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カム・トゥ・エルフ・ステイト

「あの日、俺たちは知る由もなかったんだけどね」

 俺はその秘密を語り始めた。

「あの山では、とんでもない計画が実行されようとしていたんだ」

「とんでもない計画……?」

 俺の背中に捕まって、綿天が不安そうな声を出す。

 きっと、その表情も不安げなんだろう。

「あの頃……エルフ国とこっちの世界の国交が途絶する前は、今とほとんど同じ〝橋〟が懸けられていたんだ」

「ほとんどって……なにか違うところがあるの?」

 綿天の適切な質問に俺は頷く。

「うん。一つは、昔は世界各国のいろんな場所に〝橋〟が設けられていたこと。もう一つは──今懸けられている〝橋〟が、一時的に二つの世界を繋ぐための仮設の橋だってこと」

「仮設……?」

 綿天の不審そうな声。

 綿天は感情を身体全体で素直に表現してくれるから、話していて心地いい。

 俺は綿天が抱いた疑問に答える。

「時間帯だったり場所だったり数だったり、今の仮設の〝橋〟にはいくつかの制限があるんだ。それが二つ目の違い」

「なんで、いまの〝橋〟は仮設なの? 昔はちゃんとしてたんだよね?」

 矢継ぎ早に俺の背中を揺らす綿天に、どう順序立てて答えようか少し迷う。

「えっと、それが一番大事なところなんだけどね」

 フリーヤニルはしきりに辺りの匂いを嗅ぎながら六つの歩を進める。

 綿天には見つけられないだろうけど、近くの樹や岩場にはたくさんの動物がいる。栗鼠(りす)や亀、それに鹿もいるようだ。

 この森は豊かで美しい。

「その前に、エルフ国が友好を申し出て……たくさんのことが変わったよね?」

「え? それって……えっと、国際法がどうとか、産業とか経済がなんたら……って話?」

「そうだね。大ざっぱだけど間違ってない」

 やっぱり、高等学校ではエルフ国のことを勉強してくれていたりするんだろうか。

「特に工学、化学工業……だっけ? ものづくりの分野で、エルフ国参入による世界のダメージは大きかった」

「あ……そのへんって最近やったかも。たしか、食べものとか観光とか、いろいろな分野でエルフ国が……台頭? してきたけど、いちばんダメージを受けたのは工場とかだって」

「なんでかは知ってる?」

「えっと………」

 考えて、綿天は黙ってしまった。俺はその様子に苦笑して、

「エルフが魔法を使うから、って習わなかった?」

「あ、そう! それそれ! でもなんでだっけ?」

 綿天は何度も縦に振ってから、その首をくりんと横に傾ける。

「食べものも観光も、魔法を使ったら絶対影響は大きいと思うんだけど……」

「なかったわけじゃないよ。実際、どの分野でも目新しさや好奇心から、俺達が人間から得る利益は大きかった」

 長く横に伸びた耳が何かを掴んだ。

 さわさわと、大木の葉がしんとした森に音を作るのに重なって、川のせせらぎが交じる。

 近くに、隣接する山から流れる川があるらしい。フリーヤニルもそれを感じたのか、蹄を鳴らす方向を微妙に変える。

「そのなかでも、エルフ国の利益が一番大きかったのがものづくりの分野だったんだ。リスクやコストがかかるとはいえ、人間がやるよりも遥かに低い……人間的に言えば低いエネルギーで、エルフは魔法を駆使して物を作ったり加工したりできる。人間があちこちに作っているような大規模な工場や装置がなくても、人間には作り出せない神秘的な品々を、比較的容易に作ることができる」

「そ、そうなんだ……」

 ちょっと説明が難しすぎたかもしれない。綿天が若干引き気味だ。

 これでも噛み砕いて説明したつもりなんだけどな。

「まあそういう経緯(いきさつ)もあって、当時エルフ国は各国の第二次産業界……製造業とかエネルギー産業の人達から、けっこう疎まれていたらしい」

「へえ………そうだったんだ」

 綿天が手で撫でたのか、フリーヤニルは気持ちよさそうに唇を震わせた。

 どこか心ここにあらずといった様子で綿天は、

「……あのころは、なんにも知らなかったなあ………」

「……それは俺も同じだよ」

 俺が同意して、綿天もそれを肯定する。

「うん。みんな、人間とかエルフとか、そんなに深く考えないでいっしょに遊んでた。……いまだって、私はなんにも知らないままで……」

「綿天が気にすることじゃないよ。俺だって、シャルノだって、当時はそんな事情なんてほとんど知らなかったんだ。いまだって……俺は、君の国の事情なんてほとんど知らない。だから、綿天が気に病むことじゃないよ」

「………ありがと」

 弾まない声が返った。

 (しば)し、会話が途切れる。森の深い空気の中にのびのびと生きる羽虫が、何度か顔を触った。

「ごめんね、ブリック。暗い雰囲気にするつもりじゃなかったんだ」

「ううん、大丈夫。気にしてないよ。それよりも、綿天が俺達の問題について思い悩んでくれて……嬉しい」

「そ、そっかな」

 照れたようだ。俺の背中を掴む細い指がしおらしくなる。

 綿天は本当にいい子だ。元気なだけじゃなくて、他人の痛みを分かち合おうとする優しさがある。

 だから俺は、この嘘を───、

「話を戻そう」

 余計な思考を断ち切って、今やるべきことを早急に押し進める。

 いま重要なのは綿天の身の安全の確保だ。エルフ国に渡るまでは気が抜けない。

「うん」

「それでね、怒った第二次産業界の人間の一部が、エルフ国内部の親和反対派の連中と手を組んだんだ」

「えっ。エルフ国にも、そんな人がいたの?」

「当然といえば当然かな。元々の歴史として、俺達の先祖は人間に追いやられてエルフ国を建国したわけだし。無意味に昔のことを根に持ってる奴は少なからずいた」

「………」

「綿天が気にすることじゃないって言ってるだろ?」

「わかってるけど、なんか……申し訳なくて」

 大息(たいそく)。綿天は優しすぎるところが玉に瑕だ。

 今回逃亡するにあたって、(はな)から親や友達を頼らなかったことからしてもそれは明白だ。

「……ほんと、放っとけないな。綿天は」

「え?」

「いや、なんでもない」

 フリーヤニルは俺の指示通り、人跡のない森の中を明るい方向へと歩いていく。

 樹々が(ひら)けた先には束になって射し込む暖かな光。

「でね、親和反対派の連中は引っくるめて『右のアルナルハルミンン』って呼ばれてたんだけど……その中でも特に過激な運動をしていた『ウェトル』って奴らと、人間は手を組んでしまったんだ」

