001.時の向こうへのいざない
「あの……?だれかいませんか……?」
少女の寄る辺ない声だけが、見知らぬ世界のしじまにこだました。
薄緑のリノリウムの床。曇り一つない白磁色をした無機質な、それでいて威圧感を軽減するかのように細かいエッチング文様の刻まれた壁。適温に調整された空調。消毒用アルコールのかすかな匂い。金属パイプと清潔感のある布地で作られた簡素ながらも快適なベッド。そして、ベッドの脇のラックシェルフには花瓶に活けられた観葉植物と飲料用の水差しが置いてあった。
ベッドの中には目を覚ましたばかりの少女が居る。
彼女はもう一度、誰か居ませんかか?と、声を出しそうになったのを、自分以外に人気のない部屋を見回した段階でこらえて、ナースコール用のボタンを探し始めた。
すると、程なくして医者と思われる白衣の男性と看護婦と思われる外見の女性がそれぞれ一人ずつ、ノックもなしに入室してきた。
「あ、あの」
「ひとつ、確認させてください。お名前は美槌古都子さんで間違いないですか?」
少女は焦りを甲高い声ににじませて、入室してきた男女を凝視した。それを見た白衣の男性が、落ち着いた声で尋ねた。
「え?あ、はい。そうです」戸惑いながらも彼女は答えた。
彼女が戸惑っていた最大の理由は、彼女が冷凍睡眠から覚醒したばかりだったからだ。
二十一世紀初頭それが、彼女が眠りについた時代である。
その時代は、後代から見れば、人類文明と地球の自然環境がもっともバランスの取れていた時代かもしれない。数度の核爆発や放射性物質の拡散があったとはいえ、気候の極端化も緩やかで、個人の人格も致命的な程には集団によって追いつめられるような事はなかった。
そんな時代。不治の病を宣告された一人の少女が、親族の尽力の下、最新の技術によって冷凍睡眠処置を施された。まだ見ぬ時代に、抜本的な治療法が開発されている事を夢見て……。
「確認できて何よりです。ところで、あなたの方も何か、すぐに確認したい事はありますか?」白衣の男が、微笑みながらそう聞き返した。
「え、えっと。あの。今は何年ですか?ボクの父さんと母さんはどこにいますか?」
少女が真剣な眼差しでそう問いかけると、白衣の男は顔を憂鬱に歪ませ看護婦の方を見やった。看護婦は表情を曇らせ、沈黙を以って答えた。病室内の時間はまるで満員電車の中にいるかのような圧迫感を以って動きを緩める。少女の前の二人が次に言うべき言葉を思案する様子すら、少女には恐ろしい病の宣告のように見えるのだった。元々覚悟していた事とはいえ、他人からその事実を突きつけられる残酷さを前にして、少女は一度だけ喉を鳴らした。
白衣の男性は軽く嘆息すると、重苦しい雰囲気に負けじと話を切り出した。
「そのお話をする前に、この部屋をご覧になって、ここがどのような施設だと思われましたか?」
「病院、ですよね?」少女は不思議そうな顔をして答えた。
「はい。確かにここは病院です。ただし、一般的な病室とはかなり異なります。しかし、あなたにはこの病室が、普通の入院病棟の病室に見えた。そうですね?」
「はい。ボクが眠る前に入院していたところと似ている部分が多かったので、普通の病室だと思っていました」
「実は、この時代の病室では、まず消毒用エタノールの匂いはしません。そもそも、消毒などは大気中に充満するナノマシンの衛生効果によって適切に調節されているので、匂いのきつい薬品を散布したり塗布するような事は無いのですよ」
男性がそう説明すると、看護婦が初めて口を開いて補足を入れる。
「そして、長期の入院が必要な患者さんは、そもそも医療用のカプセルベッドに入ってもらいますので、布製の寝具やベッドを用意してある事自体まれですね。ご要望があれば用意することはあります」
女性の補足に区切りが付いたと判断すると、男性はさらに急ぐように説明を続ける。まるで、面倒な会話を先送りにしたいと言わんばかりに。
