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03 「好きなんじゃなかったの」


 当初、目安にしていた三ヶ月が瞬く間に過ぎていった。

 陽介の母が、申し訳なさそうに眉を下げながら菓子折りを持って来た。実里の母との協議の結果、実里のおさんどん見習いの延長が決まった。


 そのころになると、悠大はまるで天使のような笑みを、惜しげもなく実里に向けていた。

 家が隣の隣の隣と言うだけでそれほど親しくもなかった実里に、悠大は最初から気安かった。


 しかし、それは五歳児にどれほど無理を強いていただろうか。


 理由もろくに説明されないまま父を失い、母と触れ合う時間が減ったことは、繊細な年頃の悠大にとって天地を揺るがすほどの大事件であった。そのため、知り合い程度の他人など、容易く受け入れられることではなかった。


 見知らぬ実里に従順について回っていたのは、母と兄の緊張感を幼いながらに嗅ぎ取っていたからである。自分がいい子にしていれば、きっとまた前みたいに明るい家庭が戻って来る。きっとパパも戻って来る。兄と二人で過ごした一週間の間に、暗く冷たい布団の中で悠大はそう考えた。


 悠大にとって実里は、母よりも年が近く、保育園の先生よりも気の利かない人であった。

 他人の家で他人の世話をするのだから、至らない点が多くあった。それに、実里はまだ子育てをしたことがない。五歳の子供が不便に感じる細やかな部分を、感じ取れる技量がなかった。


 悠大は自分でパンツとシャツを箪笥から出すことを覚えた。トイレの時に蓋を開けるのも悠大の仕事になった。高いテーブルの上に置かれたコップを自分で取ることも。


 そして悠大は、実里に沢山のことを教えた。僕のパジャマはここにあるの。お兄ちゃんの使うマグはこれだよ。フライパンはここに入ってるんだよ。


 実里はその全てに、大きく感謝した。ありがとう、助かるな。悠ちゃんがいてくれて本当に助かった。悠大は実里の言葉に自信とやりがいを見つけていく。


 実里は毎日悠大を迎えに行った。悠大は毎日実里と手を繋いで帰った。いつしか悠大は、皆のために笑顔を浮かべるのではなく、自分のために笑顔を浮かべられるようになっていた。


 その心からの笑みを浮かべて、悠大は実里に抱き付いた。


「僕、みぃちゃんと結婚する!」


 きゅーん、と実里の胸が鳴っても仕方がないことだろう。柔らかなほっぺに頬ずりしたいのを必死に抑えた実里は、ぎゅっと悠大を抱きしめた。


 その様を見ながら、陽介は麻婆豆腐を口に入れた。幼い頃、自分もそんなことを言っていた気がしたのだ。


 麻婆豆腐はアツアツに温めなおされているが、味付けは悠大に合わせて甘いままだ。最初は『子供の好きなもの』が多かったが、最近は『悠大の好きなもの』へと変わってきている。確実に狭まってきた二人の距離は、まさにくっつき合っている今の二人の頬程に近いのかもしれない。


 悠大は最初から手のかかる子ではなかった。我儘を言わず、言うことをよく聞き、笑顔で返事をする。信頼関係を築いていない相手には、それだけで子どもの評価はグンと上がる。