「えーっと……」

「名前は覚えなくていい。要するに、人間の民間の非公式な過激派組織が、エルフのやばい過激派と仲間になったんだ」

「それって、大変じゃない?」

「そりゃ大変なことだよ。両方の組織とも、それぞれにエルフと人間の兵器を持っていたからね。更に悪いことに、エルフ国もこの世界の数多い国々も、彼らが手を結んだことに一年近く気付かなかった」

「い、一年も?」

 やがてフリーヤニルの蹄は直接に日の光を浴びた。深い森にできた小さな裂け目に、俺と綿天は目を細める。

 正午をとうに過ぎた丸い太陽は、西に傾きながらもその威勢を(とど)めない。

「……わあ。きれい………」

 明るさに目を慣らした綿天が、その場を見回してそんな感想を言う。

 そこは山から下りてきた清かな小川の流れる渓流だった。

 森に裂け目ができたのは、その小川のしわざだ。さやさやと身を移ろう清流は、太陽の光を浴びててらてらと眩しく光っている。

「こんなとこ、知らなかったろ?」

「うん……ここって、ほんとにあの村の近くだよね……?」

「そうだよ。俺もこの間、下見に来たときに初めて見つけたんだ」

 どこまでも爽やかな光景に、二人して見惚(みと)れる。

 フリーヤニルが川に入るか入るまいか律儀に俺の指示を待っていたので、

「フリーヤニル。進んでいいよ」

 声を掛けるとぶるんと応えるように唇を震わして、ぴちゃぴちゃと川のなかに蹄を挿し入れる。

「賢いんだね」

「騎士学校で出会ったんだ。今じゃもう親友だよ」

 綿天がフリーヤニルの腰の辺りをよしよし、とさすった。フリーヤニルは嬉しそうに身体を震わせる。

 やはりフリーヤニルにも、綿天の人となりがわかっているらしい。

「……一年が経って、人間とエルフの親和反対派が手を結んだことに気付いた世界各国は、早急に手を打った」

 そんな和やかな様子に目を配りながらも、本題を忘れぬよう会話の軌道を元に戻す。

「一週間もしない内に秘密裏の首脳会議が開かれて、連中の目的や対策を議論した」

「……それで?」

「エルフ国が調べた結果、親和反対派はエルフ世界と人間界を繋ぐ〝橋〟の〝留め金〟を壊す計画を立てているんだとわかったんだ」

「留め金?」

 浅い川を渡り切ったフリーヤニルは、そのまま対岸の緑に踏み入る。

「うん。〝留め金〟っていうのは、〝橋〟を人間界に渡して固定するのに必要な部分なんだ。それがなくなると、〝橋〟は人間界から離れていってしまう」

 また原生林に似た景色が戻ってきた。巨大な樹々が排出する濃い空気が肺を潤す。

「でも……その〝橋〟って、世界中にいっぱいあったんだよね? 国交がなくなったってことは、世界中の〝橋〟の留め金が全部反対派の人たちに壊されちゃったってこと?」

「あ、いいところに気付いたね」

 綿天の意外な着眼点に目を見張る。

 変なところで綿天は(さと)いから対応に困るときがある。

「この〝留め金〟っていうのは、実は世界中の〝橋〟の〝留め金〟と連動してたんだ。つまり、一ヶ所を壊してしまえば世界中の〝橋〟がいっぺんに使えなくなることになる」

「そんな……」

「反対派がそれを狙っていることに気付いた各国は、次にそれがどこで企まれているのかを調べた」

「どこ……だったの?」

 綿天が恐る恐る尋ねる。

「………」

 あまり言いたくはないけれど、これを言ってしまえば綿天の人生はまた大きく変わってしまうけれど、

「………日本」

 告げなければ何も変わらない。

「日本の、あの村だったんだ」

「え………?」

 綿天の信じられないと言うような声が耳に残る。

「実は、日本に置かれた〝橋〟の一つは、あの村の奥にあったんだよ。ちょうどこの森の奥になるかな。……それは、エルフと日本政府以外の民間人は決して知らない秘密だった」

「あそこに……〝橋〟が? あの村の〝橋〟が……狙われたの………?」

 俺はそれを肯定し、頷く。

「俺達家族は、その為にあの村に住んでいたんだ。一家で〝橋〟の(たもと)を守る役目を負っていた」

「…………」

「俺もその辺の事情を詳しく知ったのは、エルフ国に帰ってかなり経ってからだったんだけどね」

 絶句する綿天に、しかし俺はまだ残酷な事実を伝え終えていない。

 全てを伝えなければ意味はない。

 苦渋を飲む思いで、俺は重い口を開く。

「各国は〝留め金〟の破壊を阻止するために、エルフ二人と日本人一人、アメリカ人一人の計四人の少数部隊を作って反対派の迎撃に当たった」

 森の様子が少し変わったことに、鋭敏にフリーヤニルが気付く。

 大木が枝を伸ばした葉の隙間から射し込む細い光のなかに、僅かに虹色の粒子が交じって飛んでいる。

 綿天はまだ気付いてないだろうけど、赤から紫までのグラデーションは進むにつれて濃くなっていく。

 〝橋〟は近い。

「曇りがちだった秋空の下、〝()〟で姿を消して大口径の対物狙撃銃を〝歌〟で強化した反対派たちは、〝橋〟から遠く離れた紅葉(こうよう)の山から〝留め金〟を狙っていた」

