02 「開いた距離はどれぐらい?」
「あれ、辻浦。お前本当に復帰になったのか」
「うぃーっす」
体育館に響くシューズと床がこすれる音の中で、陽介は先輩に声をかけられ頭を下げた。中学のころからお世話になっている先輩は、今は自分よりも高い陽介の頭を撫でながら喜色を浮かべる。
「よかったなー! 家の方、どうにかなりそうなのか?」
「そっすね。ぼちぼちっす」
「そうかそうか、今のうちに親孝行しとけよ……親なんて、いつどうなるか、わかんねえんだからな……」
「先輩のご両親、昨日も元気に部に差し入れ持って来てくれましたよね」
あざまっす、と悲壮感を演出する先輩に陽介が頭を下げると、彼はがははと笑った。
どうなるかわからない。それは陽介が一番感じていた。
陽介が中学を卒業するのと同時に母は離婚した。高校に入学して半年がたち、母の旧姓であった辻浦にもようやく慣れてきたところである。
「なんだつまらん。もちっとかまえや。まぁじゃあ俺がかまってやるか。ブロック練習すっぞ」
「しゃーっす!!」
勢いよく頭を下げる陽介に、先輩は大きく笑った。
未だに、帰ると実里がいる状況に慣れない。陽介は、帰宅後に実里の顔を見る度に驚いていた。
実里の羽織っているエプロンを、母が身に付けているところを見たことはなかった。自宅から持って来たのか、それとも母がエプロンをしなかっただけでもともと我が家にあったのか。実里が来て浮き彫りになる我が家の隙間風に、陽介は少しばかり自嘲の笑みが漏れそうだった。
二人の学校での様子は、実里が家に来るようになる前と何も変わらなかった。
相変わらず二人の行動圏内は違うので、四日に一度姿を見ればいい方だった。すれ違うことなんて、一週間に一度あるかないか。二人はこれまで、本当に接点のない生活を送っていた。
すれ違ったからと言って、お互いに話しかけることもなかった。
陽介はそれが不思議だった。無くしていた接点を再び設けたのだから、ここぞとばかりに話しかけてくるものだと思っていたのだ。その時は優しい顔で、実里を取り込もうと思っていた。部活を続けたい陽介にとって、実里はとても利用価値のある存在だったからだ。
しかし、家でも頻繁に話しかるわけではない実里が、学校でなど、尚更陽介に話しかけるはずもなかった。それが陽介には不思議で、少しだけ面白くない。
「それは佐保ちゃんがさー」
「実里だって前言ってたじゃん」
しかしまぁ、と陽介は視線を窓の外に向ける。移動教室なのか、実里が友達と廊下を歩いていた。
陽介が視線を動かすと、当たり前のように目が合った。
実里が近づいてきていることを、陽介は声で把握することが出来ていた。しかし、廊下から覗くことしか出来ない実里は、小さな窓の向こうの何処に陽介がいるのかわからなかったのだろう。実里が教室を見渡そうとした瞬間に、陽介と目が合ったのだ。
「どうしたの、陽」
「なんでもない」
前の席に座っていた明利が不思議そうな顔をして陽介を見た。
全く関係のないクラスで、実里が教室を見渡す理由。目が合った瞬間に少しばかりきょどる実里の姿に、陽介は笑いを堪えることが出来なかった。
***
実里は毎日下校途中に保育園に寄り、悠大と手を繋いで帰る。辻浦家に通い始めて一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、三週間が過ぎたころには、レパートリーも増え、少しずつ実里の手際もよくなっていった。
生焼けや焦がし事故も減り、僅かではあるが料理の腕も上達している。
野菜たっぷりのお好み焼きを食べ終えた陽介に、実里はいつものように笑顔を返す。食器を洗って悠大に手を振ると、玄関へと向かった。
陽介は口数が少ない方ではないが、実里相手にべらべらとしゃべりかけることはない。必然的に、二人でいるときは無言の時間が長くなる。居心地がいいとは言えない沈黙の中、実里は足を進めた。
実里が玄関で靴を履いていると、陽介がドアを開けた。待たせるのはよくないと、慌てて立ち上がった実里は玄関に掛けられていた陽介のブレザーが目に入った。
あ、ボタン取れかかってる。
明日裁縫道具を持ってこよう、と実里はドアを潜り抜けた。
「辻浦―」
「はいッ」
