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第四話「宣戦布告」

 一時はもう駄目かと思った、と麺を啜りながら赤い髪の少女は言う。

 結局深夜の職務質問では車内のアケミとタカノまで追及を受けず、運転手がいなしてくれた。その功績を讃えてチップを追加し、今朝飯と引き換えに、二人の軍資金はめでたく底をついた。

 ここは西区にあるパビリオン広場。古い離宮を改造して競技場を備えつけたアミューズメントパークである。休日となれば闘鶏なり格闘技なりの見世物をやっているか、そうでなくても集まった人が乗馬やフットボールなど興じて賑わうはずなのだが、珍しく人が少ない。東屋の主人も当てが外れたとばかりに覇気がない。


「アケミちゃん、水で切っただけのドーメンをよく食べられるよね」

「これだと、ちゅる、うどんみたい、ちゅる、だから。つゆがあれば完璧なんだけどね」


 このクリスタリカにおいて麺食はパン食より古い。先帝の時代に転士がイタリア式パスタを伝えたことで食べ方は爆発的に広がったが、コシを重視する太いドーメンはそれ以前からの伝統だ。アケミは異世界で唯一和食に近い物としてドーメンには目がない。


「火事は収まったみたいだけど、火元はダールトン家じゃないかしら。ここを中心に広がって工場まで飛び火したみたい」


 先に食べ終わったタカノは新聞と睨めっこしていた。アケミも最後の一本の喉越しを味わい、覗き見る。


「何かわかった?」

「ええと、御三家って有力貴族がいたことはアケミちゃんも知ってるよね」

「一応は。名前何だったっけ」

「ベーガ、デネイブ、アルタル。維新王や開拓王の時代はまだ貴族の権力が強くて転士を用いて改革を進めようとしたらこの御三家が反動クーデターを起こしたんだって。でも次第に没落して、逆に当時弱小だった家が転士を招き入れて勢力を伸ばしたの。その一つがダールトンで……」

「つまり戦いに巻き込まれた?」

「だと思う。ダールトン家と縁のある転士でウリンという王都の水道整備で功績がある人がいたらしいの。チートも水関係なのかはわからないけど。で、居場所がわかってるから狙われたんじゃないかな。それも複数に」


 朝になって、転士のゲーム監査役のてんせーくんはこう言った。もう四分の一減った、すなわち三十六人になったと。昨日の昼過ぎには三十九人、それから新聞を読む限りで大事件はあの燃ゆる北西区くらい。そこで三人も消える激戦が行われた可能性は高く思えた。

 野次馬もいたのではないかと相方の推測に、アケミは昨日の鮮烈な女騎士を思い出す。きっと割って入った一人に違いない、もっとも脱落者に含まれるような印象は持てなかった。


「それにしても通りの人、皆東にぞろぞろ歩いてる。何だろう……」

「アケミちゃんの言う通りね。大聖堂か議事堂に? ちょっとついて行ってみる? 取り残されて、変に目立っちゃうのもまずいし」

「うーん、そりゃまぁ、そうだよね……」


 タカノが言うことは全く賛同すべきと思いつつ、言葉を濁すアケミ。人ごみの中に入っていくのは、やはり想像しただけでも動悸が激しくなるのだ。アレルギーみたいなものである。


「アケミちゃん、ここで待ってる?」

「わー、行くよ行くってば!」


 それでも一人とり残されるよりはずっと良い、がアケミの正直な思いだった。



 ウズ通りを東に行く人の群れは途中左斜めに折れるも、そこから右斜めに折れて中央区の大図書館やさらに向こうの大聖堂へ礼拝に行くでなく、かといってまた左斜めに折れて西区北の劇場に向かうのもまばら、いつもより真っ直ぐな者が多かった。この通りを文化通りと書いて字の如くだが、ただただ通り過ぎて中央ヰト通りへ出ようとする粗野な者が目立つ。普段通りの芸術家達は不審がってこれを見た。

 それに混じっておっかなびっくり歩く芸人とシスターとて大概似つかわしくない――この頃になると、アケミもタカノも異様な熱気を感じ取っていた。アケミなどはすっかりそれに飲まれてクラクラしている。


「気分悪い? 休もうか?」

「ううん平気。朝ちゃんと食べたし、今日は足が軽くなってるから」


 アケミは心配を掛けまいと軽やかにタップを踏んでみせる、昨日と違う靴を強調して――今日の日々宝箱(デイリーガチャ)で当てた、ヘルメシューズである。労せず常に全力疾走を維持できる代物なれば、いつでも逃げるのは容易という安心感が得られる。

 それにこの辺りの道は新米にも覚えがあった。つい五日前、タカノに連れられ演劇を見に行ったのである。やはり人ごみアレルギーには些か辛さも感じられたが、楽しかった思い出などもぼんやりと浮かんでくる。それが上の空の理由とはとても言えないアケミだった。

 本当は、今すぐ逃げ出したい。あの立派な大劇場に駆け込んで娯楽痛快物語にでも浸っていたい。あの時のように、タカノと二人で。しかしそうはいかないのを転士としてはよく理解している――わかっているつもりだった。


「銀行も工場も燃えて物価がどんと上がってさ、もう滅茶苦茶。全く、お蔭様で大迷惑だよ」

「王は、議会は何をやっているんだ!」


 道行く民のヒソヒソとした声は、歩けば歩くほどに大きくなっていく。サロンに集う若き文学者達ですら新聞を読んでは愚痴を溢し、井戸端に集まる主婦なら尚更だ。中には群れに加わる者もいて、次第に列を成す。そして、極めて政治的な幹線たるヰト通りに突き当たれば、すでに形成された大行列が露わになった。

 なんという人の多さだろう。六千、八千、いや万にも達するか。それだけの数が口々に叫びながら、北の王宮めがけて大合唱の大行進している。その迫力にアケミもタカノも立ち竦み息を呑んだ。

 ――転士様の暴走を止めろ! 王は責任取れ! 王を許すな! 王を倒せ!