 保育園の場所もご飯を作ることも大して心配していなかったが、一人っ子の実里は悠大の世話だけが心配だった。

 だが今、悠大が少しばかり手がかかっても実里はそれを負担だとは感じないだろう。

 今では、悠大は実里に浴室に入られることを拒まない。実里が袖をたくしあげて悠大の髪を洗っても、悠大は下を向いてきちんと待つことが出来る。

 悠大と実里に信頼関係が、きちんと出来上がってきている証拠だった。


 次第、当然のように実里が悠大に手間をかける時間が増えていく。実里は目に入れても痛くないほど悠大を可愛がり、悠大もよく実里に懐いた。

 実里の腰にへばりついている悠大を、陽介は黒歴史にならなきゃいいけどと思いながら横目で見ていた。





 そんなある日の事。陽介はいつも通り帰宅した。


 いつもなら、「おかえり」という弾む声と、パタパタと走って来る足音が二つあるはずなのに、今日はそれがなかった。


 「いらっしゃい」すら言えない空間で、一人陽介は迎えを待ってみた。いつも以上にゆっくりと靴を脱ぎ、部活鞄を棚に置き、制服をハンガーにかける。

 それでもまだ迎えは来なかった。陽介はいつの間にか自分が出迎えに慣れていたことに気付いて、少し気恥ずかしくなった。


 靴下を脱いだ陽介が、ぺたぺたぺたと素足でフローリングを歩く。節々が目立つ足は大きく、男の足をしていた。


 リビングに顔を覗かせると、ソファに実里が座っていた。実里は顔を上げると、驚いたように目を開く。


「あ、ごめんね。おかえりなさい」

 控えめな声量に陽介は自らも声を落とした。


「寝てるの?」

 実里の膝に悠大が寝転がっていた。薄く開いた小さな口から、規則正しい寝息が聞こえる。額に張り付いた髪からみて、寝入りばなだろう。浅く呼吸する胸が上下に動いている。閉じられた瞼を覗けば、小さな雫がまつ毛に浮かんでいた。


「……泣いてたんだ?」

 陽介を見上げていた実里が、悠大を見下ろす。小さな額の汗をぬぐうように、優しく撫でる。


「ご飯作ったり、お風呂入れたりはできるけど、やっぱり、お母さんじゃないし」


 実里の言葉に陽介は小さく頷いた。自分が五歳のころを思い出したのだ。

 あのころから二人は仕事で忙しく家にいないことが多かった。保育園の夜間ギリギリまで預けられていたり、どうしようもないときは明利の家に預けられたりしていたものだ。

 その頃の自分には明利と実里がいたが、今の悠大には自分しかいない。いや今は、陽介と実里と言えるのかもしれないが。


「――ベッドに連れて行くよ」

「もう少しだけ……こうしてたいな」

 いい? と見上げて小首を傾げる実里に陽介は頷いた。


「じゃあ風呂入って来る」

「あ、ごめん。まだお湯沸かしてなくって」


 最近、陽介の生活リズムを把握していた実里は、陽介が帰ってくるころになると必ず湯を沸かし直していた。膝で眠る悠大を見て、しょうがないとは思いつつもなんだか少し面白くない。


「風呂くらい自分で入れられるから」

「そうだよね、ごめん」

 実里はあっさりそう言うと、悠大に視線を落とした。慈しむような目を向けながら、何度も何度も頭を撫でている。陽介は視界から振り切るように、浴室へと向かった。



 陽介が風呂から上がっても、まだ悠大は膝の上にいた。実里はテレビも付けずに、ずっと悠大の背や頭を撫でている。


 陽介はむくむくと不愉快が胸の中で育っていくのを感じた。


 髪をがしがしタオルで乾かしながら冷蔵庫から牛乳を取り出した。冷蔵庫の開閉の音で気づいたのか、実里が慌てて顔を上げた。


「あ、もう出てきてたんだ」


 出てきちゃ悪いかよ。陽介はにこりと笑みを浮かべた。


「ごめんね、まだご飯の用意……」

「いいよ、温めればいいだけだよね」

「うん。ありがとう」

 ほっとした顔を浮かべる実里は、ソファから立ち上がりもしなかった。レンジでチンをしている間も、やはり実里は台所へ来ることは無かった。悠大はもう完全に寝入ってるはずだ。ソファに頭を置いて、いつものように対面の席に座ることだって、そんなに難しいことじゃない。


 俺が好きなんじゃなかったの。


 口には出さない不満が陽介の中に溢れた。


 温めたシチューをよそいながら、陽介はむかむかが収まらなかった。ちらりとソファを見れば、実里はまだ悠大の頭を撫でている。


 悠大の世話は小遣いの内に入ってても、俺の世話は入ってないからね。


 悠大を迎えに行って、風呂に入れて、ご飯を作って。それで本当は実里の仕事はおしまいなはずだ。それを実里の厚意でこの時間まで悠大と一緒にいてもらっているのだ。陽介への給仕まで強請るのはおかど違いだろう。そうはわかっているのに、いつもの席に実里がいないことが、シチューの味もよくわからないほど、何故だか楽しくなかった。