翌日の部活中、陽介は大きな声で返事をした。体育館に響き渡るような透る声だったが、誰もそんなことを気に留めない。皆それぞれに、ただ目の前のボールを追いかけている。
陽介は共に練習をしていた先輩に断わり、コートの隅へと駆けていく。そこには複数のユニフォームに囲まれたマネージャーが、裁縫道具を手に黙々と手を動かしていた。
「なんすか?」
「今朝見かけたけど、制服のボタン取れかかってたでしょ。貸して、一緒につけちゃうから」
マネージャーは顔も上げずにそう言った。ユニフォームのほつれた部分を纏っているのだろう。危なげない手つきですいすいと手を動かしている。
陽介は自分の制服のボタンが緩んでいることに、もちろん気づいていた。取れてしまってから付ければいいやと思っていた陽介は、マネージャーの言葉に驚いて目を丸くする。
「いいんすか?」
「悪けりゃ言わない。ほら、取って来る!」
「あざまっすっ」
陽介はマネージャーに頭を下げると、ロッカーへと向かう。マネージャーに差し出した制服はその日の帰りに返ってきた。全てを修繕してくれたようで、緩んだボタンは一つもなくなっていた。礼を告げ、陽介は袖を通した。
「ただいまー」
「おかえりー!」
「おかえりなさい」
帰ってきた陽介は、いつものように実里に「いらっしゃい」と笑顔で告げた。実里はそれに「お風呂沸いてるよ」といつものように応える。
腰に引っ付いた悠大を引きずりながら浴室へと陽介が向かった。
「よしっ」
陽介が風呂に入っている間に片してしまおう、と実里がブレザーに手を伸ばす。しかし、制服に触れる前にピタリと実里の指先が止まった。
ボタンがついていたのだ。
ゆっくりと触れて、前身ごろを捲る。そこは、丁寧に纏られていた。全てのボタンが、同じように。美しいステッチで。
小学生のころ、ナップサックさえ作れずに実里に助けを求めてきた陽介がこれほど綺麗にボタンを止められるはずがない。それは彼の母も同様である。
丁寧な縫い目に指を這わす。しっかりと止められたボタンに、裏面まで整った縫い目。実里は知らないうちに、ため息を吐きだしていた。
そっか。こういうこと、してくれる人。いるんだ。
出しゃばっちゃったな、と。自分の軽率な行動を恥じた実里は、ブレザーから手を離した。
***
「お兄ちゃん、ハンバーグ作って」
「え」
実里の料理は日を追うごとにステップアップしていく。今ではほぼすべての食べ物を、難なく飲み込んでいくことが出来る。味付けも悠大好みのものになっていた。
平日は、悠大と共に帰ってきた実里が冷蔵庫にあるもので料理を作る。冷蔵庫の中は、宅配されたものや、たまに陽介の母が買ってきたものが詰め込まれていた。
悠大の風呂も、ご飯も、テキパキとこなせるようになっていた。悠大は完全に実里に慣れ、そしてまた陽介も慣れ始めていた。
実里がいるのは平日限りである。
しかし、深夜帰りを繰り返す母が、土日だからといって仕事を休めるはずもなかった。陽介も朝から晩まで部活付けで、たまに遠く離れた県外まで遠征に出かける場合もある。そのため、悠大は基本的に土日を母の実家で過ごした。
土曜の朝に預けて、月曜日の朝に祖父母が幼稚園へ送っていく。そして、月曜日の夕方に実里と帰ってくるのだ。
だが、今週は祖父母の都合がつかなかった。町内会で会計係りをしている関係で、どうしても外せない催しに出なければならなかったからだ。もちろんそこで悠大の面倒を見れるわけもなく、陽介が部活を休んで子守することになった。
陽介は一人で遊んでいる悠大の隣で雑誌を読んでいた。もっと悠大が小さなころは、わけのわからない子供の遊びにずっと付き合ってやらなければならなかった。雑誌を読むなど言語道断で、延々と積み木を重ねては崩しての繰り返し。気が遠くなるような三十分を過ごした後は、しばらく積み木を見たくないと思うほどであった。
それが今やどうだろう。雑誌に目を通しながら、弟の成長をしみじみと感じる休日の午後。たまにはこんな風にのんびりとした日もいいかもしれない、と陽介は感じていた。
しかしそれは、先ほどの台詞を言われるまでの事だった。
「……俺が作るの?」
「うん! こないだみぃちゃんに作ってもらったの、美味しかったなぁ」
じゃあ明日まで我慢して、みぃちゃんに作ってもらえよ。そう続けられなかったのは、キラキラとした弟の瞳が眩しかったからだ。
