必然の恋 (今世で叶うアユタヤ時代の悲恋)
本小説は恋の必然をテーマに書きました。
私たちが遭遇する出来事は、すべて「偶然」のものでしょうか?振り返ってみれば、私たちの人生には、とても偶然の産物とは思えないような出来事や出会いが散りばめられているように感じるのです。
この小説を読み終えたのちに、必然の恋を感じて頂ければ幸いです。
*久しぶりの再度山修法が原公園*
「母さん。今日は暖かいし、気分転換に久しぶりに修法が原まで登ってくるわ」
「誰かと一緒かい」
「一人だよ。その方が気楽でいいんだよ」
「気をつけるんだよ。明るいうちに帰ってきてね」
「合点、承知の助」
「相変わらずイチビリだね」
母が振り返ると智之はもう家を出ていた。
今日は昭和41年5月3日。大学も休みで姫路の下宿から神戸の実家に帰っていた三枝智之は、昨夜、修法が原公園の池の周りを散策している夢を見たせいか、急に中学校卒業以来登ってなかった修法が原公園の池のボートに乗りたくなった。ボートから周りを見たときの、絵の中に溶け込むような快感にもう一度浸りたいと思い立ったのだ。この公園は1982年に林野庁などが制定した「森林浴の森100選」、および森林文化協会と朝日新聞社が制定した「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれるほどだが、神戸市民以外では意外と知られていないのが残念である。
今から家を出ると昼も回ったばかりなので、三時頃までには着く程度の道程だ。走るのが好きだった智之は、中学時代、休みの日には必ずといって良い程、この山道の中程まで走っていた。高校に入ってからはクラブの練習が厳しく、それと宿題をこなすのが精いっぱいで、とても、ランニングに時間をかける余裕がなくなり、暫らくこの道から遠のいていた。
智之は播磨工大の一回生になったばかりで、やっと高校時代のクラブの拘束から離れ、自由時間がとれるようになっていた。アメリカ帰りの映画好きの父に似たのか、最近は映画館めぐりが中心になっていたが今日は、夢のせいとはいえ、なぜか急に修法が原に行こうと思い立ったのか不思議だった。
智之は武徳殿公園横の川沿いの登山道入り口から早足で登った。休みの日だったせいか多くの人が登っている。服装も色々だ。街中の散歩のような格好の人も結構見かける。ここはちょっとした商店街よりも人が多いときもある人気の登山道なのだ。道に沿った小川の清流の音が耳に心地よい。以前ランニングしている時には、このような音にさえ気付けなかったのが不思議に思う。鳥のさえずりが話しかけて来る様に聞こえてくるのも新鮮だ。また、すれ違う見知らぬ人から、
「今日は」
と声をかけられ、こちらも
「今日は」
と返す挨拶のやり取りが、清々しく平和な時を感じた。
(やっぱし神戸はいいな。駅から半時間程も歩くと、もう森林の雰囲気が味わえる)
智之は時々足を止めて思い切り深呼吸をしたり、休憩がてら道沿いにある小さな滝の様になっている川に降り清流を手に掬って顔を洗うと何とも気持ちが良かった。そうこうしている内にやっと修法が原に着いた。先ずは、池の周りを散策してみようと、ゆっくりと、鳥のさえずりに耳を傾けながら、赤松林の景色を味わう様に歩いた。池と赤松林を見ていると神戸生まれの日本画家東山魁夷の池と森を背景にした白馬の絵と何となくイメージが重なる。
池をほぼ一周して、木陰にあるベンチに座ると心地よい疲れのせいか、そのままウトウトして眠ってしまった。半時間ほど寝ただろうか、目を覚ましてボンャリと池を眺めた。しばらくしてボートに乗ろうかとボート乗り場に目を移すと、順番待ちの人がたくさん並んでいるのが目に入った。
(しまった。今日は連休だったんだ。こんなに並ばないと乗れないのか)
普段でも並ぶのが嫌いな智之は、ボートに乗るのはあきらめた。こんなに混んでるとは想定外だった。
(俺は想像力に欠けているな)
智之は自分の弱点に気付いた。
ボート乗り場に目をやると智之と同じ年恰好の女学生らしき3人連れが何故か騒いでいる声が耳に入ってきた。透き通ったような高い声が智之の耳には何故か心地よく響いた。何を言ってるんだろうと聞き耳を立てていると、ボートに乗る段になって、一人が急に乗るのを嫌がっているようだ。そんなに騒いで、後の人は相当迷惑だろうと思いながらも、声を荒げて文句をいう人はいないようだ。見るからに可愛い女学生だから許してるのだろうなと、智之は勝手な想像をしていた。どうなるのだろうと様子を見ていると、騒ぎも落ち着き、嫌がっていた一人も仕方なく乗ったようだ。三人が乗ったボートは、アメンボウが泳ぐように静々と湖面に小さなさざ波を立てながら池の中央に進んで行った。智之の目は自然とそのボートを追っていた。池の中央付近に来ると、突然真ん中に座っていた一人が立ち上がろうとして、他の二人があわてて座らせようとしている様子が見えた。
(危ない)
智之は咄嗟に、ボート上の動きと連動するように、いつでも救出に向かえる態勢を本能的にとっていた。
彼は高校時代、水泳部に所属していたので泳ぎが得意だった。案の定ボートは横に激しく揺れたかと思うと、突然ドボーンと水音がして立っていた女学生が池にはまってしまった。
「キャー」
周りから悲鳴が聞こえた。
智之は見透かしていたように、ドボーンの音よりも一瞬早く、池に飛び込んで救出に向かった。周りの人は、バシャバシャバシャと波を分ける音ですぐに智之に気づき、息を飲んで見つめた。
この池は出来た当時(江戸時代)は深さ24メートルあるといわれ、真ん中付近は決して浅くないのだ。深く沈んでしまうと視界がきかなくなる恐れがあるので、智之は必死で泳いだ。ボートに追いついた智之は、深く息を吸い込むと、直ぐに潜り、沈んでいく女学生の両脇を上から抱えるようにして水面まで一気に引っ張り上げた。ボート事務所からも救援のボートがすぐ傍にきていて、浮き上がった女学生をボートに引き上げ、飲んでいた水を一気に吐かせた。水を吐くと同時に意識も戻ったようだ。事務所の人が周りに叫んだ。
「皆さん。もう大丈夫です」
周りから一斉に拍手が起きた。智之は事務所のボートに乗り、事務所まで乗って行った。
「学生さん。ありがとう。それにしても泳ぎが上手だね。あっと言う間に追いついたね。救出が手早かったから、あの子も直ぐに意識が回復できたよ」
「乗るときに何か騒いでいる様子だったので、大丈夫かなと思いながら、様子を見ていたら、彼女が急に立ち上がったのでこれはいかんと直ぐに身構えたのです」
「そうだったのですか。わしらが騒ぎに気付いた時には、もう兄さんがボート近くまで泳いで来ていたからびっくりしていたのですよ。あれ以上遅れると、水の透明度がグーンと悪くなり、救うのも難しくなるんですよ」
「本当本当。あの子も良いときに兄さんに出くわして運が良かったよ」
「兄さん。名前教えてくれんかな」
「いやー。それだけは勘弁してください。騒がれるのが一番いやなんで」
「こちらも、何もなしだと困るしな。兄さん大学生だろう。名前は無しとしても学校名と学年だけでも教えてくれんかの」
「そしたら、学校名と学年だけで良いのですね。播磨工大の1回生です」
そこに、さっきの女学生の仲間二人が入ってきた。
「先ほどは、助けて頂いてありがとうございました。本当にありがとうございます」
「彼女はもう大丈夫ですか」
「大丈夫です。ただ、ショックだったらしく、今横になっています」
「彼女よほどボートが怖かったのですか」
「実は、彼女もこんなこと初めてらしく、本人が一番びっくりしてるんですよ」
「立ち上がるときに、何故か岸に向かって『アコム来ないで』と叫んでいたんです。後で、アコムて何と聞いたのですが、本人は、私そんなこと叫んでいたと言ってるくらいなんです」
「それはそうと、お名前教えて頂けますでしょうか」
「イヤー。それはさっきもお断りしたんです。ご勘弁を」
すると事務所の方が
「播磨工大の1回生とだけお聞きしてますよ」
「私達と同じ学年なのですね」
「やはりそうでしたか。僕も何となくそんな感じしていました」
智之は、助けている時は無我夢中で助けたが、それを口実の様にして相手の名前をこちらから聞くと、恩着せがましく思われるのが嫌だったので何も聞かずに、そのまま別れた。
智之の濡れた服は、アイロンしてもらって、何とか着て帰れる状態になったので、また一人で軽く走りながら山道を降りた。途中、智之は今日の事件で、相手を水の中から救っていたときのことが思い出されるのだが、何か、前にもどこかで同じ経験をしたデジャブの様な不思議な思いが湧いていた。
*約1年後、智之2回生*
智之は電車で姫路の下宿から神戸の実家に帰るところであった。智之は子供の様に窓の外を眺めていた。神戸駅を過ぎ、元町に近づく辺りから窓外の景色が、カラフルになり、山の緑に映えるハイカラな建物の雰囲気を楽しんでいた。〈やっぱり神戸はいいな〉智之は、神戸に帰るたびに思う。こんな神戸にずっと住んで居たいのだが、姫路に下宿している。末っ子ゆえの親の束縛から自由になりたい強い思いのため、そんなに裕福でもない家計にも拘わらず親に頼み込み、二回生から下宿を許してもらった。そのため、自分なりにわがままを少しでも許してもらうために、家庭教師等のアルバイト代を、普段の生活費に当て、できるだけ始末をして親の負担を軽くした。
智之は、小学校時代大きくなったら市長になりたいと思っていた程の神戸大好き人間であった。小学3年頃から新聞の社会面、特に神戸市民欄を読んでいたので、工学博士の肩書を持つ当時の原口市長のポートピア建設に関わる色んなアイデアや夢の架け橋計画をワクワクしながら読んでいた。そうして発展する神戸の街に誇りを持っていた。新聞が読めたのは、入学祝いに父に買ってもらった小学生年鑑を隅から隅まで読んでいたおかげだった。年鑑には漢字にフリカナが打たれていたので、繰り返し読んでいるうちに自然と漢字を覚えられたようだ。
姫路の街は、神戸と比べるとどこかもっさりとしていた。何でこんなところに来てしまったのかと、人生で最初の敗北感を味わった。本当は、同じく一期校を滑った親友と浪人してもう一度、一期校に再挑戦しようと約束していたのだが、浪人すると言いだす前に、こちらの気持ちを察したのか、経済的な理由で母にそれとなく釘をさされたのでやむなく断念した。母はそういう感は鋭かった。それに、親戚中から合格祝いをもらったので、来年又受けますと言い出せなくなった。内堀も外堀も埋められて落城した気分だった。
姫路に通う様になってから初めて電車の時刻表を見るようになった。京阪神間では電車は少し待てば次々と入ってくるので時刻表を見る必要がなかった。カルチャーショックも経験した。電車の席に正座で座っているお婆さんを見ていると、都落ちしたことをつくづく思い知らされた瞬間だった。自嘲気味に一人笑いをしている自分が情けなかった。
しかし、住めば都とよく言ったもので、だんだんと城下町の風情と郊外の自然豊かな田園風景に愛着をも、感じ始めた今日この頃であった。最近では、逆にここで良かったんだと思うようになってきた。都会の大学に行っていれば、こんなすばらしい経験はできないからだ。それでも、たまにはハイカラな神戸の空気を吸わないと居られなくなり、毎週末には実家に帰っていた。母に下着の洗濯を頼むのも、大きな理由の一つだった。
今日はいつもと違う感覚が支配していたのだろうか、普段は神戸駅で降りて、楠公(楠木正成)さんを祀る湊川神社境内を通り、拝殿にお参りして中山手の家まで歩いて帰るのだが、この日は、元町駅で降り、ハイカラなお客さんが多い大丸百貨店を覗き、それから三宮センター街、サンチカ、そごう百貨店と神戸の空気を楽しむようにウインドウショッピングをしながら歩いて三宮から市電に乗って帰ろうとしていた。山手廻り須磨行の電車に乗ると、車内は少し混み気味であった。智之は吊革にぶら下がりながら、なんとなく乗車口に目をやると、横顔の美しい学生らしき雰囲気の若い女性が立っていた。
〈やっぱり神戸だな。こんな垢抜けた綺麗な人がいるんだ〉神戸在住の小磯良平画伯の描く、清楚で上品なモデルを見るように眺めていると、視線を感じたのか、その女性がやにわに振り返り、その視線が智之の方を向いた。瞬間、二人の視線が合った。時間にして2秒程か、こちらをにらむ様に見つめられた。
別に痴漢のような見方をしていた訳でもないのに、智之はうろたえてしまった。
「三枝君?」
智之はどんな表情を返したら良いのか戸惑った。
「村中さん?」
思いがけない転換に智之は一瞬ポカーンとしたが、すぐに彼女のことが思い出された。
「やっぱりー三枝君、お元気」
村中はニコニコして話しかけてきた。
思わぬ事が起こり智之はパニックった。なんと、その女学生は小学校一年の同級生で当時あこがれていた村中美鶴子さんだったのだ。
当時の彼女は、クラスで一番光っていて、小学生とは思えない優雅な所作をする可愛い女の子だった。彼女の家の前には、いつも高級車が停まっていて、いかにもお金持ちの匂いのする洒落た家だったことを覚えている。智之には手の届かない別世界の人で、彼女に好意を持つことすら許されないと、子供心に感じとっていた。
「三枝君、時間があれば県庁前で一緒に降りない?」
「ああ、いいよ」
智之は、考える余裕もなく答えた。彼女の家は母校の山手小学校の近くであった。そこで降りても智之の家まで歩いて20分くらいの距離のため、早めに降りてもさして問題なかったので、とっさに返事ができた。
「私、今日は家に帰っても、だれもいないから久しぶりに小学校に寄って行かない?」
「ああ、いいよ」
智之は、飛び上がるような嬉しさを隠すように、又もやぶっきらぼうに答えた。何せ、大げさに言えば、彼女から気さくに話かけられていることは、晴天の霹靂だった。
*デートの約束*
智之は高校時代から今の大学まで、ずっと男子ばかりのクラスだった。高校は男女共学だったが1学年12クラスのうち、実験的に2クラスだけ男子学級で智之はそのクラスに入っていた。大学は機械系の学科なので自ずと男子ばかりであった。
年頃になってから女性と二人で歩くのは、全く初めての事で、どのような間隔で歩いて良いか、何を話して良いかもわからず、少し離れ気味にしばらく無言のまま歩いた。時間にして10分くらいで学校に着いた。幸い校門はまだ開いていた。二人は顔を見合わせ、うなづくと阿吽の呼吸で校門から校舎南側の東西方向の細い通路に足が向かった。
「この道は少しも変わってないな」
智之は、思い切って、自分から話しかけた。智之の胸はドキドキしていた。
「本当ね。でも木が随分と大きくなってるわ」
「本当だ」
奥の階段を上がって運動場に出た。運動場は校舎の1階と2階の間位の高さにある。
運動場に出ると、そこから校舎に入る階段を上がり二階に入った。二人は同じ思いだったのか、一年生の時の教室に足が向かった。教室に入って全体を見渡した後、二人で席に座ると、どちらからともなく顔を見合わせた。
「僕は真ん中くらいの席だったけど、村中さんはいつも後ろの席だったね」
「三枝君は、いつも姿勢が良くて、真直ぐ上に手を挙げるのが、なにか面白かったよ」
と笑いながら話してくれた。その言葉を聞いて、智之は少し緊張が解けたのか、自然に話すことができるようになった。
「村中さんを見ていると小学校時代の村中さんとダブって見えるよ」
「あら、私も同じ事を思っていたの」
二人ともクスクス笑った。
「休み時間に村中さんと初めて遊んだもの何か覚えてる?」
村中はちょっと考えていたが
「答え一緒に言いましょうか」
「いいよ」
二人は目を合わせると、どちらからともなく同時に叫んだ。
「足じゃんけん」
「足じゃんけん」
ぴったり合ったので二人は大笑い。
「三枝君も覚えていたのね」
「ついさっきとっさに思い出して聞いたんだけど。覚えていてくれて感激だな」
「私も」
しばらくお互いに無言が続いた。
それから、各学年の当時の教室を思い出す様に見てまわった。いよいよ校門を出るとき、智之は、この黄金の時間はもう終わるのか、このまま終わるのは、余りにももったいないと思った。二人は同時に
「あのう」
「村中さんから」
「三枝君から」
お互いがシンクロする様に譲り合った。
「今日は思いがけず、とても楽しい時間が過ごせたよ。また会えたら嬉しいけど」
「私も同じこと思っていたのよ。何か最近もやもやしていたの。毎日が暗い霧に覆われているような感じだったけど、今日思いがけず三枝君と会えて、不思議にその霧が晴れていった様に思うわ。こちらこそありがとう」
それを聞いた智之は天にも昇るような気持ちになった。
「今は夏休みで、明日から大丸でバイトに入るけど、水曜日は定休日だから水曜ならいつでも会えるよ。村中さんの都合のよい時間に合わせられるし、連絡先教えてくれる」
こうして二人はお互いに連絡を取り合って、時々会うことになった。
別れ際に突然、村中が思わぬことを聞いてきた。
「そうだ。三枝君て播磨工大だったわね」
「どうして知ってるの」
「新聞の市民欄に大学の入学者発表してるでしょう。小学校の同級生が載っていないか見ていたのよ」
「僕も見ていたよ。村中さんは、中学から大学まで繋がっている学校だから載っていなかったんだよね」
「私、去年修法が原の池で溺れたところを播磨工大の1回生の方に助けてもらったの。名を告げずに帰られたのでお礼が出来なくて困っていたの。三枝君と同じ学年だけど、そんな話聞いたことない?」
智之は、あまりの偶然に頭がガーンとなる様な衝撃を受けたが、ここで名乗っては、あの時名前を隠した意味がなくなると思い
「そうだったの。だけど、そんな話聞いたことないよ。顔は覚えていないの?」
智之は、動揺を隠すように目線を外して平静を装い答えた。
「半分気を失っていたから全然覚えてないの」
「多分、その人照れ屋さんなんだよ。そのままにしておいた方がいいと思うけど」
「そうかしら」
美鶴子は、納得した様な、納得していない様な表情を浮かべた。
智之は、それにしても今日の不思議な出会いも合わせると、こんな偶然があるんだと茫然とした。
*小学校時代の思い出*
思えば、智之は小学校時代の彼女とは数えるほどしか話す機会がなかった。しかし彼女とのやり取りは不思議に鮮明に覚えている。
二人とも屋上で飼っている鳩の飼育係をしていたが、偶然二人ペアで日曜日の当番に当たった。
(小学生とはいえ先生はどうして日曜日に男女のペアをつくったのだろう。男子のメンバーも他に居たのに、皆都合悪かったのだろうか)
と不思議に思っていた。
ともかく、その日智之はルンルン気分で鳩小屋の鳩の糞の掃除とエサの世話をした。気持ちが高ぶっていたせいか鳩の糞が頭の帽子に落ちても気にならなかった。また美鶴子と何を話したのすら覚えていない。
その帰り道、村中が急に立ち止まり智之の方を向いた。
「まだ早いし、チョットだけ私の家で遊ばない?」
「ああ、いいよ」
智之はぶっきらぼうに答えたが、心は踊っていた。勝手口から入ると芝生の庭に案内された。芝生の庭をみたのは初めてであった。芝生の緑と周囲の小さなバラの花が合っていて楽園のように感じた。何か外国映画のシーンにいる様に感じるくらいであった。それ以来、芝生の庭はお金持ちのシンボルの様に思った。村中は、早速ブランコに乗ると、段々と大きく揺らしていった。おしとやかな女の子とばかりに思っていたので、あまりの大胆さに度肝を抜かれた。智之は高所恐怖症なので、こんなに大きく揺らして乗るのは、とてもできなかった。
「三枝君も乗る?」
「僕は、ブランコ苦手だからいいよ」
智之は、とてもかなわないと思い、正直に断った。
「三枝君は運動神経が良くて、スポーツが得意なのにブランコが苦手なんて,なんだかおかしいわ」
村中はおかしそうにクスクス笑った。
「僕は丘に上がったカッパなんだ」
智之が得意そうに言うと村中はお腹を抱えるようにして笑った。
「三枝君て本当に面白いね。得意そうに言うのがおかしかったわ」
村中はまだ笑っていた。智之もつられて二人でゲラゲラ笑った。
帰り際に
「何か本貸してくれない?」
智之が頼むと村中は家の中に戻り《海の子ロマン》の本を持ってきた。
「この本でもいい?」
「面白そうだね。これでいいよ。ありがとう」
智之はこの本を借りて帰った。これは、智之のうまい作戦だった。本を借りたら、返しに来るときにまた、会うことが出来ると思って借りたのだった。
しかし、この作戦は見事に失敗した。一週間後に本を返しに行った時、彼女は留守で、代わりにお姉さんが出てこられてお姉さんに本を返すはめになってしまった。
卒業後村中はキリスト教会系私立女子中学、智之は公立の中学に進み今に至っている。彼女のことは、元々別世界の人と思っていたので、今日の思わぬ出会いまで記憶が飛んでいたのが正直なところだった。