 過激なスラングが何度も何度も復誦される。思わずタカノも反射的に言葉をなぞった。


「おやおや。司祭様がそのようなこと、口にされては問題じゃあないですか」


 唐突に声を掛けられ、ハッと二人は振り返る。するとキャップを斜めに被り背広を着崩した軽薄そうな男が一人、そこにいた。端正な顔立ちだが歳は若くても三十近くだろう。そいつはツカツカと駆け寄り、馴れ馴れしくタカノの手を絡めとった。


「これはこれは、まだお若い。それでは過激思想に耽溺しても仕方ありませんか、マドモアゼル」


 タカノはさっと手を払いのけようとするが、このキザ男、離さず続ける。


「どこの寺院の方でしょうか。こんな時間にこんなところで油を売っているのは、妙ではありませんか」

「えと……サスト寺院に新たに赴任してきた、ハウザー、です」

「サスト寺院、ああ例の殺人事件の!」


 一瞬、タカノは作り笑顔を引きつらせる。


「それでクラウス司祭の代わりに、ですか。でもあそこは南東区じゃあ」

「すみません、西方から今まさに参ったばかりでして」

「おやおや、ということはお連れの方も……」


 男は先程から自分を睨むもう一人の視線に気づき、やっと手を離した。アケミはすぐさまタカノの肩を寄せる。


「あんた、何ですか。まさか警察?」

「俺が警部殿に見えますかい? そちらは在俗の方みたいですが、もしやハウザー嬢の秘密の彼?」


 この不審人物に最大限の警戒を発していたアケミだが、思わぬ言葉に敵意を削がれ、顔を赤らめてしまった。タカノの頬も同じく紅に。


「違う!」

「アケミちゃんはお友達です!」

「失礼、お嬢様方。俺としたことが見誤るとは。アケミ嬢、貴方の凛々しさの内に秘めた可憐さに気付けなかったこと、人生五番目の不覚!」


 伊達男は大袈裟にペコペコしつつ、


「申し遅れました。私ソレイユ新聞社のしがない記者ベルナーレでございます。以後お見知りおきを」


 名刺代わりに新聞を手渡した。二人が今朝読んだばかりの。ただのゴミでもタカノは邪険にせず、ニッコリ笑って受け取る。

 よくもまぁ、神に仕える身としながらペラペラ嘘で取り繕えるものだ、とアケミは感心した。ならば普段自分に対しても嘘を? と友情まで疑いそうになる。そんな考えを起こしてはいけない、それよりあの胡散臭い男を警戒せねば、と慌てて隣から目を逸らして正面を見据えた。

 ブン屋というだけで信用ならない、関わるべきでないとはアケミの前世での経験則だ。しかしタカノは話を続ける。


「記者、ということはこの騒ぎは御存じで? 一体何なのでしょう、このデモは」

「デモ……ええ、デモクラシーですよ。憲法でも一応、王は国民の声にこたえるものと書いてますから。ここに集まってる人はねぇ、二十年前にもこうして押しかけて、貴族だけでなく大衆の大衆による大衆の為の議会を設立するよう要求したんですよ。結果今の二院制。あの時の成功体験が忘れらないんでしょうね。こんな大規模でなくてもたまにやってますわ」

「そうなんですか。二十年も前のことは知りませんでした、ねぇアケミちゃん」


 言われるがままに頷く。実際アケミには異世界の政治形態などわからぬ。所謂立憲君主制でどちらかといえばプロイセン型だが徐々に共和制に移行しつつ……だとか教われば納得はするものの、知ったところでどうなのだろうとも思った。なにせ転士ばかりは法の支配を受けず、王からも民からも異界の客人としてもてなされるのだから。

 そんなことより明日をも知れぬ我が身。故にこの記者が何か有益な情報をもたらさないものだろうか、という期待がタカノの意図するところだった。


「その議会を通してでも埒があかんと見たのでしょう、今回の件は。よく見て聞いてみてくださいな。昨日一昨日の騒動が転士によるものは明らかなのに、あんまり苛烈に抗議できてない。その代わりに王様が責められてるところもありますわ。で、調子を良くした反王政の連中も湧くのなんの」


 面白いことになるだろう、と男は記者らしい下卑た笑みと少年のように輝く目を同居させる。熱に浮かされたように捲し立てるかと思えば、頭の中で一旦推敲したような真面目な口ぶりで、口説く。


「まぁテロリストは別として、大体の人はこう要求するつもりでしょうな。転士達の暴走を何とかしてください、と。神の血筋を引く王様であればそれが出来るはずだ、と。偉大な先々代には出来たこと。貴方も神に祈る暇があれば今確かにいる王に頼みに行きませんか? 私の取材のついでで良ければ」