弟は、兄である陽介は何でもできると、半ば真剣に思っている。背が高く、運動が得意で、人との接し方もスマートな兄は、悠大にとってテレビの中のヒーローよりも身近で、それでいて格好いい存在だった。
「……買い物、行く?」
「行くー!」
お帽子、お帽子~と玄関へ向かう悠大に遅れぬよう、陽介は携帯と財布をポケットに突っ込んだ。今はレシピをメモしなくても、ネットでどうとでも検索できる。便利な世の中になったもんだと、靴下を一生懸命はく悠大を見ながら感じていた。
見知らぬ香草の類は一切いれなかった。塩と胡椒。陽介がタネに入れたスパイスはそれだけだった。
材料を指示通りに入れていけば、なんてことはない。見事にピンク色のタネがボウルの中で光っていた。手伝った悠大も、ボウルを見て喜んでいる。レシピに従い、陽介はこれを2時間寝かせることにした。
2時間後――正確に言えば、1時間と48分後。待ちきれなかった陽介と悠大は冷蔵庫からいそいそとボウルを取り出して二人でこねた。小判型に整えたタネの真ん中に、二人で笑い合いながらくぼみを付けていく。
いくつか仕上がったタネを皿に並べる。ボウルの中が空になると、油を敷いたフライパンにタネを転がした。大きなハンバーグは、陽介が成形したもの。小さなハンバーグは、悠大が整えたものだった。
親子ほども大きさの違うハンバーグが、フライパンの中で蒸されていく。レシピに従い、裏返して、水を注いで、蓋をして。次第に蒸気と油はねで、フライパンの中身が見えなくなっていった。陽介と悠大は、わくわくとフライパンの中を覗いている。
汚れ物が溜まったシンクの隣で、二人はフライパンの中でハンバーグが焼ける音にだけ集中している。
焼き時間通り火を止め、フライパンの蓋を開けると、蒸気が一斉に換気扇に流れていく。おおお、と覗きこむ悠大が鼻の上に皺を寄せた。
「……こげちゃってる」
大きな陽介のハンバーグは無事なものの、小さな悠大のハンバーグは焦げ付いてフライパンにへばりついていた。陽介はレシピに従い爪楊枝でハンバーグを刺す。小さなハンバーグには火が通っているものの、大きな方はまだのようだ。小さな方を皿に取り出すと、再びフライパンに水を入れて蓋をした。
しばらくたち、また爪楊枝を刺した。じゅわりと肉汁が溢れる。中まで火が通っていることを確認し、ハンバーグをフライ返しで皿に乗せる。
悠大が炊き上がっていたご飯を、お茶碗によそっていた。ダイニングテーブルに、こつんこつんと音を立てて皿を並べる。
「ほら、いただきますするぞ」
「い、いいの?!」
「当たり前」
にっと笑う陽介に、悠大は顔を輝かせた。
悠大の席の前に置かれた皿の上には、陽介の握った大きなハンバーグがある。フライ返しで取り上げる瞬間に少し形が崩れたが、ハンバーグはハンバーグである。空気を抜かなかったハンバーグは、フライ返しからはみ出た自重に耐え切れずにポロポロと崩れたのだ。
子供用の小さなお茶碗に盛られた白ご飯と、自分の顔の大きさほどもあるハンバーグ。
大盛りのご飯と、小さな焦げたハンバーグ。
二人はそれぞれに手を合わせると、声を合わせて「いただきます」と言った。
悠大が小さな手で箸を持ち、上手にハンバーグを口に運ぶ。陽介は固唾を飲んで見守っていた。
悠大はハムッと咥え、口を動かした。
もぐもぐもぐ、もぐもぐもぐ……。
「お兄ちゃん、硬い」
「えっ!」
陽介は小さなハンバーグを食べた。焦げた表面をこそぎ落とせば、それほど味は目立たない。
「俺のは硬くないけどなぁ……そっちちょっと食べていい?」
「うん」
「……うわっ、かた。残していいからな」
バレーで鍛えた陽介の腕でこねられまくったハンバーグは、普通よりも火を通さなければならなかった。更に、大きく形成しすぎたハンバーグはより加熱を必要とする。こねすぎた上に焼きすぎたハンバーグは、ガチガチに硬くなっていた。
「でも美味しいよ!」
もぐもぐもぐ。
必死に口を動かす悠大の慰めに、陽介は力なく笑った。
「あれ」
月曜日。実里は冷蔵庫を開けて声を上げた。ラップに包まれた、見慣れぬハンバーグを見つけたのだ。
皿の上には、大小さまざまなハンバーグが盛られている。幾つか減っているように見えるが、その数は多かった。
「お裾分けかな?」
土日に悠大が祖父母の家に行っていることを知っている実里は、首を傾げながらも皿を手に取った。後ろから、とたたと足音が聞こえる。