 ここからは淡々と事実を並べることにする。

 感情移入しやすい綿天に、感傷を感じる暇を与えないよう心がける。

「対してエルフ二人と日本人、アメリカ人のチームは反対派に気付かれないよう、彼らの姿を確認できる隣の山から同じように彼らを狙っていた」

「……紅葉………。姿を消した……〝歌〟………」

 綿天はやはり聡い。

 既に俺の言葉の端々から、真実を掴みかけているようだ。

「四人のチームはエルフの〝煮〟で姿を消し、アメリカ人と日本人の狙撃で彼らの計画を頓挫させようとしていた」

「………。……、………え」

 綿天は何かに気付いたようだった。

「……そのままうまくいけば、二人の狙撃手は親和反対派の奴らを撃ち抜くことができたらしい。でも、事実そうはならなかった」

「……もし……かして………」

 長かった。

 俺はすっと息を吸い込んで、

「正式な文書によるとその狙撃は、一人の日本人少女の妨害によって──失敗に終わったらしい」


 * * * * *


 俺達は虹色の粒子の濃くなった苔だらけの岩場で、ひとまず休憩を取ることにした。

「大丈夫?」

「…………うん」

 水筒に入れておいたエルフ国産の天然水を綿天に飲ませる。

 休憩というよりも、これは心身の休息に近い。

 真実を知った綿天は、そのまま気を失って落馬しそうになった。そのため、急遽フリーヤニルから降りて休んでいるのだ。

 時間的な余裕はまだあるので問題はないが、神経の細い綿天が精神的にこのまま行けるのかが心配だ。

「……気分はどう?」

「うん………なんか、お腹が……胃が、痛いかも」

 俺は制服の裏の衣嚢を探り、丸薬を二粒取り出す。

「その水でこれを飲んで」

 こんなときの為に用意しておいた、エイルの系統を汲む医術師が調合した腹痛用の薬だ。

 精神的なストレスによるものだろうけど、これで悪化の心配はまず無い。

「……ありがと」

 綿天は弱々しい手付きで俺の手から丸薬を受け取ると、喉を鳴らして二粒とも水で流し込んだ。

「………なんか草みたいな味がする」

「元は薬草だからね。そればっかりは仕方ない、がまんしてくれ」

 綿天は苦そうに頷いた。

 森の木々は綿天を癒やすように濃い空気を吐き出す。それは深い自然が、心暖かい綿天という日溜まりを慈しんでいる──ようにも見えた。

「少し休んだら、〝橋〟を渡ろう」

 綿天は(つら)そうに額に手の甲を当てて、うん、と呻く。

「……それで、事前に幾つかのことを教えておきたいんだけど……聞けそう?」

「………大丈夫だよ。ちょっと、目まいがしただけ……」

「………」

 綿天の苦悶の表情に、思わずこっちも苦しくなる。

「……あのね。ブリック」

 綿天が掠れるように口を開いた。

 その口元に、長い耳を傾ける。

「……私、いまのいままで、私が指名手配なんてなにかの間違いだって。私はなにも悪いことなんかしてないって……ずっとそう思ってたの」

「綿天、それは………」

「でもね、私……エルフや世界中の人たちが怒るようなこと、してた。エルフ国が私を追いかける理由がわかったの」

「違う、それは………!」

「ブリック」

 綿天は(ほお)を伝う汗を見せながら、

「私、ちゃんとそれを知れて……よかったよ」

 はにかむように微笑んだ。

「………よかった……?」

「うん」

 どこか清々しいとも思えるような表情で、綿天は木漏れ日に顔を向ける。

「私は、私がなにをしちゃったのか、それがどれだけの人に迷惑をかけたのか、知ることができた。私はちゃんと、自分が悪いことをした人だって知ることができた」

 太い樹の幹に背中を預け、今でも汗は噴き出しているというのに、どういうわけかその面持ちは活力に溢れている。

 俺の額に、汗の(しずく)が浮かぶ。

「私は私の犯した罪を知ったから、それをきちんと償うことができるんだよ。それは……昨日までの私にはない、道しるべになってくれる」

「な………」

 目から鱗が落ちた。

 なんてことだ。

 綿天は自分の犯した、いや犯したと押し付けられた大罪を、甘んじて受け入れるつもりだ。

 綿天の神経が細いなんてとんでもない。

 彼女は繊細で聡く、気丈で、心暖かく、何より強い。

 綿天はただ、国家間のいざこざに巻き込まれただけの被害者だ。綿天には何の過失もあり得ない。

 今回綿天が指名手配されたのだって、半ば国交復活にあたって責任を押し付けあった挙げ句みたいなところがある。

 なのに、綿天は反論する当然の権利なんかには目もくれず、その大罪を犯した罰を受けるという。

 かつてエルフ国も日本も、合衆国でさえもが責任を負おうとはせず、史実をうやむやにしたあの事件の責任を。何の力も持たない一般市民の綿天は、律儀にも背負うつもりなのか。