校門を出て、智之は村中と別れると、雲の上をふわふわと歩いている様な感覚で家に向かった。この世に神様がおられるとしたら、今日の奇跡のような出会いを与えて頂いた事に、心の底から感謝の気持ちを捧げたいと思うほどだった。途中熊野神社に立ち寄り、二人の交際が今後順調に続きますようにと祈った。
智之は家に帰ると、玄関の格子戸を開けながら
「ただいまー」
「お帰り。今日はいつもより遅いわね」
「元町、三ノ宮をぶらついていたんだ」
智之は、ぶっきらぼうに答えた。村中との再会を大切に胸にしまっておきたかったので、母には今日のことは隠しておくことにした。
玄関の格子戸を開ける音がいつもと違うと感じた母は
「なんか嬉しそうだね。何か良いことでもあったの」
「別に」
智之は、一瞬ギクッとした。
(何でわかるんだろう)
それにしても、あの村中さんが、あんなに気さくに声をかけてくれるなんて、智之は不思議に思いながら、その日一日、何とも言えぬ心地良さにひたった。
*楽しいデート*
その後、智之と村中は、夏休みとあって毎週のようにデートを重ねた。7月中頃からお盆まで、智之は大丸の地下食品売り場でバイトをしていた。村中も時々買い物がてら大丸に寄ると、智之がいる地下売り場に足を向けた。と言ってもお互いが見えるところから、村中が小さく手を振るだけだが、その何とも言えぬ愛らしい仕草に、智之はいつも一緒に居たいとの思いが段々と強くなっていった。
デートの日、智之はバイトが終わると、そそくさと服を着替え、待ち合わせ場所の諏訪山公園下の武徳殿広場に向かった。市電に乗ると遠回りの上遅くてもどかしいので、近道を足早に駆けて行った。こういう時は不思議になんの疲れも感じなかった。今競争をしたら誰にでも勝てそうに思える程足が軽やかだった。二人は武徳殿から日本庭園で有名な相楽園の池の周りを散策したり、県庁前の、ヨーロッパの街角の一角にあるような優美な赤煉瓦造りの栄光教会の周辺や、坂道を散歩している犬までがハイカラに感じる北野の異人館街の路地を散策した。時には潮風に誘われて海岸通りまで足をのばし、カラーンカラーンと鐘を響かせながら走る臨港鉄道の蒸気機関車を眺めたり、優雅な外国船の汽笛を聞いたりして異国情緒を楽しんだ。二人共、神戸のハイカラな雰囲気と異国情緒が大好きだった。話す事といえば、智之がバイト先であったことを面白可笑しく話すのだが、村中はいつもくすくす笑って聞いていた。
この頃、智之は名字ではなく、美鶴子さんと呼び、美鶴子も智之さんと呼び合うようになっていた。最近はすっかり打ち解け、時々
「おい、智之」
と呼び捨てにする。
「えっ」
智之がびっくりした表情をすると、
「そのびっくりした。顔が面白い」
とか言って笑い転げるので意外とおゲラさんなのがわかった。それがまた智之にはとても新鮮に映った。
*美鶴子の母に紹介される*
ある日の夕方、美鶴子が台所で鼻歌を歌いながら母の料理の手伝いをしていると
「何の歌?」
「小学校の時に習った神戸の歌よ」
『海からきらめく光、光の中に起き上がる街、起上がる街。
あーあ、この街が好き、この街に住んで、峰々を、峰々をハイキングする』
「初めて聞いたわ。神戸らしいいい歌ね。それにしても最近なにか楽しそうにしてるわね。よく散歩も行くようになったし、何か良いことでもあったの?」
「どうしてわかるの」
「だって顔に、楽しくてたまんないと書いてるよ」
「母さんて超能力者みたい」
「貴女の母親ですからね。貴女の思っていることは何でも手に取るようにわかるわよ」
「まー怖い」
「何かあったの」
「ボーイフレンド!」
「ボーイフレンド?」
「何よ、美貌の私にボーイフレンドいないほうがおかしいでしょ」
「美貌だなんて。だれのお陰」
「ハイハイ。お母様のお陰です」
母は、美鶴子のこの変わり様にびっくりした。家と学校の往復だけで、家に帰ると部屋に閉じこもり本を読んでばかりで、本に飽きると居間に来てテレビを見るだけの生活だったので心配していた。家の外に出るようになったのは、良い傾向だと思って安心していたが、ボーイフレンドのせいというのは、何か気がかりでもあった。
「ボーイフレンドとお付き合いするなら、堂々としてね」
「いつ彼を紹介するか迷っていたの。お母さん会ってくれる?」
「吟味してあげるから、近いうちに連れていらっしゃい。ところでどこで知り合ったの」
「市電の中よ」
「市電?」
思わぬ答えに母は思わず聞き返した。
「ひょっとしたら、お母さんも覚えているかもしれないわ。会うまでのお楽しみ」
美鶴子は、会った時の母の顔を想像しながらニコニコしていた。
デートの日、美鶴子は智之に母との出来事を話した。
「母がね、智之さん紹介してと言うの。会ってくれる?」
智之は一瞬迷ったが、いつかはくぐらなければならない関門だからと覚悟を決めた。
「いいよ」
智之は快く答えたが何とも言えぬ不安がよぎった。
今は、会うだけで楽しくて、先の将来まで具体的に考えることもなく、漠然と将来結婚できればいいなと考える程度だった。しかし、よく考えると裕福な彼女の家と平凡なサラリーマン家庭の自分との家の格差が急に頭に浮かび、自分には、交際をする資格があるのかなと不安がもたげてきた。元々、別世界の人と考えていたのに、ひょんなことで交際するようになり、自分の置かれている立ち位置をすっかり忘れていた。貿易会社の社長をしていた祖父が生きていた頃ならよかったが、終戦の年に亡くなって、戦後、祖父の後を継いだ智之の父は、会社の大事なお金を幹部社員に持ち逃げされ、しかも大量に仕入れた商品が不良在庫となり、とうとう店を畳む羽目になった。行く所もなく、祖父の縁を頼って、ようやく小さな貿易商社に勤めている。祖父の遺産の土地が山手幹線道沿いに少しはあるが、当時どこの家も経済的に余裕が無い為、父は地代を安く貸していた。祖父は、経営のかたわら社会事業家として、町の人に慕われていたので、父はその血を受け継いでいるのだろうと周りの人に言われている。母は、空襲で貸家が燃えてなければ、借家と土地のお金が両方入り、少しは楽な暮らしもできるのにと、時々智之にも愚痴をこぼしていた。それでも周りと比べれば、自宅は空襲に遭ったが、一部焼けただけで母屋は残ったので、わずかながら地代が入るのがせめてもの救いだとよく聞かされていた。そんなことを知らされるまで、智之は自分は貧しい家に生まれたものと長い間思っていた。
小学生のある日、母方の祖母が久しぶりに遊びに来たとき、お下がりの服ばかり着ている智之を見て不憫に思ったのか
「智之、こっちに来てご覧」
「おばあちゃん。何?」
智之は、祖母の所に行った。祖母は智之の顔をしげしげ見ながら
「智之、今は貧乏していても、三枝のお爺さんは、立派な人で大きな商売をして、親戚も蔵のない家は無いくらいだよ。だから誇りを持って生きるんだよ」
と言われたことを思い出した。智之は、美鶴子のお母さんと会うときには、今は貧乏してても卑下しないで、堂々と接しようと心を決めた。
その日は、夏休みもとっくに終わり、大学の学園祭も一息ついた十一月の秋日和の日曜の午後であった。智之は意を決して美鶴子の家を訪ねた。堂々と振舞おうと思いながらも、玄関チャイムを鳴らす指は震えた。チャイムが鳴りだすと急に胸がドキドキし、逃げ出したい衝動にかられそうになったが、何とか踏み堪えた。緊張して待っていると、パタパタパタとサンダルの音をさわやかに鳴らして美鶴子が迎えに出てきた。緊張している智之を見てクスッと笑うと
〈リラックス、リラックス〉
と言わんばかりに目くばせし、家の中に入り応接間に案内した。美鶴子は一旦部屋から出ると、しばらくして母と一緒に入ってきた。智之が席を立ち挨拶しようとすると、
「挨拶はちょっと待って。お母さん、この方どなたか覚えている」
母は、いぶかしそうに智之をしげしげと見た。
「どこで御会いしたのかしら」
「三枝智之と申します。多分、覚えておられないでしょう。小学校一年のとき、美鶴子さんが病気で欠席された日に、私が給食のコッペパンを届けに来た時にお会いしただけですから。そのとき、友達も一人一緒に来ていて、お母さまからジュースを頂きました」
その頃、給食のパンでさえ貴重な時代で、病気などで休むとパンを生徒がその家に届けていた。パンを届けたい希望者がたくさん手を挙げていたが、智之はどうせ当たらないと思って席に座ったまま静かに手をあげていた。智之はこんなに大勢が手をあげていたので、先生から当てられたときは意外だったが飛び上がるほど嬉しかった。
「あーそうそう、その時のことはっきりと思い出したわ。あの時美鶴子がね、今日きっと三枝君がパンを持って来るよと言ったので、どうしてわかるのと聞いたら、『ヒラメキよ』と答えていたの。そしたら本当に三枝さんだったので、ビックリしたのよ」
「そうだったのですか。そんな話、私も初めて聞きました」
すると美鶴子は
「私もその時、何でそう言ったのか覚えていないの。だって、てっきり隣の席で仲良しの野口さんが持って来てくれると思っていたのよ。野口さんに学校の様子を聞こうと思って、楽しみにしていた位だから」
(どうして村中さんが、自分がパンを持って来るとひらめいたのだろう)
智之は狐につままれたような顔をした。
美鶴子は、二人が会った経緯や、時々近くを散策していることを母に説明した。その間、美鶴子の母は、智之の顔をじっと見つめていた。ふと何かを感じたのか
「お住まいはどこですか」
「七丁目の熊野神社の近くです」
「そうなんですか」
母は、それを聞いて一瞬ホットしたような表情を見せたが、智之は気づかなかった。母はこの美しい娘には、家にふさわしいそれなりの方に嫁がせたいと思っていたので、一般庶民の家が多い所に住む智之と、交際が進むことに一抹の不安を感じた。
「お父様のお職業は」
「会社員です」
「どちらにお勤め」
美鶴子は急に眉をひそめて二人の会話に割って入った。
「お母さん、初対面で根掘り葉掘り聞かないで。智之さんもいちいち答えなくていいのよ」
「ハイハイわかりました。美鶴子、貴女も二十歳を過ぎたのだから、近所の方に指をさされないように注意してね。三枝さんもこれから学業に励む大切な時期だから、ご迷惑かけないようにしなさいよ。ねえ、三枝さん」
「いえ、そんなこと」
智之はなんとなく歓迎されていないことを感じた。智之の表情を見た美鶴子は戸惑いを感じた。
「お母さん、もういいからあっち行って」
「ハイハイ。年寄りは引っ込みますね。お邪魔さま」
母はゆっくりと椅子から立ち上がると、智之に軽く会釈をして部屋を出て行った。美鶴子は、智之の困惑したような表情を見ると
「智之さん、母の言ったこと、あまり気にしないでね」
「全然してないよ。ただ、なんとなくお母さまの気持ちがわかるような気がして。考えたら僕が美鶴子さんと会っていること自体が厚かましすぎるのかな」
「どうして厚かましいの。私は智之さんと会ってから毎日が楽しくて感謝しているのに、そんなこと言わないで。今迄通りの二人でいて」
「美鶴子さんが僕で良ければ、もちろんそうするよ」
「どうして急にそんな言い方するの。私のことが嫌いになったの?」
「いや、本当に自分でいいのか、自分が美鶴子さんの幸せになる道を閉ざしていないか心配になっただけだよ」
「私は、智之さんと居る時が一番幸せなの」
美鶴子は急に涙目になった。
「ごめん、ごめん。泣かないで。僕も、美鶴子さんと居る時が一番幸せだよ」
美鶴子の目に涙があふれてきた。思いがけず、お互いの気持ちを打ち明けたのは、二人にとっても思わぬ展開だった。智之は美鶴子をそっと抱き寄せた。美鶴子の黒髪の何とも言えぬ心地よい香りが彼の記憶の中枢に浸透していくようだった。
智之は肩に手をかけたまま美鶴子をそっと離して、しっかりと顔を見つめた。
「今度の休みの日、諏訪山でも登ろうか」
「私、小学校以来登ったことないわ」
「僕は、下宿から戻ったら必ずと言っていいほど登ってるよ。僕の庭みたいなものだよ」
「智之、案内せよ」
「かしこまりました」
美鶴子の涙も止まり、やっといつもの二人に戻った。智之は、ふと今の美鶴子との会話に、以前交わしたデジャブ〈既視感〉を感じたが、美鶴子にはそのことは話さなかった。そういえば、去年も同じような感覚に襲われたことを思い出した。
その日、二人は美鶴子の家の前で別れた。振り返ると美鶴子は見えなくなるまで手を振っていた。最初の角を曲がってから、智之は美鶴子の母の言葉を深く噛みしめた。今のままの自分ではいけない。将来、美鶴子と一緒になるためには、美鶴子に相応しい社会人になることが第一条件だと考えた。智之は家に帰ってから早速、後期試験までの予定表を作り机の前に貼った。大学受験以来久しぶりに作った予定表が懐かしかった。一方、美鶴子は智之を送り出した後、自分の部屋に入ると窓から西日が差していた。そのままベッドに横たわると、初めて智之に思いを打ち明けた余韻に浸った。智之を慕う気持ちを仄かに感じてはいたが特別意識することなく、それが当たり前のように時を過ごしてきていたのに、そんな強い思いが心の奥にあったのかと自分でも驚いた。
「美鶴子」
母が呼んでいる。美鶴子は聞こえないふりをして布団をかぶり居眠りを装った。
母はドアを開けると、眠っているのを見て静かにドアを閉めて去った。
*夕食のとき*
「今日のお母さん、何か感じ悪かったわ」
「そうかい、普通にしゃべったつもりだけど。親というものは子供の幸せを一番に考えているからね」
「本当に子供の幸せのため?自分が安心するためでしょう」
美鶴子は、珍しくツンツンして言った。言い終わると、食べ終わった食器を炊事場に運び、すぐに食器を洗い、布巾でふき取り食器棚に戻すと、いつもより早足で部屋に戻って行った。いつもなら、食後母と二人で食器の後片付けをしてからテレビを見ながら、とりとめもない話をして時を過ごしていたのに。
(今頃反抗期なんて)
母は、いま美鶴子に何を言っても反発するだけだから何も言わずに静観しておこうと思った。
しかし、娘の
『自分が安心するためでしょう』
という言葉が、ズシーンと心に引っかかった。
(心の奥に、そんな気持ちがあるのだろうか)。子供への愛情と思っているのに、そうではなく自分の為なのだろうか)
二つの思いが頭の中をグルグル回りだした。
(娘のために決まっているじゃない)
母は、グルグル回る思いを無理やり抑え込んだ。
*久しぶりの諏訪山公園*
休みの日の午後、智之と美鶴子は諏訪山公園登り口で待ち合わせた。
「美鶴子さん、本当に小学校卒業以来初めてなの」
「低くてもここは山だから女の子は一人で行ってはいけないと言われていたの」
諏訪山公園は、市街地に隣接し、春は桜が美しい。明治7年フランスの観測隊が金星を観測したことから名づけられた「金星台」がある。標高は100mもない低い山だ。上から眺める港と街の景色が、映画やテレビのコマーシャルにもよく使われている。この時間帯は、子供ずれの家族が遊んでいたりして平和な時間がゆったりと流れていた。夕焼け時には、眼下に見える街の景色が段々と夕日に染まり茜色になりながら、ビルの明かりもポツポツと次第に灯り、夕日が沈んだ後の夜景とはまた趣の異なる美しい絵のようである。
小学校時代は、学校の近くでもあったので写生大会に毎年来ていた。二人は坂道を登りながら話が弾んでいた。
「美鶴子さん、写生大会ではどこの景色を描いたの。僕は港の風景。川崎造船所のガントリークレーンを中心に入れて入選したよ」
「私は金賞とったのよ。諏訪山神社の境内の風景を描いたの」
「そうなんだ。美鶴子さんは、絵が上手だったからね。今はガントリークレーンも無くなってさみしいな。港のシンボルだったのに」
「今はポートタワーがシンボルね」
坂道の途中、疲れた様に見えた美鶴子に、智之は思い切って手をさし出すと、待っていたように美鶴子は彼の手をしっかり握ってきた。その手の柔らかさは、天使の手の様に感じた。手をつないだまま公園まで上がった。智之は、このまま手をつないだままで良いのかと戸惑った。美鶴子が手を離そうとしたら、手を外そうと思ったが、美鶴子は手をつないだまま、智之の肩に寄り添うように歩いた。美鶴子の家で、二人の思いを確かめ合ってから、互いを身近に感じたからなのか、昨日迄とは明らかに違う二人だった。
「小学校時代の景色と、大分変わったわね。県庁も新しくなったし、高層ビルも増えて近代都市になってきたのね」
「街が綺麗になるのは嬉しいけど、懐かしい風景が見られないのは寂しいよ。以前なら古い県会議事堂の方から、時々カラーンカラーンと鐘が鳴り響いていたのが、もう聞こえないんだよな」
「智之さんて感傷的ね」
「姉からもよく言われるよ。智之は懐古趣味やなて。でも、今は周りがどんなに変わっても、美鶴子さんが、僕の傍に居てくれれば、全然さみしくないよ」
「そのように思って下さるなら私も嬉しい」
「この前、お母さんのお話を聞かせて頂いて感謝しているんだ。聞いてなかったら、僕はただ美鶴子さんとのデートに浮かれていただけかもしれない。お母さんのおかげで、このままではいけないと思ったんだ。大学もまだ2年だし、これからしっかり勉強して、お母さんに納得してもらえるようにがんばるよ」
美鶴子は涙目で智之の顔を見つめた。智之も言葉には出さなかったが、美鶴子の顏を見つめ、お互いの思いをしっかり受け止めた。
太陽が明るいうちに美鶴子を家に送らねばと帰りは別の坂道を下った。坂道を降りてからは近所の噂にならない様に、阿吽の呼吸で手を離し少し距離をとって家まで歩いた。
*恩師訪問*
次の休みの日、二人は一年生の時の担任であった清野先生を訪問することにした。智之が中学時代、先生の家を訪問したことを話したら、
「私もお会いしたいわ。とても優しい先生だったもの」
清野先生は、ゴンタ坊主の生徒からも慕われるくらい、皆に優しい先生だった。只、先生の家は高取山の中腹にあり、山道のため美鶴子の足が心配だったが、美鶴子はどうしても行きたいと言ったので行くことになった。
二人は、高砂の潮干狩り以来久しぶりの山陽電車に乗り板宿駅まで行き、近くの商店街でお土産のケーキを買い、ゆっくりペースで山を登った。智之が足を気遣かっている風に感じた美鶴子は
「智之さん、私、病人じゃないんだから、もっと早く行っていいのよ」
「凸凹道だから、ゆっくり行ったほうが安心だから」
途中振り返ると、諏訪山とは、趣の異なる広い街の景色が目に入った。諏訪山から見た景色は港がすぐ近くにみえるが、高取山からの景色は、海が遠くに見えるので、雄大さを感じる。美鶴子はフウフウ言いながらも、先生の家にやっとたどり着いた。智之が板宿駅から、前もって電話で連絡していたので、先生は門まで迎えに来て下さっていた。先生は二人を見るなり
「まあまあ遠いところよく来てくれたね。ありがとう。二人ともすっかり大きくなって。でも一年生の時の面影は残っているわね」
二人は、先生が覚えていて下さったことに感激した。先生はもう退職されていて、お母様と一緒に住んでおられた。二人は応接間に案内された。
「三枝君は中学時代に一度来てくれたね」
「あの時は、突然訪れてすみませんでした」
「先生、あの時とても嬉しかったのよ」
それを聞いて、智之は、ほっとした。智之は、先生の思い出で一番印象に残っているのが、音楽の時間『キラキラ星』の歌の時、他の生徒はカスタネットで伴奏していたのに、智之一人が先生の弾くオルガンの横に立って、タンバリンで伴奏させて頂いたことだった。そのことを話すと、美鶴子は
「その時のことよく覚えているわ。皆、三枝君だけ、ズルイと思っていたのよ」
美鶴子は、昨日のように思い出し、ちょっとふくれ面になった。
「悪い悪い、あの時、たまたま家にカスタネットが無くて、母が近所に借りに行ったんだ。そしたら、そこにも無くて、タンバリンがたまたま有ったので、それを借りたんだよ」
智之の家がカスタネットを買う余裕がなかったと察した美鶴子は
「事情を知らなくてごめんね」
と謝った。すると清野先生が
「私も思い出したわ。お母さんから連絡があり、そういう事情でタンバリンを持って行かせてもいいですか、と聞かれたので、良いですよと言ったのよ。三枝君は、そんなこと意にも介さず、得意そうにタンバリンを敲いていたね」
「智之さん、苦労していたのね」
美鶴子は、少し涙ぐんだ。
「苦労だなんてちっとも思ってなかったよ。あの時は自分が主役になった気分で得意だったんだ」
美鶴子は急にふくれっ面になった。
「同情して損したわ」
美鶴子の思わぬ言葉を聞いた清野先生は、吹き出すように笑った。
一通り、想い出話が続いたあと、智之は先生に、二人が再会したいきさつを説明し、将来結婚を誓いあっていることも話した。先生はびっくりすると同時に、胸の前に手を合わせて感激していた。
「結婚式の時に、まだ私が生きていたら招待してね」
「はい」
二人は揃って返事した。
「楽しみに待ってるね。でも不思議ね。電車の中で偶然会うなんて。そうそう、世の中には偶然は無くて全てが必然なのよ。よく子供は親を選べないというでしょう。本当は天国から両親を選んで生まれてきているのよ。あなた方は、何らかの理由〈わけ〉が有って、会うべくして会ったのよ」