 スプーンに大きな鶏肉を載せて口に運んだ。母のシチューはベーコンだ。鶏肉は実里の味。一度作ったこれが受けて、悠大の大好物になった。それから、週に一度は大きな鶏肉がゴロゴロ入ったシチューを作る。手抜きだとは思わない。野菜も取れて、悠大も喜んで食べる。悠大のための立派なメニューだ。


 陽介は唐突に、今日実里を送り届けたくなくなった。

 実里の家は、同じマンション、同じ階にある。わざわざ送る必要があるかと問われれば、全くなかった。それでも、こんな夜遅くまで引き留めて迷惑をかけているのだからと、陽介は礼儀として毎日欠かさず送っていた。

 それを今日、陽介は送りたくなくなった。理由はわからない。ただこのシチューが、美味しくないからかもしれない。


 あぁそうだ、と陽介は気持ちの赴くままに口を開いた。


「彼女出来たから、今日から送ってやれない」


 動揺でもすればいい。そう思って淡々と陽介は言った。


 シチューから視線を外して実里を見た。きっと今頃固まっているだろう。そう思って見つめた先にいる実里は、陽介に一瞥もくれることなく、悠大の頭を撫で続けていた。


 ――なんだよそれ。


「そっかぁ。じゃあ私も、彼女さんに誤解されると困るだろうし、来るのやめた方がいいね」


 なんだよそれ。今日から送ってやれないって、言っただけなのに。陽介はスプーンを置いた。もうこの泥のようなシチューを食べられる気がしなかったのだ。


 来るな、なんて一言も言っていない。今日から送ってやれないと、そう言っただけだ。つまり、明日も明後日も、実里がここに来ることが前提にある言葉だったはずだ。

 陽介はどうにもならない胸のもやもやを、どう吐きだせばいいのか迷っていた。


 陽介がスプーンを置いたことに、実里は気づいていた。けれど今顔をそちらへ向ける気にはなれなかった。悠大の天使のような寝顔を見て少しでも気を紛らわしていないと、涙が滲みそうだったからだ。


「そんなこと、気にする相手じゃないけど」

 陽介の言葉に、恋人との深い信頼関係を見つけた実里は言葉に詰まった。こんな話を、ここに来る限り、もしかしてこれからも聞かされるのだろうか。それならもう、やっぱり来たくはない。


「そんなわけいかないよ。私が彼女だったらやだもん。そうだ。悠ちゃんをうちに連れて帰っておこうか?」


 まるで、名案だとでもいうように実里が明るい声で言う。


「帰りに辻浦君がうちに迎えに来てくれれば――」

「嘘だから」


 それ以上実里の言葉を聞けなくて、陽介は口を開く。


「え?」

「彼女、嘘だから。気にしないでいいよ」


 にこりと微笑んだ陽介に、実里は少し小首を傾げた。


「……そう、なの? わかった。辻浦君でもそういう冗談言ったりするんだね」

 ふふ、と笑う実里の目元に皺が寄った。陽介は、こんな話題の後に笑える実里の神経についていけない。けれどもそれを見せないように必死に笑顔を取り繕った。


 陽介はシチューを掻き込むと、両手を合わせて席を立った。シンクにつけて、玄関まで戻る。バッグに突っ込んであった携帯を取り出すと、メール画面を開いた。今日告白されていた女友達の一人に、高速でメールを打つ。


[ 昼間の返事だけど、ごめん ]

 すぐに返信が届く。

[ わかってたから気にすんな (^o^)/ これからもヨロシク ]


 陽介は携帯を両手に握って、ずるずると床にしゃがみ込んだ。


 実里は、自分に恋人が出来れば平気で切り捨てるつもりだ。

 悠大だけを連れて。


 最初に感じていたあの優越感は、なんだったのだろうか。陽介が深く息を吐く。


 実里は本当は、自分なんてどうでもよかったのだろうか。本当にただの親切心で、幼馴染のよしみで。俺が困っていたから。手を差し伸べただけ?