 もしかすると、綿天は事のスケールを理解しきれていないのかもしれない。

 そんな甘い思考が(よぎ)ったが、けれど綿天だって、エルフ国との国交が絶たれたことによる混乱を目の当たりにしてきたはずだ。

 具体的にではないにせよ、綿天は図らずとも自分が引き金となってしまった事件の重大さを理解している。

 その上で、たった一人で世界中の敵として潔く罰されようとしているのだ。

 この女の子は。

「…………」

 俺は暫くの間、固まっているしかなかった。

 綿天の強さを見誤った。それ故の失策。

「ん? えっと……ブリック? 私、またなにか変なこと言った?」

「あ、ああ、いや」

 俺の様子に気付いた綿天が、普段と変わらぬ様子で顔を覗き込んできた。

「……なんでもない」

 俺はごまかした。

 綿天の強さを、そして優しい決意を知ってしまった以上、そんな女の子を野放しにはできない。

「先のことは、また二人で考えよう。とりあえず今は、目の前の〝橋〟を渡ることに専念しよう……ね?」

「……うん」

 力なく返事してみせた綿天は、考え事をしているようだった。

 土に目を落とした横顔が何を考えているのか、俺には見当もつかない。

「……ん?」

 そこに、唇を震わせたフリーヤニルが割って入った。

 珍しくフリーヤニルが俺の指示もなく辺りをうろうろしていると思ったら、フリーヤニルは綿天の(そば)まで来るとすっと首を垂れた。

 見ると、その口元には小さな赤い果実が掴まれている。

「えっと……これ、取ってきてくれたの?」

 綿天は顔を上げて、フリーヤニルの白い口角(くちかど)を撫でた。

 フリーヤニルは表情を曇らせていた綿天を慰めるように胸元へすり寄り、その掌に果実を落とした。

「わあ、ちっちゃくてかわいい! これなんの実なんだろう。……ありがと、フリーヤニルくん」

 お礼を言って、綿天はじゃれつくフリーヤニルの首や(たてがみ)を撫で回した。

 正直言って驚いた。

 フリーヤニルが初対面の、それも人間にここまで信頼を見せるなんて思ってもみなかった。

 気持ちよさそうに綿天の手に撫でられながら、フリーヤニルはじっと俺の顔を見つめてきた。

 まるで何かを訴えるように。

「………」

 いくら俊髦(しゅんぼう)な馬とはいえ、フリーヤニルは言葉を話せるわけじゃない。

 俺ははしゃぐ綿天に聞こえないように、

「………うるさいよ」

 低く小さな声で、誰にともなくそう零した。

「余計な世迷い言を、抜かすんじゃない」


 * * * * *


 フリーヤニルくんのおかげで元気を取りもどした私とブリックは、無事森を抜けて山奥の谷へと足を踏み入れた。

 小石がごろごろ転がる急な岩肌の斜面をものともせず、フリーヤニルくんはまるで凸凹の地面の上に空気が敷き詰められているかのような滑らかさで谷を駆ける。

 こんなところは来たことないから絶対とは言い切れないけど、ここはたぶんあの村を囲む山をぐるっと西に迂回した場所だろう。

 綿のような軽い足どりのフリーヤニルくんに揺られているうちに、私はふとあることに気がついた。

「……あれ? なんか、向こうの方が……虹色に光ってる?」

 フリーヤニルくんの進む前方に、谷の切れ目がある。

 その先はどうもまた森が広がっているようなのに、その手前の谷口が全体ぼんやりと虹色に光っていてどうなっているのかわからない。

 虹色の(もや)が一帯にかかったような、不可思議な光景。

「あれ?」

 そのなかに、いつの間にか飛び入っていた。

「え? あれれ?」

 周囲の景色全部が、虹色のフィルターに包まれている。

 ごつごつした岩だらけの斜面もブリックの背中も、フリーヤニルくんの白いはずの毛並みも全部虹色だ。

 青かった空までもが虹色に染まってしまってなんだか気持ちわるい。

 綺麗だけど、どこか吐き気をもよおしてしまうような極彩色の世界が目の前に広がる。

「おっと。そうか、綿天にはちょっときついかもね」

 前に座るブリックはそう言って、

「おでこ出して」

 身をひねって振り向いて、指で私の前髪を横に払う。

「え、わっ、ちょっ……」

「すぐ済むから」

 戸惑う私など構わず、ブリックの人差し指が私のおでこに突き立てられる。

 なにをしているのかわからないけど、とにかく顔が、近い。

「ぶ……ブリック、待ってってば」

「ちょっとだけじっとしてて。──エオー、エオロー、ケン、マン、ニエド」

 言いながら、ブリックは私のおでこに指を走らせた。

 くすぐったく感じたけど、それよりも真剣なブリックの顔が間近にあるのが緊張して仕方ない。ブリックを制止させようとした私の腕がなにもないところをぷるぷる揺れる。

 しかしブリックが言い終わった途端、突然私のおでこがぽっと光ったかと思うと、ベールを脱ぐように視界から虹色が消え去った。

「あっ」

 谷口にかかる靄みたいな虹色の一帯を除いて、私の見ていた極彩色の風景がいつもの色使いに戻った。

 目の感覚がおかしくなって、軽い目まいを感じる。

「その様子だと、直ったみたいだね」

 ブリックは私のおでこから指を離して、再び前に向き直った。

「い、いまのなに?」

「異世界との狭間を渡す〝橋〟が近付いたから、空間におかしな不具合が生じてるんだと思う。視界を直す〝歌〟を掛けておいたから、もう大丈夫だよ」

「あ、ありがと……ブリックは平気なの?」

「エルフの視覚は、人間のとはちょっと違うからね。問題ない」

 あいかわらず、エルフには不思議がいっぱいだ。

 フリーヤニルくんも大丈夫なのかな。

「……これ以上近付きすぎるとまずいかな。フリーヤニル」

 ブリックは鞭を打ったり手綱を引っ張ったりはせず、ただフリーヤニルくんの首の横を手で撫でた。

 すると、それだけでフリーヤニルくんはブリックの言ったことがわかったみたいに六本の脚を回転をゆっくりにして、やがてとん、と地面に置く。

「どうしたの?」

「このままフリーヤニルにあの速さで進ませたら、〝橋〟の防壁に引っかかっちゃうと思ってね」

「ボウヘキ?」

「そう。野生動物が間違って入っちゃったり、不法侵入されたりするのを防ぐ目的で〝橋〟にはちょっとした防壁が張られているんだ」

「それって……空港の荷物検査みたいな、ゲートくぐる感じの ?」

「そういうのじゃなくて。形は……薄い膜みたいなものかな。エルフ国の門番の承認がない限り、勝手に〝橋〟を渡ろうとしても見えない壁が自動的に邪魔をして渡れないようになってる」

「えっ」

 そんな便利な防壁があることにはもちろん驚いた。けど、それくらいエルフの魔法なら朝飯前だろう。

 私が声を上げたのは、別のことにどきりとしたからで、

「も、門番とかいるの?」

 そんなの初耳だ。

「そりゃいるよ」

 対して、ブリックはなにを今更、といった感じで解説する。

「あれはただの谷と谷とを渡す橋じゃなくて、世界と世界とを渡す〝橋〟なんだから」

 ブリックは軽く笑い飛ばしたけど、私の顔はみるみるうちに青ざめていく。

「で、でもさ。その人たちに〝渡っていいよ〟って言ってもらわないと、渡れないんでしょ? ブリックは大丈夫だろうけど、私は絶対ダメだよ、人間だってバレて、見つかって捕まっちゃうよ!」

