勇者、子持ちになる・2
監獄塔から出たアルフレッドは、ジムサと別れ、アリスと共に十三番区画を目指した。太陽はすでに地平線の向こうに隠れ、代わりに青白く光る月と、街路に設置された蓄光石が、帝都を幻想的に照らしている。
「ほわぁ~キレーだね」
「今の皇帝が設置したんだ。夜でも安心して歩けるようにってな」
そのため、現皇帝オーラフリート二世は光帝と呼称されることが多い。
「そうだ、アリス。これを」
アルフレッドは、アリスにカーチフという正方形の大きな布を渡した。
「これで、頭の角を隠しときな」
「なんで?」
「その……人間は身体が弱いからな。角が当たったら、当たった人は痛い思いするだろ? そうならないためにだ」
「おーそうかも!」
アリスは素直に応じて、頭にカーチフを巻く。
もちろん、角が誰かに当たったら等と言ったのは、嘘だ。十三番区画以外で人間族以外の種族が居れば、罪には問われないが奇異の目で見られる。そんな人間の醜さを、アルフレッドはアリスに知ってほしくなかった。だからこその処置だ。
そして歩き始めて数分してから、アルフレッドは早くもアリステイルの世話を引き受けたことを後悔し始めていた。
「あ! ねぇねぇ! あれってなに?」
「あれは、酒場だ」
「さかばって?」
「酒を飲むところだ」
「さけって?」
「酒は……酒だ」
酒をどう説明しようか考えるアルフレッドであったが、上手く伝わる説明が思いつかず、まるで説明になっていない説明を口にしてしまった。
「じゃああれは?」
「あれは、武具店だ」
「ぶぐてん?」
「剣とかを売っている店だ」
「さっきジムサおじさんがくれたのみたいな?」
「まあ、そうだな」
アルフレッドは自分の腰に下げられた一振りの剣を、嘆息しつつ見る。大量生産品の、お世辞にも出来が良いとはいえない粗悪品だ。これはジムサから復職祝いにと渡された品だが、魔王を倒した勇者が持つにはいささか不釣り合いに過ぎる。もっとも、帝国上層部はアルフレッドの事を疎んでいるのだから、ある意味では相応しい品と言える。
(これほど直接的に悪意をぶつけてくるのは、解り易くて逆に好感が持てるがな)
苦笑しつつ、アルフレッドは顔も知らない帝国上層部の面々に舌を出した。
「ねぇねぇ。あれは?」
「あれは菓子屋だ」
「おかし! あたしおかしスキ!」
監獄塔を出てから、常にこの調子である。幽閉され続けてまともに人間の街を見たことが無いからか、数歩歩く毎に「あれはなに?」攻撃を繰り出してくる。
「ねぇねぇ」
「今度は何だ……」
「おじさんはなんであたしといっしょにすむの?」
「なんでって……」
任務だから。その一言で終わるのだが、アリスが聞きたいのはそういうことではないだろう。
「いっしょにいるのは、かぞくなんだよ?」
アリスの価値観では、一緒に暮らす=家族という図式のようだ。現実には家族以外でも一緒に住むこと
はあるが、幼いアリスはそこまで知らないらしい。
「でもアルはおとうさんじゃないし、おねーちゃんでもないから……よくわかんない」
アリスは不思議そうにアルを見つめる。
つまり、アリスは自分とアルとの関係性を知りたいらしい。
「そう、だな……保護者、という所か」
「ほごしゃ?」
知らない単語なのか、アリスは首を傾げる。
「ああ。簡単に言えば、お父さんの代わりだ。今、アリスのお父さんはいないだろ? だから、その代わりだ」
「かわりか~」
アリスは何度かその言葉を口の中で呟くが、あまり納得していないようだ。無理も無い。急に父親の代わりと言われても、戸惑うのは当然だ。
しかしその戸惑いも、長くは続かなかった。
「あー! おウマさんだー!」
アリスは眼を輝かせて、わき目もふらずに馬に駆け寄っていく。
「急に走るな!」
アルフレッドは慌ててアリスの服の襟を掴む。
「にゃ⁉」
そしてアリステイルの目の前を、馬車が凄い勢いで走り抜けていく。
「ちゃんと周りを見ろ……」
心臓が止まるかと思う程の恐怖だった。人が傷つくのは戦場で嫌というほど見たはずなのに、今の恐怖心はそれとは別種の物だった。子供が怪我をするかもしれない恐怖を、アルフレッドは初めて味わった。
「危ないだろ」
ポカリと、アルフレッドはアリスの頭に拳骨を落とす。アルフレッドとしては、本当に軽く叩いたつもりだった。しかし、アリスにとっては……