「みぃちゃーん! ……あ!ハンバーグ!」
「うん。悠ちゃんこれ、どうしたか知ってる?」
「それね、昨日作ったんだよ。僕とお兄ちゃんで!」
「えっ!? 作ったの?!悠ちゃんと陽ちゃんが?!」
驚いてしまったせいで、実里はつい以前どおりの呼び方をしてしまった。しかし全く気付いていないのか、悠大はうんうんと満面の笑みで頷いた。
「すごいでしょ、僕たちが作ったんだよ! おっきいのはちょっと硬くなっちゃったけど……でも美味しかったんだよ!」
「そっかぁ……すごいね、すごいねぇ」
上手にできたね。と実里は悠大の頭を何度も何度も撫でた。悠大はへへへと口を緩めて実里を見上げている。
「これ、今日のお夕飯に使わせてもらっても大丈夫かなぁ」
「うん! いいよ! みぃちゃんも食べてね!」
「ありがとう」
へへーと二人は笑い合いながら、お風呂を沸かしに浴室へと向かった。
「おかえり! お兄ちゃん! あのね、あのね」
悠大は帰ってきた陽介に纏わりついて、今日の話を聞かせていた。玄関先で足元にくっつかれている陽介は、邪険に扱わずに頷きながら悠大の話を聞いている。
「今日はね、先生があおむしくんのパネルシアターをしてくれてね」
「悠大の好きなおっぱいのおっきい先生?」
「そう! 友恵先生!」
なんの話をしとるんじゃ。突っ込みたい言葉を必死に呑み込んで、実里は声をかけた。
「辻浦君、おかえり。お風呂沸いてるよ」
「ありがと」
にっこりと陽介が微笑む姿に、実里はささやかに微笑み返す。
「早く上がってね! 早く、早くね!」
今にもズボンを引き摺り下ろしそうな悠大に、わかったわかった、と陽介は答えた。
「じゃじゃーん! 見て見て、今日はロールキャベツだよ!」
コンソメ色のスープに浮かぶ、俵型の具材を、陽介はタオルでガシガシと髪の毛を拭いながら見つめていた。
「僕がね、みぃちゃんに昨日のハンバーグ柔らかくしてってお願いしたの。そしたらね、ロールキャベツになって、ハンバーグ、すんごく柔らかくなったんだよ!」
「へぇー」
ロールキャベツの隣には、コンソメで煮たジャガイモやブロッコリー、ニンジン、玉ねぎが添えられている。スープを吸ったハンバーグも柔らかくなり、野菜も取れて一石二鳥だろう。わかっているのに、陽介は何故か少し面白くなかった。
「ごめんね、勝手しちゃって」
「いいよ、飯は任せてるんだから」
陽介は椅子を引い席についた。実里は前の椅子に座る。いつもはソファで遊んでいる悠大も、実里の膝によじ登った。
五歳児と言えば、もうすぐ小学生である。陽介と似て発育のいい悠大は、すでに120cmもある。実里の膝の上に座ると、その大きさがよくわかる。実里と既に顔の大きさは同じぐらいのサイズだった。
実里はごく自然に膝にいる悠大を撫でると、陽介が食べるのを見守った。陽介は一瞥して、手を合わせる。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
いつもの言葉で、陽介は食べ始めた。
ジャガイモは口に頬るとほろりと崩れた。コンソメがよく聞いていて、もさもさした野菜が苦手な悠大でも食べやすかっただろう。
意を決して陽介がロールキャベツを口に放った。一口でパクンと食べた陽介に、実里が仰天する。大きなハンバーグを分割してキャベツで巻いたとはいえ、一つの大きさはそこそこあったからだ。
もぐもぐ、と咀嚼する陽介を、実里は固唾を飲んで見守る。
「……柔らかくなってる」
実里は少しおかしくなった。悠大と、全く同じ顔をしていたからだ。
「辻浦君の焼いたハンバーグ、美味しかったよ」
「食べたんだ?」
「うん。私チーズ苦手なの」
なるほど、と陽介は飲み込んだロールキャベツを思い出した。ハンバーグとハンバーグの隙間に、悠大の大好物のとろけるチーズが挟まれていたのだ。
陽介が、ガツガツと部活帰りの空きっ腹に飯を詰めていく。教育の甲斐あって、晩御飯は陽介にとって適量が盛られるようになっていた。
「ご馳走様でした」
「私こそ、ご馳走様でした」
陽介はスープの一滴まで飲み干して手を合わせた。
――辻浦君の焼いたハンバーグ、美味しかったよ
その言葉を聞いただけで、なんとなく憎かったロールキャベツが、とても美味しくなっていたから。