たとえ何がどのように扱われたとしても、それだけは間違いないのないことだ。
今さら、カエデが自分を手酷く扱うようになるなんてこと、まるで思わないけれど。
状況が変わってしまえば、どうしようもなく変わってしまうものはある。
だから、月子は思うのだ。
でも、と。
この世界はたったふたりしかいなくて。
いつかはもっと賑やかになっていく運命で。
すべてが未完成の、そんな中途半端なものなのかもしれないけれど。
それでも。
それでも、自分を大切にしてくれる人と、もう少しだけ、たったふたりでいたいと。
月子は、そう思うのだ。
観覧車は、ゆっくりと回っていく。回り続けている。ゆったりとした速さで、けれど迷うことなく、時計の針が回っていくように、輪の縁を上っていく。
永遠に続きはしないと知りながら、そのわずかの時間に、自分の感じることのすべてを、月子はまっすぐに、カエデに伝えた。
一瞬、カエデは微笑んで、ふっと、顔を伏せた。白い髪に、瞳が隠れる。
この世界に来るまでの月子だったら、きっとそれだけで臆してしまっていただろうけれど、
「カエデ?」
今は自分から、手を伸ばす。
「月子、」
その手を、カエデが取る。
少し、震えている気がした。
「かえ――」
「私も、君に会えてよかった」
言って、パッと。
カエデは勢いよく顔を上げた。
「さあ、次は何をする?」
笑いながら、そう言った。
次、と。思わぬ言葉に、月子は詰まる。
次。そんなことは、まだ何も考えていなかった。
「やっぱり私としては観覧車が心残りかな。下に降りたらさ、月子も見てみようよ。私が微妙に感じるんだから、月子なんかはもっと違和感を覚えるんじゃないかな。それでさ、考えたんだけど、やっぱりもっと街を大きくするっていうのはどうかな。ほら、テーマパークなんかにあるだろう? 区画ごとに特色を出すってやつが。ここは水と橋のエリアみたいにしてさ。観覧車には観覧車なりの、似合う景色があると思うんだよね。どうかな。それにほら、緑がないっていうのは、やっぱり管理上難しいっていうのはわかるんだけどさ、寂しいよ。せっかく図書館を作ったんだし、一緒に植物のことを勉強して、導入してみようよ」
一瞬、あっけに取られて。
それから月子は、ふ、と笑う。
「今、創り終わったばかりなのに?」
「創り終わったからだよ。やることがなくなったら、次にやることを考えなくちゃ」
ね、とカエデは言う。月子も笑って、
「そうだね」
それでいいなら、と頷いた。
観覧車は回る。
少しずつ、ゴンドラは下り始めていた。