「ふぇ……」
じわ~っと眼に涙が溜まっていき、声もしゃくりあがっていく。
「アリス。お前は今、本当に危ない所だったんだぞ?」
だが、ここはアルフレッドとしても譲れなかった。例え泣かれようが喚かれようが、今後危険な行動をしないように教育しなければならない。
「もし馬に踏まれていたら、こんな痛さじゃなかったんだからな?」
「もっと、いたいの?」
「そうだ。だから、気をつけろ」
「うん……ごめんなさい……」
しょんぼりとしながら、アリスは言った。
「俺も、叩いて悪かったな」
叩いた場所を、軽く撫でる。
「えへへ~」
すると、先ほどまで半泣きだった顔が、にっこり笑顔に変わった。
「いまのはおとーさんっぽかった!」
「俺が?」
「うん。おとーさんもね、あたしがわるいことしたらこらー! っておこるんだけど、そのあとすっごくやさしくしてくれるの」
人間からは恐れられていた魔王に、そんな一面があったとは。アルフレッドは驚くと共に、妙な親近感を覚えた。
「さあ、ここで乗り合い馬車に乗るぞ」
「のりあいばしゃ?」
「乗合馬車ってのはな、決められた道だけを走る馬車のことだ」
行先を自由に決められ不特定の場所で乗れる辻馬車とは違い、乗り合い馬車は特定の場所からしか出発せず行先も定められている。一見不便なようではあるが、料金が安いというこれ以上ない利点があり、利用する人間は多い。
「おじさんおじさん」
おじさんという単語に、アルフレッドはこめかみを抑える。
「さっきから言おうと思っていたが、おじさんと呼ぶな」
「じゃあなんてゆえばいいの?」
「そう、だな……」
アルフレッドはしばし考える。そもそもアリスとの関係はなんだ? 本当の家族ではない、仮初の家族。父親とは呼ばれたくないし、呼ばれる資格も無い。かと言って、おじさんと呼ばれ続けるのだけはゴメンだ。父親代わりの保護者が、妥当な所か。
「アルと呼べ。皆、俺のことはそう呼ぶ」
「わかった。そんでね、アル」
「ああ、ちょっと待て。まずは馬車に乗ってからだ。もう出発する」
馬車の業者が、「チリンチリン」と手持ちのベルを鳴らしている。もうすぐ出発するという合図だ。アルフレッド御者にお金を渡して、アリスを抱きかかえ馬車に乗り込む。他に乗客は五人乗っていた。
「それで、なんだ?」
「うんとね」
ガタン、と車輪が動き出し、馬車はゆっくりと動き出す。
「おしっこ」
「……はぁ⁉」
もう馬車は走り出している。一度止めてもらえばいいだろうが、アリスのおしっこが終わるまで待っていてもらうのは不可能だろう。
「そういうことは乗る前に言え……」
「ゆおうとしたけど、アルがのってからだって」
確かに言った。間違いなく言った。これ以上アリスを糾弾することはできず、アルフレッドは渋面を作るしかなかった。
「我慢できないか?」
「うー……ムリかも」
アリスは内股で体中をもじもじとさせ、懸命に尿意と戦っていた。アルフレッドにも覚えがある。これは、限界が近いサインだ。
「無理って……なんとか、できないか?」
乗合馬車は、これが最後の便だ。これを降りてしまうと、あとは徒歩か辻馬車を拾って十三番区画に行くしかない。
「でき! ない! かも!」
今度はぴょんぴょん飛び跳ね始める。一刻の猶予も無さそうだ。
乗客の目が、アルフレッドに突き刺さる。「さっさと降りればいいのに」「ここで漏らさないでくれよ」「迷惑だなぁ」様々な不満が、視線となって襲い掛かってくる。
「御者! ここで降りるぞ!」
アルフレッドはアリスを抱きかかえて、乗合馬車から飛び降りた。
「ほら、そこに公衆トイレがあるから、済ませて来い」
「いっしょにきて。ひとりじゃムリ」
「いや、で、できるだろ? 一人で」
そうでなければ、幽閉されていた時はどうしていたというのだ。
「いつものじゃないし、くらいからこわいもん……」
しょぼーんと俯き、モゴモゴと自信無さげに、アリスは言った。たしかにアリスの言う通り、トイレには月の光も届かず、蓄光石も設置されていないので、真っ暗だ。
「だからって……」
アルフレッドはトイレを見る。トイレは板で仕切られており、個室のような作りになっている。アリスについていくことは可能だ。しかし、
(子供とはいえ、女の小便の手伝いなんぞできるものかっ!)
