吉備の王 七
§ 七 §
日本の歴史は一体どれくらいの過去まで正確に遡ることが出来るのであろうか。
一応、日本には「古事記」や「日本書紀」という歴史書がある。その中で「日本書紀」が日本の正史とされていて、現代の教育の現場では教科書のベースとなっている。
しかし、その「日本書紀」の記述の中で、七世紀以前のことは驚くほど荒唐無稽な書き方になっている。ほとんど童話の世界である。これを歴史書と呼ぶのであれば、世に言う「桃太郎」の類の昔話なども立派な歴史書である。
そしてその一番大事な日本の草創期のところが何も見えない為、「邪馬台国」を「ヤマタイコク」と表記してみたり(本当は「ヤマトコク」)、卑弥呼が当時の女王の名前であるという大きな勘違いが蔓延るのである(本当は「日巫女」という役職名、太陽を司る巫女のトップ)。
実は日本の天皇も、第十代の崇神より前は架空の人物とされており、実在していない。これらは天皇家が日本を統治する為の箔付け以外の何物でもないのだ。
「俺が初代の王様である。」では、ちょっと説得力に乏しいので、
「俺は日本の王家の十代目であり、正統な王家の血筋を引くものである。」と、したのである。後者の方が他のものを納得させやすい。
ところが、可笑しなことに架空の人物である筈の天皇たちの墓(古墳)が日本には「正式に」残されていると言うのだ。これは如何にも支離滅裂であろう。一体全体、その墓(古墳)には誰が祀られているのか?もっと言うと、それは本当に墓(古墳)ですか?学者がそれらの古墳を調査しようと思っても、宮内庁は絶対に許可しない。
「日本の学術研究の為の発掘調査」対「天皇の私墓の盗掘禁止」という睨み合いが延々続けられていて、日本ではその分野の科学的アプローチというのは出来ない状態なのだ。
だから、という訳でもないのだが、日本の古代史は謎に満ち溢れている。
天照大神は本当に女だったのか?そして、歴代天皇が誰一人として天照大神の祀られている伊勢神功を参拝しようとしないのは何故か(唯一、明治天皇のみが参拝した)。
大国主命はどうしてアッサリ自分の統治している「国」を天皇家に譲ってしまったのか?
神功皇后の夫、仲哀天皇は実在したのか?武内宿禰は本当は神功皇后の弟などではなく、ダンナだったのではないか?
蘇我入鹿は果たして本当に極悪非道の限りを尽くしていたのであろうか?実は中大兄皇子の方が悪いヤツだった可能性はないか?
大体、聖徳太子が実在の人物であったと誰が言いきれるのか?
「日本書紀」や「古事記」の迷路にハマッてしまうと、誰でもこのような疑問の渦に巻き込まれてしまう。
大事なのは、書かれている情報、昔からの言い伝えや伝統、習慣と言ったものを、一度ジックリ疑ってみる、ということである。
ただ、誰が何と言おうと崇神だけはハッキリと存在していて、彼が九州から近畿方面に向かって移動していったのは本当らしいのだ。更に全国に四道将軍を派遣していたのも間違いない。
そしてここ、奈良のヤマトの城壁に早馬が一頭到着した。
季節は六月の初旬。梅雨の前のカラっとした乾いた空気の気持ちの良い明け方であった。
「待て!何者だ?通行証を見せろ!」
城壁の南門の左右に立っている門番が、槍をその早馬の首の方に向けながら行く手を遮った。早馬の乗っている男がフードを被っているので顔が良く見えないのだ。
「俺だよ。もう顔を忘れたか?」早馬の男はフードを後ろにずらしながら、門番に良く顔が見えるようにしてやった。
すると、左右の門番が二人とも目を丸くして驚いた。
「ササモリ団長!」
そう、播磨からササモリが早馬に乗ってミマキに報告がてら、奈良に一旦帰国してきたのである。勿論、他の地域の情勢のことも知りたい。
「ああ。ここは変わり無さそうだな。」
門番たちは、大急ぎで槍を引っ込めて、門の横に二人ともひかえた。
「オオキミはどちらにおわす?」