「これは、あなたに施した治療と蘇生処置についての説明と重複しますが……。この時代の医療行為の殆どはナノマシンによって行われます。体内。おもに血中にナノマシンを投与してそのナノマシンをクラウド制御する事によって、肉体の健康状態そのものを管理し、代謝を調節し、健常体を維持することになります」
女性が更に補足する。
「そして、血中ナノマシンはうなじにインプラントされたダルクデバイスによって制御されます。美槌さんのうなじにも治療の一環としてインプラントしてあります。デバイスそのものは肉体と同程度の柔軟性を持った素材で作られているので、違和感はさほどないはずです。無いとは思いますが、もしも、著しい違和感や痛みを感じた時は、医療機関で診察を受けるようにしてください」
「あの。ボクの病気は治ったんですか?」美槌が尋ねた。
「はい。その点についてはご安心ください。あなたにインプラントしたナノマシンクラウド、エンジェルブラッドは、脱髄性疾患にも効果のあるものです。このナノマシンが活動し続ける限り、症状が再発したり深刻化することはありません。また、一度デバイスにインプラントされ登録されたナノマシンは人体と同じように代謝するので、デバイスが失われない限り活動を停止する事もありません」
「そうなんですね。ありがとうございます」
感謝の言葉を口にしながらも、自分の体の中に、知らないうちに異物が入りこんだという事実に衝撃を受け、彼女の表情は青ざめてしまった。
「ああ。心配なさらないでください。あなたにインプラントしたナノマシンは確かに、最新式のもので今はまだ、あなた以外には使用者はいません。しかし、ナノマシンのインプラント自体は当たり前の事です。私やこちらの彼女もインプラントしております。そしてなによりも、あなたのインプラントは我が社の最新の研究成果であり、最高傑作の一つです。ご安心ください」
白衣の男性が訪問販売の営業マンのように自信と誇りに満ちた態度で断言した。
「あ、ありがとうございます。けど、ボク、そのお金……」
彼女の生命の危機という不安は、目の前の男性の自信に満ちた態度と、目の前の問題として急浮上してきた“支払い”という切実な問題によって、心の棚の奥深くに歩み去ってしまった。
「その点もご安心ください。あなたの蘇生費用に関しては、オムニテクニクス社から研究費として出資されていますので、研究に協力していただければ、負担の必要は一切ありません。治療費に関しては……。こちらの方が大きな問題なのですが。これも、幾つかのご協力がいただければ、費用を気になされる必要はありませんし、むしろ今後の生活基盤を得る上で必ず役に立つと思いますよ」
冷凍睡眠に就く前の彼女は中学を卒業したばかりであり、社会経験はなかった。実家も裕福というよりはむしろ資産家という評価がふさわしいものだった。そんな彼女でも、生活する上ではお金が必要で、お金がなければ困窮し、生きていくこともままならない。という常識は知識として知っていた。だから、いやだからこそ、支払いに実家があてにならないというか、実家がもう存在していないだろうという予感や、見ず知らずの存在が、自分の知らぬ脈絡から支払いを代行している事に、恐怖を覚えた。そして何よりも、自分が生きていく上で、これから何をさせられるのだろう?という不安は、彼女を死の実験を目の前にした小動物のように震えさせるのには十分なものであった。
彼女の怯えた様子を察した看護婦がすかさずあいの手を入れる。
「だいじょうぶですよ。美槌さん。必要な事は殆ど終わっています。あとは、あなたが契約に同意してくだされば、全て終わりますし、あなたの自由にできます。この先、何かを不本意に強制されることも、不自由を感じることもないと思いますよ?」
「えっと。契約って、結んだらボクは何かさせられるんじゃないんですか?」
おずおずと質問する美槌に男性の方が答える。