「……存外不敬なことを仰りますね」

「新聞記者ってのはリアリストじゃなきゃ勤まらん賤業なもんで。自分から動かないと何も得られない。そういうわけで俺は行きますよ。ではお嬢様方」

「待ってください!」


 タカノはつられて言った。それからアケミの方に訴えかける。


「ねぇアケミちゃん、ひとまず王宮の前まで行ってみない? 私達にも関わることだし」


 何気ない軽い提案。それが言葉足らずなのをアケミは直感で解った。

 嘘はない――ただ裏に隠している。この戦いを止めたい、そう心から望んでいることを。タカノの優しさを無下にできるほど、アケミは冷徹に勝利だけを求める性格ではなかった。誰が彼女を止められようか。ならばコクコクと頷くのみ。

 ベルナーレは背を向けてからは一歩も動いていなかった。始めから先へ行く気などなかったのである。両手に花を持つ前に、密かにほくそ笑むのだった。



「……本当に、大丈夫?」


 タカノについて行くと決めたとはいえ、人ごみアレルギーのアケミは今にも気絶しそうになるのを必死で耐えていた。


「はは、大丈夫だよ。ちょっと気分が悪いだけ、かな。ははは……うぇ」

「おやまぁ、心配ですなぁ。どうですアケミ嬢、俺が肩を貸しましょうかい?」

「け、結構です」


 軽薄そうな男の手を跳ね除け、今まで通りアケミは二人の後をトボトボ歩く。そんな友人を何かと気遣おうとするタカノだが、結局ベルナーレとの会話が忙しくなる。そこに割っていける性格ならどんなに良かったか、と不器用者は唇を噛む。

 ベルナーレという男は本人曰く文学者志望だったものの生活の為仕方なくしがない新聞記者をやっているとのことで、趣味仕事問わず知り得た雑学をあれこれ語るのであった。デモの歴史的背景、王と貴族と平民の対立などを奮って説明すれば、聴き手は律儀に相槌を打つ。


「それで先程の話によれば維新王の時点で今の民主化の構想があったということですけど、それは三賢者様が?」

「……まぁそうでしょうね。俺はそのせいで三賢者が放逐されたと睨んでますが」

「放逐? 三賢者様は混沌に覆われた向こう側の調査にと……」

「口実でしょう。その後は御存じの通り維新王は御三家に謀殺され、開拓王が御三家に対抗する為に八勇者を召喚したんです。と同時に怪獣が襲ってきた。で結果的には国家の危機に転士が現れて救い、民衆を味方につけて貴族の特権を奪い……と出来過ぎてる気がするがまぁ、この辺深堀りするのはやめた方が賢明だ。ハウザー嬢、貴方が敬虔な神の信徒なら」


 今の話は聞かなかったことに、とベルナーレは口に人差し指を当てる。それでもタカノは余計気になって探ろうとするが、近くの老人の怒鳴り声に遮られた。


「転士こそが邪悪の源、混沌をもたらすのである! 怪獣は転士がいるから王都を襲う! そして今、転士自ら怪獣となって我々を襲う! 世も末じゃあ!」


 そう熱弁する翁は少々その場から浮いていて、王宮へ向かって抗議の行進をする者達も避けて通っていた。あれとは一緒にされたくないという風に。

 それにしても内容の過激さに転士二人は驚く。飄々とした記者でさえ困った顔で、


「あーまたやってるのかグレン爺さん。気を悪くされたらすまんね、あの人昔旧都奪還戦に随伴して地獄を見たとかで、ちょっとおかしくなってんのさ。歴史的に怪獣を撃退してきたのは転士なのに、転士のせいで怪獣が来ると思い込んでな……」


 と補足する間にそそくさと通り抜けた。タカノ、アケミも後に続く。しかしどうにも無視していいものか、と少し同情の気を起こしてアケミは振り返った。涙ながらに訴えかける、右腕の無い老人を。

 つい数日前にパノラマ館で見た苛烈な光景が蘇る。

 ――怪獣。古くは魔物と呼ばれ、一般的には国境の外に広がる混沌という黒い靄から生まれると言われているが、確証などない。ただ一つ言えることは、転士でなければ駆除し難い強力な敵だということだ。

 という話自体は転士の誰もがこの世界に来て最初に聞かされるものの、どうして怪獣などが存在するかをアケミは知らない。今、転士が一人になるまで争う理由を知らぬのと同じように。


「怪獣って一体何なんです?」

「さぁ。実物は見たことなくてね、十年前の第二次西方防衛の時はまだこの仕事やってなくて。何なんだろうな。あんな穿った推測が出るくらいだからなぁ。俺も知りたいところさ、怪獣が来ると事前にわかってるなら苦労しないすわ」


 新聞記者の食い矜持として――ではなく一人の国民の心配事であるかのようにベルナーレは言う。新米転士は少々後ろ髪引かれるものの、歩みを再開した。


《怪獣を倒すのは転士の使命だ。オマエラはそれと他の転士を倒すことだけ考えときゃいいんだよ》


 突如声を掛けられアケミはドキッとするが、転士以外には聞こえていないとてんせーくんは補足した。前方のベルナーレに悟られないよう小声で返事する。


「でもさ、転士の数が減ったら、その、怪獣が来た時困るんじゃないの……?」

《それはオレサマの知ったことじゃねー。人間が勝って栄えようが負けて滅ぼうが眼中にねぇな。そういうもんなんだよ神様ってのは。信じる者には気の毒だがな》


 あまりに無慈悲な回答に絶句するアケミ。タカノの背中がビクッと震えた。当然聞こえていないはずがない。

 急速に雲が広がっていく。日の光はすっかり消えていよう、目的地に着く頃には。



 王宮、門前広場。人の洪水はここに堰き止められ、今にも暴発しそうなダムと化していた。

 立ちはだかる応天門は王都南端の羅城門と合わせ、異世界の京都にあったそれと似ている。これを築いた先々帝――賢者ヰトに養育され八勇者を用いた開拓王――のオリエンタル趣味と絶大な権力がよく表れていることだ。