「だから」

 わめく私に、ブリックはどこからともなく取り出した布を、頭から被せた。

「わぶっ」

 触り心地のいいレーズンの布地に、目の前が真っ暗になる。

 なんとか布をどけようとじたばた手を振りまわして暴れていると、背中の上で騒がれたフリーヤニルくんが迷惑そうに身体を振るってひと声鳴いた。

「あう。ご、ごめんね。えーっと……」

 落ち着きを取り戻して、布の波から頭を脱出させる。

 見てみると、その布は全身を覆う大きなローブみたいだった。袖を通すところがあって、前を留める紐があって、それがロングスカートみたいになって靴の先まですっぽり包めるくらい裾が長い。

 袖や腰、裾、頭に被るフードの部分には、木のツルにも見える金色の細かな細工が施されていた。身体をぐるりと一周するように布地に回された金属の細工の正面には、目を凝らすとガラス玉みたいなものが埋め込まれているのがわかる。

「……これは?」

 ひと通り渡された衣服をしげしげと眺めまわしてから、私は尋ねる。

 ブリックはどこか自慢げに、

「それを頭から足の先まですっぽり被ってて。そうすれば、エルフの番人に綿天が人間だってことは気付かれない」

「え、こんな布一枚でいいの?」

「ぬ、布一枚って……。一応それ、伝統的な職人さんに(こしら)えてもらった貴重な品なんだけど……」

「え。……そ、そうなんだ……」

 全くそんな風には見えない。これっぽっちも。

 金属の細工は綺麗だし、布地もすべすべで着心地はよさそうなんだけどそんな高級な服には全然見えない。

 こういうのって、人間界のファッションセンスで見ちゃダメなのかな?

「見た目じゃなくて、技巧が凝ってるんだよ。そんな布切れ一枚で、綿天が人間だって誰も気付かなくなる。これって、エルフの世界でも結構凄いことなんだよ?」

 釈然としてないのがそのまま表情に出ていたらしい。

 皮肉交じりに向けられたブリックの言葉は、いつもよりトゲがある。

「あ、そ、そうなんだね。いやー、すごいねこれ、着心地も最高だね!」

 ごまかすように快活に振る舞ってみたけど、

「……わざとらしいよ。綿天」

「………はい」

 苦笑されてしまった。

 おとなしく、ありがたいレーズンのローブを頭に被る。

 特に変わったところはないみたいだけど、これでもう私が人間だってバレることはないらしい。

「耳が長くないのは見ただけでわかっちゃうから、フードは深く被っててね。うっすら目が見えるくらいまで」

「わかった」

 金属の細工は重いんじゃないかと心配だったけど、実際はそうでもなかった。思っていたより細工が薄いみたいだ。

 フードを深く被って首元を、そして袖を通して襟と腰の前を紐で結ぶ。

「それから、これも」

 じゃら、と鎖みたいな音をブリックの手元が立てた。

 ブリックの手が握る銀色の玉が連なった鎖の先を目で辿ると、そこには大きくふくらんだチャイニーズレッドの楕円がぶら下がっている。

「わっ。お……おっきい宝石………」

石榴石(ざくろいし)の一種だよ」

 手に持って握れるくらい大きなチャイニーズレッドの石榴石は、銀色の玉と通された紐に重そうに吊られている。

 綺麗に磨かれて丸みを帯びた宝石は、どこか神秘的なものを感じてしまう。

「エルフ国じゃ、首飾りは家柄を表す大事な宝飾品なんだ。……ほんとは腕飾りもあればよかったんだけど、あんまりゴテゴテしてないほうがいいかと思って」

「そうなんだ……あ、ありがとう」

 レーズンのローブを着込んだ私は首飾りを受け取る。腕にずしりとした重みが乗っかった。

 それだけで、この首飾りがとっても高価なものなんだとわかる。

「………」

 派手すぎず、かと言って地味なんかじゃない首飾りを、首の後ろから回して胸元に垂らす。

「じゃあ最後にこれを」

 続いて、ブリックはなにか小物を渡してきた。

 両手でそれを受け取ると、

「……指輪?」

 それは女性用の指輪だった。

 銀色のアームが巻きつくようにななめに折り重なった曲線的なデザインで、円いエメラルドグリーンの宝石が表にくっついている。

 ローブの金属の細工に似た、繊細な模様が宝石を留めている爪みたいなところに刻まれているのがとっても素敵だ。

 光に合わせてきめ細やかに、ぴかぴか輝く銀色のそれはまるで結婚指輪みたいに見えた。

「……これって」

「それも変装用の小道具。右手の薬指に嵌めておいて」

 一瞬どきっとした。けど、なんだ右手か。

 それなら婚約指輪でもなんでもない。

「う、うん。わかった」

 うわずった声で返事をして指輪を指にはめる。この指輪にはいったい、どんな魔法がかかってるんだろう。

 右手の薬指に、ってブリックは指定したけど、なにか意味があるのかな。

 ……右手の薬指にはめる指輪って、どんな意味があったっけ? たしか薬指にはめる指輪は両方ともアニバーサリーリングとかいって、右でも左でも大切な意味をもってるって磨波(まなみ)から聞いた覚えがある。

 なんだっけ、うろ覚えだけど……リラックスとか、安心だっけ。

 つまりブリックは、私をリラックスさせたい……ってことなのかな?