それを聞いた二人は思わず顔を見合わせた。
智之は、恩師に結婚のことを話すことにより、彼の強い思いを、美鶴子に伝えようとしたのだった。美鶴子も彼がそこまで先生に言い切ったことにビックリしたが、智之の固い意志を感じた。
帰り路で
「先生にあそこまで話すなんて、ビックリしたけど嬉しかったわ。ありがとう」
「僕も、神様に宣言するつもりで先生に話したんだ。これからは誰にも言わない。二人だけの秘密にしよう」
美鶴子は嬉しそうにうなづき智之の手をしっかり握りしめた。
「さっき、先生がおっしゃってたけど、僕たちなんか不思議な縁があるね」
「私も同じように感じたわ。給食のパンの件とか、市電の出会いとか、鳩の日曜日の当番もいっしょだったもんね」
「鳩の日曜日の当番のこと覚えていてくれたの」
「今ふと思い出したの」
「どうして、僕達こうして会っているんだろうね」
「前世てあるのかな」
「そんなこと考えてもわからないんだから、それより今を一生懸命生きよう」
「そうね。それが一番いいわ」
清野先生は、二人の訪問を受けたことがよほど嬉しかったのか、久しぶりに美鶴子の母に電話を掛けた。さすがに二人が将来結婚を誓い合っていることは、親はまだ知らないかもしれないと思い伏せておいた。美鶴子の母も、久しぶりの清野先生との思い出話に花を咲かせたが、後で二人が恩師を訪問するほどの仲に進展していることに一抹の不安を感じた。夫の一郎に相談したいが、アメリカに単身赴任で2年後にしか戻らないので、とにかく手紙で美鶴子の現況を報告し夫の意見を聞くことにした。
*大学封鎖される*
智之が三回生の後半から、世の中の景気は段々と回復し、四回生の就職先も大手企業の求人が増えてきて、智之も先行き希望が持てるようになってきた。一方、世の中はしだいに学生運動が地方にも拡がってきたが、姫路には、まだ飛び火してなく比較的穏やかな状況であった。智之が四回生に進級した春、まじめ一方の堅物と思われていた同級生の坂上が、関東で学生運動の活動家になったという噂が、一気にクラスに流れた。
智之のクラスは40名の小人数だったが、このように活動家になるものが居る一方、二年になってから中退して自衛隊に入隊する者もいた。おまけにバランスを取るように、パチプロまでが居る。その頃大学出の初任給がまだ3万円台の時代に月に20万近く稼いでいたと言うから驚きだった。生活に困っているのかと思ったら、その逆で実家は資産家だという。パチンコ狂いかと思っていたら、さにあらず学業もクラブもきっちりこなし上位の成績を取っていた。更に、せっかく機械関係の学科に入ったのに、パイロットを目指し、そちら方面の勉強ばかりしている者や、万葉集を研究している者等、智之のクラスはユニークな人材が揃っていた。智之は、あまり目立たない存在であった。あえていえば祖父母の代から真宗に熱心な家だった周りに宗教関係の本が多く、小学校時代に『仏教因縁物語』を普通の物語を読むような感覚で読んでいた。その影響か宗教に対する好奇心から、自分は何を目的に生まれて来たのかに関心があって仏教やキリスト教の本に自然と関心が向いていた。その答えはまだ見つかっておらず見つける手段を模索している状態であった。
対岸の火事のように感じていた学生運動が姫路にまで火が飛んでくるとは誰も思わなかった。卒業研究の講座の選択も終わり、それぞれの研究室でいよいよ卒業研究の準備の緒についた頃だった。5月のある日、智之が研究仲間の三橋と、徹夜で熱電対の較正試験をしていると、夜中の3時頃にドタドタと廊下を走る音と同時に突然大きな声が響いた。
「今から校舎を封鎖しまーす。残っている者は外に出るよーに。」
智之と三橋は
(まさか)
お互い顔を見合わせた。確かめようと廊下に出ると、ヘルメットを被った二~三名の学生がパイプを振りかざしながら走って来た。その姿の仰々しさに全く似合わない真面目そうな学生の叫びだった。智之と三橋は、危害を避けるためにとにかく校舎を出ることにした。書写山の麓の田舎町に噂が一気に広がった。
翌朝、噂を聞いたクラスの連中も校舎の前に集まり始め、ざわざわとしだした。いつもと違う、やや緊張した雰囲気が漂っていた。
「坂上は、どうして顔をみせへんのや」
他学科の学生が坂上と同じクラスの智之達に怒鳴っていた。
どうやら学生運動に身を投じた坂上が指導しているらしいが、彼の姿は見えなかった。同級生の連中は、緊張した割には思った程深刻に受けとめている様子でもなかった。そのうち大学と協議して授業も再開するだろうとタカをくくっている様であった。
「わが工大も、世間並みに学生運動を起こす様になってきたんだ」
「今どき、学生運動も無い大学て、一流大学ではないといわれてるからな」
こんな会話があちこちから耳に入ってきた。卒業生は社会で活躍されている方も多いし、学生と教授も和気あいあいとやっているし、どこに問題があるのかノンポリ派の智之は、何を訴えている学生運動かよくわからなかったので正直切実感が湧かなかった。封鎖されたのは、三・四回生が学ぶ書写学舎だけで、教養部の伊伝居学舎までは封鎖されていなかった。多くの学生は、とにかく行く当てもなく教養部の休憩室に向かった。その後、学生大会、大学側との団交が矢継ぎ早に行われるようになり、さすがにキャンパスは以前の様に落ち着いて学問をする雰囲気がなくなってきた。占拠派の学生といっても、一部外部の学生が入っているようだった。キャンパスで彼らが気勢を上げるために集団を組み、アジ演説をしているのを智之は他人事の様に眺めていた。
ある日、教養部の大教室で臨時の学生大会をやっていると
「お前らー。その集会やめろー」
講堂の入口から突然怒声が聞こえてきた。そこにマスクをして、ヘルメットを被った占拠派学生二十人ほどが竹竿を持ってドタドタと乱入してきた。行動全体に緊張感が走る。智之は後ろの席に居たが、自分も乱闘に巻き込まれるのではないかと不安が走った。しかし良く見ると占拠派の学生は、竹竿の先で床をバンバン叩くばかりで、おかしなことにだれも相手の体に竹竿を振り下ろすような者はいなかった。テレビで見ている学生運動の乱闘シーンと、全く違う光景を見て少し安堵した。学生の人数も少なく出身高校もほぼ限定されているので、ほぼ全員に仲間意識があったので東京の学生運動の様に乱暴を働いて相手を傷つけるようなことができなかったのだろうと智之は思った。取材している新聞記者も笑っていた。
「工大さんの学生運動は紳士的ですね」
(新聞記者がどうしてこの場にいるんだろう。占拠派からマスコミに情報を流しているに違いない)
智之はこのような情景を、手紙に書いて美鶴子に送った。後で返書が届いた。
【竹竿で乱入した場面、私も見たかったわ。会った時に詳しく教えてね。それから、今度友達と一泊で姫路に行くから、神戸には戻らないで姫路で会ってね】
学生運動が今後どうなるかわからない状態で、学生大会も頻繁に行われていたので、智之が神戸に帰る機会がなかなか無く、美鶴子もじっとしていられなかったのだろう。智之もしばらく会えなかったので久しぶりに会えるのを楽しみにした。美鶴子は友達に事情を話し、一人別行動で夕食時間までには友達と合流するという計画だった。智之は美鶴子のどこにこんな行動力があったのかと意外に思った。
*書写山に登る*
当日、智之は昼前に姫路駅に迎えに行った。智之と美鶴子は書写山に、美鶴子の友達は姫路城にと別れて行動した。駅の表口に出ると広い道路が見え、その正面に堂々たる姫路城の天守閣がそびえていた。
「これが白鷺城ね。美しさに圧倒されるわ。智之さんは、いつも見られるのね」
「僕にとっては、諏訪山から神戸港を望むみたいな感じだね。書写の帰りに姫山公園案内するから楽しみにしといて。とにかくバスターミナルに行こう」
美鶴子は久しぶりの智之のデートでウキウキしていた。ターミナルは駅近くの左側にある山陽百貨店の建物の一階にあった。書写山行のバスは15分後に出発の予定で、既に20人ぐらいが椅子に座って待っていた。
いよいよバスに乗り込むと、ちょうど二人席が空いていた。智之は城が見える様に美鶴子を右側の窓側に座らせた。座るなり美鶴子は、顔を窓側に向いたまま智之の手を強く握ってきた。智之はびっくりしたが美鶴子の思いを受け止めると強く握り返した。二人共、外の景色を見ながら無言だったが、お互い、思いきり抱き合っているような思いだった。バスが走り出すと右側にお堀越しの城を望みながら、半時もすると古い住宅地を抜けていくと周りに田園が見える様になってきた。やがて書写山が見える様になり横関のバス停を過ぎて夢前川を渡る橋を抜けるともう終点まであっという間であった。
書写山の麓から、頂上にある円教寺まではロープウェイを使うことにした。智之がキップ代金を払おうとすると、
「貧乏学生さん無理しないで」
「この位払えるよ」
「いいの。私に払わせて」
と、美鶴子が払ってくれた。昔気質の智之は、男の恥とも思ったが、ここは美鶴子に従った。
「社会人になったら倍返しね」
それを聞いたおかげで、智之は気が楽になった。美鶴子のさりげない気遣いに感心した。お嬢様育ちだけどいい奥さんになってくれそうな予感がした。
書写山円教寺は西国三十三番の最大規模の寺院。天台宗の別格本山で西の比叡山と呼ばれ、弁慶が若い頃、ここで修業をしていたことでも有名なお寺だ。後年映画『ラストサムライ』、大河ドラマ『武蔵』や『軍師官兵衛』のロケ地に使われた。
重厚な木造建築の大講堂、常行堂、食堂、摩尼殿を一通り見学した。
「姫路にこんな立派なお寺があるとは知らなかったわ」
「お城は日本一で有名だけど、寺院は京都や奈良の有名寺院に隠れてしまうからね」
「そろそろお腹すいてきたわ」
「あそこの茶屋に入ろう」
二人は傍の茶屋に入り、杉木立を眺めながらお蕎麦を頂いた。
「こんな空気のきれいな処で食べると一段とおいしいわね。それに今日は智之さんが傍に居てくれるし。最高に幸せ」
「僕も」
「随分と省略するのね」
智之は思わず吹き出しそうになった。
「僕たち漫才できそうや」
「コンビ名は美女と野獣?」
「いくらなんでも野獣はひどいよ。ターザンはどう」
「野獣で我慢・我慢」
美鶴子は、こう返してきたので、これには二人で大笑い。その後、智之は美鶴子の顔をじっと見つめていると
「急にどうしたの」
「僕は幸せだな。美鶴子さんが、こうして横にいてくれるんだから」
「私も同じよ。それに、今は二人の共通の夢があるからね」
智之は、あまりにも順調に来過ぎて、かえって何か根拠のない不安を心の底に感じた。美鶴子は何も不安を感じてない様に、小さな旅を心から楽しんでいる様子だ。いよいよ山を下りる段になって
「途中でバスを降りてお堀端を歩き、それから姫山公園を歩いて帰ろう。5時過ぎには皆さんと駅で合流できるよ」
「朝に言っていた姫山公園ね。智之さんと一緒に居られるなら、どこでもいいわ」
二人は、ロープウェイで山を下り、バスに乗った。途中岡町のバス停で降り、城下町の風情が残るお堀端の道を散策し、芝生の美しいお城周りの姫山公園に入った。二人は手をつなぎながら、今まで会えなかった時間を取り戻すかの様に、積り積もった話をし、時には互いを見つめ合い、笑顔を交わしながら至福の時を過ごした。そうこうする内に駅に着いた。別れ際に
「皆さんによろしく、後は皆さんと楽しんで」
「智之さん、今日はありがとう。楽しかったわ。今度神戸に帰るとき、早めに知らせてね」
美鶴子は名残惜しそうに智之の手を両手でしっかりと握った。
智之は美鶴子を送ってから、駅近くの定食屋で一人夕食を取ってから、駅裏にとめていた自転車に乗って、今日のデートを振り返りながら、書写山麓の下宿に帰って行った。
*就職内定*
四回生の五月中頃、智之は機械部品の輸出入を扱う中手の会社で、工大の先輩も多く在籍して業績が良いことで知られる本社が神戸の西元商事に就職が内定した。内定後、社長と面接があった。智之は面接前に本屋で面接のノウハウなどが載っている本を見たが、自分を繕うのがいやになり、ありのままの自分を見てもらおうと覚悟を決めた。社長から、現在の下宿を含めた学生生活の過ごし方や、学生運動についての思い等を一通り聞かれたあと、高橋佳子著の『祈りの道』の本を渡され、入社するまでに一通り読んでおくように勧められた。智之は、〈祈り〉という文字に何か違和感を覚えた。智之は、歴史のある伝統仏教には関心があったが、新興宗教にはかねてから懐疑的であった。後日、工大の先輩社員との面談があった時に、思い切って尋ねてみた。社員に宗教を強要する様な傾向が少しでもあれば、内定も断るつもりでいた。
「社長と面接をした時に、この本を渡されたのですが、これは宗教の本じゃないですか?」
「内容は読んだの」
「いえ。まだです。先輩のお言葉を聞いてからと思って」
「全然心配ないよ。読めば分かる。世間が言うような宗教の本ではないよ。スーパーレリジョンと言って、宗教を超越した内容だよ。この本を読むと、自分でも知らなかった本当の自分を発見することができるんだ。ただ、表面だけを読んでも、わからないけどね。文言の一句一句を井戸を掘る様に奥を読んでいくとわかってくるんだ。社長もこの本を読んでから、別人のように変わったんだ。そうすると音叉が共鳴するように周りの社員まで変わり、その結果不思議に会社の業績が上がってきたんだ。なぜこのようなことが起こるのか、自分は、まだ正直よく理解できていない。このことを探求することが私の人生の課題だと思っているくらいだよ。以前の社長は、社員を将棋の駒の様に扱っていたのが、社員を対等な同志と考えるように変わってきたんだ。社長自身が、この会社全体の変わりように驚いている位だよ。この変化を実際に見てきた私が言うのだから間違いない。君も早急に判断しないで、2~3年体験して、それから判断したらどうかな。若いんだからいつでもやり直しができるよハハハ。困ったらいつでも相談においで」
先輩の言い方は、何か清々しい爽やかな言い方だったせいか智之の疑念も、どこかに吹っ飛んで行った。ともかく2~3年は、ここでやってみようと智之は決心した。それから、この本を毎日1章ずつ読む事にした。智之も本を読み始めると、確かに先輩の言ったことが、次第にわかるようになってきた。中でも彼が興味を引いたのは、『劣等感を持つ人は、優越感も持つというところだった。どちらも他人と比較することによってしか、自分を確かめられない。相手より低ければ劣等感を感じ、相手より高ければ優越感を感じる』というくだりはウーンとうなってしまった。今までそんな風に、心の動きを分析して考えたことがなかった。『優越感と劣等感は、コインの裏表の感情』なんだということがスッキリとわかった。智之は自分にも劣等感を感じる傾向があることを自覚し、これは改めなければならないと思った。智之にとって、これは大きな収穫だった。
*大学紛争の終結*
年が明けても、大学側は占拠派に追いつめられていた。智之が驚いたのは大学側と占拠派の団体交渉の場で教授達が学生側の追及にタジタジとなり歯が立たない有様だった。教授と言えば専門分野の達人だが、それがその他の分野では普通の人に豹変してしまうことがさらけだされた。それでも学生部長の哲学教授が堂々たる態度で出てきたときは、一瞬、場に何とも言えぬ緊張が走った。智之や一般学生も論理が売りの哲学教授なら占拠派の学生を軽く論破するに違いないとの確信に近い期待感が場に漂った。しかし、その期待は一瞬に裏切られた。打ち負かされた哲学教授の姿はみじめであった。いや、哀れでもあった。元元来定性的〈質的な表現〉な表現が多い哲学者が、定量的〈数量的な表現〉に物事を探求する工学部の学生に数値を使って攻められると全く太刀打ちできない有様だった。
学生部長は、団体交渉の様な大げさな場を作らずとも日常の生活に戻り、昼休みの時間を利用して話合おうじゃないかと占拠派に提案したが、占拠派の代表がここぞとばかりに食いついた。昼休み1時間では、食事時間30分、大講堂への移動で15分、席に落ち着くまでの時間を仮に5分としたら、残り時間はわずか10分。こんな短時間で何ができるというんだと攻めたてられて何も答えられなかった。内心学生部長を応援していた学生も占拠派学生の見事な定量的な攻め方に感心した。智之もこれには占拠派学生に軍配をあげるしかなかった。こんな状況を知った県からは、早く解決できなければ大学を閉鎖するという圧力がかかっているという情報がまことしやかに流れた。教授陣の疲れも段々と増してきた。すれ違う教授の顔にも疲れが現れていた。しかし、1月の後半になると切羽詰まった4回生の学生達が窮鼠猫を噛むように占拠派の学生に猛然と立ち向かい始めた。
「これから卒業して社会人として働く我々の道を閉ざす権利は君たち占拠派には無い」
という、力には力をも辞さない強い主張で、占拠派に立ち向かった。いわば生命権を振りかざした抗議に占拠派の学生もたじたじとなり、更に大学側もこの機を逃してはならないと加勢して攻勢を一挙に逆転した。とうとう大学が廃止されるかもしれないというタイムリミットぎりぎりに授業が再開できた。しかし、いざ授業が再開しても、智之等の卒業研究は時間がないため、実験そのものはできなかったが、同じテーマで研究していた他大学の実験データを譲ってもらい、それに理論的考察を加えて、卒業研究として、まとめて論文発表会にギリギリ間に合わせることができた。
*美鶴子の母の入院*
美鶴子は、姫路への小旅行を思い出しながら、又、智之と会うのを楽しみに毎日を送っていた。ある日、母が突然
「昨日、血便が出たの。1回だけでその後は変わった様子は無いのだけど」
「病院で診てもらったら。その方が安心よ。授業がない日なら、ついて行ってあげるよ」
「そうね、体調も悪くないけど、安心するために行ってみようか。帰りに久しぶりに元町で、お食事でもしよう」
美鶴子は、平気な風を装って母と話したが、内心はドキッとした。智之のことで、心配をかけているのがストレスになっているのだろうかと不安がよぎった。その日は大学を休み、母と大倉山にある大学附属病院へ行った。検査の結果、大腸がんの初期症状で、簡単な手術で対応できるとのことでホットしたが、それでも一週間は入院することになった。美鶴子は入院期間中、授業終了後すぐに病院に直行し、母とゆっくり話す時を持つようにした。
一週間経ち、退院を明日に控えた日、母は急にあらたまり
「今回は早期発見できて運が良かったけど、これからどんなことが起きるかわからないから、大切なこと忘れない内に伝えておくわ」
美鶴子は、なにか言い知れぬ不安を感じた。
「貴女が大人の女の気持ちがわかるようになったら伝えようと思っていたの」
美鶴子は緊張した。
「私は、お父さんと結婚する直前に、妻子ある方と恋に落ちてね、貴女を妊娠する関係になったの。その方とは元々若い頃にお互いに惹かれ合っていた仲だったの。私の家は、あまり裕福な家ではなかったけど、彼のお父さんは、本人同士が好きあっていれば結婚を許そうとまで言ってくれていた関係だったの」
*美佐子の回想*
美佐子は、彼と別れることになったあの夜のことを思い出していた。
ここは美佐子の恋人秀一の父秀太郎の栄町の家。家族で夕食を済ませ、秀太郎は屋敷の離れにある洋館のソファに座って、新聞に目を通していた。そこに妻の岸が入ってきた。
「あなた、秀一の彼女のお父さんが貴方にお会いしたいと言って玄関で待ってますがどうしましょう」
「まだ、正式な婚約も決めていないのに今頃何なんだ。あつかましい」
秀太郎は、そう言いながらも仕方なく玄関に向かった。美佐子の父栄吉は、何か申し訳なさそうな顔をして玄関の土間に立っていた。秀太郎が玄関に現れるとすぐに頭を下げ
「旦那様、初めまして。美佐子の父、栄吉と申します。美佐子が、お坊ちゃまにお世話になっていやす。二人の結婚も認めて頂けそうとお伺いして、喜んでおる次第でございます」
そういい終わると頭を上げた。秀太郎は何か憮然として
「まだ何も正式に決めているわけではない」
「そ、そうですか。お坊ちゃまから何とか認めてもらえそうなのでと、お聞きしたものですから。とんだ早とちりで申し訳ございません」
「わかったら今日のところは、帰っておくれ。今話すことは何もないよ」
栄吉はあわてた。
「うちの娘は、学歴はありませんが、英語を独学で勉強しやして、英文タイプもできやす。将来きっとお坊ちゃまのお仕事のお役にも立つと思いますんで、そこのところ汲んで頂いて、何とぞよろしくお願いします」
「ホー。そうか、そのようなことは、初めて聞いたな」
秀太郎は、そこだけは感心したように聞いた。
「旦那様、まだ親戚にもなっていないのに、こんな事お頼みする義理ではございませんが、手前悪友に誘われて、つい賭博に手を出し、ちょっとした借金をしてしまい、やくざに返済を迫られて困っていやす。後で必ず耳を揃えてお返し致しますんで、何とかご用立て頂ければと」