 群衆の怒声を掻き消すようにラッパの音が鳴り響く。訪れる一瞬の静寂。そして門の上階部から王が姿を現した時、再び騒音が沸き起こった。最早静粛を促す音色さえ聞こえぬほどの熱狂で。

 それも王が一言発した途端、静まり返った。


「栄えあるクリスタリカの兄弟よ。そなたらの思い、しかと耳に入れておる。だがまず、余は神の第一の僕として、今、ここに神の御意思を伝えねばならない!」


 民衆達の鼓動が一斉に高鳴る。太平王は一呼吸置いて、神託を叩きつけた。


「神はこの国におわす転士を、一人に決めよと仰せになられた! この世の転士はたった一人のみと! これは絶対遵守の天命!」


 神の決定はあらゆる議決や法より上位であり、王自身覆せないことだと弁明するばかり。国の最高責任者が匙を投げてしまった。当然場は騒然、聴衆にどよめきが広がっていく。


「そんな、陛下……」


 一縷の望みを絶たれ、気を落とすタカノ。戦いを好まざる友人にかけるべき言葉を、アケミは見つけられない。


「賢明な諸君はもう気付いたであろう! 今現在の混乱極める事態は、全て我こそはその一人たらんと他者に害をなす心なき転士のせいである! そなたらの家族にも損害を被った者がおろう。余もこれには心を痛めておる。そこで余は、せめて被害が広がらぬよう尽くすことを、そなたらの願いを背負う者として誓う!」


 すかさず、口だけなら何とでも言えるとヤジが飛んできた。王もその程度の反応は想定の内で、すぐに人民を納得させるカードを切り出す。


「そして余はそなたらを代表し、かの八勇者に内紛の調停を頼んだ! よってどうか安心して欲しい。今この場にて、クリスタリカが誇る彼らが、そなたらに誓うであろう!」


 王が大きく手を掲げたのを合図に、バン、と銃声が鳴った。標的は勿論太平王、反王政過激派の狙撃なのは火を見るより明らか。だが思惑は外れ。銃弾が見えない仕切りに遮られて、王の足元に落ちた。

 お返しとばかりに、応天門から矢が逆方向に飛んでいく。六十メートル先の建物の四階に潜んでいたスナイパーはなすすべなく射られ、窓から情けない骸をぶら下がらせた。この程度日常茶飯事、民衆が冷ややかな目で見ることさえない。

 暗殺されかけた当人ですら全く動じない。その周りを守るように、四人の大英雄が左右に並び立った。

 一人は、大司教格であることを表す白い僧衣に金色の帯を左肩に掛け、冠を抱き杖を右手に持つ、賢者の風格を漂わせた聖女。美しい銀髪に毅然とした表情はこの世の邪悪を一切受け付けそうにない。

 一人は、この中で最も低い背をコサック帽の高さで補い、体に不釣り合いなほど長く過剰にポケットを備えた濃緑のコートでドレスを覆う、気位の高い令嬢。金色に輝く髪を二つに分けて巻き、ポケットからいくらでも花びらを撒いてみせる。

 一人は、肌にピッタリ吸い付く深紅の皮革はボンデージながら、小手に脛当て鎖帷子で肌を守り、漆黒のマフラーと仮面の如きバイザーで顔まで隠す、隙を見せぬくノ一。右腰に拳銃左腰に刀背には短剣、更に両太腿に括るナイフまで備え、桜色の髪と殺意だけは忍ばず。

 一人は、かのナポレオンを映したような白紺二色の軍服を着こなす一方、弓を左手に携え矢の束を背負う、古式ゆかしい狩人の女王。亜麻色の髪をリボンで左側に纏め、微笑みを決して絶やそうとしない。

 民衆から見て左から順に鉄壁のオーレリィ、火薬庫のセイラ、達人のラスカル、魔弾のナナ。八勇者の半分がここに集う。


「おお、八勇者様だ……」

「八勇者様、どうかお願いします!」


 生ける伝説である彼女達は、下手をすれば王以上に崇敬された。特に開拓王時代の活躍を直に見てきた老人などは、頭を地面に擦り付けるほどだ。年端の行かぬ子供でさえ、数々の怪獣退治の逸話を読み聞かされて知っている。


「あれがナマ勇者……あれが」


 敵になるのか。アケミはゴーグルを通して舐め回すように見る。そのような態度を取れるのは彼女がクリスタリカに来て日が浅いせいか。


「この度は皆の者に迷惑をかけ、大変すまなく思っている。八勇者を代表してこのオーレリィ、詫びよう」


 よく通る声で銀髪の乙女が告げる。何気ない言葉なのに人々は重く受け止めた。八勇者ほどの転士が下々に詫びるなど前代未聞なのである。


「連日痛ましい事件ばかりでした。神は転士達で争い最優の一人を決めよと仰せになられましたが、他の転士を蹴落とす為なら平気で民を犠牲に出来るような者は、その時点で転士失格です。よって私達はそのような狼藉者を全て成敗し、被害を食い止めるよう約束しましょう」