「はい。この時間ですと、まだ北の寝所の方だと思います。」
と、向かって右側の門番が答えた。顔が緊張して引きつっている。何せ軍人達憧れのササモリの帰還である。
「分かった。では、通るぞ。」
ササモリは馬に跨ったまま、ゆっくりと門をくぐって城壁の中に入っていった。
門番たちは二人とも、槍を体の横に立てたまま微動だにせずに、門の両横にビシっと姿勢を正して立っていた。
奈良のこの城砦都市は、吉備の大たたら場の五倍以上の広さを誇っている。本当に大きな都市をまるごと城壁で囲ったようなデザインになっていた。
この都市を取り囲む城壁には、この南門以外の出入り口はない。一箇所のみなのだ。
入り口付近には色々な市場が軒を連ねている。既に夜が明けているので、結構な人出で賑わっていた。食糧、生活用品、服飾、食器類など、何でもありそうだ。
ミマキが普段居るのは、この都市の一番北奥のところである。出入り口から一番遠いところに館と寝所を設けていた。途中に幾つもの門が設けてある。外敵の襲撃に備えてのことだ。
南門の出入り口からミマキの寝所まで二キロ以上。ササモリは馬に乗ったまま町行く人を良く観察しながら進んだ。何処からか、敵の手のものがこの城壁の中に紛れ込んでいないかどうか、ちょっと気になっていたからだ。
結局、最初の門をくぐってからミマキの寝所まで来るのに、三十分以上掛かってしまった。
その最後の門のところで、ササモリは馬を降り門番にその馬を預けた。そして、まさかミマキの寝込みを襲う訳にもいかないので、館の応接間でミマキの起き上がってくるのを待つことにした。
すると、ササモリの到着を側付のものから聞きつけたのか、早々にミマキが衣服を整えて応接間に入ってきた。
「待たせたの、ササモリ。」
と、言いながら上座に腰を据えるミマキ。
「ははっ。」と平伏して挨拶をするササモリであるが、まどろっこしいことは止せ、と、早速本題に入るように促した。
ササモリも播磨での一戦の報告、吉備の偵察の様子などの仔細をミマキに告げる。一時間余りの間、そのササモリのレポートをミマキはじっと聞き入っていた。そして最後に、相分かった、と感想を述べた。吉備を攻略してしまうまでは、やはり気が気ではないようだ。
「して、各地の戦況は如何でございますか?」
ササモリもミマキに他の地域のことを訊ねてみた。
「おお。まだ具体的な戦果のようなものの報告は入ってきておらん。陣をどこに敷いたとか、進路をどのように決めた、とか言うものばかりじゃ。」
そうですね、と相槌を打たざるを得ない。
「それよりも・・・・・、」と、ミマキが続けた。
「九州邪馬台国のモモソ(倭迹迹日百襲媛命・やまとととひももそひめのみこと/卑弥呼のこと)が殺された。」と、ボソっと呟いた。
「何ですと?」これにはササモリも驚いた。
「一体誰にですか?」
「コトシロ(事代主命・コトシロヌシノミコト/武内宿禰のこと)とカヤナルミ(神功皇后のこと)だ。」
「何と。」
「モモソには、十分な兵力を残してやっていたつもりであったが、真に残念なことじゃ。」
「すると、我等とコトシロは、奈良と九州邪馬台国とをお互いに交換したことになりますな。」
「そういうことじゃな。」
二人の間に、暫らく沈黙が訪れた。
そして、ササモリが先にミマキに質問した。
「して、どのように対応なさるおつもりで?」
「うむ、しばらく放っておくしかあるまい。」と、ミマキが続ける。
「我等とて余分な兵力は残っておらぬからの。」
「それに、もし出雲に帰るような動きでもあれば、そのとき九州邪馬台国の奪還にいくまでよ。どうせ、それまでは奴等の方からこちらに戦を仕掛けてくるとも思えん。」
そのミマキの言葉に頷く以外に方法は無かった。
九州邪馬台国に一体何が起こっていたのだろうか。