アルフレッドは頭を抱えて悩む。
「うっ! うっ! うーーっ!」
しかし、アリスに残された時間はもう少ないようだ。一刻の猶予も無いと見て、間違いないだろう。
「どうかしましたか?」
背後から、女の声が響いた。
「いや、その。連れがトイレに行きたいと言ってるんだが……」
「ああ、女の子のトイレだから、勝手が解らないと?」
「恥ずかしい話だが、その通りだ」
そこで初めて、アルフレッドは声の主をしっかりと見た。
冬はもう過ぎて暖かくなってきた季節だというのに、その女は黒いケープコートを纏っていた。フードを深く被っており、顔はよく見えない。しかし凛とした立ち振る舞いには隙が無く、武芸の心得があることを雄弁に物語っていた。そして腰に下げられた二振りの剣が、静かに自己主張している。
「お手伝いしましょうか?」
「いや、しかし……」
アルフレッドは言い淀む。アルフレッドが最優先するべきは、アリスの身の安全だ。この女がアリスに危険を及ぼさない保証はどこにもない。
「いや、せっかくの申し出だが」
アルフレッドは丁重にお断りしようとするが、
「おねーちゃんおしっこついてきてくれるの?」
そこにアリスが割って入った。
「そうしようと思ったのですが、あなたの父君が……え? アリステイルお嬢様……?」
呆然とした女の声。弾かれたように、アルフレッドはアリスと女の間に立ち塞がった。魔王軍でも極一部の者しか知らないアリステイルの名前を知っている。間違いなく、魔王軍の関係者だ。それも、要職に就いていた可能性のある。
「アリス、トイレに行け。俺が良いというまで、出てくるんじゃないぞ」
「でも、こわい……」
「後ですぐに俺も行くから、早く行け」
「ほんとに? ウソゆったらダメだよ?」
「本当だ。すぐに行く」
「うー……わかった」
アリスは渋々という感じで、暗いトイレに入っていく。パタンとトイレのドアが閉められた音がしてから、アルフレッドは口を開いた。
「何物だ?」
アルフレッドは、端的に問う。
「貴方こそ何者ですか? なぜお嬢様と一緒に? 名乗りなさい」
「俺の名は、アルフレッド・フレベルだ」
魔王軍にとっては忌むべき名。魔王を殺した、罪人の名だ。
「それはそれは……」
敵意と言うよりは、憎悪と言う方が適切な視線を、女は容赦無しに叩きつけてくる。
「魔王様を殺した貴方が、なぜお嬢様と?」
「俺は、アイツの保護者だ」
「保護者?」
女は鼻で笑う。
「お嬢様の大切な家族を奪った貴方が、どの面を下げて……」
獣の如き殺気が、アルフレッドの身体を突き抜ける。
「僥倖でした。せめて皇帝を殺して一矢報いようと潜入したのですが、お嬢様と再開できるとは。貴方を殺し、お嬢様を救い出しましょう」
女は顔を隠していたフードを脱ぐ。美しく、人形のように整った顔が、外気に晒された。腰まで伸びる黒髪が、風に揺れる。夜の闇よりもなお黒いその髪は、女の漆黒の意思そのものに思えた。
「人間……?」
一瞬、人間と近しい容姿を持つエルフ族かとも思ったが、エルフ族のように耳が長くはない。間違いなく、人間族だ。
「ええ。人間ですよ。忌々しい事ですがね」
音も無く、女は剣を抜き、構える。アルフレッドも腰の剣を抜き、構える。
「セリーヌ・ローゼンバーグ。参ります」
その名には聞き覚えがあった。魔剣士セリーヌ。人間族でありながら魔王軍に加担し、幾多の戦場で剣を振るい、多くの人間を屠った剣鬼。その剣の冴えは、勇者よりもなお強く、史上最強とすら謳われている。直接相対したことは無いが、アルフレッドも一人の剣士として、一度手合わせをしたいと思っていた。思わぬところで、望みが叶ってしまった。
「かかってこい!」
一瞬、セリーヌの姿がアルフレッドの視界から消えた。超高速で移動したのだと理解したと同時に、反射的に剣を背後に振るう。それは長年の戦いで蓄積された経験がそうさせた動きだった。キンッ! と金属音が響く。