「嵌めたね? ローブもちゃんと着た? 下の服とかはみ出て……ないね、よし」

 ブリックは簡単に私の姿を上から下まで点検して、うなずいた。

 今の私の格好は、教科書で見た昔の北ヨーロッパやエルフの女の人のそれに少し似ているかもしれない。

 ここで羽のついた帽子なんか被れば、見た人全員に間違ったワルキュリャのコスプレだと思われてしまうだろう。

「…………」

 くだらないことを考えてから改めて、私は自分がいまどんな格好をしているのか眺めてみる。

 金属の細工がついているレーズンのローブ。

 大きな石榴石の首飾り。

 右手の薬指にはまっている、きらやかな指輪。

 たぶん、いま私が身につけている高価な品は全部……ブリックが私のために、新しく用意してくれたものだ。

 少なくとも、使い古した感じは全然ない。

 何年も会ってなかった私のために、ろくにブリックやシャルノとの思い出を振り返りもしなかった私のために。

 ……ブリックは、高いお金を払って服や宝石を仕立ててくれたんだ。

 ブリックがいなかったら、私はいまどうなっていることだろう。

「……………」

 感謝してもしきれない。

 ブリックが私のためにしてくれたことは、いまの私にはどうやっても恩返しできそうにないことばかりだ。

 私は、私のためにいろいろしてくれたブリックに……どんな〝ありがとう〟が言えるだろう。

「じゃあ、いよいよ正念場だ」

 明るい声でそう言うと、ブリックはフリーヤニルくんの手綱をかるく引っぱってその速度を落とさせた。

 上品に蹄を鳴らしてゆっくりと歩くフリーヤニルくんは、まさに王子様が乗る白馬みたいにかっこよくて美しい。

 人生で初めて乗る馬が白馬なんて、なんだかロマンチックだ。

 これも、ブリックに感謝しなくちゃいけないことだよね。きっと。

 当の本人は私の気持ちなんてわかるはずもなくて。ただ一言、宣言した。

「〝橋〟を渡ろう」


 奥に虹色の空間をのぞかせる、物々しい門みたいなものがあった。

「あれが〝橋〟の入り口だ」

 〝橋〟の近くまで来た私とブリックは、フリーヤニルくんに乗ったまま門から離れた木や茂みの陰に身をひそめている。

「……もっとすごいの想像してた」

 なんの変哲もない、ただの谷と森の切れ目みたいな場所にその重そうな門はたたずんでいる。

 高さは巨体のフリーヤニルくんが二頭重なっても大丈夫なくらい、横幅は車一台分くらいとかなり大きい。

 大きな門の端と端には騎士みたいな甲冑を着て槍を持った門番が、一人ずつどんと立っている。

「もっとすごいの? どんなのか興味あるな」

「なんかもっとこう、鉄で作られてて、おっきな錠前がぶら下がってる……巨人専用みたいなやつ」

 聞いて、ブリックはあやうく噴き出しかけた。

「ちょっ、ブリック! しーっ!」

 ここからはまだ距離があるとはいえ、門番に聞こえないかはらはらしながら私は人差し指を口に当てる。

 必死に笑いをこらえるブリックは、

「ご、ごめんごめん……。俺の友達に、巨人みたいに大きいヤツがいるのを思い出してさ」

「えっ?」

 巨人。

 たしか授業で、昔はエルフ国にも巨人がいたって話を聞いたことあったっけ。巨人って……二メートルぐらいあるとか、そういうことなのかな?

 エルフからして大きいって、どのくらいなんだろう。それには私も興味がある。

「どれくらい大きいの?」

「そうだな、だいたい……」

 ブリックは考えてから、

「家くらいかな」

 ──私の予想をひょいと越えていった。

「あ、その顔は疑ってるね? 目が点になってるよ綿天」

 片方の眉を吊り上げて、おかしそうにブリックは笑う。

「本当のことなんだけどな……っと。こんなことしてる場合じゃなかった」

 ブリックは急に真剣な顔を作ると、茂みから顔を出して門の様子をうかがった。

 私も点になった目を元に戻してそっちに顔を向ける……と、

「あっ」

 今まさに、門番が交代しようとしているところだった。

 虹色の空間の向こうからなんの前触れもなく現れていた二人の騎士が、二言三言門番と会話をして立ち位置を交代する。

 さっきまで門番をしていた二人の騎士は代わりに来た二人に手を振って、同じように虹色の向こうに消えていった。

「き、消えた………!」

「まあ……消えたのと似たようなもんだね」

 詳しい説明をしようとして、ブリックは諦めた。

 残った二人の門番が、楽しそうになにか雑談を交わして、

「よし、今だ。行こう」

「えっ」

 ブリックが突然顔を上げた。

 背筋を伸ばして手綱を引くと、フリーヤニルくんも賢くそれにしたがって歩き始める。

「ちょっ、ちょっとブリック……!」

 姿勢よくフリーヤニルくんを進ませるブリックの切り替えの早さに追いつけず、後ろであたふた。

 そんなに急に動かれても困ってしまう。

 せめてもうちょっと、〝あと十秒で行くよ〟とか言ってくれてもいいと思う。

「静かに。何も喋らなくていいから、狼狽(うろた)えないで堂々と僕の背中に捕まってて」

「………──!」

 もうフリーヤニルくんの蹄は森を抜けている。話をしている二人の番人も、すぐに私たちに気づくだろう。

 ………仕方ない。

「………わかった。がんばるね……」

 フードを深く被りなおした私は、覚悟を決める。


「人間界での(えき)、お疲れ様です」

 丁寧な口調で、門番の一人が私とブリック、それにフリーヤニルくんを深々と頭を下げて出迎えた。

 フードに隠れたすき間からちらりと反対側の門番を見てみると、彼もやっぱりこっちを向いて深い礼をしている。

 フードのおかげで耳やポニーテールの髪ははみ出してないと思うけど、緊張する。

「ご苦労さま」

 ブリックは感じのいい、男性っぽい声でそう応えた。

「貴公は……王族親衛隊の方ですね」

 ブリックの胸元に付いたブローチみたいなのを見て、門番が言う。

「失礼ですが、お名前をお願いいたします」

「……、スコーグルフローディウッルル親衛隊下級尉官だ」

 ?

 え? なにいまの呪文みたいなの。

「えー、スコーグル……ああ、はい。確認しました」

 え、それでいいの? っていうか、いまのはなに? 名前?

「馬上からで結構ですので、お声でサインを頂きたい」

「了解した」

 スコーグ……なんて言ってたっけ。長すぎてわからなかった。

「──〝スコーグルフローディウッルル親衛隊下級尉官は、ここに虹の橋を渡る申請を申し出たことを表明する〟」

 ブリックが定型句みたいなのを唱えると、門の奥で渦巻いていた虹色がふわりとやわらかい色彩になった。

 油の上に絵の具をこぼしたみたいな不快な渦巻きが、優しいマーブル模様になる。なんだか、私たちを受け入れてくれたような感じがした。……もしかしたら、これが〝門が開いた〟状態ってこと……なのかな?