「記紀(古事記と日本書紀の総称)」によると、九州北部の邪馬台国の女王卑弥呼が死に、その後再び国が乱れたため、卑弥呼の宗女であるトヨが女王に抜擢された、となっている。
しかし、邪馬台国がその後どのような変遷を辿っていくのか、或いは卑弥呼やトヨの出自がどうであるのか、と言ったことには記紀は一切触れていない。
ただ、後世の我々を嘲笑うかのように、卑弥呼と神功皇后が同一人物であるかのように見せかけたり、その神功皇后の実子である応神(第十五代天皇)の父親が誰であるかワザとぼかす、という手の込んだことをしている。
神功皇后が架空の人物であれば、「記紀」ではここまで彼女を英雄視しなくても良かった筈だ。何と彼女は、記紀でいうところの夫である仲哀(第十四第天皇)をサポートし、仲哀の為し得なかった九州を平定し、余る勢いで朝鮮半島までをもその手中に収めてしまうのである。
当然、朝鮮半島の歴史書を紐解いてみても、中国の古代史を閲覧してみても、このような朝鮮半島での出来事は一切記載されていない。勿論でっち上げである。
再度言うが、そこまでして神功皇后をヒロインに仕立て上げねばならない理由が「記紀」にはあったのである。それは、その存在があまりにも大きすぎて消すに消せなかったからに他ならない。
そしてその事実をさも神話のように魅せ掛けて、彼女の足跡を闇に葬り去ろうとしているのである。実に巧妙な手口だ。
事実を整理すると次のようになる。
この当時、日本の大国出雲が、朝鮮半島南端の加耶という国と同盟関係にあったことは先に記した。
出雲の王は、加耶から代々后を送り込んでもらっていた。そうして、両国は姉妹国家として成立していたのだ。
出雲は加耶の先進的な技術を背景に、どんどん国力を付けていく、そしてその影響範囲は、北信越方面や関東方面にまで及んでいた。
しかし、それらの影響範囲内の国々は、決して出雲に征服されている訳ではなかった。あくまで連合国家として連携を取り合い、全体としての利益の保全の方法は皆で話し合った。そして、その採決を首長である出雲王に委ねる、という実にデモクラティックな方法が採られていたのである。
出雲の力が余りにも強大すぎたし、その出雲の持ちかける話に賛同したからと言って、それそれの地方の国々にどんな不利益が発生する訳でもなく、寧ろ利益を被ることの方が多かった、という事実も手伝って、「出雲を中心とした新しい日本の国家作り」は、日本全体を巻き込む巨大なムーブメントとして動いていた。
しかし、その出雲の動きに同調しない国が九州にあった。それが邪馬台国を中心とする「倭」連合国である。
彼等は既に数世紀に亘って大国中国と同盟関係を築いていた。それは中国からしてみれば、数多く存在する衛生国の一員に過ぎなかったものの、当時の「倭」にしてみればそれで十分であった。何しろ超大国「漢」や「魏」のお墨付きを貰っているのだから。
何故そのようなお墨付きがとても大事になってくるか、というと、「倭」の支配者たちが、超大国中国からの亡命者で形成されていたからであった。
それはさながら、イギリスを亡命して新天地アメリカで新国家を開いた人たちの物語と良く似ている。
開国したばかりのアメリカで、何が力であり、何が正義かというと、これは全てイギリスからのお墨付きであった。
開国当時のアメリカで、何か事業を始めようと思ってもイギリスの許可を取らなければ出来ない仕組みになっていた。もしそれを怠っていまうと、大変なことになる。明らかに後からその事業に参入してきても、その後者が先にイギリスの許可を取っていれば、そちらの方が正義になってしまうのだ。許可を取っていなかった者は、そのことに対して何も文句を言えない仕組みになっていた。
九州でも同じことが起きていた。
彼等は宗主国である中国を仰ぎ見て国を統治しているに過ぎなかった。よもや中国の許可を受けずに、自らの判断で何かを決定していくなどと、国が逆さまになっても有り得ないことであった。