 それとも、弟を顧みらずに部活にばかりかまけてる姿を見て失望したとか?

 どちらにしろ、自分の立ち位置が限りなく低いことを、陽介はしっかり自覚させられた。


 恋人が出来れば、実里の言う通り彼女は微妙すぎる立場にいることになるだろう。家の事情があろうとも、同じ年の異性の幼馴染が毎日通っているなんて、恋人から見て嬉しいことでないのは明らかだ。

 だからと言って、交代はできない。実里との関係は、親同士の付き合いと、幼い頃からの信頼で成り立っている。それは、陽介の恋人になったばかりの赤の他人に任せられることではない。

 実里の代わりはいない。利用していただけのつもりだったのに、実里は我が家にとって、無くてはならない存在になっていた。


 いや違う。陽介はその可能性を見たくなくて膝に顔を埋めた。


 違う。家にとって必要な存在なら、実里が言ったように彼女の家に悠大を連れて帰ればいいのだ。そうできないのは、したくないのは。考えるよりも先に、自分の口が実里に告げていた。


 思えば、幼馴染なのに。毎日うちに来ているという理由があるのに。実里はそれを利用しなかった。もし本当に惚れているのなら、クラスが違う陽介に近づく格好の餌のはずだ。とってつけたような理由で話しかけて来る女生徒など腐るほどいるのに、実里は鍵を渡したとき以外、一度だって陽介を訪れたことは無かった。あれだって、会わなければいけない理由があっただけの事。


 あれ、俺。思ってたより好かれてない?


 陽介はその日初めて、実里が怖いと思った。




***




 今日の朝練に明利が来なかった。

 明利はたまに朝練を休む。それは家庭の事情として部活には話を通してあるので問題はない。ただ、今日はいつもより登校自体ものんびりだったようだ。

 朝練を終え、部室棟で着替えると陽介は教室へと向かった。窓際にある自分の席に腰を掛け、なんとなしに頬杖をついて窓の外を見ていた。


 門を潜る生徒は和気あいあいと話に花を咲かせている。まだ急ぐほどの時間ではないので、慌てている人間は皆無だった。のんびりと人の流れを感じていたその時、陽介は目を見張る。


 明利がやってきた。楽しそうに笑顔を向けながら、隣に並ぶ女生徒に笑いかけていた。女生徒も明利に向け、向日葵のような笑顔を向けている。


 実里だった。


 だからなんだっていうんだ。陽介は、見てはいけないものを見た気がして目を逸らした。バクバクと、試合前のように心臓が高鳴る。


 実里が自分を、もしかしてそんなに好きじゃないんじゃないかと自覚してから。陽介は必要以上に実里を気にするようになっていた。


 実里が陽介を好いてようが、好いていなかろうが、彼女が悠大を迎えに行って飯を作ってくれれば、それだけでよかったはずだ。それ以上のことは何も望んでいなかったはず。なのに。


 心を落ち着けて、もう一度見た。そこに明利と実里の姿はもうなくなっている。陽介は苛立ったような、ほっとしたような、奇妙な感覚を味わった。


 明利と実里が一緒に登校しても、何もおかしいことは無い。三人は幼馴染で、実里と明利は小さなころから気が合っていた。体を動かすことが好きな陽介が明利を連れまわっていたが、明利は実里と室内で遊ぶことを好んでいたのだ。自分と実里の距離が縮まっているのだ。二人が再び仲良く距離を縮めていたとしても、何の不思議もない。


 なのに、胸に大きな泥団子を詰め込まれたような不快感が肺を満たす。


 明利が教室に入ってきた。実里はもちろんいない。陽介は何気なさを装って、明利の席に近づいた。

「よっ」

「はよ」

 明利は鞄を背から降ろすと、引き出しの中に教科書をしまっていく。


「ばあちゃん見送ってきたんだ?」

「そう。今日デイサービスの日だったから」

 明利は祖母と一緒に住んでいる。まだまだ元気だが、張り合いのために通所介護に通っていた。その見送りのために、朝早く出かける両親に変わって週に一度明利が留守番をするのだ。