栄吉は、土間に土下座をして手をこすり合わせて頼み込んだ。
「ちょっとした借金て、どのくらいなんだ」
「そ、それが、千円で」
「たいそうな額じゃないか、つい賭博に手を出した程度の額ではないな。私が一番嫌いなのは、賭博に手を染める輩だ。楽をして金儲けをたくらむ社会の屑にも等しい。そんな親の娘は、うちの家にはいらないよ。家を売ってでも借金を返して、これを契機に金輪際賭博はしないと娘さんに誓うんだな。わかったらとっとと帰ってくれ」
余りの剣幕に怖れ、栄吉は逃げるように出て行った。門の外には栄吉を止めようと、必死に追いかけてきた娘美佐子が、外で一部始終を聞いて泣き崩れていた。その時、美佐子の恋人の秀一は、自分の部屋で本を読んでいて、美佐子の父が訪ねてきたことを知らなかった。部屋に入ってきた母の岸から一部始終を聞いて驚き、美佐子のことが心配になった。
(親父からそこまで言われたら美佐子との結婚はとてもむつかしくなるな))と愕然とした。一瞬駆け落ちすら頭をよぎった。
「その後、秀一さんは大学に在学中だったけど、無理やり中退させられて、アメリカのシアトル支店で働くように言われ私たちは強制的に離されたの。日本に居たら親がいくら反対しても会いたさが募り、駆け落ちでもしかねない。日本とアメリカに離れさせてしまえば、冷静になるだろうとの考えだったようなの。彼は3年後に日本に戻ると、すぐ市会議員をしていた家のお嬢さんとお見合いをさせられて結婚してしまったわ。その彼と偶然、私の勤務先の会社の社長室で再会して、それをきっかけに二人で会うようになり、貴女が生まれるような関係になってしまったの。でも、秀太郎さんがそれを知り、二人は当然別れさせられたわ。貴女を妊娠してしまい、あの方の奥様に申し訳ないとの気持ちが強かったからやむなく従ったの。秀太郎さんは、私の会社の社長と親友で、秀一さんも秀太郎さんと、よく会社に来ていたの。私は、英語が得意だったので、たまたま社長の秘書に抜擢されたばかりで、秀太郎さんにも気に入られ、よくお土産を頂いたわ。秀太郎さんは、私が秀一さんと恋仲だったことに気付いてなかった。妊娠がわかって、私は会社を辞めて自分で産んで育てるつもりだったけど、社長が今の美鶴子のお父さんを紹介してくれたの。あなたのお父さんは、取引先の社長の息子さんだったけど、彼のお母さんは正妻ではなかったから、会社の後継者は、弟の本宅の息子さんに決まっていたの。だから社長の息子と言っても複雑な立場だったわ。前から私を気に入られて、社長に私を貰いたいと申し込んでいた矢先に、私の妊娠がわかったの。社長は、彼にすべてをありのままに話し、それでも良ければ私を説得すると言ってくれたの。あなたのお父さんは、美鶴子を自分の子供として育てるので、ぜひ私と結婚したいと言ってくれたのよ。会ってみると良い方で、あの方なら美鶴子も幸せになると思い、今のお父さんと結婚したの。それ以来、秀一さんとは音信が途絶えたわ。お父さんは、約束通り貴女が生まれてから、本当の子供のように可愛いがってくれたわ。美鶴子の名前も、お父さんがつけてくれたのよ。別れた本当のお父さんのことは、一切聞かなかったし、私も彼に甘えて妻に徹して、別れた彼との事は、封印してきたの」
美鶴子は、全く想像もしてなかったことを聞かされ、何か頭がボーとして、ただうなづくばかりだった。これは夢の話ではないのかと思わず頬をつねった。
「貴女が小さい時から持っているお守りは、秀一さんが、別れるときに、貴女に持たせてくれと頼まれたものなの。糸で封印しているけど、写真とその裏に名前が書いてるわ。何かあったら、手助けをしたいとの気持ちだった様だけど。彼はお父さんの秀太郎さんが亡くなった後、継いだ会社が倒産して家も売り払い、今は小さな会社に勤めて、どこかに移ったと聞いたわ。それ以来、音信が無いの」
美鶴子は悲劇の主人公になってしまった様な感覚になり呆然となった。病院から家に帰る途中さ迷う様に歩いた。家に帰ると一日中自分の部屋に閉じ籠った。
大好きな父に急に会いたくなり、なぜか涙が出て止まらなかった。次の日、美鶴子は母を退院させ、暫らくは学校が終わり次第、母の身の回りの世話に没頭した。智之に急に会いたくなり近況を知らせる手紙を書いた。
*初めての口づけ*
1月も半ば、大学紛争がやっと終わり智之は久しぶりに神戸に帰ることにした。家に帰る途中、県庁近くの喫茶店で美鶴子と待ち合わせた。智之はギターを抱えて店に入ってきた。
「手紙見たよ。お母さんその後どう?」
「ありがとう。順調にいってるわ。そのギターどうしたの」
「授業がない間、勉強ばかりできないし気分転換にギター同好会の友達に習っていたんだよ。好きな曲、一曲だけ弾けるように教えてと頼んで」
「どんな曲習ったの」
「何だと思う」
「そんなの直ぐわかるわ。”禁じられた遊び”でしょう」
智之は、ノーノーと首を横に振った。
「エー。違うの。意外。ひょっとして”アルハンブラ宮殿”」
「そんな難しい曲、片手間に出来ないよ」
「わからないわ。ヒントを言って」
「美鶴子さんに捧げたい様な曲」
「それじゃあ。”七つの水仙”」
「ウーン。それでもよかったかな。でも違うんだ」
「もう降参」
「美鶴子さんを花に例える様な曲」
「何かしら、ひょっとして”エーデルワイス”」
「当たり。よくわかったね」
美鶴子はサウンド・オブ・ミュージックの映画の場面を思い出し
「うれしい。私その曲大好きなの。あの映画、ひと月に三回も見たのよ」
「後で、諏訪山公園で披露するよ」
二人は、そそくさとコーヒーを飲んで店を後にした。諏訪山公園の東側は、以前動物園があった跡地だ。当時動物を見学していたベンチも残ったままになっていた。その中で風が当たらなく、日差しの良い暖かいところで、智之はギターのカバーを開けた。
「本人を前にすると緊張するな」
智之は大きく深呼吸すると指を慣らすため、プロの演奏家が弾くように指を早く動かして弾いた。
「すごい。それだけ聞くとすごい名人みたい」
智之は照れ臭そうに笑った。
「緊張するから目をつぶって聞いて」
美鶴子は素直にすぐに目をつぶった。智之は、歌いながらエーデルワイスを弾いた。美鶴子は、普段の声とは違う低音がかったハスキーボイスにウットリしながら映画を思い出すように聞いた。歌が終わると、美鶴子はゆっくりと彼に近づき、彼の胸に顔を埋め、背中に手をまわした。智之もそっと美鶴子を抱き寄せた。二人は自然に唇を合わせた。お互いに生まれて初めてのキスだった。二人とも、少し涙目になった。誰かに見られていないか、そんな心配も二人には無用だった。
「ありがとう。クリストファープラマーより素敵だったわ」
「それは褒めすぎや」
と言いながら、智之は、言いようのない幸福感を味わった。
「こうして、久しぶりに会うと、このままずーっと一緒にいたくなるよ。大学紛争も行き着くところまで行って、ぎりぎり何とかなりそう。だけど、就職しても最低3年間は、結婚資金を貯めるのに必要だから、その間待っていて」
「3年も長いわ。せめて2年にして」
「結婚資金と家を借りる頭金くらい貯めなくては」
「結婚式は質素にしましょう。それに最初は社宅でもいいんだから」
「お母さんは納得されないよ」
「私が説得するからそれでいいの」
美鶴子は、昨日の母の話を忘れたい思いからか、珍しく駄々をこねるように言った。
「私ね、美鶴子さんと呼ばれるの気になっていたの。他人みたいに聞こえるから、これからは美鶴子と呼んで」
「じゃあ、僕も智之でいいよ」
「あなたは、智之さんのままがいいの」
「美鶴子、智之さんと呼びあうのは、アンバランスでおかしいよ」
「私の中では、これが一番気持ちが通じるみたいなの、だからこのままにして」
智之はこれ以上言っても仕方ないので、美鶴子の言い分を飲むことにした。
「いま、美鶴子と呼んで」
「美鶴子」
「智之さん」
二人は抱き合って、今迄以上に一体感を強めた。
*父からの手紙*
「お父さんから手紙が来てるよ」
美鶴子が家に帰ると、母が台所からいつになく大きな声で叫んだ。その声は何か喜びを予感させるような声だった。美鶴子はシアトルに単身赴任している大好きな父からだと知り、小走りで自分の部屋に入り、机の上の右隅に置いてある封切りカッターで手紙の封を切り、もどかしそうに便箋を取り出した。
『美鶴子、元気にしていますか。留守中、母さんの世話をまかせてしまって申し訳ない。父さんの駐在期間が仕事の関係でもう1年延長することになりました。美鶴子は春に大学を卒業するので、丁度良い機会なのでお母さんと一緒にこちらで1年間家族水入らずで過ごしたいと思っています。美鶴子にとっても初めての海外生活を経験するのは良いことだし、お母さんも病後なので家族揃って生活できれば心配事も家族で共有できるので良いと思っています。詳しいことが決まれば、またお母さんに連絡します。残り少ない学生生活悔いの無い様に最後までがんばりなさい。こちらで会うことを楽しみにしているよ』
手紙を見た美鶴子は嬉しい気持ちと反面悲しい気持ちが同時に起こり戸惑った。両親と一緒に居たいし、まして母は病後だから、父と一緒の時間を持たせてあげたい気持ちと、一年間智之に会えなくなるさみしさが頭の中で葛藤し始めた。美鶴子は、今日諏訪山で智之との絆が一段と深まったことを思い浮かべながら、どうしたらよいのか迷った。布団に入っても、その事ばかりが頭に浮かびなかなか眠れなかった。明日の午後に美鶴子は智之と久しぶりに大丸前で待ち合わせる約束をしていたので、その時に相談しようと決めると安心したのかやっと眠りについた。
美佐子は美鶴子と智之の交際が深まりつつあるのが心配で夫に相談を持ち掛けていたのだった。この手紙が父の美佐子に対する回答だったのだ。
*智之と相談*
翌日、美鶴子は大丸の玄関内側のホールで、心なしか下を向いたまま待っていた。智之が
「美鶴子」
と声をかけると、美鶴子は嬉しさがこみ上げ
「智之さん」
と飛びつくように寄って来たが、目に涙を一杯浮かべていた。
「美鶴子、どうしたの。目が赤いよ」
「一晩中、智之さんのこと考えていたら眠れなかったの」
二人は、落ち着いて話せる場所を求めて、海岸通りに近い喫茶店を見つけた。ドアを開けるとドアについていた鐘がカラーンと鳴った。幸い他にはお客さんも居なかった。落ち着いた雰囲気で壁のレトロな柱時計が店の雰囲気に合っていた。モーツアルトの喜遊曲が静かさを邪魔することなく心地よく耳に入ってくる。注文したコーヒーが届くまで、美鶴子は下を向いたままだ。何か真剣なことを考えている様で、智之もつられて暗く不安な気持ちになった。美鶴子は届いたコーヒーを少し口にすると、やっと重い口を開いた。それは、昨日届いたアメリカの父からの手紙の内容だった。思いもかけぬ話だったが、美鶴子の母の病気も関係しているので、智之は
(これはどうしようもない、ここは美鶴子を励ますしかない)
と思った。
「美鶴子、ここは僕たちの事より親孝行を優先しよう。一年位すぐだよ」
智之も自分に言い聞かせる様に美鶴子を説得した。美鶴子も心の中では仕方ないと思っていたが、智之と一年も会えないことに耐えられるか不安だった。智之から励ましの言葉を聞いて決心を固めようと思っていたのだ。
「毎週手紙を書くよ」
「ありがとう。私も書くわ」
「それより、まだ、二カ月近くあるし、せっかくの機会だから、英語を勉強したら」
「智之さん、私は母から英語を学んでいたから、英語は得意なのよ。会話のほうは自信ないから、これから頑張るわ」
美鶴子は少し元気になったのか、前向きに話すようになり、いつもの美鶴子に戻った。
「ところで、アメリカのどこに住むの?」
「神戸の姉妹都市のシアトルよ」
「シアトルか、いいな。僕もいつか行きたいと思ってたんだ」
美鶴子は、二人はだれにも邪魔されない強い絆で結ばれていることを確かめるように
「智之さん。例えどんなことが起こっても、私を離さないでね」
智之は、修法が原の池で美鶴子を救った事を思い出した。
「美鶴子、僕は美鶴子を守るために生まれてきたような気がするんだ。」
智之はそう言いながら、美鶴子の自分への思いに胸が熱くなり、この人を絶対に離したくないとの思いを更に強くした。美鶴子も、彼の言葉に安堵した。海岸通りからトアロードを通り、市電道に沿って、大切な時間を味わうように、ゆっくり歩いて美鶴子を家まで送った。別れ際、二人は無言のままお互いの気持ちを確かめあう様に、何度も振り返りながら別れた。智之は帰り道、思いもかけぬ展開に戸惑いを感じながらも、却って二人の絆が強くなったことを胸深くに感じていた。
*アメリカ出発の前*
美鶴子のアメリカ出発も、いよいよ真近になった3月の末、神戸では桜が満開になっていた。美佐子は、ひと月早くアメリカに出かけていた。夫と家族で過ごす家を探す為だった。美佐子の留守の間、父の妹の敬子叔母が、美鶴子のために、家に泊り込みで来ていた。この叔母は敬虔なクリスチャンで、正妻の子供だが、腹違いの兄である父に同情的で、父と仲良しだった。美鶴子は、この叔母に小さい時から可愛がられていた。この叔母には、なぜか母以上に智之との交際のことを気さくに話していた。叔母はそんな美鶴子が楽しそうに話すのを、いつも、いとおしむ様に聞いていた。美鶴子も母とは違う感覚で大きな懐に抱かれているように甘えていた。
智之と美鶴子は、出発前日思い出の諏訪山公園を歩いた。
「美鶴子とこうして、神戸の街の景色を一緒に眺めるのは、当分できないのだね」
「この景色、心深くに焼き付けておくわ」
「僕らのために、桜が満開になったみたいだね」
二人は、坂を少し下りて、動物園の跡地に歩いて行った。前にギターを弾いた思い出の場所で、二人はお互いの気持ちを確かめあうように抱き合い唇を重ねた。
「智之さん、就職したら仕事頑張って、できるだけ早く迎えに来てね」
「うん。頑張るよ。明日は伊丹まで見送りに行けないけど、無事を祈っているからね」
「見送られると辛くなるから、そのほうがいいわ。智之さんも体に気をつけてね」
美鶴子は、あらためて智之の正面を見据え
「智之、又会おうぞ」
「ハハー」
智之は跪き、頭を下げた。二人は久しぶりに笑いあった。夕方、美鶴子の家で叔母敬子と一緒に三人ですき焼きを囲んだ。叔母は、食事をしながら語り合う二人を目を細めて見つめ、本当に仲の良いお似合いの夫婦になりそうと感じて、思わず
「何か今日は新婚さん見たいだね」
智之は、照れくさそうに
「何だかお母さんに悪いみたい」
「いいのいいの」
美鶴子は、いかにも嬉しそうにニコニコしていた
二人は、将来の結婚後の夢を、叔母を交えてたわいなく語りあって、夜遅くまで貴重な時間を過ごした。敬子はその間、ただニコニコと聞いているだけだった。夜も更ける頃、智之は家に戻った。当分、美鶴子の顔も、声も聞けないのだなと思うと寂しくなったが、ともかく明日のフライトの無事を祈った。
*敬子の不思議な夢*
その晩敬子は不思議な夢を見た。タイのアユタヤ王朝の時代、敬子は王妃だった。末の娘ワンビサが、美鶴子の姿だった。王妃は無邪気な姫ワンビサを特に可愛がっていた。ワンビサが15歳になった時、警護の若い兵士がワンビサ専属でついた。名前はアコムという。それが智之の姿であった。初対面でワンビサは若くてハンサムなアコムにときめきを感じた。アコムを目の前にすると、姫は身分の違いなど頭の中から飛んでいた。アコムも純真で可愛らしい姫に、仄かな思いを感じていた。宮殿から出て、姫がアコムを従え庭園を散策している夢であった。なぜか普段の夢と違い、現実の世界を見ている様な鮮明なカラーの夢だった。敬子は美鶴子と智之は前世の強い縁で今世も引き寄せられているのかしらと思った。
*シアトルでの生活*
伊丹発羽田・バンクーバ経由シアトル行飛行機は、翌日夕方に到着した。美鶴子にとって、初めての飛行機の旅だったので、父が叔母の敬子に同伴を依頼していた。その点、美鶴子も安心していられた。敬子も、兄に久しぶりに会うのが楽しみだった。
夕食はシアトルで有名なステーキハウス メトロポリタン グリルを父が予約していた。美鶴子は、分厚いステーキを目の前にすると、アメリカに来ているのだと実感した。しかし、大きなアメリカ人基準のその大きさには美鶴子も目を白黒させた。
「全部食べられないわ。お父さん先にわけるから食べて」
「そうだな。アメリカで提供される食事を全部食べると、美鶴子も京塚昌子になってしまうな」
「京塚昌子さんは肥えてても可愛いいけど、智之さんゆるしてくれるかな」
母美佐子は二人の会話を聞いてニコニコしていたが、美鶴子が智之の名前を出したことに気が重くなった
美鶴子は、子供の様に興奮している自分を悟られないように、冷静さを装った。周りを見ると、外人ばかりで、自分が日本人であることを忘れてしまい、アメリカ映画の1シーンの中に居るような錯覚をしてしまいそうだった。食事を終えレストランを出ると、父のキャデラックが玄関に横づけされていた。美鶴子は、豪華な座席に座ると短い時間ながらもゴージャスなドライブに酔いしれた。
郊外の家に着くと500坪位あると思われる庭付きの洒落た家だった。
内装の配色は、いかにもアメリカを感じさせるものであった。神戸に住んでいると、少しは外国的なセンスになれている積りだったが、本場の色彩感覚はそれ以上に違うなと感心した。美鶴子の部屋は日本で言えば十帖くらいの個室で、ベッドの木枠にもアメリカの古き良き時代のおしゃれな細工が施されていた。
その日、美鶴子は床に就いても興奮してなかなか眠れそうになかったが、やがて飛行機の疲れと時差疲れのためか、ぐっすりと眠ってしまった。
翌朝目覚めるともう10時を回っていた。両親が昨日の疲れを考慮して、ゆっくりと寝かせてくれていたのだ。美鶴子は両親の優しさをつくづく感じ、自分がいかに幸せかをかみしめた。そのうえ智之が日本で私を待っていると思うと、これ以上の幸せは無いと、神に感謝するばかりだった。朝食は、ベーコンエッグに野菜サラダにアメリカンコーヒーと新鮮なオレンジジュースといかにも絵に描いたようなアメリカ風の朝食で、あらためてアメリカに居る事を感じた。父はもう庭でゴルフのパターの練習をしている。傍で叔母が話しかけて談笑している。何を話しているのだろう。
(おばさんはきっと智之さんのこと話しているのだわ)
と良い風に想像した。
美佐子が美鶴子に
「今日はお父さんの会社お休みだから、買い物とお食事がてら、モールに行きましょう。そこで、おばさんが帰るときのお土産を選んだり、来週の日曜日にお父さんの友人のホームパーテイに招待されているので、美鶴子のドレスと靴なども買わなくっちゃね」
母はウキウキと楽しそうだ。叔母は今週の半ばには、もう日本に戻る。美鶴子は、叔母ともうお別れかと思うと急にさみしくなった。
昼前に家族でモールに出かけた。美鶴子にとって、モールという大規模なショッピングセンターは初めてであった。商店の飾りつけ、通っている人の服装、行き交う人の髪の色まで全てがカラフルで、まるで大人のお伽の国に迷い込んだ様だ。叔母は知人に配るお土産などを買い集めていた。昼食はシンプルなホットドッグだ。カラシの効いたソーセジが本場アメリカで食べると、日本では味わえないようなおいしさで、美鶴子はこれが“アメリカだ”と感激した。父と美鶴子がウインドウショッピングをしている間、母と叔母が何やら話し込んでいた。敬子は、美鶴子が兄の本当の子供ではないことや、兄と美佐子が結婚したいきさつまでよく知っている。そんな敬子に美佐子は心配を打ち明けていた。
「敬子さん。美鶴子がつきあっている三枝さんなんだけど、少し気になるところがあるの。実は私の前の彼と同じ姓なの。それに思い過ぎかもしれないけど面影が少し似ているようなところがあって。だけど住所は全く違うし、ここまで交際が進展するとは思ってなかったから、そう気には留めてなかったんだけど。最近、二人は結婚まで考えているようなことを匂わしているので急に心配になって。万一、三枝さんがあの人の息子なら二人は兄妹になるのよ。そんな恐ろしい事考えられないでしょう。もし、そうでなくても、美鶴子にはもっとふさわしい方に嫁がせたいし。もちろん、三枝さんも人柄は問題なさそうだけど。実話ね、美鶴子にまだ言ってないけど、来週のホームパーテイ、主催者の息子さんとのお見合いもかねているの。相手は帝都大工学部の大学院出で、現在は帝都大で助手をやっているの。教授の話では、将来有望で、教授の後継者だとお墨付きを与えているそうなのよ。趣味も豊かで、クラシックギターの腕前はプロになろうかと迷った程で、申し分のない理想の結婚相手と思わない。それで敬子さんにお願いしたいのは、三枝さんのお父さんのこと探ってほしいの。名前は“秀一”。お爺さんが大きな貿易会社を経営されていたから、そこと関係しているかどうかがヒントになるわ。むつかしいお願いだとわかってますけど、そこを何とかお願いしたいの。主人も了承済みよ」