 今度は元帥の称号を持つナナが柔らかい口調で言った。彼女は普段士官学校の校長を務めており、四人の超人の中では割合取っ付きやすい雰囲気を出していた。


「それではナナ様、八勇者様が他の転士様を倒した後はどうなさるのですか?」


 ナナの柔和さに当てられてか、若さ故の遠慮のなさか、前列の少年が質問を投げかける。彼女は一旦オーレリィに目配せをし、その反応を横目に見てから、答えた。


「その場合は公平なくじ引きでもって我々の代表を決し、他の者はこの世界を去るという取り決めを既に交わしています。ここにいる四人全員納得の上です。議会で採決を取るとすると新たな混乱を生むのではないかという懸念があり、陛下も議長もこれに賛同しています」

「この通り、余は八勇者の誰かが残ればよいと考えておる。そなたらも同じ思いであると確信しておる。此度はどうか、八勇者にお任せして、解散願いたい!」


 すると少し前まで王を詰っていた群衆も八勇者様が何とかしてくれるなら……とすっかり熱気を冷まし、代わりに王様万歳八勇者万歳などと讃え始めた。

 そんな中、アケミとタカノだけが居心地の悪さを感じていた。周りを幾重に取り囲む民衆の声は全て、自分達への敵意となって降りかかる。さらに追い打ちをかける一声が、すぐ近くで上がった。


「八勇者様! ここにも転士が潜んでま~~~~す!」


 叫んだのは、隣のベルナーレ。押し飛ばされるタカノ。蜘蛛の子散らす。アケミは真っ青になった。


「お前……ッ!」

「スクープを捉えるにはこれが最も冴えたやり方だ、マドモアゼル。覚えておくといい、優秀な記者に事件は集まる」


 とっくに子羊二匹の正体を看破していた狼は本性を表す。この腐れマスゴミ野郎め、とアケミは罵り裏切り者に殴り掛かろうとする直前――タカノが視界に入って忘我を解かれ、友の手を掴む。ここは逃げるのが最優先だ。しかし頭上の鷹の目は捧げられた供物を捉えて離さない。


「序列四十四位、タカノか」

「では、ワタクシが仕留めて差し上げますわ!」

「ダイナマイトはやめてくださいセイラ。オーレリィ、ここは私が」


 魔弾の射手が放つ。民衆は慌てて四方に散るが、ナナの矢は彼等を避けて決して誤射しない。百発百中(ノーミスショット)のチートは逃げるタカノを追尾し、確実に急所を貫いた。


「タカノ! タカノちゃん!」

「アケミちゃ……私を、置い……」


 手を離そうとするタカノをアケミは抱き留める。友の亡骸を置いて一人逃げられるはずもない。八勇者クラスならタカノのチートもあっさり見破って完全に止めを刺すだろう。実際初撃の手応えに違和感を覚えたナナは、間髪入れず二射、三射。

 二本目がまたもタカノに直撃。そしてもう一本はくるっとアケミの背後に回った。世の理を容易く覆す軌道。脳天をかち割られながらもタカノはそれを見逃さず、そのまま相方を押し倒して盾になった。

 流石のナナもこれには少し驚く。今まで三発も同じ的を射たことがなかったのだから。


「なんという……まだ体が溶けていないということは」

「不死身、のチート、か」

「まぁ! ラスカルが三年二カ月と十日ぶりに喋ったことの方が驚きですけど」

「煩い、セイラ。話すほど面白いこと、なかった、だけ」

「いけませんラスカル、たまには人と会話しないと発声の仕方を忘れますよ……おっと」


 勇者達が暢気に漫才している間に、アケミはタカノを背負いつつ大通りの横道に入った。ナナの射程距離は視界の範囲である。ヘルメシューズによる移動速度までは想定範囲外だった。


「もう一人も……確か四十八位でしたか。衛兵に命じて捜索させましょう。しかし移動系チートとなると……ラスカル、お願いできますか?」


 ナナが隣に声を掛けるも返事はない。そういう時は拒否の意思だと心得ているため、肩を竦めて門の内側に引き返していく。


「賊はあの二人だけではない。私が陛下を護衛しあの方に報告する。セイラ、ラスカル。くれぐれも民間人に被害は出すな。特にセイラ、昨夜の」

「ハイハイ反省していますわ。でも追手を差し向けるくらいはよろしくて?」


 オーレリィは僅かに頷くと、すっかり置物と化していた王を連れて帰る。


「国民の皆様、貴方達もおうちに帰りなさい。そして一歩も出なければ、確実な安全を保障いたしますわ!」

「狩り場、ということ」


 セイラとラスカルはニタリと笑みを浮かべ、勢いよく門から飛び降りた。たったそれだけでも人民は改めて思い知る。根本的に彼女達は別の生き物なのだと。

 その人知を超えた一連の動向を、新聞記者は血走った眼で記録していた。転士という狂気の産物が彼を突き動かしたと言って過言なかった。



「いたぞ、こっちだ!」


 曇天の下、昏い街を晴れ着の衛兵達が駆け回っていた。まるでハイエナの狩りが如く。獲物を見つけ次第サーベルを剥いて追い立てる。

 流石に街中での発砲は許可されていない。だが稀に豆鉄砲を撃つきかん坊もいて、民衆も狂乱する有様。それに獲物が紛れ、かえって逃げられる。どの道人間の足では転士のチートに追いつけないのだ。