「結構です。こちらの承認も同時に終えました」

「ご苦労、仕事が早くて助かる」

「お褒めいただきありがとうございます」

 またぺこりと礼をした門番は、笑顔を見せて腕を動かして、

「さ。こちらへどうぞ」

 フリーヤニルくんを促そうと──したそのとき。

「お待ちください」

 横から聞こえたもう一人の門番の低い声に、その動きを制される。

「………」

 フリーヤニルくんは踏み出そうとした足を戻して、ブリックも無表情に顔を横に向ける。

 せっかくすんなり通れそうだったのに……なんなんだろ。

 脇から口を挟んだ門番は、ゆっくりこっちに歩いて来た。

 無言の時間がいちばんこわい……。

 もう一人の門番は、はじめに話しかけてきた門番の隣で立ち止まってこう言った。

「後ろにおられるご婦人は、いったいどなたでしょうか?」

 びくっ。

 肩が少し震えた。

「これは失礼した」

 ブリックは声の調子を変えないままで、これっぽっちも動揺している様子はない。

 背中に手を置いているブリックにも私の震えは伝わったはずだ。大丈夫かな……。

 ブリックがどんな言い訳をするのかちょっぴり不安──、

「この方は私の婚約者です」

「…………は」

 いまなんて言った。

 声が漏れたのにも気づかない。私の思考は空白を強いられる。

「左様でしたか」

 こ。

 こんやくしゃ?

「一度、人間界に来てみたいと言うもので。少々無茶を言って連れて来たのです」

「ああ……そうでしたか」

 話が耳から頭まで届かない。

 こんやくしゃ。コンヤクシャ。婚約者って……け、結婚を約束してるって………そういうことだよね?

 えっと、あれ? 私ってブリックの婚約者だったっけ?

 ブリックって私の婚約者だったっけ?

 混乱が渦を巻く。

「して、婚約者殿のお名前は?」

「……私の名の横に記してはいまいか」

「ええ、はい。確かに書いてあります。〝ブレイクル=フラム=リョースフリョート〟嬢と、お隣に」

 あわてた様子で、ていねいな感じのいい門番が早口に答える。

 私の名前って、ブレイクルだったっけ。

 そんなこともわからなくなってくる。

「………しかし、お顔から何から全て隠されてしまっては、こちらとしてもおいそれと承認するわけにはいきませぬな」

「おい……」

「しっかと、証拠を見せていただきとう存じます」

 なんだか、門番の一人がいちゃもんをつけているみたいだ。

 それにしても火照ったほっぺたが熱い。

 フードの向こうにのぞく、ブリックの顔が引きしまるのが見えた……やだ、凛々しい。

「……」

 まだ混乱が収まらない私に、ブリックは振り向く。

「ひゃっ。えっ……と」

「右手を」

「えっ?」

「右手を出して」

 ブリックは紳士的な手つきで私の右手をとって、二人の門番に見せた。

「きゃ」

 私の手の甲を下に向ける。

 その薬指には、エメラルドグリーンに輝く指輪がはまっている。

「これが婚姻の証だ」

 私の右手の甲を二人の門番に見せながら、ブリックは強く言い放った。

 えっ? 右手だったから違うと思ってたのに、これって婚約指輪だったの?

 そ……、そんな不意打ちって………。

「これで通していただけるかな」

 ………? あ、そっか。

 ……ようやく、少しずつ状況がわかってきた。つまり私はいま、〝ブレイクル〟っていう名前のブリックの婚約者の設定なんだ。

 きっと、家族とか恋人ならブリックみたいな騎士以外でも、〝橋〟を渡ることができるんだ。たからブリックは、私を〝婚約者役〟にしてここを通過しようとしているんだ……!

 ……。

 ………それならそうと、はじめに一言断ってくれたらいいのに。ブリックったら、いちいち説明不足なんだから。

「ええ、確かに。それでは──」

「もっと」

 またもや、さっきからナンクセをつけている感じのわるい門番が口を開いた。

「もっと確かな証拠が頂きたい。何しろ今回の任は捜索……。穏健派の息がかかった者もいると聞きます。後ろに乗せておられるのが舟星嬢である可能性も、無きにしも非ず」

「おい、おまえいい加減に……」

「…………」

 ブリックは私を横目に見て押し黙る。

 どど、どうしよう。

 指輪を見せてもダメなの? 私は知らないうちにブリックの婚約者になっちゃうし、かと思ったら婚約者かどうか疑われるし……いったい、どうしたらいいんだろう。

(わたくし)どもとしましても、個人の特定ができておらぬ不詳の者を通すわけにもいきません。せめてその者が舟星嬢ではないと、その方が本当に尉官殿の婚約者殿であられると、ご証明願いたい」

 そんなの、ほとんど言いがかりだ。

「……仕方ないか」

 たたみかけられてブリックは天を仰いだ。その頬は、心なしか紅くなっているようにも見える。

「?」

 なにをしてるんだろう。

 そんなことを思って首をひねっていると、

「……ごめん。綿天」

 下にいる二人の門番には届かない、蚊の鳴くみたいに小さな声と一緒に突然私の肩を両手でつかんだブリックは、

「───……」

 目を閉じた。

 顔が近づいた。

「え………」

 ベイビーブルーの髪が風でなびいた。

 フードに巻かれた金属の細工がやけに重く感じた。

 とっさに身を引こうとしたら、ブリックは優しく私の肩を抱きとめて離さない。

 そのまま、ブリックの紅い頬が近づいて。

 えっ?