「くっ⁉」
一瞬のつばぜり合いで、力ならこちらが勝っていると確信する。アルフレッドはこのまま押し切ろうと力を込めた。
「やりますね」
しかしセリーヌは剣での押し合いは避け、すぐさまアルフレッドと距離を取った。セリーヌの方もあの一瞬で、単純な腕力では敵わないと悟ったのだろう。
「そちらもなっ!」
アルフレッドは駆け、迷うことなくセリーヌに向けて剣を振り下ろした。しかし剣は肉を割く感触を手に伝えずに、虚しく空を切るに終わる。
「遅いですね」
また、セリーヌの姿が消えた。
「ちっ!」
僅かな空気の揺れを、全身で捉えるべく神経をとがらせる。一瞬、産毛が微かに揺れた。アルフレッドはすぐさま背後に向けて剣を振るう。またしても甲高い金属音が響く。
「今度は殺ったと思ったのですが。ですが次はどうですか?」
セリーヌの姿が、再び消失する。目を凝らしてもその姿を追うことは敵わない。そして此度は、一撃目よりも遥かに速かった。
「ここだ!」
斜め右後ろ。僅かに漏れだした殺気を頼りに、アルフレッドは剣を振るう。キンッ! と、剣と剣がぶつかる甲高い音が夜の空気に響く。
再び、防げた。しかし、次は防げるだろうか? これがセリーヌの限界とは思えない。次はさらに速く、鋭く、重い斬撃が来るはずだ。二撃目までは経験と勘のおかげで何とか凌げたが、三撃目を凌ぐ自信は無かった。
(これは、単純な剣の勝負では勝てんな)
アルフレッドの剣の技量は、決して低くない。あらゆる種族を含め、五本の指に入る実力を持っている。そのアルフレッドを圧倒するのだから、セリーヌの剣技は噂通りの強さと言える。
「だからと言って、負けられん!」
アルフレッドは剣を振るう。縦に、横に、斜めに。剣は複雑な機動を描くが、それは空を切り、地面を傷つけるだけしかできなかった。
「終わりですか? では、こちらの番です」
再び、セリーヌの姿が消える。
アルフレッドは、セリーヌが切りかかってくるであろうタイミングを計る。
「剣技では勝てないかもしれんが、これならばどうだ?」
アルフレッドは拳に力を込める。そして頭の中で炎を強くイメージする。それは超常の技。この世の理を捻じ曲げる魔導の技。常識を消し去り、己の心を現実に映し出す技。それは、魔術と呼ばれる技。
「燃えろ炎の壁よ! 我の敵を焼き滅ぼし阻め!」
魔術の詠唱を済ませると同時に、アルフレッドは地面に拳を叩きつけた。轟と、アルフレッドの全周囲に炎の壁が生まれる。
「きゃぁっ⁉」
炎の壁に衝突したセリーヌが、悲鳴を上げて石畳に倒れる。だがすぐに態勢を立て直し、隙無く剣を構えた。
「魔術? なぜ、こんな簡単な詠唱で……」
それは現実の理を歪める、空想の理。だが決して万能の技ではない。今のように大きな魔術になると、一分以上の呪文詠唱が必ず必要になる。だが、アルフレッドは三秒も掛からずに魔術を発動させた。
「……なるほど、魔術陣ですか」
セリーヌはアルフレッドにより傷つけられた地面を見て、舌打ちをした。
「ご名答だ」
呪文を補助する魔術陣。アルフレッドは剣先に魔力を込めて、地面に簡易的な陣を描き、高速詠唱を可能にしたのだ。
「人間の身で魔術を使えるとは、魔王様を倒しただけはありますね」
所々服が焼け焦げているが、大きなダメージは無いように見える。しっかりとした陣であれば負傷させることも出来たのだろうが、即座に描けるような簡易的な陣ではこれが限界だ。
「ですが、次はありません」
その言葉通り、同じ手は二度と通じないだろう。