「ああ、そんな事はありませんよ。実は、あなたに治療を施す際に、あなたの毛髪や皮膚細胞など、培養用の幹細胞などを作る上で必要なサンプルを採取させてもらいました。無論、あなたの健康に影響の出ない範囲と方法でです。この時代、健康と自由こそもっとも価値あるモノですからね」
「ですから、美槌さんから頂きたいご協力というのは、これらのサンプルの使用許可なのです。ご許可いただければ、サンプルの売却代金。そしてサンプルを元に作られた製品が販売された際には、契約に従って一定割合の金額があなたに支払われる事になります。それらが、今後のあなたの生活基盤の一つになるでしょうし、今回の治療の支払いもそれで完済する事ができます」
男性が一通り説明すると、女性のほうが成人男性の親指よりも少し大きい程度の金属製の筒を、美槌の前に差し出した。
「こちらが契約用のオートグラファーです。ここに人差し指を入れてもらえば、その段階でバイオメトリクス認証による契約が完了します。契約内容を詳しくご覧になりたければ、こちらのテキストを御覧ください」
そう言うと、男性はプラスチックの下敷きのように薄いタブレット型端末を取り出して、そこに表示された長文の日本語テキストを美槌の前に提示した。
美槌はそれを受け取って読もうとしたが、最初の数行で諦めた。まず、文章量が多すぎる。そして、日本語ではあったが、言葉遣いも堅苦しく見慣れない用語も多い。彼女は読むのを諦めて、内容を聞いて確認することにした。
「えっと、契約するのはボクとオムニテクニクス社さんなんですか?」
「いえいえ。その会社は我々の会社の親会社にあたりまして、今回の件を我々に業務委託したのです。あなたが格納されていたカプセルを発見したのがそちらの会社なのですよ。今回あなたと契約を結ぶのは我が、オムニゲノミクス社です」
男性がこれ以上無いほどの満面の笑顔で社名を名乗った。
「やっぱり、オムニなんですね」
「系列会社ですので」
「それで、お金は今後の生活に十分なほどもらえるんですか?」
「そうですね。それをご説明するには、美槌さんの居た時代と今の時代の違いを少し説明する必要があるかもしれません」男性が視線で促すと、女性が説明を始める
「まず、美槌さんがこれからこの世界でなに不自由ない生活を送られる事を望むのならば、この都市を運営する企業のどれかのエクイティを取得する必要があります。エクイティとは美槌さんの時代で言うところの株券に近いモノの事です。株券を有する事によって社員となり、社の支配する都市の一員と成ることができるのです。美槌さんの時代で言うところの国民や市民にあたります」
「就職して社員にならないと国民になれないのですか?」
「ご安心ください。従業員になる必要はありません。社員とは株券を有し、企業帝国の運営に参画する権利を有する栄えある人々の事です。この時代では、エクイティロードと呼ばれています」
「へぇー」
言っている事の意味不明さと、なにか凄いらしいという感じから、美槌は間抜けな表情でついつい相槌を打ってしまう。
「美槌さんには実感が無いでしょうが、これは大変素晴らしいことであり、名誉あることなんですよ。エクイティロードに成れば、生活と人権の全ては会社によって保障されますし、エクイティの所有高に応じて企業経営や都政に参加する事もできます。また、エクイティからの配当金もあるので、不本意な職に従事しなくても、その配当金で欲しいものを手に入れる事もできると思いますよ。配当金というのはいわば、社会貢献に対する報酬なのです。エクイティを得るというのは、それだけで社会に貢献したと認められたという事なのですよ」
「けど、ボク。まだ何もしていないんじゃないかな?寝て起きただけなんだけど?」
「とんでもない。美槌さんはいわば失われた過去の生き証人なんです。もしも、我々と契約することでご協力いただけるのならば、その存在そのものが社会への貢献となるのです。何も難しく考える必要はないのですよ。美槌さんが冷凍睡眠でくぐり抜けてきた時代というのは、それほどに過酷だったということです」
「は、はあ。」