「ばあちゃん元気?」

「あぁ、陽にも会いたがってたよ。相変わらずうるさいか? って」

「もうそんなうるさくないわ」

「どうだか」

 明利は喉を鳴らして笑った。


「いつもよりゆっくりだったな」

「あぁ、今日迎えが新人さんでさ……手間取ってたんだ」

「へぇ」

「おかげで出るの遅れて、片付けにも参加できなかった」


 そんなこと、どうだっていい。片付けは自分がやるし、他にも一年はまだいる。ボールやポールの片づけの是非よりも、もっと聞きたいことが陽介にはあった。


「あ、でも。みぃはこの時間に登校してるっポイね」

 出掛けに会ったんだ。そう続けた明利に、感づかれぬよう陽介が相槌を打った。

「へぇ」

「この間、陽を呼び出してたよね。なんかあった?」

「あぁ――」


 今、母に頼まれて悠大の面倒を見るためにうちに通ってる。

 そう答えるのはとても簡単なのに、そう答えるべきだとわかっているのに、陽介は明利ににこりと笑った。


「ちょっとな。今仲良いんだ」

「……ふーん、いいけど。またみぃ泣かさないでね」

 みぃ、という呼び名に、どれほど陽介が焦れているかも知らないで明利は気楽に言った。


「また、って?」

「あんだけ泣かしておいてよく言うよ。いっつも、陽ちゃんが陽ちゃんが、って泣きながら俺んとこ来てたじゃん」


 喧嘩売ってんの、お前。


 そう思った陽介であったが、明利に他意はないようだ。携帯を取り出して、スイスイと操作し始めた。


 これ以上明利から聞き出すのは難しいかなと考えた陽介は、自席に戻ろうと体を翻す。


「陽」

 明利に呼ばれ、首を捻った。


「実里は遊びに向かないからね」


 真っ直ぐな明利の言葉に、「リョーカイデス」と陽介は両手を上げた。





 遊びに向かないなんて、明利に言われるまでもなく知っている。


 陽介はもだもだを抱えたまま授業に励み、部活に打ち込み、帰宅した。纏わりつく悠大を軽く躱して、陽介はジャージを脱いでマフラーを外す。

 遅れてやってきた実里が、何も知らない能天気な顔で「おかえりなさい」と言った。


「――ただいま。今日の飯何?」

「ん? えっとね、コロッケもどきと、イカときのこのパスタだよ。お腹空いてた? ごめんね、お米届くの明日で――」

「いいよ、ありがと」


 いつも聞かないことを聞けば不審がられる。陽介は湯船に浸かりながらそう感じた。

 しかし、やはり気になる。陽介は何と言って聞き出そうかと考えながら、脱衣所に向かった。





「あっくん?」


 この一言で、陽介は自分のこめかみがピクリと脈打ったのを感じた。

 にこりと微笑んだ陽介に、実里は引いている。自分から振ってきておいて、なんで怒ってんだとでも思ってるんだろう。陽介だって、思ってる。まさかたった、そんな一言で。自分の足場が分からなくなるほど動揺するとは、思わなかった。


「う、うん。確かに一緒に来たけど……言っとくけど、私のせいで朝練遅れさせたわけじゃないよ?」

「わかってるよ」

 笑顔のままぶっきら棒に応える陽介に、実里は困ったように眉を下げた。


「どうしたの? 喧嘩した?」

「まさか」


 至って普通。そう、普通。そう思っているのに、陽介は頭の中で明利のスパイクを悉くブロックしていた。


 ――あっくん。


 今は自分には向けられない信頼の言葉に、歯がゆくて堪らない。


「お、おばちゃんにはなんか作るから、おばちゃんの分も、はい。コロッケ、一個」

 空腹のために不機嫌と取ったのか、はたまた好物で機嫌を取ろうとしたのかはわからないが、陽介は皿にのこのことやってきたコロッケをフォークで刺し、二口で飲み込んだ。




***




「あ、雨」

 明利の声に、部活中だった陽介は体育館の窓を見上げた。先ほどまで晴れていた空は、厚い雲で覆われ強い雨を降らせている。ゲリラ豪雨、と最近よくテレビで聞く単語を思い出す。

