103号室
嫌がるサヤを連れて、地図に描かれた建物を探した。暗い路地裏に建てられた古びたマンションだった。見た瞬間、ここだと直感で理解出来た。理由は分からないが、引き寄せられたような気がした。
マンションに辿り着くまでの道中で、あらかたの説明は済ませておいた。サヤは終始俯いていた。表情は髪に隠れて見えなかったけど、オレには分かった。分かってしまったから、その想像を振り払うように説明を続けた。
サヤは泣いていたんだと……思う。声が……震えていたから……。
こんなオレのために、泣いてくれていたんだと思う。
サヤへの説明の最中に『愛』について考えていた。売り物の『愛』とは一体なんだというのだろうか。オレは誰かが言っていた言葉を思い出していた。
『愛とは、なくしたくないという気持ちだ』
自分の持ち物の中にしか愛するものはないのだ。自分の中にいてくれる人しか愛せないのだ。なくしたくない、ではなく欲しがる気持ちだったなら、どれだけ楽だっただろう。
103号室のインターフォンを鳴らした。
「買取でしょうか?」
オレたちは事前の説明通り、声を合わせて「ハイ」と応えた。
103号室の部屋の扉が開いた。
ドアノブに手をかけるとき、サヤがオレの服の袖を掴んだことに気づいていた。
扉を開くと、スーツを着た女性が出迎えてくれた。
「靴は脱がなくて結構です。そのままおあがりください」
どうすればいいのか分からないので、黙って指示に従うことにする。
廊下には扉が二つあった。
「では、それぞれ違う扉にお入り下さい。担当のものがご説明致します」
ここが最後の分岐点だったんだと思う。
今ならまだ引き返せる。引き返せた。
サヤは黙って扉の向こうに消えていった。その後ろ姿を黙って見送った。
最後まで迷っていたのは、オレの方だった。
この悲しさも、売られてしまうのだろうか。
扉を開けると地下に続く階段があった。そこを降りると、また扉があった。
今度の部屋は、受付のようだった。分厚いアクリル板の向こうの女性が、作った笑顔で僕に告げる。
「お客様の『愛』は、一億円の価値がございます」
一億……円?
耳を疑った。よくある詐欺の当選メールみたいな額だった。
困惑の色を隠せないオレに対して、受付嬢はあくまで業務的な冷たい声で、この金額でいいかと訊いてきた。良いも悪いも、予想の遥か上をいく額だ。断る理由がない。
首を縦に振った。
「かしこまりました」
受付嬢は手元のキーボードで何かの操作をしたあと、オレに告げた。
「それでは、一億円お渡し致します」