 俊足のヘルメシューズがあればいざという時も安心――実際役立ったもののアケミは逃げるのに必死で頭がどうにかなりそうだった。人間の兵ならまだいい。しかし自分達を追い詰めようとしているのは同じ転士、それも八勇者である。その強力なチートの一端を垣間見たばかりでは余裕もなくなろう。

 タカノはまだ意識を取り戻しておらず、荷物になっていた。魔弾のナナは正確無比に彼女を三度射殺した。傷が根深く蘇生に時間がかかっているらしい。それでもどうせ死なぬからと置いていけない。


「友達を、置いていくもんか……ボクが何とかしなきゃ……」


 敵とて当然不死身のチートに気付き、蘇生前にクリスタルを抜き出そうとするとアケミにも予想できた。だから焦る。追っ手を撒こうと慣れぬ道をひた走る。

 ともかく王宮から離れようと南を目指し、北西区から西区へ、途中何度か大きな通りを渡ろうとして網にかかるも抜け出してきた。文化通りより西、いつか見に行こうと話題にしたパノラマ館も知らず知らずに通り過ぎていく。もう戻れない。

 人の多い劇場方面も避けるとどんどん道が複雑になる。追われにくくはなるが、土地勘のないアケミには不安だった。案の定、脇の目立たない所に入ってしまえば袋小路だった。


《ほら行き止まりじゃねーか、引き返すなら早くしとけよ》

「てんせーくんさぁ、面白がってないか」

《そりゃ観戦サイドだからな。まぁ正直なところオマエラは面白い。ノコノコ八勇者を見に行ってこのザマだもん。だがな、オレサマはこの窮地も切り抜けてくれるって期待してるから話しかけるんだぜ。まーがんばれや》

「そりゃどうも」


 アケミがそっけなく返すとニタニタ笑いながら幻影は消える。公平であるべきガイドがそれとなく助言をくれていたと、その時は気付かぬまま。


「タカノちゃん、ちょっとごめん」


 流石に重いとは口が裂けても言えず、一旦塀の傍にタカノを降ろす。よくよく見ずともアケミより豊満な身体付きだが、この距離を背負って走れば多少の重さ軽さは誤差だ。

 翻って小道を戻り、通りの様子を窺うアケミ。すると赤白ツートンカラーの軍服がチラッと見えて、慌てて身を潜めた。


「そっち、いたか!?」

「いや、ここまで来てないでしょ流石に。というかなんで俺らまで。こーゆーのは警察に任せ」

「ぐうたらしてんじゃない貴様、来い!」


 話しこむ下っ端兵士二人、特に片方はどうにもやる気が見えない。が去っていくまでじっとやり過ごす他ないアケミだった。ようやく一難去ったと見え、相棒を拾いにまた行き止まりへ。

 するとタカノは意識が戻りかけていて、言葉にならない声を発した。上向いて。


「うぅ……アケ……う……」

「タカノちゃん! 気がついた!? 大丈夫、ボクはここにいるよ」

「うえ……に」

「上?」


 友に倣いアケミは顔を上げ――そして、目を丸くした。

 三メートルはあろう行き止まりの塀から少し顔を出す建物の屋根の上、その上にそびえる人の影。下々が気付くのを待っていたかのように堂々と突き立てた剣に手を乗せ、黒銀の騎士が見下ろしている。その爛々と光る翡翠色の眼を、一度見たら忘れられはしない。


「やぁやぁ、遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我こそは騎士ワルグリアである!」


 それは騎士ではなく武士の名乗りだ、と漫才するユーモアをアケミは持ち得ない。一歩後ずさる。それに呼応して転士ワルグリアは剣を振り上げ、一歩前に――飛び降りた。

 常軌を逸した行動だ。普通の人間には出来ない、捨て身の猪の戦法。ワルグリアの全身を覆う甲冑の重さに位置エネルギーが加わり、質量爆弾と化す。アケミは恐れ戦く前に背を向けて逃げだしたが、それが落ちた時の衝撃に足がもつれた。対してこの重戦車は全く以て反動を気にする節がない。それがチートによるものか、本人の努力の賜物かは判別つかないが。

 少しも掠っていないのに剣圧だけで服に切れ込みが入る。更に何か、ぬるっとした液体がかかった。アケミの血ではない。それはワルグリアの剣から迸ったのである。


「なにこの……」

「油よ! 我が秘技、魔法剣油(オイルショック)に驚くといい!」


 振り返って確認する前に、術者自ら説明した。更に横凪ぎに一閃、油を浴びせようとしながら。

 なおもアケミは逃げる。今の彼女に打てる手などそれくらいしかない。動けないタカノを横目に見つつも逃げる他なかった。違う、これは敵を引きつけるためだと言い訳を考えながら。

 ヘルメシューズの機動力に重装歩兵は付いてこれまい。路地の入口から行き止まりまで大体半分の地点まで走ってから一旦振り返って確認しようとした矢先、アケミは盛大に扱けて尻もちをついた。ベトッとした厭な感触――油だ! 油はいつの間にか地を這い逃げる鼠の足元を滑りぬけていた。そして目と鼻の先にはもう、ワルグリアが迫り――

 そのまま通り過ぎて行った。


「おっといかん、行き過ぎた……待てぃ、我こそは王国一の聖騎士! 勝負しよう勝負!」


 聖騎士というより暗黒騎士な見た目のワルグリアは、重武装をものともせず高速で滑っていた。油を移動に使おうというのは些か無謀な試みであったが、転倒しない辺りは流石に使い手本人。引いた油を止めて踏ん張り、再び突進を仕掛けようとする。