「深刻な相談ね」
敬子はそういって黙ってしまった。敬子は智之に直接会って、二人の微笑ましいほどの仲の良さを知っていたので、美佐子の美鶴子の気持ちを分かってあげない強引さに不安を感じた。敬子は荷が重いものを背負わされた。しかし、そう言われると美鶴子と智之は、なんとなく似たような雰囲気を醸し出していることを思い出した。それまでは、二人の相性の良さが漂わすものだと思っていた。敬子は万一、二人が異母兄妹なら、何という悲劇だろうと不安に駆られた。二人が知ったら、天国から地獄に突き落とされるようなショックを受けるに違いない。
)(どうか、神様そういうことがないように、二人をお守り下さい)
敬子は、おののきながらただ神に祈るばかりだった。
*ホームパーテイ*
美鶴子は生まれて初めてホームパーテイに参加したが、不安と期待でドキドキしていた。個人のお宅にしては、40畳はあろうかと思うほどの大きな部屋だった。豪華な食べ物や飲み物が用意され、至るところに美しい花が飾られている。外人の招待者が半分以上占め、主催者の交友の範囲が自ずとわかるものだった。既に、殆どのお客が揃っており、その中を主催者に挨拶に行く途中、美鶴子の清楚で上品な美しさは、周りの目を奪った。母は、そういう視線を感じながら得意げにふるまっていた。美鶴子はそんなことを感じる心の余裕もなく、ここでも映画の一シーンに迷い込んだ様で、足が地についてなく、フワフワと雲の上を歩いている様な感覚だった。
父一郎は、今日のパーテイの主催者に招待のお礼を述べ、妻と娘を紹介した。主催者は、嫌味なく自然に母の美しさを褒めたたえ、美鶴子の美しさと愛らしさを驚嘆するように褒め称えた。美鶴子はこんなに面と向かって褒められるのは初めてで、顔を赤らめ、下ばかり向いていた。すると会場の奥でちょっとした、ざわめきが起こった。主催者の息子がギターを演奏する準備を始めた。
アメリカ人の司会者が英語で説明していた。
「皆さん、今日のホストの息子さんを紹介します。彼のギター演奏はプロになるぐらいの腕前の持ち主です。それでは『アルハンブラ宮殿の思い出』の演奏ををお楽しみください。」
パーテイに出席している若い娘達が彼の周囲に集まりだした。まるで、スターを囲むような雰囲気だ。美鶴子は演奏者とは離れた場所でギターの演奏と聞き、智之が弾いたエーデルワイスを思い浮かべ目を閉じた。『アルハンブラ宮殿の思い出』のメロデイが流れると、会場がシーンと静まり、その美しさに酔いしれた。終わると割れんばかりの拍手が一斉に起こった。美鶴子はその拍手で目が覚めた。主催者が、演奏を終わった息子を連れて、両親のところにやって来て息子を紹介した。息子も両親と美鶴子に挨拶をした。美鶴子には
「晃彦と申します。お目にかかれ光栄です」
「美鶴子と申します。こちらこそ」
と挨拶を返した。母が目を輝かし美鶴子に
「晃彦さんは、帝都大の大学院を卒業されて、今は研究室で助手をなさって、将来有望な研究者なのよ」
「とんでもないです。まだ若輩者で、お母さまの買い被りです」
と謙遜した。嫌味のない青年だと美鶴子も感じるくらいだった。父も割って入り
「今の演奏は本当に素晴らしかった。まるで心が清流に洗われるようでした」
と褒め称えた。晃彦は美鶴子の方を向き
「美鶴子さんは、いかがでした」
「すみません。他のことを思い浮かべていてちゃんと聞いていなかったのです」
と咄嗟に答えた。美佐子はあわてて
「この子ったら。失礼なことを言って。まだ時差ボケが少し残っていて、ボーとしています。本当に申し訳ありません」
「いや、正直なお嬢様ですね。その様なところがまた魅力的です。どんなことを思い浮かべていたのですか」
さすがに、彼もムッとしたのか、自分の演奏を聞かずに何を思い浮かべていたのか気になり正直に聞いてきた。
「私、ギター演奏と聞くと、直ぐに『サウンド・オブ・ミュージック』の映画の中でクリストファー・プラマーがエーデルワイスのギター演奏したシーンを思い浮かべてしまうのです。大好きなシーンだったので本当にすみません」
「私もクリストファー・プラマーにはかないませんね」
晃彦は苦笑いした。その日、家に帰ってから、美佐子は美鶴子のお見合いをぶち壊すような対応を嘆いた。
「今日の美鶴子にはガッカリだわ。あんな好青年にまるで関心が無いような口ぶりで。お世辞の一つも言えないなんて。先に今日はお見合いだと言っとけば良かったのかしら」
「いいじゃないか。そういうところが美鶴子らしいので、そういうところを包んでくれる男性がいいんだよ」
美鶴子はドア越に両親の話を聞いて、益々父が好きになった。美鶴子は途中でこれはお見合いかもしれないと感じていた。そのため咄嗟にうまく断るためにクリストファー・プラマーの話を持ち出してうまくかわした。その日も、智之に今日一日のことを手紙にまとめ、床に就いた。
*敬子のショック*
日本に戻った敬子は、智之に連絡し、美鶴子から預かったお土産を渡すため、都合のよい日時を知らせてほしいと連絡をして、後日、県庁近くの喫茶店で会う約束をした。当日、敬子が早めに店に入り、外が見える窓側の席に座って待っていると、智之が店にやって来た。窓から店に入ってくる智之をみた敬子は、思い込みのせいか、智之の横顔が、どこか美鶴子と似ているのかしらと感じた。今まで会っていた時には気にならなかったのに、先入観がそのように思わせているかも、と気を取り直した。
「敬子おばさん。今日は、わざわざありがとうございます」
「智之さんもお元気そうね」
敬子は、美鶴子がシアトルに着いた時の様子を伝え、美鶴子が選んだ革のジャンパーを智之に渡した。敬子は、身辺調査と感じられないように、うまく世間話を織り交ぜながら、智之の家庭の様子や、智之の父の職業変遷の経緯や名前を聞きだした。
敬子は、恐れていた不安が的中したことに驚き、ショックで頭が真っ白になってしまった。相思相愛の美鶴子と智之の二人が、異母兄妹なんて、二人の運命の残酷さに打ちひしがれる思いに落ち込んだ。敬子は、取り乱しそうな気持ちを悟られないように振る舞った。やがて、喫茶店を出るとき、別れの挨拶をしたが、美鶴子がショックをうける様子が目に浮かび、涙をこらえて立っているのが精一杯だった。智之は、敬子の声がある時から上ずって震えているように感じ、気になっていたが、理由まで問えなかった。敬子は、帰りの電車の中で美佐子にどのように伝えたらよいのか、このまま伏せておいたほうが良いのか、戸籍上は兄妹ではないので、法律上は結婚できるが、知らずに子供を身ごもったら大変なことになる。結婚まで進むと、いずれは智之の父と美佐子が顔を合わすと気付いてしまうとか、いろんな思いがグルグルと頭の中を巡った。クリスチャンの敬子は、神にこの二人を救ってくださる様に、ただただ祈るしか他なかった。
*智之の父の秘密*
美鶴子がシアトル滞在中のある日、智之の姉、美和子と3歳になる甥が、久しぶりに実家に帰っていた。智之は甥を相手に走り回って遊んだので、疲れて甥と一緒に横になり寝てしまった。うたたねから覚めようとしたその時、姉と母の会話が、ウツラウツラしながらも耳に入ってきた。
「母さん、もうお父ちゃん許したげや。もう二十年近くたったし、お父ちゃんも反省して皆のために一生懸命頑張ってるし」
「わかってるよ。もう何も思ってないよ」
「お父ちゃんとあの人の子供、女の子やったね。智之と同じ年よ。だけどあの女の人、勤務先の会社の社長が紹介した人と結婚したらしいけど、相手の人、籍に入れて自分の子供として大事に育ててるらしいよ。考えたら、私の妹にもなるから、幸せな人生送ってほしいわ。きっと、可愛いい子やろうな。一度、会ってみたいわ。どうしてるんやろ」
母は無言であった。母と姉の会話を聞いて、智之は夢ではないのかと驚いた。まるで小説の世界の話の様な感覚だった。ただ、そうなんだと冷静に受け入れている自分が不思議だった。こんなことが自分の周りに起こるなんて。
*注目をあびる美鶴子*
美鶴子は、早く、智之にプロポーズしてもらうことばかりを考えていた。智之への手紙にも、花嫁修業と英会話を頑張っているから智之さんも就職したらお仕事頑張ってね、とプレッシャーをわざとかけ、心の中でいたずらっぽく笑っていた。実際、そんな手紙を見た智之は、じわりとプレッシャーを感じた。会社に入っても半年間は新入社員教育が中心で、残業をして残業代を貯金するような状況ではなかった。内心、一年後にプロポーズはとても無理と思ったが、手紙にはとても書けなかった。
智之は、英会話まで美鶴子に負けたくないと、街の英会話塾に通っていた。
美鶴子の方は、月に一度のペースでホームパーテイに招待されていた。
パーテイに行くたびに、美鶴子は注目を浴び、今ではシアトルの駐在日本人の間で評判になっていた。父の方にはいろんな方から、是非息子に会って下さいとお見合いを申し込まれるのだが、美鶴子は、今は勉強に忙しいのでと、取り合わなかった。父や母は会うだけでも良いからというのだが、頑固に断り続けるので、もういい加減根負けしてしまった。父は、
「今押し付けると却って反発するから、時を待とう。持久戦だよ」
「それにしても、敬子さんに頼んだ件、まだわからないのかしら。一度電話してみよう」
美佐子は日本に電話した。敬子は、アメリカからの電話と知り、きっと美佐子さんからだと思い緊張した。案の定、例の件についての電話だった。美佐子には
「智之さんとすれ違いでなかなか会えず、まだ調べてないの」
と返事した。美佐子も、父の妹だからあまり強いことも言えず、引き続いてよろしくお願いしますと言うしかなかった。敬子は、真実を知った時の美鶴子のショックを考えると、今アメリカ生活を楽しんでいるのに、地獄に突き落とすようなことは、とても言えなかった。皆が日本に戻ってから、兄に相談しようと決めていた。一方美佐子は、当面は家族との充実した日々を楽しむことにした。
*智之の父の死*
智之が入社した年の、秋の出勤日の昼休み、机で新聞を読んでいると、
「三枝さん外線です」
突然電話がかかった。
「もしもし、三枝ですが」
「智之、私。お父さんが突然倒れて、今中央病院に入院して居るからすぐ行って。私もすぐ行くから」
姉の美和子からだった。
「どうしたの」
「詳しいことわからないけど、母さんの話では、突然胸を押さえて苦しみ出して、倒れたらしいの」
智之は、あまりにも突然のことにびっくりして、上司に事情を説明し、タクシーで中央病院に向かった。案内で部屋を確認し、階段を駆け上がった。二階の部屋に入るとベッドの横の椅子に母が座っていた。顔を合わせると、母は顔を横に振って、間に合わなかったことを私に告げた。
「お父さん、智之来ましたよ」
父の手をしっかり握り名前を呼んだ。一週間前実家に戻り、仕事の話とか、寮生活の話をしたばかりなのに。母に病名を聞くと動脈瘤破裂ということだった。即死に近い状態と聞いて、苦しむ時間が少なかったのがせめてもの救いだった。この前会ったとき、父は今まで聞いたこともなかった若い頃の話をしてくれた。シアトルでの3年間の生活、そこでは日系人で野球チームをつくり、外人たちとも試合をしたりしたこと、連休にニューヨークに行ったり、自動車で近郊をドライブしたことなどを懐かしそうに話してくれた。そうこうしているうちに、姉の美和子が病室に入ってきた。父の顔に白い布がかぶせられているのを見て
「お父さん」
と叫び号泣した。姉は一人娘でもあり、父に特に可愛がられていたので、とりわけショックだったに違いなかった。母の話では、一年位前から、血管に小さな塊が見つかっており、こうなるのは時間の問題だったらしい。そのため、母は覚悟ができていた様だった。母が意外と取り乱していないのは、そのせいだったのだ。智之は美鶴子が帰国したら、両親に紹介し、とりわけ美鶴子と父が同じシアトルで暮らしていたので、話が弾むものと期待していたのに、間に合わなかったのが残念でならなかった。美鶴子には、気を使わせないように、当分父の死は伝えまいと思った。通夜で姉と一緒に父の傍にいたが、智之は前に姉が話していた妹のことを確かめた。姉は智之が知っていることに、一瞬驚いたが、以前昼寝から目を覚ました時に偶然聞いたことを話すと、納得した。姉の話では、姉も詳しい話は知ってなく、祖父と祖母が部屋で話しているのを、偶然障子越しに聞いたとのこと。その時は、あまり考慮することなく母に告げたら、あとで夫婦喧嘩が始まり、母に伝えたことを後悔したそうだ。何でもその女性は、結婚前に父と交際していて、結婚寸前まで行ったが、突然破談になったらしい。そのことが原因で、祖父は二人を引き離すため、父が関学在学中にもかかわらず、中退させてアメリカのシアトル支店で商売の勉強をさせるようにしたのだそうだ。
「あのとき、母さんは智之を妊娠していたから、よく智之は無事に生まれてくれたわ。母さんも、お父さんが本心から謝ってくれたと言っていたし、智之の子育てで大変だったから、気が紛れたのだと思う。お母さんの前でこの話はしないでね」
智之は、初めて詳しい経緯を知った。
「その女の子って、僕の妹?、姉さんかな」
「確か、智之の後で生まれたはずよ。だから妹よ。美しかった女の人の子供だから、きっと可愛い子よ。智之、間違ってもその子と付き合わないようにね」
「誰かもわからんのに、避けようがないよ」
「可愛い人を避けることね。まあ、智之はそういう人に好かれる訳ないけど」
智之はそれを聞いて、美鶴子がどれだけ可愛いく素敵な女性かと言いたかったが、この様な場でもあり、しかるべき時にびっくりさせようと思った。
*美鶴子一家の帰国*
美鶴子の父の駐在期限がせまり、次期担当者への業務引継ぎ、お世話になった方々へのお礼回り、家の方でも日本へ送る家財などの整理、家の契約変更など、目が回る程忙しくなり、もうホームパーテイなどは卒業と言う状況だった。美鶴子も、一年は長いと思っていたのが、あっという間の出来事のように感じていた。日本で留守宅を見に行って管理している敬子は、いよいよ兄と可愛い姪が戻ってくるのを楽しみにしていた。そのため、気持ちよく帰ってもらうために、業者に水回り、風呂、トイレをピカピカに仕上げてもらい、各部屋の清掃は、敬子自身が心を込めて行っていた。家中ピカピカになって気持ちはよかったが、敬子の心の奥には、美鶴子と智之の問題が重くのしかかっていた。敬子は、毎日の様に神に祈っているが、神様は沈黙されたままだ。こういう時にいつも思うのは、あらゆることは『神の思し召し』という聖書の言葉であった。そのため、この事態は若い彼らに、何を呼びかけておられるのだろうかと想像した。夢で見た前世の二人は、今世は、あらゆる障害を乗り越え、結ばれたくて生まれてきたに違いないので、きっと神様は、二人に白い道を示されるに違いないと信じるほかなかった。
シアトルを出発した美鶴子の一行は、ようやく伊丹に到着した。空港から電車を継いで帰るには、時差疲れもあるのでタクシーで神戸の家まで直行した。美鶴子はタクシーの窓からの風景を眺め、夜間の風景でも日本に帰ってきたのだなと実感した。今度の日曜日には、智之と海岸通り近くの喫茶店で会うことにしていた。日曜日が待ち遠しい美鶴子だった。敬子は、日曜日美鶴子が外出している間に、兄一郎と美佐子に相談したいことがあると、敬子の芦屋の家で会うことにしていた。
*久しぶりのデート*
午後一時に、県庁近くのいつもの店の入り口の前で、二人はばったり会った。
「ハーイ ミツコ、ハウアーユー」
「トモ、ファインサンキュー、アンドュー」
二人は、久しぶりのデートの喜びを表すように腕を組んで店に入った。早速、智之はクリームソーダ、美鶴子は久しぶりのミックスジュースを注文した。美鶴子は、いつもコーヒーを注文する智之がクリームソーダを注文するなんてと怪訝そうに彼の顔を下から覗いた。
「いつも、コーヒーだけどね、今日は、クリームソーダにする」
「なんか子供っぽくなったね」
「理由を知りたい」
「知りたいわ」
「小さいとき、シェーンの映画を親父に連れて行ってもらったんだ。映画の中で、少年が街に行くシェーンにソーダを買ってきてと叫んでいたのが強く印象に残っていて、それ以来ソーダーが好きになったんだ」
「フーン。ただそれだけのこと」
「それに、今日は美鶴子が、そのアメリカから帰ってきたから思い出したんだ。それにしても、なんか美鶴子は口が悪くなったのと違う」
「口なんて、悪くなってないよ。前から私は思ったことを正直に言ってるだけよ」
智之は、そういう美鶴子の顔を見つめ
「それにしても、やっと美鶴子を目の前にして、話すことができるようになったんだね」
「そうね、シアトルの生活は日本と比べると物がいっぱいあふれて夢心地のような世界だったけど、やっぱり私は智之さんとこうして近くでお話できるのが一番いいわ」
「ありがとう。美鶴子にそんなこと言ってもらえて。美鶴子がアメリカに行ってから、美鶴子とのこと、考えていたんだ。小学校時代は、自分とは別世界のお嬢様という感じで、好きになること自体が許されない位に思っていたんだよね。それが、電車の中で偶然出会って、それから、当たり前の様に会っているけど、僕にとって、美鶴子は天から舞い降りてきた天使のような存在なんだ」
「智之さん。前にどんなこと言ったか覚えてる」
「どんな事言った」
「他人と比較して自分を見ない。自分は自分だと。こうおっしゃったのよ。さっきの智之さんの話だと、お嬢様のような私に劣等感を感じている智之さんそのままじゃない。ということは、もし、智之さんが出世して、えらくなると私に優越感を感じ、オイ美鶴子とか、いばりそう。だって劣等感と優越感はコインの裏表だと言ったのは智之さんでしょう」
「いやー参った。美鶴子さんの言う通りだ」
「美鶴子さん?美鶴子と呼ぶんでしょう」
「そうだった。美鶴子。大事なこと忘れてたよ。人間てすぐに忘れてしまうんだな。美鶴子、これからも、僕が間違ってたら、このように注意して」
「智之さんのそういう素直なところが好き」
「ところでアメリカはどうだった。美鶴子は向こうでも人気あったんだろうな」
「私ね、向こうでは、ミツーと呼ばれていたのよ」
「ミツーか、可愛いい名前だね。そうそう、前に敬子叔母さんが革のジャンパー届けてくれたよ。ああいうの前からほしかったから、嬉しかったよ」
「そうだ、大事なこと忘れてた。これが今度のお土産」
美鶴子は小さな包みを智之に渡した。早速、開いてみると、エルメスの黒い高級革財布と名刺入れだった。
「うれしいな、会社でこんな高級な財布もっている人、若い人にはいないよ。中身と釣り合わないけど、結婚したら美鶴子がいっぱい中身入れてくれるんだよね」
「さあー。どうかしら。かえって、中身を抜いていくかもよ」
智之はウイットに富んだ美鶴子との会話を久しぶりに楽しんだ。
「そうそう智之さん、貯金してるわよね?」
智之は避けたかった話題に転換され
「御免、会社に入っても、半年間は教育だから、貯金なんて、殆どできなかった。それに最初は、夏のボーナスもないんだから。貯金ができるのは二年目からだよ。僕も早く一緒になりたいのは、やまやまだけど、あと三年は待ってほしいよ」
「そうね。智之さんだけに、無理を押し付けて悪かったわ。でも、あと二年にしてほしいな。これから私も頑張るから。英会話上達したし、どこか雇ってくれそうな会社探すわ」
「それは、きっと両親が反対するよ。僕も心配だ。美鶴子を取られるかもしれないと余計な心配するから、それだけはやめてよ」
「私は大丈夫。智之さんみたいに他の人と比較しないもの。智之さんは智之さん。そういう心配しているということは、智之さんは、他の女性と美鶴子を比べる可能性があるということ?会社には、毎年若い新入女子社員が入ってくるから、目移りするんじゃない。私が、智之さんに男ばっかりの会社に変わって、と言ったら変わってくれる?」
「美鶴子がいるのに、そんなわけないよ」
「本当ね。それなら一応信じときましょう」
「一応?」
「じゃあ、絶対に」
「ありがとう」
「ところで、智之さんは、子供何人ほしいの」
「美鶴子の健康に問題なければ、最低三人は、ほしいな。家族が多い方が楽しそうだし。それに三人なら家族5人で、一台の車で、どこでも行けるし」
「すごい現実的ね。すぐ、そんなこと計算するんだ」
「美鶴子はどうなの」
「一人っ子は可哀そうだから、最低二人ほしいけど、智之さんの期待に応えるよう頑張るわ」
「明日にでも、結婚するみたいな会話だね」
「私の気持ちは、もう智之さんの妻よ。今日から、智之さんをコントロールするからね」
「エー、今日から」
美鶴子は、それを聞いてクスクス笑った。二人は、喫茶店で二時間近く粘り、久しぶりのデートを楽しんだ。別れ際に、智之は美鶴子に、父が動脈留破裂で急死したことを話し、美鶴子を父に紹介するのが遅れたことを詫びた。二人は、店を出て、いつものように智之が家まで送って行った。