セリーヌとアルフレッドは、剣を構え直す。しかし両者、ピクリとも動かない。お互いに、下手に動けばそれが致命傷になりかねないと理解しているからだ。しかし状況は、アルフレッドに有利だ。この街中で剣劇の音が激しく響けば、衛兵が駆けつけてくる可能性が高い。おまけに先ほどの魔術の使用は、間違いなく衛兵にこの事件を気付かせたはずだ。セリーヌの方もそれを察しているのか、僅かに焦りの気配が見て取れる。
(動く、な)
セリーヌの僅かな初動の気配を察したアルフレッドは、機先を制すために一気に距離を詰めようと足に力を込める。
「あーーーーっ! なんでー! すぐくるってゆったのにーーーー‼!」
「な?」
「え?」
夜の街に、子ども特有の甲高い声が響く。あまりに突然のことに、アルフレッドもセリーヌも呆気に取られてしまった。
「アリス⁉」
トイレのドアが開き、中からアリスがでてきた。顔は涙と鼻水でグチャグチャになり、下半身はびっしょりと濡れている。どうやら、暴発してしまったようだ。
「うそつきーーーー!」
ギャーギャー泣きわめきながら、アリスはとことことアルフレッドの元に歩いて来る。
「バカ! 来るんじゃない!」
慌ててセリーヌの方を見るが、セリーヌも戸惑ったようにそこに立ち尽くしていた。
「アルのバカーー! すぐくるっていったのにー!」
しっとりと、生暖かい感触が、アルフレッドの足を包んだ。
「あ……」
見ると、アリスが足にしがみ付いている。生暖かさの正体は、アリスの下半身を濡らす液体だろう。
「その……すまん。行くのが遅くなった」
一瞬「汚い!」と思ったが、すでに手遅れだと悟り、アリスの機嫌を直すことを優先した。
「はんせーしてーー!」
「分かった。反省する」
「じゃあダッコーー!」
「抱っこか……」
これ以上尿塗れになるのはなるべく避けたいが、仕方ない。これでアリスの機嫌が直れば、安いものだ。
「ほら、これでいいか?」
アルフレッドはアリスを抱きかかえる。
「うん……」
アリスは四肢を全てフル活用して、アルフレッドの胴体部にガッシリと抱きついた。
「さて、どうする? もう闘争をする空気ではないが」
アルフレッドは困り果てた顔で、先ほどまで殺し合いをしていた相手を見る。相手の方もどうしたらいいか戸惑っているようで、その手に持つ二振りの剣が所在無げに切っ先を揺らしていた。
「お嬢様! セリーヌでございます!」
意を決した風に、セリーヌは声を上げた。
「今までお助けできず誠に申し訳ございません! ですがこのセリーヌが来たからには、すぐにでもお嬢様を薄汚い人間共の手から救い出してみせます!」
「ご高説の所すまないが」
「なんですか?」
セリーヌは露骨な敵意を向けてくるが、それでもアルフレッドは口を開いた。
「泣き疲れたのか、眠っているぞ?」
器用なことに、アリスは抱きついたまま、すやすやと寝息を立てていた。口からは涎が垂れて、アルフレッドの服を湿らせている。
「くっ! 諦めたわけではありません。またすぐに、お嬢様を救いに来ます」
そう言って、セリーヌは夜の闇に消えていった。追跡するべきかとも考えたが、この抱きつかれた状態では、満足に動くことは出来ない。それに、問題がもう一つ。
「剣がもう使い物にならんな……」
先ほどの戦闘で、ジムサから渡された剣が使用不可能な程に破損していた。おそらく、あと一撃でもセリーヌの斬撃を受けていれば、アルフレッドの身体ごと剣は両断されていただろう。もっとも、並の使い手ならば最初の一撃でこの粗悪品の剣は破壊されていたはずだ。そうならなかったのは、アルフレッドの技量が並ではなかったことの証左であろう。
「……宿を探すか」
ここで立ち尽くしていて、事態が好転するわけではない。乗合馬車はもう来ないし、小便の臭いは消えてなくならないのだ。
とりあえずは、近くの宿屋で一晩過ごすとしよう。ここから十三番区画に徒歩で移動するには、時間がかかる。加えて、眠っているアリスを連れていては、尚更だ。
アルフレッドは、宿屋に向けて歩き出した。