 その瞬間が、アケミの最初で最後の攻撃のチャンスとなった。

 隠し持っていたブーメランを取り出し、思いっきり投げつける。敵が唯一露出させている首へ。同時に黒銀の騎士も滑り始める――が馬鹿正直な直線軌道だ。

 なのに、外した。初めてで目標に当てられたなら誰も苦労はしない。アケミはそれを最悪のタイミングで思い知らされる。けれどブーメランなのが幸いだった。武器屋の親父は戻ってこないと言ったが、たまたま投げ方が良かったのか、Uターンしてワルグリアの背後を取っていた。

 ――当たれ。

 その一縷の望みも、騎士のポニーテールの先を微かに斬っただけで、堅固な鎧に弾かれてしまった。


「アケミちゃん! いやぁぁぁぁ」


 ようやくタカノが目覚めたがもうワルグリアの方が近い。詰みだ。肉厚の剣が振り下ろされ、アケミは悲鳴を上げることさえかなわない。

 完全な敗北――

 けれど、まだ生きていた。アケミは息をした。地面を叩き切ったブロードソードの隣で。ワルグリアの巨体が見下ろす。


「どうして抵抗しない?」


 彼女はブーメランに後ろから攻撃されても怯むどころか気付いてすらいなかった。圧倒的な力量差。アケミは逃亡主義者と見なされても返す言葉がない。ただ子犬のように震え、恐怖のあまり失禁する醜態を晒すのみ。


「お主、よく見ればタンツギ殿の店で会ったな! そうか、あの時も言ったが弱者を傷つけるのは騎士道に反する! たとえ転士であろうと、な」


 そう言って剣を軽々振り回してから背中に収める様子を見せる。その大きな大きな背中を。ワルグリアに戦う意思はこれっぽっちも残さず消え失せていた。

 ガチャン、ガチャン。一歩一歩離れていく鎧の音が響く。その隙間に半狂乱になったタカノの駆け寄る足音が。そしてアケミが鼻を啜る音がした。

 待て、なんでトドメを刺さない――なんて強気に吠えることも出来ず、今は騎士の情けにすがる他なかった。そんな自分の弱さをアケミはまたも呪った。二日前と違い日々宝箱の確変はもう起きない、何もないのだ。


「うう……うぐ、ぐやしい……」

「アケミちゃんごめんね、足手まといでごめんね、ごめんね」


 タカノとて、満身創痍のアケミを抱きとめる以外に出来ることはなかった。

 雨が降り出した。

 油も汗も、涙も洗い流す雨だ。煌めく光に包まれ次第に黒銀の巨人も小さくなっていく。その先にもう一つの人影が現れた。


「ワル様、終わったぁ?」

「ヨミ! どこに行っておったのだ!」


 ヨミと名を呼ばれた騎士の相棒は、赤い羽根付き帽子にマントといかにも西洋のマジシャンを思わせる格好ながら、下に白い着物――丈はやけに短い――を着ていて東洋の巫女のようでもある。紫の髪を尼削ぎのようにして前髪を揃え、ちゃんと目を開けているのかも怪しい細目のミステリアスな風貌は、色々とワルグリアとは対極らしかった。

 奥のアケミ達をチラッと見た時こそ瞳孔を開いたが、すぐに閉じて相方に媚びるように何かを差しだすような素振りで、


「はい、傘」


 と言ったが傘らしき物は見えない。けれども雨の軌道は捻じ曲げられ、ワルグリアとヨミを避けていく。この魔女得意の手品だ。


「お、ありがとうヨミ……って質問に答えるのである!」

「まぁまぁ、どうせワル様一人で片付くと思ってたし。でもいいのん、ターゲットを見逃しちゃって? セイラに怒られるんじゃあなぁい?」

「あのような者と戦っても名は上がらないだろう? 私は騎士であるからな!」


 ワルグリアの発言には一切悪気はない。ヨミはクスクス笑って、


「なら、場合によっちゃあ、八勇者をヤる?」


 などと言ってのけ、自信過剰な騎士に寄り添う。そうしてエア相合傘の二人組は群衆の中に溶け込んでいった。敗北者などには目もくれず。


「くそ、くそ、くそぅ!」


 炎髪を濡らして、アケミは思いっきり地面を殴りつけた。血もすぐ雨に流される。この屈辱に比べれば痛くもない。


「なんでこんなに無力なんだ、なんでマイナスのままなんだ」

「アケミちゃん……」

「強くなりたい! 強くなりたいよぉ! インチキなんかじゃない、本物の強さが、欲しい……」


 大きく叫ぶ声も、今は雨の音が消してくれた。わんわん泣き崩れる。


「うん、うん。強くなれるよ。私も、頑張るから」


 戦う以外に道がないなら、せめて大事な人が傷つかなくてすむように――タカノも決意した。たとえアケミが望む力を手に入れられなかったとしても、自分が彼女を守れるようになろうと。

 強くなる。その為には今はただ逃げ延びなければならなかった。友に支えられ、アケミはようやく立ち上がった。強まる雨は霧を濃くし、二人の少女を厳しくも包み隠してくれるのだった。