 ボールをいじりながら明利が呟いた。

「今日傘持って来てないや」

 実里もだろうな、と陽介は思った。


 体育館に掛けられている時計を陽介が見る。今頃幼稚園へ迎えに行っているほどだろう。運が良ければ忘れ物の傘を借りられるかもしれないが……。今は冬だ。少しでも濡れれば、たちどころに体を冷やすだろう。

 陽介は物憂げに空を見上げていた。



「ただいま」

 結局、早く帰ってきてしまった。

 玄関には二人の靴がしっかりと並べられている。

 とりあえず無事に帰ってこれたようだ。どこかで立ち往生しているのなら、傘を持って迎えに行こうと思っていた陽介はほっと息を吐きだす。


 陽介が急いでも何もできることは無いとわかっていたのに、気が散って仕方がなく、気づけばコーチに願い出ていた。

 陽介が帰るころには、ゲリラ豪雨も過ぎ去り小雨となっていた。ジャージの裾に泥水をひっかけながら、陽介は走って帰ってきたのだった。


「お兄ちゃん? お兄ちゃんだ!」

 あまりにも早い兄の帰宅に驚いた声をあげた悠大が、脱衣所から顔を覗かせる。兄の姿を確認した悠大は、濡れ鼠に向かって一目散に駆けた。


「悠ちゃん? お兄ちゃんって……待ってまだ髪の毛拭けて、わあ!?」

 駆け寄ってきた悠大が抱き付こうとするので、濡れぬように手で距離を取らせていた陽介は目を見開いた。脱衣所からタオルを持って顔を出した実里が、予期せぬ恰好をしていたからだ。


 持っていたタオルのおかげで肌色の部分はほぼ見えなかったが、それでも陽介を驚きに固まらせるには十分な威力だった。滅多なことでは驚かない陽介だったが、今、空いた口を塞ぐ余裕すらない。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん?」

 悠大に袖を引かれて、ようやく陽介の意識が戻る。

「ただいま。風呂入ってたの?」


 なんとか言葉は舌に乗るが、それ以上のなにものでもない。覗いた肩が、濡れた髪が、白い首が。

 脳裏にちらつく。


「うん! みぃちゃんと」

「ごめんね、雨に濡れちゃって……こんなに早く辻浦君帰ってくると思わなくて、悠ちゃんが誘ってくれたからそのまま……遠慮すればよかったね、急ぐから、ちょっと待って」

 脱衣所からくぐもった声が聞こえる。大慌てで髪を拭いているのだろう。焦っているのか、いつもよりずいぶんと口数が多い。陽介はなぜか、頭を抱えたくなった。


「みぃちゃんねぇ、おへそ綺麗だったよー」

「ゆーーちゃーーーーん! しゃらーーっぷ!!」

 脱衣所で大きな悲鳴が上がる。陽介は白い肌に刻まれたへそを想像しないように頭を振りながら声をかけた。


「みぃ、着替えはあるの?」

「……な、ないです……」

 あぁ本当だ、どうしよう。先に取りに帰ってればよかった。と嘆く実里の声を聞きながら、陽介は自室へと向かった。

 適当にタンスから服を引っ掴む。陽介はそのTシャツを見て、少し考える。Tシャツをタンスにしまい、自分の服の中でもゆったりめのパーカーを選んだ。


「悠大、これ持って行ってきて」

「わかった!」

 走り抜ける弟に知られぬように、陽介は一度だけ肺を満たしていた空気を吐きだした。



 襟ぐりの広がったパーカーを羽織った実里が、居た堪れないという顔をして脱衣所から出てくる。再び目に入った白い肌に陽介は、泥にまみれていた幼かったみぃが、本当に女の子だったのだと何故か強く感じた。


「俺も風呂行ってくる」

「長々と脱衣所に立て籠もっててごめんね……」


 ちらつく白い肌、動く桃色の唇。陽介がにこりと微笑む。


「いいよ。なんかあったかいのでも飲んでゆっくりしてたら。今日は俺も夕飯手伝うから」


 ありがとうーとのんびり返した実里は、諸事情により少しばかり長く浴室にいた陽介を待ちきれずに、夕食を作り始めていた。






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