吉備の王 一
§ 一 §
「にいちゃん。早くしないとサンとウラの結婚式が始まるで。」嫁菓子もらいそこねたらにいちゃんのせいじゃけんな。小さな子供たちが吉備(現在の岡山県全域と広島県東部地域)の足守川の側のあぜ道を足早に駆けていく。今日は吉備の神職である阿曽郷のアゾタケの家の次女サンと吉備の大たたら場(製鉄所)の主であるウラとの結婚式である。
吉備の国では代々神職の家から吉備のたたら場に嫁を出す風習が続いている。今回の婚儀でそれが何回目になるのか誰も知らないが、昔から続いている伝統には違いない。吉備の大たたら場には朝鮮半島の百済から王家の所縁のあるものが送られてきて管理することになっている。ウラも当然百済の王族の一員で、吉備に赴任してきてちょうど8年を数える。吉備の血吸川には砂鉄が豊富で、出雲にもひけを取らないたたら場がここにあるのもその為である。
そう、吉備の国は当時の日本のヘソとして大きな国力を発揮していたのである。その吉備に対する友好の証として百済から代々王家の人間が沢山の技術者と一緒にこの地に送られてきていたのである。今日の日本の東京と大阪を合わせたような賑わい、と言えばその凄さを少しは感じてもらえるだろうか。朝鮮半島経由で伝えられる製鉄技術と製塩技術が吉備を日本の中で比類のないほど大きな国に仕立て上げていたのである。
「サキ。気を付けろよ。昨日まで雨が降っててぬかるむぞ。」
「大丈夫だって。それよりにいちゃん。置いてくぞ。」
くおーら!お前らあぜ道を走っちゃいけんって、何べん言ったら分かるんじゃ。と、遠くから子供たちを叱る農夫の声がする。
足守川の堤に立ち並ぶ桜の木に薄っすらとつぼみがついている。心なしか今日はすずめの声まで騒がしいような気がする。吉備はもう春なのだ。
「サンちゃんもようやく念願かなってウラにもろうてもらえたね。」そうじゃね。などと口々に慶びを言い合いながら吉備の衆が皆、阿曽郷のアゾタケの家を目指していた。すると、すずめの鳴き声に混じって綺麗な笛の音や太鼓の音が聞こえてきた。
「ありゃりゃ、急がにゃ始まってしまうが。」さっきまでのんびり歩いていた農夫たちも脚を早めた。ヒューーートントン。ヒューーートン。
阿曽郷(岡山県総社市一角の地名)にあるアゾタケ邸の大広間では、当家次女のサンと吉備の大たたら場の主であるウラとの結婚の儀が厳かに執り行われようとしていた。長女のレンが巫女を、当然家主であるアゾタケが神主を務める。
アゾタケの家とウラたち百済系渡来人とのつながりは深い。阿曽郷は代々吉備の国の神職を出してきた。国の祭儀の一切を取り仕切るのである。祭儀と言っても現代人の我々にはピンとこない。たかがオマジナイの一種であろうと考えてしまいがちである。ところが当時の祭儀というのは、何にも変えがたいものの代名詞であり、八百万の神々との唯一の接点と言ってよかった。
我々日本人は古来多神教であり、森羅万象を神と崇めて暮らしてきた。天変地異に恐れおののき、路傍の石に神を見出すのが我々日本人なのである。トイレに神様が居ると本気で信じているのは、世界広しと言えども日本人くらいのものである。その森羅万象を司る神々とチャネリング出来るのが神職たちである。故に豊作祈願も雨乞いも、はたまた疫病の退散もこれ全て神職であるアゾタケの「仕事」なのだ。例えて言うなら、病院の院長と、科学技術庁長官と、大統領補佐官を一人で兼任しているようなものである。
そのアゾタケの家が吉備の大たたら場の主の嫁を代々出し続けてきているのである。非常に強固な姻戚関係と言って良いであろう。或いはアゾタケ家の既得権益と訳しても良いかもしれない。
その為、アゾタケの邸内にも小さいながらたたら場が設置されており、簡単な農具の部品や牛具などは生産することが出来た。しかし、本家本元の技術に比べるとその差は歴然としており、特に強度の点でウラ一族の生産する鉄器は別物と言って良かった。差し詰め、ウラ一族の生産する鉄器が現代技術のロケットだとすると、アゾタケの家で作っているのは精々自転車にしか過ぎなかった。
しかし、それでも巨大な権益には違いなかった。何しろ鉄の精製から道具の生産までの一環した設備は、日本全国を見渡してもこの当時出雲とこの吉備の地にしか存在していなかったのだから(小さい規模のものは散在していたようだが)。
アゾタケは神に身を捧げるものとして、そしてウラたちも私利私欲の為ではなく、純粋に吉備の発展や吉備と彼等の祖国との関係を良好に保つ為に鉄器の生産に精を出していた。当然そのことは地元の里民たちの好意を集める要因となる。アゾタケの家は代々名門と呼ばれていたし、ウラたち百済からの渡来民たちも最大限の好感度を持って地域に溶け込んでいた。
勿論、当時の平均的な日本人の身長が1五十センチ程度であったところにもってきて、ウラたちは優に1七十センチを超す大男である。あなたの身長が1七十センチだとして、一九五センチの大男を間近にしたときの印象はいかがなものか。しかも当時の中国大陸には遥か西方のトルコあたりからの騎馬民族も非常に多く流入してきていた。中国の古代王朝である秦など、トルコ系騎馬民族を中心とした連合国家である、とする識者もいるくらいである。当然ウラたちの仲間の中には、今でいうところの西洋人風の特徴を持ったものも珍しくなく、それら外見的な特徴だけを捉えて恐れおののいている里民たちも少なからず存在していたのは事実である。(余談だが、古代トルコ語の発音が日本語と似通っているという説もあるのだ。)