 逃れに逃れ、落ち往く二人の転士はいつの間にか色街に辿り着いた。

 ボチボチと灯りが付き始め、にわかに賑やかになり始める。ここは西区でも文化通りを軸とする芸術の中心地や、あるいは競技場周辺のスポーティなようで賭けの盛んな地域からも離れ、気品と危険な香りが混ざり合った場所だった。貴族やブルジョワも訪れる立地の為、南西区のスラムの方と比べれば遊女にも高級感がある。国の法より地域のルールが重んじられ、言うなればかつての吉原に近い雰囲気だ。

 当然アケミに、ましてや聖職者の格好をしたタカノに相応しい場所では到底ない。小雨になってきたとはいえ傘も差さずズブ濡れなのが一層不審さを増していた。とはいえ来た道を戻るわけにもいかないところ。

 王、軍、そして八勇者。国家権力に目を付けられてしまった今、どこに行き場があろうか――


「今晩、どうしようかな」


 いつもは後輩を先導してくれる頼れる先輩も、今は心底不安げに呟いた。逃げることで精いっぱいで頭がいっぱいいっぱい。だからと言って責めることなく、アケミも頷く。


「どうしたのかな」


 すると野太い声が代わりに返事をした。二人が一斉に振り返ると、そこに見知らぬ男のいやらしい笑みがあった。歳は四十代か五十代、恰幅の良い身体にシルクハットで隠しきれない禿げ頭、スーツだけは立派な、いかにも成金然とした風貌である。女遊びに慣れていそうなのは言うまでもない。


「ここいらで見かけぬ顔ですな。男装の麗人にしては個性的、に加え司祭の格好ときたものだ」


 タカノは言葉に詰まる。指摘されずとも場に浮いていた自覚はあって、かといえさらさらと弁明も出来ず、


「ああ、仮装という趣向ですか。味なものですねぇ」

「まぁ、いかにも、見破るとはやりますわ」


 相手のゲスな憶測に乗っかるだけであった。しかし直後にしまったと思い至る。ここで娼婦と勘違いされれば、それこそ夜の相手をする羽目にもなりかねない。

 男は生娘の肢体を舐め回すように見て、にたにた笑った。


「それでは更なる芸を見せていただきたいものよのぅ。おっと、あちらに宿があるぞぉ。いやぁ、何を隠そう勝手知ったる我が家よ、是非招待させていただきたい」


 間髪入れず、タカノの腕をグイッと引っ張る。拒否しようと手をじたばたさせるが思いの外力が強く、死なないだけが取り柄の彼女には抵抗できない。友が犯されるのをアケミが看過できるはずもなくキッと睨めば、逆に中年男の鋭い眼差しに射抜かれた。出そうとした手も捕まえられている。

 この紳士は少女達を値踏みして、殺し文句を放った。


「ふふふ、来てもらいます。転士タカノ様。それに転士アケミ様」



 法悦に喘ぐ少女達の嬌声が、座敷の奥底に響く。

 銀の美しい髪は乱れに乱れ、獣の悦びに身を捩じらせる姿に、普段人前で見せる凛とした面影はない。今の八勇者オーレリィは、ただの一人の雌だった。

 彼女を抱く――というより身長差から覆われている――もう一人の女は、いつもの悪い癖が出たと謝る。妖姫テンキは色狂いで、女を侍らせていないと気が済まない。長くそういう生き方をしてきたものだから、今更変えられないでいる。


「……どうでしょうか。私、ちゃんと振る舞えてたでしょうか」


 オーレリィはか細い声で訊いた。先程の応天門でのことを指して。


「愚問じゃ。勇者オーレリィはいつだって人々の規範よ。だから安心するがよい」

「差し出がましいことでした、テンキ様。いえ……ヰ」

「みだりにその名を口にするな。今は、な」

「すみません」


 待てと命じられれば、大勇者は子犬のように傅く。すれば飼い主はよしよしと撫でてやった。その間隔を少しずつ遅らせると、聞き分けの良いペットは毅然とした態度を取り戻していく。


「報告が遅れました。門前にて確認した四十四位と四十八位はナナの狙撃を逃れたものの、セイラが二十七位と三十位に追わせたとのこと。しかしその後も姿が目撃されていることからも、追討には失敗したと考えられるかと。現在も捜索中です。如何されますか?」

「ふむ。セイラの奴、人を使うのはいいが一見御しやすい者が仕事に責任を負うかどうかまでは考えが及んでおらんか。まぁ良い。優先度の高い順に片づけていくべきじゃ」

「ハイジは依然動いていません。マルコも西方の空を飛んでいるばかりで参戦する気配は見られず。こちらからも手出しが困難ですが。ネロ及びスナフの動向は依然調査中。掴め次第、我々で制圧します」

「スナフにはこちらの動きが筒抜けじゃからな。今もどこかで見ておろう。ネロとて百貌の者。潜伏先の予想はおおよそつくがな。あやつらが力をつける前に」

「ええ、了解しています……ところでそこの猫は?」


 オーレリィは丁重に畳んだ服をもう一度身に付けながら、少し離れた和室の隅に丸まる裸の女を「猫」と呼んだ。みゃあみゃあとわざとらしく鳴いている。飼い主はクスクス笑いながら、いやらしく答えた。


「あれは餌じゃ。主の言う通り、自分は猫だと思い込んでおるがの。おかげで大小の躾までせねばならん」

「貴方様がそこでしろと仰れば、その通りに致しますのに。いやはや全く」


 八勇者をして恐ろしい方だと言わしめる。その魔性の瞳によって人間性を、転士としての資格を奪われた哀れな贄は、もって後四日の命だった。

 あれは自分の未来か――オーレリィにはそうとも視えた。

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