いまいち話に実感の湧かない美槌は、これからの自分の人生は戦前生まれのおじいちゃんおばあちゃんのように、昔語りを繰り返す人生なのだろうか?と、漠然と想像した。その想像を目の前の連中に聞かせれば、確実に爆笑される事も知らずに。
「美槌さん。残酷なことを言うようですが、あなたはこの都市において、エクイティなしに金銭を稼ぐ手段を持っておりません。何かこの時代においてでも役立つ技術的な知識や、ドローンやナノマシンなどのオペレーティング技術があれば、従業員として生活することも可能でしょうが、今のあなたにはそれがありません。今からそれらを学ぶにしても、負債を背負う必要があるのですが、残念ながら今のあなたに資金を貸し出そうとする人は居ないでしょう」
「そうですか……」
この言葉に彼女自身も、確かにそう言う時間も手段も持ちあわせては居ないだろうと、心底同意してしまった。この時に早合点したことがのちの後悔につながるのだが、今の彼女には気づくことは不可能な話だった。
「それでは、そろそろご契約を。この後もまだまだ手続きはありますので」
「わかりました。最後に一つ聞かせてください。契約で貰えるエクイティというのは、どこの会社のものですか?」
「我が社はオムニテクニクスが一〇〇パーセント出資する子会社ですので、我が社のエクイティは美槌さんにはお渡しできません。そこで、我が社が保有するオムニホールディングス社のエクイティを支払いの代価とする事になります。もちろん、これはオムニグループの総意でもあります」
「この時代のお金のやりとりは全てエクイティなんですか?」
「いえ、違いますよ。お金というかキャッシュも存在していますし、むしろそちらでのやり取りが一般的です。今回のエクイティの譲渡や発行はオムニからの特別な便宜だと思ってくださって結構です」
「なんで、そんな凄そうな便宜を貰えるんですか?」
「さあ、そこまでは私どもにも知らされておりません。ただ、この便宜が大変ありがたいものだ。という事だけは理解しております。きっと、気の遠くなるような時の向こう側からいらっしゃった異邦人である美槌さんを歓迎しようという、オムニの善意だと思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
そうして、美槌はオムニゲノミクス社との契約を結び、オムニホールディングスのエクイティを獲得した。それが、この異世界とも言える二十二世紀末での、彼女の第一歩であった。
彼女が眠り姫となってから、時は流れて二十二世紀末。グローバリズムによる同化のドグマは、極端化した気候変動に後押しされる形で世界を駆け巡り、幾度かの世界大戦を引き起こした。そして、民族国家は崩壊し、世界には企業帝国が闊歩するようになったのである。
核弾頭は各種ミサイルと共に空や宇宙を駆け巡る最中に光学兵器によって、そのほとんどが焼き払われた。戦争の切り札は、化学兵器や細菌兵器といった目に見えない脅威となり、それらをカウンターすべく生まれたナノマシン兵器に取って代わられた。
クラウド化されたナノマシンは世界を覆い、時にカウンターしあい、時に連携しあい、ケーブルに依らないネットワークを形成するようになった。そして、地球を覆ったナノマシンが事態打開の決定打となり得ないと判明すると、戦いの切り札は再び目に見える次元に登場したのである。新世代ドローンの登場であった。
そうした争いの時代において、冷凍睡眠処置を施された少女が覚醒した事で、この物語は始まる……。
小説家になろうの仕様確認の為に冒頭だけ投稿しました。
3話まで日刊で投稿します。
それ以降の投稿ペースは、進捗具合と物語の完結の目処を勘案して決めたいと思います。
20151212
追記:20151213
狐谷まどか先生に教えてもらったことを参考に、文章を推敲してみました。
多少は読みやすくなったと思います。
エピソードや内容に大幅な変更はありません。
ご助言ありがとうございました。