ただ、非常に大事なことなので繰り返し述べるが、ウラたちの一族が強圧的に吉備の民を支配していた、ということには当てはまらない。当時戦乱を繰り返していた朝鮮半島の中の一国である百済が、日本列島に後ろ盾を求めた、ということと、吉備の豊かな資源(砂鉄や塩田)が百済の先端技術で価値を見出し、それは百済にも「富」として逆輸入されていたということなのだ。この非常に平和で有機的な結合を現代社会でも見習うべきである。
一連の儀式をアゾタケが黙々と執り行う傍らで、巫女姿のレンがウラの目の前の杯に清めの酒を注いでいく。
「サン、サン、」と小声で、しかも周囲にそれと気取られぬように隣に座る花嫁に呟くウラ。
「この杯をどうすればよい?」
「三回に分けて飲み干してくださいまし。」とサン。
う、うん。と咳払いを一度してから、サンに言われた通りに杯を開けるウラ。極度の緊張の為か、中々酒が喉を通らない様子。普段たたら場中に響き渡るような大声で仲間達にハッパを掛けているときのウラとは似ても似つかぬ、その何とも微笑ましい光景を目の当たりにして思わず口元から笑みが漏れるレンであった。心底この男が妹サンの夫で良かったと思っている。
「おめでとう、サン。幸せにね。」と、これまた小声で呟きながら先ほどウラが空にした杯をサンに手渡し酒を満たす。
「はい。」と一言頷いた後、ゆっくりゆっくりと三度に分けて丁寧に杯を飲み干す。
―おおお~、と周囲から歓声が沸き起こってくる。アゾタケ~。馬のションベンじゃあるまいし、長説教もええ加減にしとけー!と、婚儀に参加したモノの中から声がした。
「何?」と、一瞬強張った表情でその声の主の方を振り返り睨みつけるアゾタケ。
しまった、という風に口に手を当てて首をすくめる声の主。
と、次の瞬間にはアゾタケは満面に笑みを浮かべて「そじゃの」と言い、祭儀の盛装を脱ぎ始めてしまったのだ。
「お父さん!」と慌ててレンも一応注意する振りをするが、もう誰にも止められないことは重々承知していて、はぁ、とため息をつくとサンと顔を見合わせていた。くすっと笑うサン。
「さあ、皆の衆。今日はしっかり酒を用意してあるけ。存分にこの若い二人を祝ってやってくれ。」と言ったときにはアゾタケは既に上半身裸になっていた。ゆめゆめシラフで帰ろうなどと思うなよ、とすごんで例の声の主に聞こえよがしに声を吐いた。
「はいはい、黍団子があがりましたよ。」と、奥から女子衆がセイロごと抱えて団子を運んできた。一つのセイロに三センチ大の団子が三十個は詰まっている。それが全部で八段重ね。結構な数である。「いよっ、待ってました。」「こっちにも一つ回してくれ。」と、一斉に団子に群がる。黍団子はこの吉備の地方の特産物である。その中でもとりわけアゾタケの家の黍団子の味には定評がある。
早くもその黍団子を一つ頬張りながら「アゾタケ、どうしておめぇん家の団子はこがーに旨いんかのぉ。」と尋ねた男がいた。「そりゃよ。ウラたちが分けてくれる『糖』が旨いからじゃ。」と、あっさり秘密を暴露した。何から何まで大たたら場衆には頭のあがらねぇことじゃ。と、心底感謝しているような面持ちで呟いた。
「そりゃそうと、アゾタケさ。」と、わざわざ遠く出雲からこの婚儀に出席する為に来ていた客人の一人が声を掛けた。「奈良の新都の事代主やカヤナルミの留守中に、西の果ての『倭』の一族が合流して、何やら善からぬことを企んどると言うが、何か情報は入っちょらんかね。」
「奈良とは連合国を作る、ということしか聞いとりゃせんが、それでその善からぬこと言うのはどういうことじゃ。」
「うん。どうも奈良は既に倭のモンに占領されちょるような。そんで、その倭の『四道将軍』とやらを各地に派遣して、戦をおっ始めるつもりのようでな。」
「おいおい、そりゃホンマに言いよんか。大事じゃがな。」一転して顔を曇らせるアゾタケ。少し考えてから宴席に参加している者の中からカントを呼び出した。三人は宴会場の片隅で頭を突き合わせるようにして話し始めた。事が事だけに誰に聞かれても大騒ぎになると考えてのことだった。
カントとは、吉備の国王に仕えながら主に政の一切を取り仕切っている実力者である。国王の名代として今日の婚儀に参加していた。
「すまんが、アゾタケ。宴席の途中で悪いがワシはこのことをオカミ(国主)に一応相談しておこうと思う。まあ、今日に明日にという問題でもないだろうから、アゾタケらぁはこのまま婚儀を続けてくれ。サンにも可愛そうじゃけえの。じぇけど、近々オカミを交えて評定をせにゃなるまいな。」後で連絡を遣すから、と挨拶もそぞろにカントは宴席を退出してしまった。
すっかり意気消沈してしまったアゾタケである。妙な胸騒ぎがしていけない。
何もなかったかのように酒を飲んで踊っている里民の連中たち。幸せそうに笑みを零しているサンの姿を見るとアゾタケの胸は締め付けられるような思いであった。
―何も起こらなければ良いが。と、強く心に願うのみであった。
ふと縁の外に眼を向けると、満開の桃の花のまわりにに季節外れの小雪がチラついていた。
もう一滴の酒も飲む気になれそうになかった。