3-⑤
コミュニケーションに失敗した、と思いながら辿る家路は憂鬱で、視線が下がり続けたおかげで期待値を上回る七枚のメダルの拾得に成功した。うち五枚をひとりで拾ったことで女からはすごく褒めてもらえたけれど、それを素直に喜べるほど月子の精神状態はよくなかった。
自分でもちょっとおかしいな、と月子はようやく思った。あらゆる好意が素直に受け取れない。そしてそれは別に、今が特殊な状況だからとか、そういうわけではないのだ。
たぶん、元々こうなっていたのだと、月子は思う。最近はろくに友達と呼べる人間もいなかったから表面化していなかっただけで、いつの間にか根本的に他人の好意とか、そういうものを信じられなくなっていたのだと、だから女からいくら言葉をかけられても反応ができないのだと、そう思った。
致命傷ではないから、気が付かなかった。
というより、致命傷を避けるための措置だったから、気付きようがなかった。
だって、怖い。
人に期待をするのは、もしかすると仲良くなれるかもだとか、ひょっとすると自分のことを尊重してくれるかもだとか、そういうありえないことを相手に願うことは、ありえないことだから絶対に裏切られるのだ。他の人たちは普通にやっていることだから自分にもできるかもしれない、なんて昔は夢を見ていたけれど、今となってはそれがただの勘違いだったと、経験上理解できている。
自分は人から大切にされる価値があるような、そういう人間ではない。
ふたりきりなのがいけなかったのだと思う。女が引いたであろう『人間』のカード。あるいは『生き物』のカード。それで最初に呼び出されたのが、よりにもよって自分だったから。おそらく女の口にする言葉は、大抵本心なのだ。普通にしていたらありえないことだけれど、自分は『たったひとりの』人間であるという付加価値のために、不当に高い評価を得て、不当に優しくされているのだ。
落ち着かない。
そんな扱いを、受けたことがなかったから。
でも、やめてほしいとも言えないのだ。それを望んでいなかったわけではないと、月子は自分でわかっているから。だから、この考え方に至るまで何度も同じような間違いを繰り返して、何度も同じように傷ついてきたのだから。
「あ」
「あ、」
だから、その女の引いたそのカードを見たとき、すごくほっとした。
「『人間』のカード、ですね」
自分で何かを決めるまでもなく、元通りの環境に戻るきっかけがやってきてくれたから。
広げたその紙を女がじっと見つめている間、月子の頭の中では今後の流れが一瞬のうちに、手に取るようにしてわかった。
女はすぐにこのカードを使うだろう。そしてもうひとり、この世界に人間が増える。どんな人かはわからない。でも、少なくとも自分よりは上等な人間だろうと、そればかりは確信できる。老若男女すらわからないが、とにかく自分が一ヶ月の間コミュニケーションに失敗し続けたのとは違って、すぐさま女と打ち解ける。三人組で歩いているときに、二人が並んで話して、その後ろを自分がとぼとぼ歩く、そういういつもの構図が出来上がる。そのうち耐えられなくなって、自分からこう言い出すだろう。あの、これからは二手に分かれてメダルを集めることにしませんか。三人もいて同じ方向に行くのは非効率的なんじゃないかと思います。私とお二人で別の方向に歩いていくことにしませんか。二人は厄介者が自分から厄介払いを申請してくれたと喜んで頷いて、
破った。
「え、」
びりり、と。
女は、そのカードを破った。『人間』と書かれたそのカードを。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。そういうカードの使い方もあるのか、とか惚けたことも思った。
「あの、え、それ」
「ごめんね。使うつもりないから、破っちゃった」
それも、女のはっきりした物言いで、違うとわかる。
女はあくまで、穏やかな表情をしていた。いつもの、少し口の端が上がって、笑んでいるような顔。その顔で、『人間』と書かれたカードを、散り散りに、粉々に、三十二以上の断片に引き裂いて、そのまま風のない荒野に放り投げてしまった。
しばらく思考停止していた月子は、しかしそのまま女が動かなかったために、のんびりと意識を取り戻してから、ようやく、
「どうして……?」
「だって、困った人が来ちゃったら困るじゃないか。暴力的だったりとか、性格が悪かったりだとか」
性格が悪いのならここにいる、と月子は思った。少なくとも自分より悪い人間が来る心配はなかったのに、と言おうとして、もうそのカードを破り捨ててしまったことを思って、封じ込めて、
「月子ちゃんには悪いけどね。私は、月子ちゃんだけいてくれればいいんだよ」
「――――」
いいのだろうか、と思った。
こんなに幸せで、いいのだろうかと。
よくわからないけれど、世界は滅びているらしいのに。まるで実感が湧かないけれど、きっと自分の手には負えない大惨事が起こっているみたいなのに。
なのにこんな風に、誰かに。
誰かに必要とされていると、そう思って。
どうもそれが勘違いじゃないらしいと、そう信じられそうになってしまって。
信じてしまって。
それで、こんなに幸せで。
いいのだろうか。
いいのかな。
いいよ。
「名前、」
「ん?」
「名前を、教えてくれませんか」
「……ああ、そっか。まだ、ないんだっけ」
まだ名前を知らない、女は笑う。
「月子ちゃんがつけてよ」
そんなことを言われるのを、月子が想定していたわけがなかった。だって、ありえない。名前を聞いて、名前をつけてと言われるだなんて、そんなこと誰にも予想できるはずがない。
それでもすんなり思いついたのは、
「――――カエデ」
きっとその目が。
その橙の瞳が、綺麗だと、初めから思っていたから。
月子の言葉を聞いて、一瞬だけ、目を丸く見開いて、それから、
「……ありがとう。いい名前だ」
カエデは、笑った。