 まさか、これって────。

「…………ん」


 その唇が、私の唇を軽くふさいだ。

 ………それはキスだった。


 * * * * *


「おいお前、あんまり親衛隊の方に楯突くような真似するなよ。下手すりゃ首が飛ぶぞ」

「ふん、相手はガキだぜ。騎士学校上がりたてのお坊ちゃんが、偉そうな態度取りやがって何様だってんだ」

「口が悪いぞ。つまらん難癖までつけて。親衛隊の方は、下級でも俺たちより高い尉官の位を持ってるんだ」

「……ふん、気に食わねえ。だいたい婚約者だかの顔も見せようともしないし、あれは後ろめたいことがあるからだぜ」

「単に結婚が決まったわけではないから、まだ公にしたくないだけだろう。そうあんまり僻むな」

「うるせえ、僻んでるんじゃねえやい」

「そうかい。ああ……でも俺も、一度でいいから白い毛並みのセクショールニルに乗ってみたいな」

「なんだ、お前だって僻んでるじゃねえか」

「いやいや、僻んでなんていない。こいつはただの憧れだ」

「ふん、そうかい。……ったく、気に食わねえや」

 悪態を()きながら、甲冑に槍を携えたエルフの騎士は僻む。

「ああいう連中はきっと、思い通りにならないことなんざこの世にねえんだろうなあ」


 * * * * *


「あの……綿天? ………俺もその、ああなるとは……思いもしなかったんだ」

 門をくぐり抜けたすぐそこで、フリーヤニルくんに乗ったままブリックは私に申し開いた。

「…………」

「そのー、えっと……。綿天には、エルフ国の若い女性の装いを用意してさ。婚約者だって門番にもはっきり分かるように、本物の翠玉の指輪も用意したんだ」

「…………」

「……だから、問題ないと……思ったんだけど………」

 ちらりと、ブリックがこっちを見たのがわかった。

 でも顔なんて合わせられない。

「……綿天、怒ってる?」

「…………ったのに」

 違う。そうじゃない。

「え?」

「……だったのに、」

 怒ってるんじゃなくて、

「……初めてだったのに」

 ………顔が熱くってたまらないんだ。

「あ………」

「……私、キスなんてするの初めてだった。ファーストキスだった」

「…………、」

「勝手に婚約者にされた。勝手にキスされた!」

「そ、それなら………」

 ブリックが言いよどむ。

「………俺だって、初めて……だったよ」

「───!」

「俺だって、……俺だって唇と唇でするキスなんて初めてだったよ! もっとその、いろいろ考えたかったよ。でも、あの場はああするしかなくて……!」

「わ、私なんて唇と唇以外のキスだってしたことない! 不意打ち! ぜんぶ不意打ちで持ってかれた!」

「そ、それは………」

「だいたい、初めから全部言ってくれてれば、私だってお芝居とかしてごまかせたのに!」

「綿天、昔学芸会でやった劇ですっごくお芝居下手だったじゃないか」

「──! せ、せめて〝婚約者のフリしてね〟くらい事前に言っておいてくれてもいいじゃない!」

「いや、でも指輪をさ。指輪を渡して、薬指に嵌めてって言ったから、それで伝わったかなと思ったんだ」

「薬指は薬指でも、婚約指輪は左手でしょ!」

「え? ……いや。婚約指輪って、右手に嵌めるものじゃないの?」

「……ええ?」

「……あれ?」

 ………異文化の溝をうめるのって、大変だ。


 私はブリックの背に捕まって、フリーヤニルくんの背に乗っかって、虹色のトンネルをエルフ界へと急ぐ。

 ───唇に、淡い感触を残したまま。

 解説です。

 今回は本文がかなり長いので、解説も少し長め。


 まずはエイルの丸薬。

 これは某人気歌手さんのお薬、という意味ではなくて、北欧神話の医神エイルを指しています。

 個人的には正露○的な物をイメージして書きました。いつもラッパのマークにはお世話になっています。


 次に、綿天の虹色の視界を直した不思議な言葉。

 あれは、かの有名なルーン文字です。系統でいえば前回解説したガルドルに当たります。

 時代や地域によって若干違うのですが、「何かに刻んで効果を得る」という点は同じです。

 一文字一文字に固有の意味があり、それを道具(多くの場合木材、石板、骨、金属)に刻み付けて不思議な魔法の力の加護を得ることが目的です。特に呪歌を唱えながら刻んだり、重ねて刻んだりすると効果が上がるんだとか。

 作中で言っていたのは「エオー(EOH)」(馬)、「エオロー(EOLH)」(大鹿、保護)、「ケン(KEN)」((人工的な)火)、「マン(MANN)」(人間)、「ニエド(NIED)」(必要性)です。

 どうもルーンは魔法として使うときの文法もその言語に基づくらしく、実例が載った資料集めというのはこれまた大変なので、単に意味を重ねるだけに留めました。

 本来ならUnicodeでルーン文字を出したかったのですが、iPhoneだとどうしても表示できないので断念しました。

 気になる方は是非ご自分でお調べください。

 一部、図書館で借りたポール=ジョンソン著『ルーン文字 古代ヨーロッパの魔術文字』を参考に致しました。


 ワルキュリャとは、北欧神話に登場する「戦乙女」ヴァルキリー(英語読み。ドイツ語読みならワルキューレ)の古ノルド語読み(単数形)です。

 彼女らは一説には主神オージンの娘とも言われ、天翔る軍馬を操り戦場を駆け巡って勇敢な戦死者を選び取り、オージンに献上する役割を持っています。戦場に出るとき、彼女らは羽の付いた(かぶと)と鎧を着ています。綿天ちゃんが本文で「コスプレだと思われてしまう」って言ったのはこれのことです。

 オージンに引き渡された蛮勇の戦士たちはエインヘルヤルと呼ばれ、(きた)る最終戦争に向けてオージンの館で訓練や歓待を受けます。

 その〝おもてなし〟も美女揃いのワルキュリャ達が務めることになっていて、この時には彼女らの服装は甲冑ではなく古代北欧の女性服です。

 「間違ったコスプレ」とは「ワルキュリャのトレードマークでもある羽の帽子を被ってるのに、服は鎧じゃなくて普通の女性服じゃん」って意味なのでした。


 また、作中には幾つか、筆者自身が考えた習俗が登場します。

 ……が、婚約指輪(結婚指輪)を付ける指に関しては右と左、本当に両方あるそうです。

 ドイツや北欧の国々では、日本と違い右手の薬指に指輪を嵌めるそうですよ。

 世界は広いですね。


 それでは引き続き、『星屑エスケープ』をお楽しみください。

 〆切が5/19までなので、それまでに急いで仕上げます!


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