*敬子のつらい報告*
美鶴子の両親は芦屋の敬子の家を訪れていた。
「兄さん、義姉さんから、頼まれていたこと、落ち着いてから報告しようと思って、今になったの。ごめんなさい」
美佐子は、身を乗り出すように
「いいのよ、それで、どうだったの」
「報告するのが辛くて、本当は報告したくないの。あの二人が可哀そうでたまらないの」
「智之さんは、やっぱりあの人の子供?」
美佐子は悲壮な顔をして尋ねた。敬子は、涙をためながら、うなずいた。
「貴方、二人は兄妹だったのよ。私のせいで、美鶴子を苦しめるなんて」
美佐子は、何も知らない間は、智之を遠ざけることばかり考えていたが、このような状況になると、智之に同情の思いが湧いてきた。事態が全く変わってしまったのだ。美鶴子の父一郎も天を仰いだ。父は、美鶴子が本当に好きで、智之の人間性に問題なければ、許してやってもいいと思っていたのが、思いもかけぬ事態になり、どうしていいのか困り果てた。敬子は、智之もこのことは知らないようだということだった。美佐子は
「私の顔をみて気づくのは彼の父、彼の祖父母の3人だけよ」
敬子は二人に頼んだ。
「あの二人は、本当に心底から愛しあっていて、相性もピッタリなの。何とか二人を傷つけないようにしてあげて。美鶴子は本当のお父さんが別に居ることを知らないのでしょう」
「私が、大腸がんで入院して退院するとき、美鶴子には本当のお父さんが別に居ることは、話しているの。ただ、それが智之さんのお父さんとは、その時は私もわからなかったし。智之さんと美鶴子が兄妹だと知ったら、美鶴子にはショックが多きすぎるわ」
敬子は、改めて言った
「わたし随分考えたの。二人は結婚しても、戸籍上は問題ないはずよ。その代り、私が智之君と彼の父親に事情を話し、同意してもらえれば、美鶴子にだけは内緒にして、智之君には結婚しても子供を産まないように約束させる」
美佐子と夫は、しばらく考えたが、
「しかし、万が一、子供ができてしまったら、取り返しがつかなくなる」
「私、若いときに、相手の親に無理やり離された経験しているの。別れた原因は、私の父にあったけど、私たちは駆け落ちすらできないようにされたの。幸い、一郎さんに身も心も救われたけど。3年も会わなければ、そして、その間にお父さんのように優しい別の人が現れれば、私のように美鶴子もきっと救われるわ。敬子さんと私で、智之君を説得するしかないわ。智之君も苦しむけど、彼は男よ。美鶴子が地獄に落ちるのを救うためだと言えば、きっと分ってくれるわ」
三人の考えは美鶴子を救うことを優先する考えに落ち着いた。
「智之さんが、本当に美鶴子を愛してくれているなら、自分を犠牲にしてでも美鶴子を救ってくれるはずよ。もし、それができないなら、私は体を張ってでも美鶴子を守ります」
美佐子の悲壮な思いが二人に伝わった。後日、美佐子と敬子は、智之と会うことにした。
*苦渋の断念*
敬子は、智之の会社に電話をかけ、相談したいことがあるから退社後に時間が取れないかと尋ねた。智之は、丁度その日は、定時日だったので、敬子が指定した海岸通り近くのオリエンタルホテルのロビーで、6時に待ち合わせることにした。智之がロビーに着くと、美鶴子の母が来ていた。智之は、胸騒ぎを覚えた。美鶴子がいないのはどうしてだろう。一通りの挨拶後、智之は個室に案内された。お飲み物はと聞かれ
「コーヒーをお願いします」
「私たちもコーヒーを」
と注文を済ますと改めて挨拶をした。二人の表情を見て智之はただならぬ緊張感を感じた。
早速、美佐子が彼に尋ねた。
「ぶしつけなことお聞きしますが、智之さんは美鶴子を本当に愛して頂いていますか」
「勿論です。二人で結婚のことも話し合い始めています」
智之は、二人は喜んでくれるのかと思ったら、何やら下を向いて辛そうな顔をしだした。智之の不安は、頂点に達した。
「美鶴子さんに何かあったのですか」
ここからは、敬子が話し始めた。美佐子は胸が詰まり、話せそうになかった。
「智之さん。私は美鶴子と智之さんがうらやましいほど仲が良いことを知っています。二人が近い将来結婚するのを楽しみにしていました。しかし、いま事情が急変したのです。これから私が話すことは、貴方を大変驚かすことになりますが、美鶴子を救うために、智之さんだけの胸にしまってほしいのです」
「わかりました」
「美鶴子と智之さん、あなた方二人は、異母兄妹であることが分かったのです。私達にもショックでした。美鶴子は、このことをまだ知りません。知ったらどれだけショックを受けるか、お分かりと思います。美鶴子を救うのは、智之さん、貴方しかいないのです」
智之は、ショックな話なのに、不思議に冷静に聞けた。本当にショックな話は、冷静に反応するという話を聞いたことがあるが、本当だと思った。謎だった異母妹のことが、今の話でわかった。姉が言っていた、妹がいるというのが、まさか美鶴子だったとは。
「私は、どうすれば良いのですか」
美佐子が話し始めた。智之の父と別れた経緯と、3年間アメリカと日本に離されたが、幸運にも今の主人と巡り合い幸せになっていること。そして、美鶴子も今の主人が認知し、戸籍上も実父になっていることを説明した。智之は二人が言いたいことを察した。
「美鶴子さんと会わないように、ということですか」
二人は頭を下げ、祈るように
「美鶴子を救うと思って是非わかって下さい」
美佐子は涙ながらに訴えた。智之は瞬時に、これは自分より美鶴子にはとても耐えられないことだと思った。美鶴子のショックを想像すれば、最悪の事態が起こることを恐れた。
「美鶴子さんとは、隠して結婚することはできないのでしょうか。戸籍上は、二人は他人なので結婚できると思います。子供を作れないことは、結婚してから徐々に美鶴子さんに話します。今更兄妹なので、結婚できないとは、私も美鶴子さんも受け入れがたいことです。実は、私は前に姉から妹が居ることを聞かされていました。まさか、それが美鶴子さんとは。ただ、ひょっとして、万一、そうだったら、どうすれば良いか考えたことがあるのです。宗教の本を読みあさりました。その時、こんな言葉が強く心に入ったのです。
『神は多様を愛される』
私達のような愛の形も神様は許してくれるのではないかと思ったのです。
『世の中に偶然は無い』
という言葉も同じように、心に残りました。美鶴子さんと私の出会いには、何か意味があるはずだと。美鶴子さんが、たとえ妹でも、そういう関係を越えて愛し合っていれば、神様は許して頂けるのではないかと思ったのです。国によっては、同性婚を認めているところもあります。同性婚も子供はできません。そうだとすれば、異母兄妹の結婚も神様は認めてくれるのではないかと。まして、僕たちは兄妹と意識して交際していたわけではありません。それに、美鶴子さんを救うのは、本当に私が離れることでしょうか?私が傍にいた方が、美鶴子さんを救うことになりませんか。子供さえ産まなければ、兄妹であることを意識しなければ、私はそう思います」
美佐子と敬子は、智之がそこまで考えていたことに驚いた。それでも美佐子は、このままではいけないという考えは変わらなかった。
「智之さんのご両親がお聞きになれば、どう思われるでしょう」
「美鶴子さんには、最近伝えたばかりなのですが、父は昨年亡くなりました。美鶴子さんのことを知る祖父母と父、皆、亡くなっています。私と美鶴子さんの本当のことを知る人は三枝の家には、もう誰もいないのです。姉は、妹がいることは知っていますが、それが美鶴子さんとは知りません。美鶴子さんのために、わざわざ知らせる必要はないと思います」
美佐子は、毅然と言った。
「どんなに理屈をいっぱい並べられても、この社会では兄妹が結婚することは許されないことです。私たち夫婦は、親として、美鶴子の将来を考えて反対です。智之さんが美鶴子を想っておられることは、ありがたく受け止めますが、美鶴子には、自分の産んだ子供と一緒に暮らせる家庭を築かせたいのです。病気ならいざ知らず、初めから子供を産めない結婚をすることが、美鶴子にとって幸せな結婚とはとても思えません。智之さんが本当に、美鶴子の幸せを願って下さるなら、美鶴子から身を引いて頂きたいのです」
智之は、もう何も言えなくなった。お母さんの気持ちも痛い程わかった。これ以上、反論することはできないと、もう観念した。
「お母様のお考えはよくわかりました。いくら美鶴子さんでも、このショックは、耐えられないと思います。最悪の事態も考えねばなりません。そうなれば、私自身も生きていく自信がありません。美鶴子さんのショックが小さくなる様に、私のことは、どんなに貶めてもらっても結構ですので、美鶴子さんが、私のことを忘れて頂くようにご配慮お願いします」
そう言い残して智之は立ち上がり、二人に深々とお辞儀をして部屋を出て行った。敬子は、智之の美鶴子に対する思いと、美鶴子の悲しみが同時に胸に迫りソファーに顔を埋め号泣した。美佐子は安堵の気持ちとともに、智之の父が亡くなったことを知り、これで私と彼の関係は完全に過去のものになってしまった、と感慨深げだった。智之はホテルを出ると、美鶴子とよく一緒に歩いた、いつもの道を通って家路についた。美鶴子の『また、会おうぞ』の声が頭に浮かび、涙があふれ出てきた。
*美鶴子不安の極致*
美鶴子は、智之からの連絡が急に耐えたので、昼休みに智之の会社に連絡した。しかし、いつも不在なので単に忙しいのか、昼休みも頑張っているのかと思っていた。しかし、あまりにも不在が続くので、不信を感じ確かめようとした。
「三枝さん、どこか出張ですか」
と電話で受付に聞いてみた。
「そうではないのですが、不在です」
としか返ってこなかった。実は智之が村中美鶴子さんから電話があったら、取り次がないでと頼んでおいたのだった。受付の女性は、いつも智之に取り次いでいたので、三枝さん、どうされたのだろうといぶかった。一カ月以上、連絡がとれなかったために、美鶴子は、思い余って母に相談した。
「智之さんと一カ月も連絡つかないの」
美鶴子は半分泣きそうな声だった。
「出張じゃないの」
「私も聞いたけど、そうではないって。私が心配するから病気を隠してくれと周りに言ってるんだわ。明日昼休み会社に行ってみる」
「まだ身内でもない貴女が会社に行ってはだめよ」
美鶴子は、もう不安の頂点にあった。美佐子は、智之に感謝した。翌日、昼休みが始まる少し前に、美鶴子は会社の前に着いた。昼休みが始まるまで、玄関ドアの外側から、ロビーの受付の周りを何とはなしに見ていると、智之が受付の前を、お客らしき人と現れ、受付の女性と二言三言話し、階段を上がっていくのが見えた。美鶴子は、智之が元気にいることに先ずは安堵した。会社に入って智之を呼び出すと迷惑をかけるので、会社近くの公衆電話から電話をかけたが、受付の返事はいつもと同じだった。しかし、今回、美鶴子は食い下がった。
「先ほど、玄関から三枝さんがロビーを通られるのを見たのですが」
「お客様と外で食事だと思いますが」
美鶴子は、お客様と出入りする入口は他にあるのだろうかと会社の周りを見たが通用門程度の小さなドアがある位で、お客様が通るのは、この玄関しか無いと確信した。公衆電話をかけている間も、玄関を見通せたので、智之が会社から出ていないことは確かだった。
(智之さん、急にどうして私を避けるの)
美鶴子は言い知れぬ不安が高まり、体から血の気が引く様に感じ、よろめきそうになった。
*美鶴子の苦しみ*
智之との連絡が途絶えた状況が、1か月以上続いた。美鶴子は食欲もなくなり、周りの誰もがビックリする程、げっそりとやせ細った。美佐子はどうしようかとうろたえるばかりだ。夫にも相談したが、智之に来てもらうことだけは避けなければならず、ともかく、美鶴子を家の近くの中央病院に連れて行った。
美鶴子を一目見た医者は、あまりにやせ細った姿を見て、驚いた様子で直ぐに診察に取り掛かった。
「どうして今まで放っておいたのです。このままでは危険です。すぐに入院させなさい」
「わかりました。先生何とか娘をお救い下さい」
「それが私たちの仕事です。ともかく事務局で入院手続きを取って今すぐ入院させて下さい」
美鶴子は既にベッドに寝かされていて点滴を受けていた。美佐子が驚くほど迅速な処置が行われていた。
美佐子は入院させると、毎日美鶴子に付き添った。美佐子は、敬子に声をかけ、時々来てもらうように頼んだ。敬子は飛んで来たが、美鶴子のやせ細った体を見ると、智之を慕う気持ちを察し、涙が出て止まらなかった。
「おばさん。智之さんどうしたんだろう。智之さんに会いたい。お願い。会わせて」
美鶴子は、敬子にすがるように訴えた。敬子は涙をため、ただ、うなづくしかなかった。敬子は、病院の帰りに美佐子の家により、兄夫婦に訴えた。
「もう、美鶴子が可哀そうでたまらない。これ以上何もしなければ、本当に死んでしまうかもしれない。智之さんが言ってたように、二人を認めてあげて。お願い」
敬子は泣いて頼んだ。美佐子は
「美鶴子がここまで落ち込むと、もう、真実を話すしかないわ。智之君もそれに耐えている。美鶴子もきっと乗り越えられる。ただ、二人の結婚は二人とも不幸になる」
美佐子は夫に同意を求めた。
「美鶴子を退院させ、家で落ち着いた状態になったら本当のことを話そう。敬子、悪いが美佐子と一緒に美鶴子に説明してくれないか。お願いする」
「わかったわ兄さん。結婚が無理と言うなら仕方ないわ。それで結婚をあきらめてくれるかわからないけど」
敬子は納得こそできなかったが本当のことを話すことにはやむなく同意した。
*真実を知る*
美鶴子は、敬子が付き添ってから、徐々に体調を戻し、退院できるまでに回復した。退院してから一週間程経ち、家での様子も落ち着いた様なので、美佐子は敬子に家に来てもらうようにお願いした。美佐子は応接間に美鶴子を呼び、改めて話を始めた。
「美鶴子、大切な話があるから、心して聞いてね。美鶴子には、以前貴女の出生の秘密のことを話したけど覚えてる。実はね、最近重大なことがわかったの。黙っていたのは、貴女のことを守るためだったのよ」
美鶴子は、しっかり聞こうと、威を正すように座りなおした。敬子が話を継いだ。
「このことは、智之さんにも関係するのよ」
改めて美佐子が継いだ。
「結論から言うわ。美鶴子と智之さんは、兄妹ということがわかったの。美鶴子は12月生まれで、智之さんは6月生まれと聞いているから、美鶴子は妹になるの。貴女の今のお父さんは美鶴子が生まれたときに、貴女を認知して、目の中に入れても痛くないほど、可愛がってくれた本当のお父さんであることは、分って頂戴ね。でも、血統上のお父さんは、智之さんのお父さんなの。その原因を作ったのは私よ。美鶴子、許しておくれ」
美佐子は、泣き崩れる様に許しを請うた。
「智之さんとの関係がわからなかったのは、智之さんのお父さんと音信が絶え、家も転居されていたから。まさか、こんな近くで、しかも二人が小学校の同級生になっていたとは夢にも思わなかった。お父さんとも相談して、ともかく兄妹とわかったからには、二人を結婚させてはいけないと、私と敬子おばさんとで智之さんに会って、美鶴子の将来の幸せのために、美鶴子から引いて頂くようにお願いしたの」
敬子が、その時の智之の様子を説明した。
「智之さんはね。それでも、貴女との結婚を懇願されたの。人間と人間として、兄妹の関係を越えて愛を貫きたいと。子供はあきらめるし、美鶴子さんにも、詳しいことは、徐々に説得するからと。だけど、初めから子供を産めない結婚は、美鶴子も可哀そう。子供のいる家庭を作れるような結婚を美鶴子にさせたいからと智之さんを説得したの。そしたら、智之さんも観念して、美鶴子さんが、その方が幸せになるなら自分が引きますと言って帰られたの。智之さんは、決して美鶴子を裏切ったのではないことだけ分ってあげて。貴女からの毎日のような電話に出なかったのは、智之さんも貴女同様、本当につらかったはずよ」
美鶴子は、二人が兄妹だったという衝撃の事実よりも、智之が私を裏切ったのではないという事実の方が、心の中で重きを占めていた。母から別れを迫られても、あきらめずに必死の思いで、私との結婚を懇願してくれたこと、最後の最後に母達の願いを聞き入れて、私の幸せのために、あえて私を遠ざけていたということを知り、胸が張り裂けそうになった。
「智之さんは、前に、どんなことが起ころうと、絶対に私を離さないと言ってくれていたの。私と兄妹とわかっても、智之さんは私を守るために、二人の結婚を懇願してくれたのね」
美鶴子は、大粒の涙を流し、智之さんを少しでも疑ったことを心から詫びた。3人とも、智之のその時の心情を思いだし、伴に涙を流した。
「美鶴子、智之さんの気持ちに応えるためにも元気な体になって幸せな結婚をすることが、智之さんも喜ぶよ。貴女を思う人間として、貴女の幸せを願っているはずよ」
美佐子と敬子は、美鶴子のショックが、小さくなるように、智之さんを貶めてくれてもいいと言われていたことも美鶴子に話した。美鶴子は冷静だった。智之に抱いていた疑念が風に吹き消され、どこからか新しい風が美鶴子の心に吹き込んできたかのように感じた。自分を裏切っていなかった智之を益々恋しく思ったが、それは口には出さず胸にしまい込んだ。食欲を無くし、体が衰弱するような不健全な生活を送ると、智之さんに申し訳ないという新たな思いが湧いてきた。
その晩、美鶴子は寝る前に、母からもらっていたお守りの封をほどき、中に入っている写真を初めて見た。写真をじっと見つめ、智之によく似た本当の父の写真に驚いた。今日の話は。本当だったんだ、とあらためて確信した。
*平穏な二人のその後*
その後両親は、しばらくは美鶴子をそっとしておいた。そんな平穏な生活が二年余り続いた。美鶴子は幼稚園教員免状を取り、幸運なことに、家の近くのカトリックの幼稚園に採用された。小さい子供たちを相手に気がまぎれるのか、一生懸命頑張っていた。さらに、叔母に倣い洗礼を受け、クリスチャンになった。時々、春の桜の頃や紅葉の頃に、園児たちを連れて諏訪山公園に遠足に行ったりした。公園に立つと、美鶴子は智之と手をつないで歩いたことを思い出しては、そっと涙を拭った。
智之は、昨年から3年間、タイのバンコクへ駐在員として派遣された。そのことは、智之から敬子に、バンコクへ出発する前に送った挨拶状に書かれていた。手紙の最後に、美鶴子さんはお元気ですかと、遠慮深げに書き添えられていた。敬子は、もっといっぱい美鶴子のことを知りたいだろうと思い、返事には、長い駐在への励ましと、美鶴子の最近の様子を詳しく書いた。敬子は、智之がタイに行くことを知り、前に見た夢を思い出し、何か不思議な縁がタイにあるのだろうかと思った。敬子は、時間が経ち二人の熱い思いが静まり、夫々に幸せな結婚ができる様に祈った。智之は、美鶴子の幸せな結婚を願っているに違いないと思った。
*美鶴子の縁談*
アメリカに美鶴子を連れて行ったことから、村中のところに、良いお嬢さんがいるという噂が取引先に広まっていた。あの衝撃の出来事があってから、しばらくは父も何やかやと理由をつけて、まだまだ手元に置いて置きたいのでと断っていたが、美鶴子の年を考えると、もうそろそろ結婚を決めなければならない年頃となっていた。父は妻の美佐子と顔を並べて、いろいろ送られて来る縁談の品定めをしていた。
「この二人の、どちらかどうかしら」
「お母さんは、ハンサムな人ばかり選んでいるね。そうかと思えば大きな会社の跡取りとか。自分が嫁ぎたいのじゃないの」
「いえいえ、私は貴方様以上のお方はいないと思ってますの。オホホ」
久しぶりに夫婦に笑顔が戻った。その笑い声が美鶴子の部屋にかすかに聞こえ、一体何を笑っているのだろうと両親の部屋を覗きに行った。
「笑い声が聞こえたけど、何がおかしいの」
「お母さんの縁談話」
と父が言ったので、母は父の背中を何度も叩きながら二人は大笑い。美鶴子は、自分のために、今まで笑い声が途絶えていたのが、久しぶりに我が家が昔のように明るくなったので、内心ホットした。すると父が、
「美鶴子、お前も美佐子のお下がりだけど見てごらん。いい男が一杯いるよ」
「まあ、お父さんたら。お下がりなんて美鶴子に何がなんでも失礼よ」
美鶴子は、父がこんな冗舌なのを見たこともなかった。美鶴子は、この雰囲気を私のせいで壊したら悪いと思い
「少し見るだけよ」
と言って部屋に入ってきた。父は内心ホットして、美佐子と顔を見合わせた。父は、美鶴子には、まだ解けていない氷のようなものがあると思い、それを溶かすために、少しふざけたような会話を美佐子としていたのだった。美佐子も阿吽の呼吸で夫に合わせていた。夫婦の得も言われぬ連携プレーだった。美鶴子は美鶴子で、両親のそういう気持ちを知ってか知らずか、軽いノリで写真を見ていた。勿論、美鶴子は写真を見ても、見れども見えずで、心は少しも動いてなかった。