ところが、その肝心要の中国の様子がおかしい。
長く続いた漢が滅び、ようやくその後を魏が受け継いだかと思いきや、それも晋によって滅ぼされてしまった。一体全体、力や正義の根源はどこに行ってしまったのか、我等はこれから何を拠り所として生きていけば良いのか、という不安感に苛まされ続けていた矢先の、出雲からの申し出である。
結局九州邪馬台国は、出雲からの善意の使者を切り捨てる、という暴挙に出てしまう訳である。窮鼠猫をかむ、とは言うが、かみつく相手が違うだろう、とつい突っ込みたくもなってしまう。
事態の収拾を図るために、出雲からトップ2がやってくる。それが冒頭に書いたコトシロ(事代主神・武内宿禰)とカヤナルミ(神功皇后)なのである。
この二人は出雲の大国主命の子供であり、奈良の新都の立ち上げの為に現地で尽力していた、言わば、皇太子とその妹という立場であった。
彼等が兵を引き連れて邪馬台国入りしてみると、そこは既に国として機能を失っていたも同然の状態であった。折からの半島や大陸からの亡命者の乱入で、全く収拾が付かない状況下に置かれていたのだ。
二人は卑弥呼に会談を申し込むものの、既に半狂乱の彼女には取り付く島もなく、挙句の果てに毒を盛られて殺されかける、という事態に遭遇したため、已む無くこれを排除(殺)したのであった。
ミマキ(崇神)の一向は、このコトシロとカヤナルミらと、ちょうど入れ替わるようにして奈良入りしている。その奈良入りに際して、ミマキはさもコトシロとカヤナルミの意を汲んでの行動だと、奈良や出雲に説明しているのだ。これら当時の情勢をミマキらが把握する上で、情報を収集する能力が一番に問われる訳であるが、そこにササモリたちの魏の軍団が大きな役割を果たしていたのは言うまでもない。
「記紀」にも、出雲の大国主命に天皇家が国を譲るように迫る場面がある。大国主命は息子の事代主命に相談してくれ、と返す。実際に国政を担っているのが息子なのであるから、当然の話である。
するとその話を聞いた息子が、ありがたい話だから御受けする、どうぞ善くこの国を治めて下さい、と言って天皇家に国を譲り渡した、というのだ。そんなバカな話がある訳がない。
事実は、「コトシロやカヤナルミに頼まれて奈良にやってきた」とミマキ(崇神)が偽って、奈良にまんまと入り込んでしまったのである。
歴史書なるものが、如何にその時々の為政者によってプロパガンダに使われてきたかの証左である。
善政を敷いて国全体を豊かにしていった大国主命の息女であるカヤナルミ(神功皇后)は、国民から圧倒的な支持を集めていたのである。その伝承が全国各地に広まっていて、「記紀」でもそれを一切無視してしまう訳にもいかなかったのであろう。
彼女の逸話を神話にしてしまい、如何にも卑弥呼とだぶるように描写を工夫し、歴史上から抹殺してしまおうと企んだのである。
因みに、大国主命は「大黒様」として商売の神様に例えられる。その孫の応神(神功皇后の息子)も恵比寿様として、大黒様同様商売を目指す人々に広く愛され続けるのである。それは通商国家つくりを目指した大国主命の本当の姿を、当時の国民が実によく理解していたからに他ならない。
結局、ミマキとササモリがいくら顔を突き合わせて話をしてみたところで、九州邪馬台国の情勢が変化する訳ではなかった。
こうなってしまったからには、ミマキとて状況を見守る以外に方法はないのである。
奈良に居てもこれ以上の情報の収集が難しければ、ササモリにとって何の意味もないことであった。
また、吉備攻略に向けての準備や播磨の統治システムの完成など、何れも気掛かりなことばかりであった。
ササモリは明けて早朝、播磨に向けて再び出立していったのだ。
それはまるで、時代が彼等に休むことを許容しないかのような、電光石火の早業であった。