「みんな、ハンサムな人ね。私にはもったいないわ。私はお父さんみたいな人がいい」
と言って、話題を縁談からそらせるように
「今日は私がお茶を入れるわ。お父さんとお母さんは何がいい」
父と母は、どちらも
「じゃあ、紅茶をお願い」
「じゃあ、私も紅茶にするわ」
父は、美鶴子がうまく話題を避けたなと、感心しながらもこれはなかなか手ごわいぞと、美佐子と目を合わせた。
そうこうしている内に、ある日、アメリカで知り合いになった取引先の社長の紹介で、芦屋で大きな不動産会社を経営している社長の息子との縁談が飛び込んできた。なんでも、ホームパーテイで美鶴子をみた社長が、美鶴子を大変気に入って、どこか良いところにお世話したいが、あれだけのご器量のお嬢さん、だれか、もう決まっているのですか?と問い合わせてきたのだ。もし決まっていなければ、是非、紹介したいのですがとのことだった。相手は京洛大で剣道部の主将をやっていたスポーツマン。好感の持てる青年なので、美鶴子さんを是非紹介したいとのことだった。美佐子は写真を見て、ハンサムで真面目そうな彼を見てこれ以上の縁談はないと思い、
「素晴らしい方よ」
と言って夫に縁談の資料を見せた。夫もそれを見ながら、
「美鶴子が、どう言うかだな」
夫は、自分が説得する自信はなかった。
「美佐子、困ったときは敬子だな」
「そうね、悔しいけど敬子さんなら素直に聞いてくれるかも」
美佐子は、久しぶりに敬子に電話をかけ縁談のいきさつを話した。
「今度の相手は、非の打ちどころがない方なのですが、美鶴子の心が落ち着いてきているのか、正直、まだ智之さんを思う心が残っていないか分からなくて。敬子さんから、美鶴子の今の思いを聞いてもらいたいの。結婚するには、丁度良い年齢だし、願ってもない縁談なので敬子さんから美鶴子に、薦めてほしいの」
敬子も、正直美鶴子が結婚する気があるのか内心不安だった。ただ、最近智之のことを口に出すことは、無くなっているとは思っていた。
「わかりました。私も気持ちを整理して、美鶴子と話してみるけど、もう少し時間を頂戴」
敬子のところには、智之から毎年暑中見舞いと年賀状が届いている。最初の手紙にあった美鶴子さんはお元気ですかという文面は、その後書いてこなくなったので、かえって思い出させないほうが良いかと思い、美鶴子のことを知らせないようにしていた。美鶴子からも暑中見舞いと年賀状が届くが、こちらも、智之の様子を心配しているような文面はなかった。どちらも心の奥にしまっているようであった。それでも敬子は、何か示し合わせた様な二人の沈黙に、かえって熱い思いが、マグマの様に心の奥に眠っている気がしてならなかった。どうしたら美鶴子の心の中を見られるのか、敬子はむつかしい難問を引き受けた。
次の日曜日の昼過ぎ、敬子が訪ねてきた。美鶴子が玄関に迎えて
「叔母さん。ご無沙汰しています。お元気ですか」
「おかげさまで、元気にしてますよ。美鶴子も幼稚園の先生をして頑張っているらしいね」
「小さい子供相手だと、最初は大変だったけど、なれて来ると、子供たちの可愛さを目の当たりに見られて楽しいですよ」
「それは良かった。先生はそういう愛情をもって、子供たちに接するのが一番だよ」
敬子は居間に入り、兄夫婦と、久しぶりに語り合った。敬子は前もって美佐子に、あらためて私と美鶴子が二人対面して話すと、本音を聞くのはむつかしいと思うので、普段着のまま、4人で和やかに話したいと申し入れていた。美佐子も夫も、その方が良いということで、居間に4人が座った。敬子がまず切り出した。
「美鶴子は、いくつになったの」
「もうすぐ、25歳になります」
「そー、早いもんだね。ついこの間まで、おしめを替えてあげたような気がするのに」
「おしめだなんてあんまりだわ、叔母さん」
「親の世代はね、いつまで経っても、子供のように思うのよ」
「それにしても、おしめはひどいわ」
これには、みんなが大笑い。打ち解けた雰囲気になった。美佐子は、さすが敬子さんだと思った。敬子は続けた
「何事にも適齢期というものがあるからね。美鶴子も、ソロソロ考えないと、いつの間にか私の様なおばあさんになってしまうわよ。それに、親というものはね、特に娘を嫁がさないと安心して死ねないのよ。美鶴子の命は、自分だけのものと思っているでしょ。でも違うのよ。その命は何百年も、何千年も脈々と繋がれた命なのよ。もし美鶴子が結婚せずに、その命の流れを絶ってしまったら、美鶴子の後に続くと思われる何世代にもわたる命も同時に消えてしまうことになるのよ。その中には、社会に大きな貢献をする人も含まれるかもわからないの。だから、命を継ぐということは、とっても大切なことなの。結婚というシステムは、それを守るためにあると私は思っているの。不思議なことに、結婚のシステムは、世界中のどこにもあるでしょう。文明が高い国はもちろん、文明の低い国にも、動物の世界にもあると言ってもいいわ。私はこれが不思議でたまらないの。神様のお考えは、とても壮大だと思う。このことを思う様になったのは、美鶴子の結婚について考えだしてからよ。それまで、もし美鶴子がどうしても結婚する気がなければ、それも仕方ないと思っていたの。だけど命の系譜を考えると、病気や特別な理由がなければ、結婚することは神様の意思にかなう様な気がしてきたの。だから美鶴子も一度真剣に考えてほしいの」
美鶴子は、敬子の話を真剣に聞いていた。一郎も美佐子も、結婚をそんな風に考えたことはなかったので、感心して聞いていた。敬子のように、神を信仰している人は、私たちと見方が違うのかしらと思った。さらに、敬子の話を素直に聞けるのは、二人は特別な何か深い縁が有ったのかしらとさえ思う程だった。
「お父さんとお母さんが、いま、美鶴子にふさわしい縁談を持ってきているのは、素直な気持ちでみて分るよね。美鶴子は賢い子だから、叔母さんは美鶴子を信じているよ」
「おばさま、よく分りました。ありがとうございます」
「お父様、お母さま」
美鶴子は、あらためて威を正した。
「お父様お母さまが、美鶴子のことを大切に思って頂いていることをいつも感謝しています。結婚はお父さんとお母さんが薦める方、それを信じて決めたいと思います。その縁談、是非進めて下さい。全て神の思し召しと受け止めます」
一郎、美佐子と敬子は、美鶴子の言葉に驚いたが、拍子抜けながらも、安堵した。とにもかくにも、美鶴子は結婚に一歩、歩みだしてくれたのだと思った。ただ敬子は、自分で説得したものの、別の思いも湧いていた。
(美鶴子は、私の言葉で独身を貫く道を塞がれ、あのように自分で選ばず、全て親に任せる対応をしたが、それは智之への変わらぬ愛を貫くために、そうさせたのかもしれない。美鶴子の心の中では、結婚相手は智之さんしかなく、さもなくば両親が薦める方を選ぶしかないという意思を表示したのだと。それなのに二人の想いには、目をつぶって、美鶴子に縁談を受けざるを得ない状況を作ってしまった)
敬子は、心の中で祈った。
*智之と美鶴子の心の絆*
敬子は、美鶴子の智之への隠れた思いを伝えるために智之に手紙を書いた。
『智之さん、美鶴子は、このたび親の薦める縁談を受けることになりました。美鶴子は貴方への愛を貫くために独身を守ろうと考えていたと思います。私が今までの先祖から脈々と流れる命の流れを絶たないように、結婚をすることは神の意に沿うものよ、と諭したため、自分のためというより、親のために縁談を受ける決心をしました。美鶴子は、自分が選ぶのは智之さん以外にいないという気持ちを表すために、相手の縁談の写真も資料も一切見なかったのだと思います。私は、このことは、智之さんへのメッセージと受け止め、貴方に伝えたかったので、この手紙を書いています。どうか美鶴子の気持ちを受けとめ、幸せを祈って下さいますよう。そして、あなた方二人を守れなかった私をお許しください』
暫らくたって、智之から返事が来た。
『敬子おばさん。お手紙ありがとうございます。また、美鶴子さんのご婚約おめでとうございます。美鶴子さんとは短い交際期間でしたが、お互いの心は遠く離れていても、今でも繋がっていると思います。別れた当初は、目に見える美鶴子さんの姿を追い求める自分が居て、苦しい時期が有りましたが、今は落ち着きを取り戻し、心の中にいる美鶴子さんと、いつでも好きな時に会えるので、寂しさを感じることはありません。こうして手紙を書いているときも、美鶴子さんが傍に来て、《だれに書いているの?》と耳元でささやいているようです。会社から独身寮に戻ってきて、会社であった面白いことを話すと、いつものあの笑顔でくすくすと笑う声が聞こえるようです。だから私の心配はご無用です。これからも、美鶴子さんをお守りくださるようお願いします』
敬子は、智之からの手紙を見て、二人の愛の強さをあらためて確信した。
後日、結婚前のある日、敬子は結婚準備の確認と、美鶴子の様子を伺うために、兄の家を訪れた。美鶴子は落ち着いた様子で、自分の部屋で本を読んでいた。敬子は部屋に入り、美鶴子に1冊の本を手渡した。
「この本はね、教会のシスターから頂いた本なの。シスターは、この高橋佳子という方は、『本物』よ。と言って私に頂いたの。何かの時に、この本が美鶴子を助けてくれるよ」
美鶴子は本を受け取り、題名を見ると〈祈りの道〉だったので驚いた。
「叔母さん、この本、智之さんが、一番大切にされている本よ」
敬子はそれを聞いて、二人が、この本と繋がっている事に驚いた。敬子は、二人が心の世界で、しっかりと絆が結ばれている事を神様が示されたのだと思った。あの日の夢の内容といい、あらためて美鶴子と智之は、深い絆に結ばれていることを確信すると、胸が熱くなり涙が出て来た。敬子は涙を見せないようにして、部屋を出る前に智之からの手紙を美鶴子にそっと渡した。
美鶴子は、封書の字を見て、すぐに智之の手紙と分かり、その封書を大切そうに胸に抱き、そっと便箋を取り出し、智之の懐かしい文字を愛おしむように読んだ。自然と涙が流れ、手紙にも涙のしずくがポタポタと落ちた。心の中では、智之の思いを信じていたが、今こうして本人の手紙で確かめることができ、安堵し、結婚直前の心の奥の不安を消すことができた。美鶴子は、後で敬子のところにそっと行き、
「敬子おばさん、ありがとう」
と耳元でささやいた。敬子は美鶴子が却って取り乱しはしないかと、内心不安だったが、表情を見て安堵し、胸を撫でおろした。
*美鶴子結婚*
結婚式は海岸通り近くのオリエンタル ホテルで滞りなく行われた。オリエンタルホテルは1870年旧居留地に開業された当時日本最古級のホテルで、すばらしい食事を提供するホテルとして知られ、とりわけ神戸ビーフの名声を世界に広めた施設の一つである。阪神間の名士の結婚式に必ずといって良い程利用されているホテルの一つでもある。
美鶴子は、智之の手紙を読んだことで、何があろうと二人の絆は変わらないことに確信を持つことができ、不安も消え親に心配をかけぬよう正面をしっかりと見つめ、美しい花嫁姿を披露した。招待客は、阪神間の名だたる名士が出席され、両親は、美鶴子の晴れ姿に誇らしげであった。美佐子は自分の人生と重なり合わせ、わが娘の花嫁姿に感慨深げだった。披露宴は順調に進んでいたが、サプライズが起きた。司会者が紹介を始める。
「これから新郎の京洛大学のグリークラブの歌をお聞き下さい。曲目は新郎卓也さんから新婦美鶴子さんへのプレゼント曲で新婦の大好きなサウンド オブ ミュージクでおなじみのエーデルワイスです」
美鶴子は何だろうと思って聞いていたがエーデルワイスと聞いて目頭が熱くなった。一生懸命おさえていた智之の姿が目に浮かび涙が出そうになるのを必死でこらえた。卓也に一番好きな歌を聞かれたときにエーデルワイスと答えていたことを美鶴子はすっかり忘れていた。
美鶴子の涙ぐむ姿を見て司会者が
「新婦の涙、本当に美しいですね。新郎からのサプライズのプレゼントいかがでしたか?」
司会者にうながされ新婦はただうなずくばかりであった。
会場の人たちは、新郎に対する感謝の気持ちと受け止め割れるような拍手が起こった。
敬子は諏訪山の出来事を聞いていたので、美鶴子の胸中を察しそっと涙を拭いた。美鶴子はなんとか涙を押しとどめ元の表情に戻った。新郎新婦はこの日は、ホテルに泊まり、明朝ハワイに向かった。
*結婚5年後*
結婚して早五年経過した。住まいは西宮の閑静な住宅街の中の一軒屋で、100坪くらいの敷地に、二階建ての瀟洒な住まいで幸せそうな毎日を送っている。結婚翌年に生まれた娘悦子は、美鶴子の小さい時を彷彿とさせる可愛い娘に成長していた。美鶴子は、結婚以来何事も前向きに、甲斐甲斐しく夫卓也に尽くしていた。夫が出かけるときは玄関まで見送り、帰宅するまで食事も待ち、夫と一緒に食事をとった。夫卓也もそういう美鶴子の献身ぶりに満足していた。
しかし、昨年あたりから夫の外泊が次第に増えてきた。週に1回だったのが2回になり、最近では週の半分位が外泊になってきていた。それでも美鶴子は夫を疑うこともなく、ただひたすら待ち続けていた。
今週の土曜日、久しぶりに夫が午後十時を回った時間に帰ってきた。
「お帰りなさい、食事は済まれました?」
美鶴子は外泊の理由を尋ねることもなく夫に尋ねた。夫は少し酔っていた。
「奥様、俺が外泊しても何も聞かないのですか?」
「男の世界は戦場のように大変なんでしょう。女の私は立ち入らないほうが良いと思って」
「ウソをつけ。お前は俺が何をしようと関心ないのだろう」
「急にどうしたのですか。私は貴方を信頼していますから」
「技術が発達したら、人間ロボトができるに違いない。お前はその時、奥様ロボットのモデルになれるぞ。夫が浮気をしようと、何をしようと一切文句を言わず、妻の務めを只々行う。今のお前はまるで人間ロボットみたいだ」
「今日は大分お酔いになってますね」
「ごまかすな」
美鶴子は、夫にそういわれ、私はロボットかもしれないが心があるロボットだと心の中で反論した。夫が浮気で外泊しようが、かえって家にいないときの方が、正直、美鶴子は心が休まるのだった。しかし、その分夫には申し訳ないという思いもあったが、文句も言わずに夫に尽くしているのに、こんな風に言われ、情けないと嘆いた。
「何を黙っている。何とか言ったらどうなんや。俺が何にも知らんと思ってるのか。結婚前に、結婚を約束した男がいたんだろう。そんなこと調べたらすぐにわかるんだ。お前はな、剣道で言うとスキを全く見せず、俺に何も打たせないんだ。人間の匂いがしないロボットと同じだ。そんな女と一緒に暮らすのはもうごめんだ」
卓也は言うと同時に、剣道で鍛えた太い右腕で、美鶴子の顔を殴りつけ、そのまま酔った勢いでソファーの上に倒れこみ寝てしまった。美鶴子は殴られた勢いで、床の上に倒れこんだ。しばらく起きあがれなかったが、あまりの痛みになんとか立ち上がり、洗面所にゆき、タオルで目を冷やした。寝室に戻り横になったが痛みのため、朝まで眠れなかった。朝、気付くと夫はもう家を出ていた。美鶴子は、悦子の世話も出来ないと思い、実家の母に電話し、直ぐに来てもらう様に頼んだ。美佐子は、朝早くの突然の電話に驚き、車を飛ばしてすぐに駆けつけた。美鶴子の顔をみて、美佐子は驚いた。
「これは、どうしたの」
美鶴子は、心配かけないように、
「つまずいて、角にぶつけたの」
美佐子は顔の状態をみて、転んでぶつけた程度のあざではないと直感し、これは治療が長引くと思い、夫に状況を電話で話して、美鶴子を実家に連れて帰り病院に連れて行こうとした。いったん自宅に戻り、大倉山にある大学付属病院に連れて行った。診察の結果、眼底打撲と出血、目の周囲の骨の骨膜の欠損ということだった。血を戻す薬などをもらい、しばらく通院することになった。家に戻ってから、卓也の母親に美鶴子の目の治療と孫の世話をするため、しばらく美鶴子を預かりますと伝えた。そうなった理由は、あえて言わなかった。美鶴子が正直に言わないためだった。
翌日、卓也の母が美鶴子の様子を確かめるため、見舞いがてら訪ねてきた。美鶴子は姑にも転んで角にぶつかっただけと説明したが、姑も、これは殴られたものと直ぐに察した。
「卓也は知ってるの」
「心配かけるので報告していません」
姑は、電話を借りて息子卓也に美鶴子の状況を話し、今日は実家に帰ってきなさいと伝えた。そして、美佐子に
「美鶴子さんは、気をつかってつまずいただけと言ってますが、卓也が詳しい事情を知っているはずですので、今夜確かめます。本来は、美鶴子さんと悦子の面倒はこちらでみるべきですが、美鶴子さんもお母さまの傍の方が落ち着いて治療に専念できるでしょうに。あつかましいですがよろしくお願い致します。それから治療にかかった費用は、こちらで持ちますのであとで教えてくださいませ」
美佐子も卓也の母親も、美鶴子と卓也の関係は問題なく順調にいっているものと思っていたので、どちらも晴天の霹靂で何か大きな不安が胸をよぎった。美佐子は美鶴子が眠っている間、孫の悦子の相手をした。
「悦ちゃん。パパとママ仲良くしてる?」
「パパはね、時々帰ってくるけど、すぐにまた出ていくの」
「時々しか帰らないの?。昨日パパは帰っていたの?」
「悦ちゃん寝てたから、わからないけどパパの大きな声で目が覚めたの。そしたら何かドスンと大きな音がしたの、悦ちゃんこわくて布団かぶってまた寝ちゃったの」
美佐子は不安が的中し驚愕した。あれだけ仲良くしていて安心していたのに何があったのだろう。その晩、帰ってきた夫一郎に今日一日の経緯を説明し、どうしたらいいのか相談した。一郎は一度卓也さんに会って話を聞いてみると言って寝ている美鶴子の顔を見に行った。
「これはあまりにもひどい」
冷静な一郎も、卓也に怒りの気持ちがわいてきた。一方、卓也の両親の哲也と綾子は、その夜、息子卓也を家に呼び出していた。
「卓也、美鶴子さんと何があったんだね。美鶴子さんは、つまずいて顔を打っただけと言っていたが、お前に殴られたとしか思えない様なひどい痕だったよ」
「あの晩は、酔っぱらっていて、よく覚えてないんだ、何となく殴ったような気がする」
「朝起きて、美鶴子さんの顔を見て何も気づかなかったの」
「朝早く、出たからわからなかった」
「万一、失明でもしたらどうするつもり」
卓也は、しばらく沈黙を続けていたが、やがて、おもむろに
「お父さん、お母さん。美鶴子の顔をなぐったのは僕の行き過ぎで悪かった。しかし、僕はもう限界なんだ。美鶴子は申し分ないくらい尽くしてくれてはいるけど、自分には、それが息苦しいんだ。これを機会に別れたい」
卓也の両親は、卓也の思わぬ言葉に驚いた。卓也は、完璧なまでに自分に尽くす妻に、満足していたが、ある時、結婚後卓也のいとこの女性が美鶴子さんの名前知っていると言っていたことを、ふと思い出した。その時は聞き流していて、それ以上何も聞かなかったが、後で、いとこに会って詳しいことを聞いた。いとこが言うには
「同じ会社の三枝さんという若い人に、毎日のように昼休みに電話してくる人がいたの。それが、ある時から急に、三枝さんがその人からの電話を取り次がないように言ってきたの。それでも、何回も何回もかかってきたけど、しばらくしてから急に、ピタっと電話が、かからなくなったの。三枝さんは、女子社員に人気があって、結婚を約束している人がいるらしいという噂があったんだけど。受付けの人に聞いたんだけど、その人が美鶴子さんだと思うわ」
哲也は
「結婚前に好きな人がいるなんて、だれでもある事じゃないか」
「そうよ、私だってお父さんと結婚する前は好きな人ぐらいいたわよ。貴方は、考えすぎよ」
「そのくらい分かってるよ。最初は僕もそう思ってたよ。だけど、そんなのが何年も続く?悦子がうまれてからも、全然変わらないんだ。僕から見たら異常で息苦しいんだ。前の彼を忘れるために、良き妻を一生懸命演じて僕に押し付けているんだ。そう思ったら、もう我慢できなくて。僕が外泊しても何も文句を言わない。1回ぐらいなら許そうと思ってるのかと思ってたら、そのうち何回も外泊を続け、今では殆ど家に帰らなくて、たまに帰っても一言も文句を言わず、いつもどおりのいい奥さんを演じているんだ」
「卓也はいとこの話を聞いて、妄想で自分勝手な脚本を描いているんじゃないのか」
「そうよ。こんな時は冷静になって美鶴子さんと話し合いなさい」
「もう遅いよ。もう好きな人がいるんだ。そこだと心から落ち着くんだ」
両親はびっくりした。
「お前、ずっと外泊を続けているって、女のところに泊まっているのか」
「そうだよ」
両親は絶句した。
卓也は、その日の内に家を出て行った。
「自分勝手な妄想で人生を破滅させる人を多く見てきたが、まさか自分の息子が」
「美鶴子さんは月に一度は孫を見せにきてくれて親孝行していてくれていたのにね」
卓也の両親は、一日で天国から地獄に落ちたように打ちひしがれた。
*離婚*
美鶴子の父から連絡があり、卓也さんもいれて話を聞きたいと申し出があったが、哲也は私からも話がしたいと逆に申し入れた。ただ、卓也を外して話がしたいと。
その後、美鶴子の両親、卓也の両親が話し合い、卓也から聞いた話を伝えた。美鶴子の両親もその話を聞き、結婚前のいきさつを正直に説明し、美鶴子にも問題があるかもしれないと話した。ただ美鶴子と智之が兄妹関係にあることだけは伏せた。美鶴子の両親は、美鶴子が心の奥ではこの結婚を苦しんでいて、両親を安心させるためにあえて良妻に徹しようと無理を重ねていた胸の内を察した。両家は二人の今後のために、離婚することを決めた。ただし、美鶴子は慰謝料を求めない代わりに、悦子の養育権を得、不動産は売却し、両家で折半することになった。美鶴子はこの結果を聞き、安堵しながらも、自分の至らなさを心の中で卓也に詫びた。結婚後の今までをふり返り、その日一日涙で過ごした。この話を聞いた敬子は、結果的に美鶴子を追い詰め、卓也さんも苦しめたことを悔んだ。しかし、心の奥では、これは神のお導きかもしれないと受け止める自分がいた。
*諏訪山公園で*
離婚して3年が経っていた。悦子も7歳になり、山手小学校の一年生になっている。
季節は三月下旬の、うららかな春休みのある日、美鶴子と悦子は、お弁当を持って、お花見を兼ね、諏訪山公園に登った。美鶴子の左目は失明こそ逃れたが、視力が低下したままだったが、注意してゆっくり歩けば、一人で歩けるようになっていた。坂道を登りながら、智之と初めて知り合ったのは、丁度悦子の年頃だったのだなと感慨深げだった。智之とは、もう八年も会っていないのに、この公園で会ったのが、昨日のように思われた。二人は動物園跡の公園に行った。美鶴子はベンチに座り悦子が公園を走り回るのを見ていた。公園には、何組かの同じような家族が、やはりお弁当持ちで訪れていた。美鶴子は、お弁当を食べながら、
「ここは昔、動物園があったのよ」
「こんなところに動物園があったの」
悦子は、今の王子動物園に比べるとあまりにも狭いので目を丸くして驚いた。
この動物園が、今の王子動物園に引っ越しするとき、象が歩いて移動したことが当時話題になっていた。
「学校の写生大会も毎年ここであったのよ」
「悦子もここで書いたわ」
と親子の会話が弾んだ。
お弁当の後、悦子は、家から持ってきた紙飛行機を飛ばして、きゃあきゃあ言いながら遊んでいる。美鶴子は、目を細めて眺めていた。すると、急に一陣の風が舞い、飛行機が思わぬ方向に飛んで近くのベンチに座って本を読んでいる男の人の顔に飛行機が当たってしまった。悦子は、びっくりしてその男の人の所に飛んで行った。
「おじさん、ごめんなさい」
悦子は、すまなさそうに謝まった。男は足元に落ちた飛行機をとりあげ、返そうとして
悦子の顔を見て驚いた。
「お嬢ちゃん、お名前は」
「悦子です」
「どこの学校?」
「山手小学校」
「おじちゃんと同じだね。僕の後輩だ。これあげる」
男は、ポケットからキャラメル箱を取り出し、箱のまま悦子にあげた。
「おじさん、ありがとう」
悦子は喜んで、美鶴子のところに駆け戻り、キャラメルを見せた。
「あのおじさんに、もらったの。あの人も山手小学校だったんだって」
「ちゃんと、謝りましたか」
「ちゃんと謝ったよ」
「ママもお礼言ってくるわ」
公園は凸凹が多いので、悦子は美鶴子の手を引いて、男のところに案内した。それを見ていた男は、彼女が目が悪そうなことにも気付いた。
一方美鶴子は、足元に気をつけながらゆっくりと歩いて来た。
「先程は、娘の紙飛行機が貴方様に当たり、申し訳ありません。お怪我はなかったでしょうか。その上、キャラメルまで頂いて、ありがとうございます」
「何でもないですよ。それより可愛いお嬢さんですね。貴女の小学生の頃にそっくり」
美鶴子はその声に、ハット息を飲んだ。言葉を発しようとしたが、それよりも早く涙が止めどもなく流れ出てきた。男も、こらえきれず涙があふれだした。
「と・も・ゆ・き・さん?」
美鶴子は、たしかめる様に尋ねた。
「美鶴子」
「智之さん」
智之は美鶴子の手を引き寄せ思い切り抱きしめた。
一陣のつむじ風が吹き、桜の花びらが二人の周りを囲むように舞った。悦子は不思議そうに二人を眺めていたが、何を感じたのか、悦子の目にも涙があふれてきた。
*結婚*
再会後も二人は近所に別居のまま過ごしていた。美鶴子の両親と智之の母と姉は一同に揃い、今更別居しているのは不自然だし、悦子も智之を本当の父のように慕っているので、周りに気兼ねせず結婚して同居することを勧めた。二人は顔を見合わせ、喜んで素直に受け入れた。智之は美鶴子と相談し、美鶴子に余計な十字架を背負わさないため、結婚しても籍には入れないことを提案した。美鶴子も籍には、少しもこだわらないので、お任せしますと受け入れた。
二人は、遠回りしたが、周りに祝福されて結婚できたことに感無量であった。
二人の結婚を一番喜んだのは、叔母の敬子だった。この朗報を聞いた日、敬子は独り教会に行き、神の恩寵に感謝の祈りを捧げた。
*アユタヤへ新婚旅行*
智之と美鶴子は結婚式の一週間後、悦子の学校がある為、悦子を両親に預け、智之が以前タイの駐在所長をしていたバンコクに新婚旅行に向かった。バンコクで一泊した翌日、早速アユタヤへ向かった。智之は、美鶴子をアユタヤで一番お気に入りのワット・プラ・シーサンペット寺院遺跡を案内した。夜にはライトアップが行われ、幻想的な景色に魅了された多くの観光客が訪れるので有名な処だ。
アユタヤ観光を終えた夕食後、二人はロビーの椅子に座ってくつろいでいた。窓越しに景色を見ていた美鶴子は大きな声で智之を呼んだ。
「智之さん見て見て。夕日がとっても綺麗」
二人の再会後、美鶴の目は不思議なくらい回復していった。殆ど問題なく見える様になっていた。
「日本で見る夕日と又違う美しさだな。池の周りを散歩してみようか」
「私、たそがれ時に散歩するの大好き。行きましょう」
二人は寺院の近くの池のほとりを、景色を味わう様に散策した。池をほぼ一周した辺りに来ると、美鶴子が急に立ち止まり、智之の方を振り向いた。
「智之さん。この景色前に見たような気がする」
「僕もだ。二人揃って同じように感じるなんて不思議だな」
二人共何かジーンときて目頭が熱くなってきた。
日も暮れだしたので、ともかく二人はホテルに戻った。カウンターで預けていたルームキーを受け取り、エレヴェータに向かっていると、ロビーの壁ぎわの小さな部屋に占い館の様な小部屋が見えた。すると中から若い女が声をかけてきた。
「お二人さん。日本から来られたんでしょう」
「そうです。日本語上手ですね」
「若いとき、日本の大学に留学していたからね」
女は、そう言いながら美鶴子をジーと見つめた。美鶴子はあまりに長く見つめられたので戸惑った。すると女は急に涙を流し跪いた。
「ワンビサ姫。お懐かしゅうございます」
「エー。何のこと」
美鶴子は、キョトンとしながら首をかしげた。
「驚かせてごめんなさい。私にはお二人の前世の姿が見えたのです。私は、貴女のお母様であられる王妃の女官をしていましたマリカーと申します。ご主人もよく存じています。アコム様」
それを聞いた美鶴子は、ハットした。修法が原の池で溺れたとき、美鶴子が溺れる直前にアコムと叫んでいたと言われていたことを思い出したのだ。
「智之さんがアコム?えー。あの時助けてくれたの、ヒョットして智之さん」
智之は隠していたことが、とうとうわかり困ってしまった。ここはもう正直に言うしかないと観念した。
「ごめんよ。つい言い出せなくて」
女は、間髪入れず言葉を繋いだ。
「今貴女の胸にその時の映像が映ってますよ。あの時、貴女の魂が近くにいたご主人の魂に気づいて、池に来ない様に告げようとされたのです」
「アコムと叫んだこと、貴女はご存じなのですか?。どうして私が智之さんを止めようとしたの」
「それは、姫様、貴女の前世の深い後悔を思い出したからです」
「私の深い後悔」
智之も二人の会話を不思議そうに、しかし真剣に聞いていた。
「ともかく、こちらにおいで下さい」
二人は、その女性の占いの館の様なうす暗い小部屋に案内された。
「どうぞお座り下さい」
その女性は、二人の顔を見つめ、ハラハラと涙を流した。
「ごめんなさい。当時を思い出すと、どうしても涙がこみあげるのです。お二人は前世の存在を信じられます?」
二人は顔を見合わせ、少し首をかしげた。智之が口を開いた。
「有るような、無いような、半分半分というのが正直なところですね」
「私も同じです」
二人は顔を見合わせ同じ考えであることを確かめるように頷いた。
女性は画用紙位の広さの平たい水槽をテーブルの上に置き、真言の様な言葉で呪文をあげた。しばらく目を閉じたままであったが、目を開けると二人に視線を向けた。
「この水面を見ていてください」
部屋の灯りが急に薄暗くなり、水槽の表面だけがうっすらと明るく見えるようになった。
すると机の上に置かれたときに生じた水面の小さなさざ波が、サーと静まった。二人の意識は水槽に集中した。なんとそこに、まるで映画のような映像が現れてきた。
二人はそれが前世の情景であると直感した。
アユタヤ時代の記憶が二人の頭の中を駆け巡ると映像の世界に魂が吸い込まれていった。
*15世紀タイのアユタヤ王朝の時代*、
「ワンビサ姫。王妃様がお呼びです」
「私?今頃何だろう」
部屋で椅子に座ってウツラウツラしながら本を読んでいたワンビサは、読みかけの開いたところを下にして机の上に置くと王妃の部屋に向かった。
「お母様。ワンビサです」
「ワンビサ。そなたも今年15歳。今年から貴女に専属の護衛官を付けます。これから宮殿の外に出るときは、必ずお供に付けるのよ」
「わかりました。お母様」
ワンビサは、自分も姉たちの様に専属の護衛官がつくことで一人前になった様な気分になった。内心、心が弾む様に嬉しかったが、それを悟られない様に、はやる気持ちを押し殺していた。しかし、王妃は、この末っ子の姫の気持ちが手に取るようにわかり、その様子を見ていると可愛くて仕方なかった。
「アコムをこちらへ」
女官が若い兵士を王妃の前に案内した。
「アコム参りました」
「紹介する。今日からそなたの護衛を担当するアコムだよ。彼はまだ若いが、父親譲りの弓矢の名人だよ」
ワンビサは、アコムに会った瞬間、その若きハンサムな兵士にときめきを感じたのか、ポーとして突っ立った。
「ワンビサ。何をポーとしてるんだい。言葉をかけて」
ワンビサはハッと我に返った。
「ワンビサである。これからよろしく頼む」
ワンビサは、緊張のせいか、ありきたりの堅い挨拶しかできなかった。
「これからは、宮殿から外に出るときは、女官にアコムを呼び出してもらい、それから出かける様にするんだよ」
「はい、わかりましたお母様」
その日は、陽も暮れかけていたので、アコムは、初対面の挨拶を終えると退室した。
アコムは前日父から伝えられた。
「アコム。今日王様からお話があり、そなたを王女ワンビサ姫の護衛官に任ずる旨のお話を頂いた。これは武官の家柄の中でも大変名誉なことだ。王女の護衛となれば、私情を捨て、只護衛の役に徹するのだぞ。ただ、一番注意すべきことは、王女様のお体には何が有っても一切触れてはならないことだ。以前、溺れた王族の女性を救いたくとも救われず王族の女性が亡くなられたことがある。いざ何かが起これば、そのことを忘れず、お体に触れないでお助けするように心がけておくように」
「ハイ。父上わかりました」
アコムは名誉な仕事を与えられたことに気持ちが高ぶった。ただ、ワンビサ姫は純粋で美しい姫だが、お転婆なところもあると周囲から聞かされていたのでどんな方だろうと心の中ではお会いするのを楽しみにしていた。
次の日、姫はアコムを目の前にすると、身分の違いなど、頭の中から飛んでしまった様に見とれるばかりであった。アコムも純真で可愛らしい姫に、仄かな思いを感じたが、彼は父の言葉を思い出し、身分の違いをわきまえて、そういう気持ちを持たない様に心した。姫は、アコムと二人だけになりたくて、いつも宮殿から出て、アコムを従え庭園を散策するのを楽しみにするようになった。アコムも姫と二人だけの時間を楽しみにしていたが、その思いを表に出すことは抑えていた。役目柄、アコムは姫の問いかけに答えるだけなので、それ以上の言葉を交わすことはできなかった。姫は、母の王妃にアコムの応対に不満を訴えたが、警護のお役目に忠実なのだからと諭した。それでも、姫はアコムと何とか自然な語らいの時間を持ちたかった。ある日、アコムが姫のお伴に呼ばれ、宮殿に向かっていると、アコムを待ちかねたのか、姫の方からアコムの方に女官と一緒に歩んできた。それを見ていたアコムは、急に持っていた弓に矢をつがえ、ワンビサ姫の方向に矢を射た。それを見た女官は驚いて姫の前に立ちはだかり
「アコム。何をする」
姫は何が起こったのかと動転した。その瞬間、ブオーという轟音と共に、アコムが射た矢が近くの木の枝をかすってから宮殿の壁にぶつかり姫たちの足元に落ちてきた。その矢の先にはなんと毒蛇が突き刺さっていたのだ。アコムが飛んできて姫の前に跪いた。
「姫様、驚かして申し訳ございません。木の枝の先から蛇が姫に飛びかかろうとしているのが見えたので、矢を射たのです。もう、ご心配はありません」
「そうであったのか。アコム、見事である。姫様、危ないところをアコムが見事に助けてくれました」
女官が姫にアコムの手柄を告げた。
ワンビサは、恐怖から安堵、それに感激の思いが同時にわいた。
「アコム、よくやった。そなたのお陰で命拾いをした。礼を言うぞ。それにしても、王妃から弓矢の名人と聞いていたが、こんなにも早く、そなたの腕前を見れるなんて」
「当然の事をしたまでのことです」
アコムは平然としていた。この微動だにもしない冷静さをみて、ワンビサは、ますますアコムに頼もしさを感じ、彼を慕う気持ちが強くなってきた。
こんな冷静なアコムでも意外なことが起こった。或る日、アコムを従わせて庭園を散歩していると、姫が急に石につまずいて転んでしまった。少し離れて歩いていたアコムは、間に合わず姫を支えられなかったのだ。アコムが心配のあまり飛んできて、姫の耳元で
「お怪我はありませんか」と尋ねた。
思わぬことで、姫は近くでアコムの声を聴けたので、何か急な思わぬことがあると、アコムが近くまで、来てくれるんだと思うと、また、アコムと近くで話が出来る様に、姫は何か方法は無いかと考えた。
ある日、姫が女官たちと一緒に池に船を浮かべて遊んでいるとき、アコムは池の周りから船を監視していた。アコムは水回りの遊びなので、父の話を思い出し緊張していた。
姫は、船上からアコムに手を振った。アコムも、つい手を振りそうになったが、目礼で押し留めた。
その直後、姫は船で急に立ち上がった。その途端、船がバランスを失い、揺れ始めたので女官があわてて姫を座らせようとしたが、船は更にバランスを崩し、ドボーンと姫は池に落ちてしまった。船の周りは大騒ぎになった。それを見ていたアコムは、咄嗟に池に飛び込んだ。彼は、いかなる場合でも、姫の体に触れることは、死に値する罪であることが、一瞬頭をよぎったが、この場合お体に触れずしてお助けすることは出来ないと一瞬の内に判断し、死を覚悟して救出に向かった。アコムの咄嗟の機転で姫は、溺れかけていたのを、アコムに抱えられ無事救出された。
姫は無事に宮殿に運ばれ、自分の部屋で手当てを受けた。しかし、宮殿に戻った姫のもとに女官があわてて飛んで来た。女官からアコムが王宮親衛隊に連行されたことを聞き、事の重大さにハット気づいた姫は、みるまに顔から血の気が引いていった。我に返った姫は、王妃の元に急いで参上し、自分が原因となった事件の顛末を詳しく話し、アコムを救って頂くように涙ながらに訴えた。王妃も、事故の詳しい状況を確認すると、早速王の元に参上し、アコムの助命を嘆願した。
「王様。今回の事件の詳細を確かめましたが、アコムは他に救う方法が無く、死を覚悟してワンビサを救ってくれたのです。親衛隊がアコムを捕まえに行った時も神妙に従ったと聞いています。何卒ご寛大な処置をおねがいします。」
「王妃よ。これは難問だな。少し時間をくれ」
王は、そういったまま黙ってしまった。
「王様を信じてお待ちしています」
王妃はそう言って自分の部屋に下がった。
部屋ではワンビサがうなだれて待っていた。
「お母様。お父様のご返事は」
「少し待てとだけ。明日もう一度お願いしてみる」
「今回のことはワンビサがいけなかったの。アコムに罪はないの。何とかお助けして」
「王様もわかって頂いている。只、規則を曲げることには特別慎重な方だから」
ワンビサは御仏堂に入り徹夜で御仏にアコムの助命を祈願した。
翌日、王妃は王様の熟考する時間も見計らって、昼前に王様の部屋を訪ねた。
王は、もう悩んでいる様子でもなく椅子に堂々と構えていた。
「王様、今日はご機嫌麗しい様で」
「昨日はあれから重臣たちの意見も聞いて、すっきりと考えが整理できてぐっすりと眠れたぞ」
その言葉を聞いた王妃は、何か嫌な予感がした。
「いかがなされますか」
「アコムを処刑する」
「そ、それはどうして」
「重臣たちの考えも私と同じだった。一度、どんな理由であれ一度崩すと法の重さを失ってしまう。厳しく言えば、アコムはこうなることを予知して、自らも護衛の船を用意してこのような事故を事前に防ぐべきだったのだ」
「アコムは、姫の舟遊びを直前までしらなかったのです」
「アコムの言い分は何とでもあろう」
王妃はこれ以上王様を説得するのは無理と察した。心配なのはワンビサがどれだけ苦しむことか、それだけが気がかりだった。
「王妃よ。わかっておくれ。わしも姫の気持ちを思うとつらいのだ。但し、アコムには特別に三階級位を昇進させ、家族には相当の褒美をとらす」
「王様のお情けありがとうございます」
王妃は、心では納得できなかったが、王の配慮に対しては形だけの礼を述べた。
王妃は、頭をうなだれて戻ってきた。部屋から王妃が戻る様子を見た姫は、うまくいかなかったこと事を察して、床に伏せて狂った様に泣きじゃくった。
翌日、アコムの処刑日が十日後と決まった。報告を受けた姫は、ショックのあまりその場に倒れ込み、その後も食事を取ることすらできなくなった。
王妃は、王様にワンビサの状態を告げ、何とかもう一度再考を願い出た
「王様。ワンビサが倒れこみ、食事もここ数日絶っています。このままではワンビサまでもが」
王妃は泣いて訴えた
「私も苦しいんだ。分かってくれ。下がれ」
王妃はただうつむいて退室した。
ワンビサは王妃や周囲の女官の手厚い看病で何とか歩ける状態まで回復していた。
処刑の前日、王妃の計らいで、姫はアコムが捕えられている牢を訪れた。警護の兵はその場を外し、姫は牢内に入りアコムと対面した。
姫はアコムに近づき、そして、跪いた。そしてアコムの手を取り涙ながらに語りかけた。
「アコム、そなたのお陰で、私の命は、二度も救われた。それなのに、私のわがままな戯れが、そなたにむごい結果を与えてしまった。許しておくれ」
「どんな刑罰を受けようと、姫様が救われたことで、私は何の悔いもありません」
アコムは笑顔で答えた。その笑顔に、姫は胸が詰まった。姫は自らアコムに身を寄せ、彼を胸に抱きしめた。姫の涙がアコムの頬に伝わる。
「アコム、来世は身分の上下が無い国で又会おうぞ。その時は、私を妻に娶っておくれ」アコムは、姫の言葉に感動で胸を震わせた。
「もったいないお言葉。来世も、きっと姫様を御守りすることを誓います」
アコムの目にも涙があふれていた。
二人は、お付きの女官が、退出の時を知らせるまで、涙を流しながら抱き合っていた。
アコム処刑の1か月後、姫は、王妃の許しを得て、仏門に入り、メーチー〈女性仏道修行者〉になった。王妃は姫の想いを考えると、止めることはかなわないと察し、あえて止めなかった。姫は、アコムの両親に、王妃を通じて、生活の支援を一生続けた。
*前世の願いの実現*
智之と美鶴子は、我に返った。二人は涙を流しながら見つめあい抱き合った。
「貴方がアコムだったのね。今世もまた、助けて頂くなんて」
「又、姫にお会いできて幸せです」
占い館の女性は、涙を流しながら二人に語った。
「思い出の地に帰って来られるように、天の計らいがあったのですよ。ご主人。これから貴方がするべきことわかるね」
「ハイ。わかります。日本に帰ったら、堂々と入籍して本当の夫婦になります」
「智之さん。ありがとう私の魂の願いがかなえられるのね。」
二人は、女性に深々とお礼をして、仲良く部屋に戻って行った。
終わり
本小説は、下記を参考にさせて頂きました。
「祈りの道」 三宝出版 高橋佳子著
「あなたが生まれきた理由」 三宝出版 高橋佳子著
「あなたがそこで生きる理由」 三宝出版 高橋佳子著
ブッダの生涯(原始仏典1) 講談社 編集委員 梶山雄一、桜部 建、早島鏡正、藤田宏達
ブッダの前世(原始仏典2) 講談社 編集委員 梶山雄一、桜部 建、早島鏡正、藤田宏達